今月の「いにしえ人」
                                                       
― 有間皇子―

皐月・・・

風薫ると言う言葉がぴったりの月となりました。
今月は、やはり新緑のようなみずみずしい若者がいいなあ(笑)と言うわけで、有間皇子です。
個人的好み、かなり入ってますけど(^^;
飛鳥時代の「悲劇の皇子」と呼ばれる皇子たちの中でも、真っ先に名前を挙げたい有間皇子・・・とこれまた個人的に思いこんでおります(^^;
でも、実を言うと有間皇子については、私の中ではいまだに謎ばかりなのですが。

有間皇子、父親は孝徳天皇。皇位継承者として見られても不思議はないわけですね。けれど、そこにはすでにライバルと呼ぶには大きすぎる存在が・・・言わずと知れた中大兄皇子です。
有間皇子にとっても年の離れた従兄にあたる中大兄皇子は、若い頃から政治のいわば影の実行者であり、普通に考えたら有間皇子の存在を気にかけるほどのこともあるまい、と・・・
けれど、そこが執政者の孤独や猜疑心の為せるわざなのか、結局有間皇子を葬ることになってしまうのですね。

ここで、最大の謎ははたして有間皇子の本心はどうだったのか、と言うこと。
小説などでは、あまり政治などには関心を持たず、むしろ歌を詠むことを楽しみとした、繊細で感性豊かな少年、と言ったイメージを持たされることが多いようです。
でも、有間皇子の歌として残されているのはかの有名な二首のみ。そう言えば井上靖さんの小説「額田女王」の中で、有間皇子はやはり歌を詠むのが上手く、額田王にもっと歌を見せて下さいと催促(?)されるシーンがありました。
その時の有間皇子の答えは、自分は悲しい時にしか歌が詠めないのかもしれない、と・・・
有間皇子の運命を予感させる、なんとも切ないセリフでした。

謀反人として護送される最中に詠んだと言われる二つの歌のすばらしさから、歌人としての才能溢れる悲劇の皇子と言うイメージは、さらに強くなります。
この二首は、旅の途中の岩代で詠われたものです。

『岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む』
『家なれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る』

一首目は浜松の枝を引き結んで旅の無事を祈った歌。旅の最中に、草や木の枝を結ぶと言うのは、旅の安全を祈って誰もが行う手向けの呪術だそうです。
二首目は食べ物を椎の葉に盛ると言う歌。これは旅ゆえの食事の不如意を表したと言う説と、岩代の神への手向けとして椎の葉に盛ったと言う説があるとか。

どちらも処刑直前の緊迫感や悲壮感があまり伝わらない、との理由から、有間皇子の作ではないと言う説もあるそうですが。
でもやはり私は有間皇子自身の歌だと思いたいなあ。
表面的には淡々としたこの二首にこめられた祈り、それは叶うはずもないだろうとわかっているからこそ、ごく普通の羈旅(きりょ)歌、旅に出る時の歌のように、さりげない語調で詠まれたのではないか、と。
そして、そう詠まれつつも、この二首は「万葉集」の中の挽歌部の冒頭に据えられています。
謀反の罪で処刑される運命の皇子が最後に残した歌、として捉えられていたからなのではないでしょうか。
有間皇子の歌の後に続くいくつかの歌にも、同じように岩代の松が出てきます。

『岩代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ』
                   
長忌寸意吉麻呂
『天翔りあり通ひつつ見せめども人こそ知らね松は知るらむ』
                   
山上憶良
『後見むと君が結べる岩代の小松がうれをまたも見むかも』

                       柿本人麻呂


これらの歌の背景について、私はよくわからないのですが、有間皇子の歌に答えて、後の人たちが哀悼の歌を捧げたと取っていいのでしょうか。
そして、これらの歌の次に載っているのが、天智天皇の亡くなった折の大后たちの歌です。
挽歌ですから歌われた(亡くなった?)順に、と言うこともあるのでしょうけれど、それにしても天智天皇より先に有間皇子の歌が、挽歌の冒頭を飾るように載っているのが、ちょっと皮肉なようにも思えてしまったりして(^^;

有間皇子の本心、はたして実際に謀反を興す気持ちがどれほどあったのか。
まったくなかった、とは言えないのかもしれない。少なくとも父帝の無念は、有間皇子の胸の奥にも残っていたでしょうから。
けれど、蘇我赤兄の言葉に乗り、挙兵の企てをしたと言うのが、どの程度の話しの内容だったのか・・・これは当事者以外わかる由もありません。
そして、その後起こったことは、赤兄が有間皇子の家を囲んだことと、中大兄皇子のもとに有間皇子に謀反の企てあり、と報告したこと。
さらに、有間皇子は処刑されながら、一緒に企ての話しをしたはずの赤兄は何の処罰も受けなかった。
中大兄皇子の尋問に、有間皇子が「天と赤兄知る。吾何も知らず」と言ったのが事実とすれば、やはりこれは策略にかかったのだろうとの解釈が妥当に思えます。

ときに有間皇子19歳・・・ 萌え出だしたばかりの新緑の枝が、無残に折られてしまったような哀しさを覚えます。


平成16年5月1日
                                                        
翠蓮