今月の「いにしえ人」
                                    
〜 白比丘尼〜


霜月・・・

夢枕獏さんの小説「陰陽師」の中には、いい話がたくさんあります。
切なくて、怖くて、しみじみと暖かくて・・・
そんな中でも、白比丘尼の話は私にはかなり印象深く残っています。

ある雪の晩、酒を酌み交わしている安倍晴明と源博雅のもとへ、一人の女性が訪ねてきます。
黒い僧衣をまとい、黒い布を頭にかぶった若く美しい女性。
真っ白い雪の中に、闇の化身のように佇むこの女性こそが白比丘尼。
人魚の肉を食べてしまったために、不老不死となったのですが、こういう伝説は、実は日本の各地にあるようです。
一般的には「八百比丘尼」、八百歳まで生きたからとのことで、髪が白かったとか、色が白かったと言う諸説もあり、白比丘尼とも呼ばれるそうです。

「陰陽師」に登場する白比丘尼は、30年に一度、身体の中から禍蛇(かだ)と言う鬼を追い出してもらわなくてはならない。
そのために晴明のもとを訪れます。
白比丘尼は、男に身を売って生きている。その精と、とらなかった歳が、身体の中で結びついて鬼と化してしまうのだ、と晴明は博雅に教えます。
そして「枯れるからこそ花、枯れぬ花はすでに花ではない」と・・・

不老不死は、いわば古来からの人の憧れ。幾人もの天下人が不老不死の妙薬を求めたのでしょう。
我が身に照らし合わせても、確かに年々、歳を重ねることが切なくなって来る。
若い頃には思ってもみなかった負担が身体にかかったり、情けない変化が現れたり(^^;
そんな歳に自分もなっちゃったんだなあ、などとしみじみ思ったりする今日この頃です(笑)
不老と言うことにまったく憧れないと言えば、嘘になるでしょう。
若さのありがたさと言うものに対し、若い頃はまったく無頓着でいられます。気づくのは、失われ始めてから。
だからこそ、それを取り戻そうとやっきになってしまう人もいるのでしょう。
私もささやかな抵抗は必死に試みますが(笑) なかなか抵抗しきれるものではない(^^;
なかばあきらめのうちに、「でも年をとったからこそ、わかることもあるわ」と自分を納得させたりして。
いつか終わる生なのだと思うからこそ、人は生きる価値を見出そうと必死になるのでしょう。
終わることのない生は、永遠に解放されることのない繰り返しなのかもしれません。

白比丘尼は、ただ一人果てない時の狭間を行く旅人。
誰も同行してくれる人はいない。すでに人としての理(ことわり)から外れてしまった身では、誰と歩こうとも必ず自分が取り残されるのですから。
一所に留まることも難しいのかもしれない。
周りの人々が年を重ねる中、ひとり変わらぬ若さのままと言うのは、いつかきっと人々の不審を買い、注目の的となってしまうでしょう。
八百比丘尼伝説が全国に散らばっていることも、彼女が各国を巡る旅人だったことを連想させます。

数年前に上映された映画「陰陽師」でも、白比丘尼をモデルにしたと思われる青音と言う女性が登場しました。
不死である青音は、呪のかかった矢に射られた博雅の命を救うため、晴明に泰山府君の術を勧めます。
それは博雅と自分の命を交換すると言うもの。
ようやく果てしない時の螺旋から解放されること、愛する人の待つ彼岸へと行けることに満足して、青音は微笑んで旅立ちます。

時は過ぎ行くからこそ貴重なもの。変わってしまうから、消えてしまうからこそ、輝いている一瞬を大切にする。
不老不死伝説は、そんなことをあたらめて人に納得させるためにあるのかもしれませんね。
「枯れるからこそ花」、と言う晴明の言葉はもしかしたら女性にとって最高の励ましの言葉なのかな(笑)
ちなみに、小説の中で晴明は博雅に白比丘尼のことを、自分の初めての女だった、と告白します(^^;
この白比丘尼のお話は、不老不死の哀しさのうちに、女の性(さが)のようなものをも感じさせて、艶めいています。

日本海側に点在する、八百比丘尼伝説のある地には、彼女が植えたとされる椿の花が春になると咲くそうです。
白比丘尼の白は再生の色だとか・・・白椿の花は、ようやく大地に還ることのできた比丘尼の魂が、この世に咲かせた花なのでしょうか。


平成17年11月1日
                                                        
翠蓮