今月の「いにしえ人」
                                    
〜山南敬助〜


弥生・・・

新撰組、と言ってまず思い浮かぶのは、近藤勇、土方歳三、沖田総司と言うところがポピュラーでしょう。新撰組について、あまり詳しくは知らないと言う人でも、たぶんこの3人の名前は聞き覚えがあるでしょうし、小説やドラマなども、この3人のうちの誰かが主人公と言うパターンは多いと思われます。

それでは、その次に上がる名前は?となると・・・(^^;
ここからは、ある程度新撰組について知っている人の間では意見が分かれるところかもしれませんが(笑)
私がまだ今のように新撰組にはまる前、3人の次に思い浮かぶ名前は山南敬助でした。

いつ頃見たものだったのか、昔テレビで新撰組のドラマをところどころ見ていた記憶があります。
その中で印象に残っていたのが、山南が新撰組を脱走して連れ戻され、切腹すると言うシーン。まだ新撰組について、ほとんど知らなかった私には、仲間同士でさえ殺し合うような殺伐とした隊なのだ、と言う暗澹とした思いが残ったものでした。
その時の山南役を誰が演じていたかも、さだかではないのですが、わりと地味で思慮深い、剣士には見えないと言う印象でした。

今になって、ようやく新撰組のメンバーそれぞれに、夢があり、理想があり、それに立ちふさがる過酷な現実があったのだと思えるようになったのですが、あの時はそこまでは考えられなかったのですね(^^;
新撰組=血なまぐさい、と言うイメージが出来上がった瞬間でもあり、それ以来、新撰組と聞くと、少々引いてしまっていました。
そんな私が、今こうして新撰組にはまり、幾人かの隊士について詩を書いたりしているのですから、不思議なものです(^^;
数年前の大河ドラマで、堺雅人さんが演じた山南敬助も、それまで私が持っていた山南のイメージを変えるのに十分でした。
常に穏やかな微笑をたたえながらも、時に激しいほどのきっぱりとした意志を秘めた、強いまなざしを見せる。剣の腕もハンパじゃない。
一筋縄では行かなそう、なぁんて(笑) 思いがけないほど鮮やかに、印象に残りましたねえ。
おっと、話がそれました、すみませんm(__)m

山南敬助、仙台の生まれ。もともとは神田の道場、玄武館で北辰一刀流を学び、免許皆伝の腕前を持ちながらも、近藤勇の試衛館へと出入りするようになります。
これは、たまたま腕試しで立ち寄った試衛館で、近藤に負けたかららしい(^^;
どう見ても、試衛館の天然理心流よりは、北辰一刀流の方が有名だったと思われますが、それだけに名も知らぬ剣法に負けたことで、山南はびっくりしたのでしょう。
世の中には、まだまだ学ぶべき剣法がある、と向上心にあふれる山南なら思ったかもしれませんね。
とは言え、即刻弟子入りすると言うのは、よほど近藤の腕前に感嘆したのか、人柄に惹かれたのか・・・
他にも腕っこきの面々が試衛館に揃ったところを見ると、やはりこれは近藤勇の人徳なのでしょうね。

山南敬助は、武人としてのみならず、学問に長け、尊王思想を持っていたと言われます。
人柄も穏やかで、壬生の人々の間でも後々まで、親切者として伝わっていたとか。
新撰組の屯所であった八木家の為三郎氏によれば、山南は「丈はあまり高くなく、色の白い愛嬌のある顔」だったそうです。
子供も好きで、幼かった為三郎氏も、どこで会っても何か言葉をかけてもらったとのことです。

これほど優しそうな風情でありながら、やはり武士としての冷徹さをも持ち合わせていたのでしょうね。
不逞浪士の取り締まりのため、新撰組の幹部たちが大阪に下っていた際に、局長であった芹澤鴨が、河原で行き合わせた力士たちと悶着を起こして、鉄扇で殴り倒し、怒った力士たちが復讐に現れます。
この時の乱闘に、山南もしっかり加わっています(^^;  武士を侮った力士たちへの制裁と言うことなのでしょうか。 
近藤勇がその場にいなかったため、本来なら副長である山南が、乱闘をとめたとしても不思議はない。
もっとも、乱闘の原因が局長芹澤ですし、山南一人で止められたかどうかも、厳しいところかもしれませんが(^^;

