Message for you

師走12月・・・

12月3日は、私にとって興味深い歴史上の人物ふたりの命日・・・と去年の12月の「Message for you」にも書いたようです(笑) すみません、またこの話題?と思われてしまいそうですが(^^;
一人は後の天智天皇である中大兄皇子、そしてもうひとりは国を隔てて、中国は三国時代の呉の武将、周瑜公瑾。
さて今年はその周瑜について、もう少し詳しく書いてしまおうかな、と・・・(^^;

周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)、三国時代、呉の国の君主孫策、そして孫策亡き後はその弟である孫権に仕えます。
孫策とは同年で幼なじみ、君主と臣下と言うより、むしろ親友としての繋がりが強かったのではないかなあ。

三国志では有名な「水魚の交わり」(劉備と孔明)に負けず、「断金の交わり(破れることのない親友の交わり)」と言われた孫策と周瑜。
しかし、孫策は刺客の手によって26歳と言う若さで暗殺されてしまいます。
そして、周瑜は孫策亡き後、君主となった孫権に仕え、功労を残します。
攻め込んできた魏の曹操を見事押し返した、有名なる赤壁の戦い・・・ 吉川英治さんの書かれた三国志では、ここで孔明が「東南の風を呼ぶ」と言う神業をやってのけるのですが、残念ながらそれはフィクションです(考えると当たり前?)
赤壁の戦いの功労者は、まずは巧みな戦術のもとに水軍の指揮を取った周瑜でしょう。

戦略、統率力に優れていただけでなく、なんと三国志関係のどんな本にも大抵書かれているのが、容姿が美しかったとのこと。
これほど徹底して書かれているのですから、おそらく美丈夫としての誉れ高かったのでしょう。
「美周郎」と言う呼び名は、まさにそんな周瑜の人気ぶりを表しているようです。
それにしても・・・あの時代の中国の美丈夫と言うのは、いったいどんな感じなのでしょうねえ(^^;
さらにすごいことには、周瑜は音楽にも堪能だったらしい。どんな酒の席だとしても、演奏に狂いがあると必ず周瑜が振り向く、とまで言われています。自分でも楽器をたしなんだのでしょうね。

武勇に優れ、知略にも優れ、容姿端麗で、音楽を愛する優雅さも持つ・・・
おまけに、奥様は呉の国で有名な美人姉妹の妹。姉の大喬は孫策に、妹の小喬は周瑜にそれぞれ嫁いだのです。
きっと眩いような、美男美女のカップルだったことでしょう。
ここまで来ると、もう欠点なんてないような感じ・・・(^^;
ところが、吉川英治さんの「三国志」では、これほどの人物でさえ孔明に翻弄されてしまう。吉川三国志は、いわゆる三国志演義をもとに書かれているようなので、正史とは違いかなりフィクションの部分が多いのです。物語として面白く書かれている、と言った方がいいのかもしれません。
いろいろと知略をめぐらしながら、すんでのところで孔明に擦り抜けられ出しぬかれ、周瑜は天が自分と共に孔明をもこの世に存在させたことを嘆くのです。


この点に関しては、呉ファン、周瑜ファンの憤慨を招くところでありますが、私はなぜか初めてこのシーンを読んだ時、妙に感動したのを覚えています。
これほどまでに優れた人物でさえ思う通りに動かせない運命がある、と言うことに人生の切なさを見、周瑜の誇り高き嘆きに人間味あふれる弱さを見たような気がしたのですが・・・ でも、これには反発される方の方が多いかもしれませんね(^^;
惜しいことに、その美麗な様は天上の神にまでも愛されたのか、周瑜は36歳で病に倒れ、志なかばで帰らぬ人となってしまいます。

もし、周瑜がもっと長生きしていたら・・・ おそらく三国の関係はまた違ったものになっていたのではないかと思われます。
君主の孫権は、国を広げるよりも安定させることを第一としたようですが、はたして周瑜はどう考えていたのか。
孫権よりも闊達で前進的だった(のではないかと思われる)孫策の遺志を誰よりも継ぎたいと思っていたのは、周瑜ではないでしょうか。
彼が生きていたら、劉備が蜀の国に入るのをやすやすと見ていたかどうか・・・ 魏の曹操にも、もっと脅威を与えていたのではないか。
などなど、想像は膨らみます。

「もし・・・」と考えてしまうのは、歴史を見る上での楽しみ。
三国時代の中国にタイムスリップできるのなら、ぜひ聞いてみたいところです。
「公瑾どの、あなたはどんな戦略を持ち、どんな前途を見据えていたのでしょう?」、と・・・
え、それよりまずは尊顔を拝みたい?(^^;
はい、もっともですね(笑)


2002年12月1日
                                                        


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