今月の「いにしえ人」 
                                                       
― 諸葛亮―

長月

秋と言っても、初秋、中秋、晩秋とそれぞれイメージが違ってくるように思う。
一番秋らしい、豊かで奥深く、落ちついた中にも秋ならではの鮮やかさがあるのは中秋かな。
晩秋は、これから巡ってくる冬の厳しさがちらほらと見え始め、そして初秋は、夏の華やかさの名残に、すっと入り込んでくる秋風の涼しさや、日が落ちると聞こえ始める虫の声などが、ふと寂しさを感じさせる。
さらに彼岸、十五夜など、どこか現世から離れた世界のイメージも見え隠れしたり・・・

そんな九月に取り上げる人物・・・実は最初から薄々決めていたりした(笑)
なぜか、私の中のイメージでは九月なんだなあ、この方。
諸葛亮、字は孔明。中国は三国時代、後に蜀の国の帝となる劉備に、三顧の礼を持って迎えられた清廉の人。
小説等で、神出鬼没、魔術師のごとく様々な策で敵を翻弄する稀代の軍師、と言う目一杯派手なイメージが植えつけられてしまった感があるけれど(^^;

孔明と言う人は、並外れて優れた政治家ではあったが、軍略に関しては実はそれほど得手としていたわけではなかったのではないか、と言う説に私も同感。
政治家としての才と、軍師としての才は、まったく別物であろうし、その両方を持ち得るほど、孔明が器用な人だったとはいまいち思えない・・・などと言うと孔明ファンから叱られるかな(^^;
これでも私もれっきとした(?)孔明ファンなのだけど(笑)
孔明は、たとえば戦いのための武器を整えるとか、兵を集めるとか、軍資金を調達すると言った、もろもろの準備の指図をさせたら、何ひとつぬかりなくこなすだろうし、確かに兵法をもしっかり学んでいたのだろうと思う。
けれど、軍の先頭に立って戦いの指図をするには、それだけではない何かが必なのだろう。それは大胆さであったり、機を見て縦横無尽に動ける柔軟性だったり・・・ そういう部分は、むしろ孔明は苦手だったのではないか、と思うのだけど。

孔明の賞罰は大変きっちりしていたと言う。
罪はたとえ小さな罪でも必ず罰し、その代わり良い行いは、ささやかなことでも顕彰した。
とにかくどんなことにも、あくまでも公平で、そのため厳しい罰を与えられても、誰も恨まなかったとか。
孔明の几帳面さや潔癖さの現れだろう。
国の隅々まで、正しい法が行き渡っていたに違いない。
そして、これも有名な話として、死んだ後、ほとんど財産と言えるものは残していなかった、と。
清廉なイメージはここからも伺える。 

孔明は、庶民の生活の安定を、何より願った人だったのだと思う。
それは自分自身が幼少時に体験した不安感のせいかもしれない。
孔明が劉備に説いたと言う、かの有名な(笑)天下三分の計。
これこそ、まさに国の平和を望む政治家としての政策!
武将タイプの人だったら、自分の国を一番強くして、自分(又は、自分が仕える人)が天下を治める、と考えるのではないだろうか。
でも、孔明は政治家だった、しかも現実的な。
だから、現状で誰か一人、どこか一国が天下を治めるまでには、どれほどの戦いが繰り広げられるかを憂慮した上で、三つの国がそれぞれ牽制し合うと言う方法を説いたのではないか。 

そして、その案はなんとか成功したかに思えた。が、運命のいたずらか、せっかく蜀を手にした劉備は、無謀な戦いの末、亡くなってしまう。
これこそ、孔明に取って最大の誤算だったのかもしれない。
なにせ、劉備が孔明に託して行った息子劉禅は・・・(^^;
ここにきて、孔明は蜀の国の先行きに、とてつもない不安を覚えたのか。
苦手な(たぶん)、戦いに自ら望むことを選択する。
しかも、この時期には、すでに頼りになる武将たちが次々と亡くなっていた。
孔明の計り知れない孤独な戦い・・・それは文字通り、骨身を削るようなものだったのだろう。
その様が悲劇性を強め、人々の印象に残ったのかもしれない。
丞相は、戦いにおける才もすばらしかった、強大なる魏をとことん苦しめ、でも最後は戦場で無念の病死となったのだ、と。
孔明を慕っていた蜀の人々なら、きっとそう思いたかったのではないだろうか。

澄んだ夜空に静かに光を放つ秋の月、その様は清雅でありながら、どこか寂しげでもあり、孔明のイメージと重なる。
秋風五丈原、病を押して戦場に立った孔明の目に映った星たちは、今も私たちの頭上に輝いているのだろう。


平成16年9月1日
                                                        
翠蓮