さらに、芹澤鴨暗殺の際の、選ばれた刺客の一人でもあったらしいとの説が・・・
芹澤暗殺に当たっては、ごく身内だけで行うと言うことだったのでしょう。
土方歳三、沖田総司、原田佐之助、それに山南と言う少数で、芹澤たちの寝込みを襲ったのです。
この頃の、芹澤の傍若無人なふるまいを、みな持て余していたのは確かですし、このままでは後見である会津藩からも、見放されてしまいかねない。
新撰組存亡の危機に当たり、非情の剣を振るうことは、おそらく近藤、土方のみならず山南自身も納得の上であったのでしょう。
芹澤の死後、近藤がただ一人の局長となり、山南は、それまでの副長から総長へと昇格しました。
隊士たちに直接命令下す役割の副長が土方一人になったことで、山南の立場は微妙なものになりました。格としては、総長は副長より上ではあるものの、隊内での実権はさほどない。皮肉なものです。

土方歳三との確執も、よく言われるところですが、おそらくもともとのお互いの目指すところが違っていたのではないかと思うのです。
土方は新撰組の実力を上げ、武士として世間に認めさせたかった。
武士となることこそが、近藤の夢でもあり、土方の目指すところでもあったから。
池田屋の事件は、まさに新撰組の名を知らしめるには、うってつけだったでしょう。
過激とは言え、あくまでも尊皇攘夷派の長州の浪士たちを討ち取ったことで、新撰組は幕府寄りの立場を強固なものにしたと思われます。
けれど、尊皇攘夷の思想を持っていた山南の中では、新撰組が自分の考えていた場所から、どんどん離れていくような焦りがあったのでしょう。
実際、池田屋事件にも、山南は参戦していません。

その後、伊東甲子太郎の一派が、江戸から新しく新撰組に入隊してきています。
伊東も、尊皇攘夷派。そして、山南と同じく北辰一刀流。文武両道の人と言われる点でも、伊東と山南は似たところがあったのかもしれません。
けれど、決定的な違いは、伊東には彼の下についてくる同士がおり、いざと言う時には、近藤ではなく自分と共に戦ってくれることがわかっていた。
山南は、あくまでも試衛館派であり、そして同じ試衛館の同士たちの頂点は近藤。近藤に逆らってまで、自分と志しを同じくしてくれる者はいないと思ったのでしょうか。
集団の中の孤独。それも、かつては同じ夢を見ていたはずだった仲間たちから、いつのまにか自分だけが浮いていた。
山南の虚しさは、想像するだにつらいものがあります。

さらに、新撰組の隊士が増えたことで、新しい屯所を西本願寺に移すに当たっても、山南は真っ向から反対しています。
由緒ある寺を乗っ取るような振る舞いは許されない、と言うのが山南の意見でしたが、西本願寺は長州寄りと言われ、それだけになおさら新撰組としては、ここを押さえたかったのでしょう。
結局、山南の意見は通りませんでした。
この件がさらに山南の居場所をなくす引き金になったのか、ついに山南は脱走を計ります。
なぜ脱走だったのか、冷静に考えれば、他にもっといい解決法があったかもしれないのに。
まるで、思いつきのように脱走してしまった山南。あるいは、少々神経を病んでいたのでしょうか。今で言えば、ストレスが積み重なって?
この時、はたして山南は何を思っていたのか・・・

江戸へ向かったと思われる山南へ向けられた追っ手は、沖田総司ただ一人。
ここにも、なぜ?と言う疑問が残るのですが(^^;
近藤は、すでに病がちだった沖田ひとりに、山南を追わせた。事を大きくしたくなかったのか、だとしたら、ひそかに山南を許すつもりだったのでしょうか。
もし沖田が、みつからなかった、逃げられたと報告してきたなら、それはそれでよしとしたかったのか。
それとも、おそらく山南にも好かれていたであろう沖田を差し向けたなら、山南も刀で立ち向かうことなく、大人しく連れ戻されるだろうと思ったのか。

