今月の「いにしえ人」
                                    
〜 蜜虫 〜

『紫影』


ふと、何かの気配を感じ、安倍晴明は目を覚ました。
周りは漆黒の闇。まだ夜は深い。
誰かが呼んでいたような・・・ いや、夢の余韻か。いずれにしても、眠りの気は離れてしまった。
ゆっくりと起き上がり、庭を望む縁へと出てみる。
「片割れ月か・・・」
半分に切り取られたような月。ところどころ透かし、また光をもらしながら、薄い雲がその月を覆っている。
草が生い茂り、一見荒れ放題にも見える広い庭の片隅には、大きな野生の藤の樹。
ちょうど今が花の盛りで、薄明かりのもと、いくつもの重たげな花房が垂れている。
その花の下に、ぼうっと佇む人影。
雲が風に流されて行き、半月がくっきりと藤の樹を照らした。

「どうしたのだ?」
晴明は、低く声をかける。
ふわりと・・・ 白い影が振り向く。
「密虫・・・」
月の光に浮かび上がる能面のような、だが美しい顔。女は何も言わず、ただ深々と礼を取った。
見事な黒髪が、さらさらと背から流れる。
ゆっくりと顔を上げても、女はなお黙っていた。
晴明は、しばらく考えこむように視線を落とした後、庭に向かって話しかけた。
「戻りたくなったか? もし、お前が望むのなら・・・」
その後の言葉は、故意に呑み込む。
蜜虫は何の表情も示さぬまま、無言で晴明をみつめ返した。
光届かぬ闇に吸い込まれ、掻き消えてしまいそうな佇まい。
そよと風が動き、甘やかな夜気がふたりを包む。

「私の式となって、どれほど経つ?」
晴明の問いかけに、ほどなくしてようやく女の細い声が答えた。
「さあ・・・ 思いおよびませぬ」
「そうか」
晴明はぽつりと、ため息とも取れる声をもらすと、女の上に広がる藤の花に目を転じた。
「私を、酷い主と思っているのであろうな」
まるで独り言のようにつぶやく晴明の言葉に、蜜虫はかすかに戸惑った顔を見せた。
「それは・・何ゆえでございます?」
晴明は、ふっと苦笑を浮かべた。
「藤の花としてただ無心に咲いていたおまえを、私は地上に降ろし、呪(しゅ)をかけ、人形(ひとがた)に入れた」
さわさわと、藤の花房が揺れる。
「花でいれば係わりなくいられた諸々のことにも、人としての形を持てば、何かが揺らぎ、不可解なものを感ずるやも知れぬ。それが、わずらわしいのではないか?」
「さあ・・・」
蜜虫は、またしても困ったように、小さく首をかしげた。
まるで生身の女の仕草そのもので、それが晴明にはなぜか少しだけ哀しく思えた。

人の姿はしていても、無表情、無感情に、命を受けるだけの式神。
己の気持ちを顧みることもなく、いや、それがあるかどうかすら知れず、ただ言われるがままに動く存在など、とても寂しいことなのではないか・・・
確かに式神はたいそう役に立つ。人にはできぬような使いもこなす。必要とあらば次々と作り出すこともできる。
が、しかしそれゆえ、人の身におよぶ災いを防ぐ折には、やすやすと犠牲にもなり得るのだった。
命があってないような式神だからこそ、できることなのだとわかってはいても、己の手が生みだしたものたちが、抗うこともなく散って行く様を見る度に、晴明は、やりきれないような胸の痛みを覚えるのだった。
(ましてや、かよわい女の姿で・・・)
あの時、名と言う呪をかけたのは、紛うことなく自分なのだ。
これもまた、陰陽師としての業と言うわけか。
晴明は眉をひそめたまま、今までも何度となく胸の奥に湧いた、自嘲めいた思いに沈んだ。

「わたくしは、あなた様の式でございます」
ふいに、澄んだ声が耳に届き、晴明は我に返った。
蜜虫がじっと晴明をみつめている。
「わたくしに名を下された」
その美しい顔が、少しずつ笑みにやわらいで行く。
「あなた様の命に従うことだけが、わたくしの役目」
ひらひらと・・・女の肩に舞う藤の花びら。
「あなた様のために・・・」
雪白の頬に、わずかに紅の色が上ったように見えるのは、目の迷いだろうか。
「それが、どれほどにうれしきことか・・・」
風が花房を揺らし、女の黒髪を揺らす。
「教えて下さいましたのも、あなた様でございます」
夜目にも綾な、白い微笑み。思いがけないほど鮮やかな・・・
「どうぞお迷いなく、わたくしをお役立て下さい」
ざわざわっと、一陣の強い風が吹きぬけ、晴明は思わず袂をあげ、風をよけた。
薄紫の花びらが、風に乗り、まるで命ある物のように庭を流れる。

すうぅ、と白い影が晴明の横をすり抜けたかと思うと、
「おやすみなさいませ」
ひそやかな声を残して、蜜虫の気配は消えた。
晴明の肩には、いつのまにか上衣がかかっている。
風が止み、庭は静けさを取り戻している。雲がすっかり晴れ、月の光が増したようだ。
ふと見ると、上衣に藤の花びらがひとひら、ふたひら・・・
あの日、この手に取り、呪をこめたのと同じ淡い花びら。
晴明はやわらかくほほえみ、頷いた。
その視線の先で、いくつもの美しい花房を抱いた藤の樹が、何事もなかったように佇んでいる。
片割れ月に照らされ、それはまるで、深い紫色の影で、この庭を護っているようにさえ見えるのだった。


                                            (完)


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すみません、いきなりこんな拙い短編などを・・・m(__)m
五月は藤の花だなあ、藤の花ならやっぱり蜜虫でしょう、と。
ご存知のように、蜜虫と言うのは夢枕獏さんの小説『陰陽師』に登場する式神です。
もとは藤の樹の精らしい。
安倍晴明が、親友の源博雅に呪(しゅ)について説明するのですが、その時「一番短い呪は名前だ」と言い、その例として蜜虫を挙げるのです。
庭の藤の樹に「蜜虫」と言う名前をつけたら、いつまでも咲き続けているのだ、と。
蜜虫は、その後女性の姿となって登場し、あっさりと鬼の犠牲になってしまいます(^^;
ですから、小説ではそれっきり。でも、美しい女性の姿の式神と言うのは、やはり絵的にはおいしいらしい。
テレビドラマでも映画でも、しっかりレギュラーとして登場していましたね(笑)

テレビでの蜜虫は、揺れ動く女心をも持っていて、どうやら晴明に惹かれている様子。
映画では、まるで無邪気な少女として(しかも、確か蝶の精と言うことになっていたような)描かれていました。
でもって、私の中の蜜虫のイメージが、上記の短編に書いたような感じなんです(^^;
勝手なイメージではありますが、晴明どのと蜜虫の微妙な関係、私としては結構好きだったりして・・・
そんなわけで、お目汚しな短編を今月は載せさせて頂きました。読んで下さり、ありがとうございましたm(__)m


平成17年5月1日
                                                        
翠蓮