今月の「いにしえ人」
                                    
〜鵜野讃良皇女〜


文月・・・

鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、と言うより、後の持統天皇と言った方が一般的には馴染み深いのかもしれません。


  春過ぎて 夏来たるらし白たへの
      
           衣乾したり 天の香具山



上の有名な和歌(百人一首では、多少表記が違っていたりしますが)を読むと、なにやら夏の爽やかな情景が思い浮かぶようです。
夏山の緑と白い衣のコントラストの鮮やかさ、ゆったりとした自然の中で「ああ、夏が来たのね」とつぶやく女帝の姿。
一見わかりやすそうでいながら、この歌、私にはいまいちよく掴めないと言うか・・・(^^; 
あっさりと詠まれた情景の中に、彼女にしかわからない何らかの思いがあるような気がしてしまうのです。
もっとも、その思いについては深くて見えない、と言うところかな。

さて、持統天皇として取り上げてもよかった鵜野讃良皇女ですが、私自身が今までに読んだ小説と言うのが、持統天皇誕生よりもう少し前の頃のものが多かったためか、どうしても鵜野讃良皇女の名前の方が馴染み深かったわけなのです。

父親は中大兄皇子(後の天智天皇)、母親は石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)。
石川麻呂は、大化の改新で中大兄皇子や中臣鎌足が、蘇我入鹿を討った時の同士でしたが、後に中大兄皇子から謀反の疑いをかけられ、死に追いやられます。
遠智娘は、父親を夫に殺されたことになるわけです。しかも謀反と思われたことに関しては、中大兄皇子の勘違いだったと・・・
あくまでも石川麻呂が中大兄皇子に忠誠を誓っていた証拠の品が、死んだ石川麻呂の館から出てきてしまうのですから。

はたして遠智娘は中大兄皇子のことを、どう思っていたのでしょう。
怨んでいたのか、仕方ないとあきらめてしまったのか、それとも父を殺されてなお夫を信じようとして葛藤したのか。
その点はさだかでありませんが、遠智娘は悲しみのあまり死んでしまったと言います。
そんな母と父を幼い鵜野讃良皇女はどう見ていたのか・・・

鵜野讃良皇女の姉に大田皇女がいます。たぶん、年は近かったのではないかと思うのですが。
二人の姉妹は成長すると、父である中大兄皇子の弟、大海人皇子(後の天武天皇)のもとへ嫁ぎます。
もちろん、これは政略結婚。この時代の常とは言え、姉と共に叔父へ嫁ぐと言うのはどんなものか(^^;
姉妹でありながらライバル? いえいえ、さらに強力なライバルがそこにはいたのですね。
それは、言わずと知れた(笑)額田王。まさに大海人皇子の永遠の恋人とも言える存在です。
巫女としての能力に加え、歌を詠む才能、美貌、どれを取っても、まだ幼さが残っていたであろう鵜野讃良皇女には、太刀打ちできなかったのではないかと・・・

この時代を書いた様々な小説を読むと、どうもFONT>
                                                        
翠蓮