今月の「いにしえ人」       
                                                       
―中大兄皇子―
        
師走・・・

今月のいにしえ人は、中大兄皇子。後の天智天皇。
命日は12月3日だそうである。
蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺、その計画のみならず、まさに実行に関わったり、有間皇子を謀反の罪に陥れ、処刑したのではないかと言う説もある等々・・・
なにかとダーティなイメージがつきまとう皇子ではあるけれど。
井上靖さんの小説『額田女王』の影響からか、その冷徹さの奥にある執政者ならではの孤独や、時代の先頭に立って駆け続けなくてはならなかった苦悩などを想像しては、惹かれるものを感じていた。
今日は、そんな中大兄皇子の周りの女性たちに注目してみた。

かの有名な三角関係のもと(笑)、額田王はちょっと置いておいて・・・
まずは、遠智(おち)媛、そしてその姉である造(みやつこ)媛。
姉妹の父は石川麻呂。
蘇我氏の家系で、蘇我入鹿の従兄弟にあたる。
石川麻呂に注目したのは、この後に計画していた入鹿暗殺を見越してのことだと言われる。
入鹿を倒し、けれどわざと同じ蘇我氏の者を臣の地位につけることで、いっきに潰滅させる強行を避けると言うことだろう。

この政略結婚の相手は、最初姉である造媛だった。けれど、婚儀の前夜、とんでもない事件が起きる。
石川麻呂の異母弟、日向(ひむか)が、かねて思いを寄せていた造媛の部屋へ侵入してしまったのだった。
ただただ困窮する父の前に、妹であった遠智媛が身代わりを申し出て、無事婚儀はすむのだが、事の顛末は中大兄皇子の知るところとなってしまう。
怒りに任せ、日向を殺そうとした中大兄皇子を止めたのは、鎌足。ここで石川麻呂に貸しを作っておくように、と。
ふむ、さすがになかなかの策士(^^;
さらに、造媛をも娶るように薦める。もちろん、形ばかりの妃としてと言うことだろう。
遠智媛は大田皇女、鵜野皇女(後の持統天皇)、建(たける)皇子を生むが、造媛には一人の子もできなかった。
造媛のつらさは、そしてそんな姉を見ていた遠智媛の気持ちはどんなだったのだろう。

石川麻呂は、入鹿暗殺の時、当然協力を要請される。断ることなどできようはずもない。
帝の前で、そ知らぬ顔で上表文を読み上げると言うだけであっても、それがどれほど恐ろしいことだったか・・・
入鹿暗殺後、石川麻呂は右大臣になるが、造媛のことで恨んでいた日向の「兄は皇太子(中大兄皇子)を殺し、謀反を起こそうとしている」との讒言により追い詰められ、ついに自害する。
残された資財没収の時、貴重な書物や重宝の上には必ず「皇太子の物」と題されていたのがみつかる。
石川麻呂は、中大兄皇子を害することも、謀反のことも、まったく考えてはいなかったのだろう。
この実直な人物を、無実の死に追いやってしまったことで、中大兄皇子は苦悩し、心から詫びていた・・・と私は信じたい。

様々な紆余曲折を経て、近江にて新春を迎えた年、中大兄皇子はようやく天皇の地位に就く。
43歳、すでに三度も見送ってきた即位。天智天皇の誕生である。
この時、皇后として立てられたのは倭(やまと)姫。中大兄皇子の異母兄であった古人大兄の子だった。
入鹿暗殺後、譲位を決めた皇極女帝は、軽皇子と古人大兄をそれぞれ呼び出し、帝位を継ぐことを打診した。
軽皇子は辞退し、古人大兄は出家するといい、すぐに剃髪して吉野にこもった。
結局、軽皇子が即位し、孝徳天皇となったが、古人大兄は実は吉野でひそかに新政権打倒を企んでいた。
蜂起を決意したものの、それを知らされた中大兄皇子に攻められ命を落とす。

いわば、立后は倭姫にとって、父の仇の后になると言うことだった。どんな思いだったのか、これは私にはとても想像し難い。
倭姫は立后の時、すでに二十代後半だったろうとのこと。古人大兄の唯一の遺児かもしれず、不運な状況で孤独な日々で過ごしていたのだろう。
そんな身の上を承知の上で、皇后と言う地位を与えたのだとしたら・・・
中大兄皇子が倭姫を皇后に迎えたのは、古人大兄への償いの思いもあったのだろうか。
骨肉相争う時代、仕方のないことであっても、それはあくまでも国を安泰にするため。
個人的に恨みがあったわけでもない異母兄を攻めたことで、心の奥は痛んでいたのかもしれない・・・
これまた、そう信じたい、と私は思うのであるが(^^;

即位後、わずか4年で天智天皇は死を迎える。
倭姫は天皇の容態を効いた時、故郷の飛鳥にいたのではないかと言われている。
天皇のもとに向かいながら、詠んだ歌・・・

 青旗の 木幡の上を通ふとは 目には見れども 直に逢はぬかも


いよいよ最期が近づいた時も、倭姫は祈り続ける。
この時の歌は・・・

 天の原 振りさけ見れば 大君の 御命は長く 天足らしたり

ついに祈りも届かず、天皇崩御となった後も悲しみの歌を詠んでいる。
倭姫には、子はなかった。短い間の皇后の時代、あくまでも形式的な繋がりだったのか、それとも天智天皇の心に添うことができたのだろうか。
もしも、倭姫が素直な人柄だったなら、父亡き後、何と言う後ろ盾もなく心細く暮らしていた自分に、皇后と言う立場を与えてくれた天智天皇の気持ちを汲むことができたかもしれない。
そして、そんな天皇の死を心から悼んだかもしれない。
そう思うと、何やら救われるのだが・・・

この他にも、中大兄皇子の後宮には幾人もの女性が、そして後宮には入らなかった女性もいる。
額田王しかり、また額田王の姉と思われる鏡王女(かがみのおおきみ)、彼女は切ない相聞歌を中大兄皇子と交わしている。
さらに、今や公然の秘密と言ってもおかしくない同母妹、間人(はしひと)皇女との禁断の恋も・・・

これほどたくさんの女性たちに囲まれ、それぞれに思いをかけながらも、常に中大兄皇子の心を一番占めていたのは、我が国の行く末だったのではないだろうか。
そんな皇子の後姿を、横顔を気遣わしげにみつめていたであろう女性たちもまた、彼のまなざしを通して、激動の世に何らかの影響を残した。
時代を率いる力を持った、聡明で冷徹な中大兄皇子。
世間の評はどうであろうと、やはり抗いがたい魅力を持った皇子だと、私には思える。


平成16年12月1日
                                                        
翠蓮