いいえ、ここはやはり近藤は山南を見逃そうとしたのだと、私は思います。
本気で捕まえるつもりなら、追っ手が一人と言うのはありえない。
試衛館の頃からの同士、近藤は山南の豊富な学識を頼りにしていたはずですし、お互いの目指すところがいつのまにかずれてしまったことをも、少なからず残念に思っていたのではないでしょうか。
山南の人柄を知っていればこそ、抜き差しならぬ状態になるよりも、敢えて身を引くことを選んだ山南をひそかに許すことが、近藤のせめてもの情けであったのだと思いたい。
そして、体調が完全ではなかった沖田を行かせたのも、みつからなかった時の言い訳がたつ。
逃げた方も追う方も、双方に言い逃れの余地を残すための、近藤の気遣い・・・と思うのは、私の甘さでしょうか(^^;

いずれにしても、さほど遠くまでも行っていなかった山南は、あっさりと沖田にみつかり、屯所へ連れ戻されます。
たった一人の追っ手をまくことが、さほど困難だったとは思えない。もっと先を急ぐことも、あるいはどこかに隠れてやり過ごすこともできたはずです。
なのに、簡単にみつかっている。これは、小説やドラマでもそうあるように、山南自ら、沖田の前に姿を現したと言う方が納得できる。
最初から、江戸まで逃げる気などなかったのか、それとも追っ手が沖田だったことで、近藤らの思惑を知り、戻ることを納得したのか。
この辺りの山南の心理についても、どんなふうにも想像ができてしまいます。

中には、山南はまさか総長である自分を、近藤が本当に切腹させるとは思っていかった、山南の考えが甘かったのだ、と言う説もありますが、私にはそうは思えません。
隊の規律を守るためには、ささいな違反であっても隊士に死を与えてきた新撰組。局長であった芹澤鴨や新見錦ですら免れなかったことが、自分にだけは許されると考えるほど、山南は傲慢でも、甘くもなかったと・・・
追っ手が沖田だけだったことで、もしかしたら近藤は、自分が逃げたならそれでいいと思っているのかもしれないと、山南にも想像できたでしょう。
けれど、おめおめと帰ってきたなら、それを許すのは隊士への示しもつかない。
隊の規律を破り、自分は脱走し、そして捕まった。捕まるからには、覚悟はできていたのだと思います。

どこへ逃げたとしても、はたして自分を受け入れる場所があるのか。
新撰組は、あまりにも有名になってしまっていた。それも、むしろ悪い意味で。
山南が目指す尊皇攘夷の思想の持ち主であれば、なおのこと新撰組を蛇蝎のように嫌っていたでしょう。
新撰組の幹部だった者を、脱走してきたからと言って、たやすく信じるほど、彼らも甘くはないはず。
もはや、自分の居場所はここ、新撰組しかない。いや、死に場所と言うべきか・・・そんなふうに、寂しく笑う横顔が、ふと目に浮かぶようです。
永倉新八や伊東甲子太郎が、再びの脱走を勧めた時にも、山南は「すでに覚悟している」ときっぱりと断っています。

連れ戻され、切腹を終えるまでの山南の態度は、なんとも静かで礼儀正しく、潔い。
有名な恋人明里との涙の別れは、フィクションだとの説もありますが、哀しくやりきれない死の前に、せめて愛する人との格子越しの逢瀬があったと信じたいものです。
乱世に生きるには、潔癖な理想家でありすぎたのかもしれない、穏やかで知的な山南敬助。
彼の死を悼み、伊東甲子太郎が詠んだと言われる歌は、まさに山南の人柄を見事に表しているように思えてなりません。


  
春風に吹き誘われて山桜

         散りてぞ人に惜しまるるかな

                      
(伊東甲子太郎)




平成19年3月1日
                                                        
翠蓮