今月の「いにしえ人」
                                    
〜 斎藤一 〜


弥生、

今月のいにしえ人は・・・
すみません、まったく唐突な人選です(^^;
もともと、この翠蓮茶寮で取り上げていた時代とはかけ離れてしまっていますが、最近気になってきたのが幕末、そして新選組のメンバーたちです。
その中でも、特に気になって仕方なかった斎藤一を、今回のいにしえ人に選んでしまいましたm(__)m

新選組に興味を持つきっかけとなったのは、去年の大河ドラマ。
ブームに乗せられ始めたな、と自覚しつつ(笑)、新選組関係の本などもいくつか買い込みました。
最初に読んだのが、司馬遼太郎さんの「新選組血風録」。隊士たちのエピソードが短編として書かれています。
本の楽しさは、文章の合間からその人物像を想像して行くこと、と私は思っているのですが、「血風録」からイメージした人物の中で魅力を感じたのは沖田総司と斎藤一でした。
あっけらかんとした無邪気さと同時に、物事の本質をすっと掴んでしまう天性を感じさせる沖田総司。
胸に思うところはありながら、あえてこだわらず、飄々と無口を通す斎藤一。
沖田総司に関しては、以前詩にしてみたりもしました(^^;

正直なところ、大河ドラマは必ずしも私のイメージ通りではなかった人物もいたのですが。
オダギリ・ジョーさんの演じた斎藤一は、とってもかっこよかったです(*^^*)
最初はやたらと「アブナイ人」に見えましたけど(笑) でも、無口な中に少しずつ心のうちが垣間見えて来る辺りが、いい感じでした。
新選組の主要メンバーの中で、美男子だったと言われているのは土方歳三、原田左之助、藤堂平助くらいで、斎藤一氏は残念ながら名前が挙がりません(笑)
ご子孫の方が「背は高いほうで、無口で眉毛がふさふさとしており、目がけいけいと光った、いかにもいかめしい感じの人だった」とおっしゃっているそうで、写真を見ても確かにどちらかと言うと凄みのあるお顔をなさっております(^^;
きっと若い頃も、まさに腕利きの剣士と言うような風貌だったのでしょうね。

斎藤一、本名山口一。後に山口次郎、一戸伝八、藤田五郎とその時々の事情で名前を変えるのですが、やはり私の中では「斎藤一」と言う名が一番しっくりきます。
父親は播磨明石の出身。若い頃に江戸に出て幕臣となっています。
斎藤一が江戸生まれでありながら、出身を播州明石浪人と称しているのは、父親の故郷に思いいれがあったのでしょうか。
少年期に学んだ剣術は無外流。天性の才能に恵まれていたらしく、後に新選組の中でも沖田総司、永倉新八と並ぶ最強の遣い手となるのですが。
何の理由からか、19歳の時江戸小石川で旗本を斬り殺してしまいます。
江戸にいられなくなり、京都へ。山口から斎藤へと名前を変えたのもこの時であったようです。

父親の知り合いが開いていた吉田道場に厄介になっていた斎藤が、ちょうど江戸から来た幕府の浪士組のことを知ったのも、まさに運命だったのかも・・・
食客ではなかったものの、どうやら斎藤は試衛館に出入りしていたようです。
そのため、京都に残留が決まった浪士組改め新選組への斎藤の参加は、顔見知りだった近藤勇たちから大変歓迎されました。
そして、若干二十歳で新選組に入隊するや副長助勤、後に三番組組長、そして隊の剣術師範を務めるようになるのです。
そう言えば・・・新選組幹部の最年少と言えば、何と言っても沖田総司!と思い込んでしまっていた私なのですが(笑)
実際には、沖田総司、藤堂平助、そして斎藤一がほぼ同い年らしいです(^^; ちょっと意外(笑)
沖田、藤堂の二人は、若々しいイメージがあるものの、斎藤一と言うとかなり渋い雰囲気が・・・
去年の大河ドラマでも、どう見ても沖田、藤堂よりずっと年上に見えましたよねえ(笑)

近藤局長から、かなりの信頼を受けていたのだろうと推測される要因のひとつは、わりとダーティな仕事ばかりを任されていること。
五番組の組長だった武田観柳斎が、新選組の中での威勢が急落し、薩摩藩に通じて勤皇派に寝返ろうとしていたことに激怒した近藤は、武田の暗殺を決め、その刺客に斎藤を選びます。
武田の送別会と称して宴会を開き、その帰り道を斎藤と、武田と親しかった篠原泰之進の二人に送らせる。
断りきれなかった武田は、篠原がいることで多少は安心したものか・・・
けれど、すでに近藤から言い含められていた篠原は何の助けにもならず、銭取橋と言うところに差し掛かった時、斎藤は一刀のもとに武田を斬殺します。
ただし、この武田が殺された日は、資料によると、篠原も斎藤も新選組から抜けて、御陵衛士に入っていた頃になっているとのことで、真偽のほどはいかがなものでしょう?

他にも、弟が近藤の養子になったことで、新選組の中で羽振りをきかせ、ひんしゅくを買っていた谷三十郎が祇園石段下で何者かに殺されていた件についても、近藤から密命を受けた斎藤の仕業ではないかと言う説があるとか・・・
これまた子母澤寛の「新選組物語」の中からの出典なので、フィクションの可能性大。
とは言うものの、どうもこういう影の仕事を引き受けそうな雰囲気を、斎藤一と言う人は持っていたのかしらん、などと思ってしまいますが(^^;

そして、何と言っても斎藤の闇の部分を一番感じさせる仕事が、新選組から分派した伊東甲子太郎らが結成した御陵衛士(ごりょうえじ)に、これまた近藤の密命で間者として同行したことでしょう。
間者、スパイと言うのは、まさに命がけ。潜入先でそれがばれれば、即身の危険にさらされる。
そして、送り込む方も最大の信頼を寄せる相手にしか命じられない。人選を誤れば、間者として潜入させているうちに、逆に裏切られるかもしれない。
伊東甲子太郎は、同士たちと共に分離する時に「このほかに永倉氏か斎藤氏を拝借したい」と近藤に申し出たそうです。
永倉新八は、日頃からやや近藤に対して批判的なところがあったそうですし、斎藤は一匹狼的な感じ。
どちらかを懐柔することができると伊東は踏んだのでしょう。
この時、近藤は斎藤を連れて行ってもよい、と答えた。すでに間者として斎藤を送り込むことを決めていたのでしょう。
そして、その策は見事に当たります。

最後まで斎藤は正体を見抜かれることなく、伊東らが近藤暗殺を企てていることを新選組に知らせます。
斎藤は新選組に復帰する際に、伊東が引き出しに入れておいた50両をわざと持ち出して逃げたため、御陵衛士の中には「斎藤は女にだらしなくて、公金を使い込み、衛士に戻れなくなって脱走した」とずっと思い込んでいた者もいたとか。
こうして、新選組に戻った斎藤は、山口次郎と改名します。
斎藤から報告を受けた近藤、土方は激怒し、逆に伊東をおびき出し、そこから御陵衛士が壊滅した油小路の死闘が展開されることになります。
後年、斎藤は御陵衛士の関係者からは当然の如く憎まれていたらしく、明治維新後に何者ともわからぬ者たちに狙われて危ない目に遭ったと言っていたと、ご子孫の方も語ったそうです。

こうして見ると、なんとも影の仕事人みたいな・・・(^^;
かなりダーティなイメージばかりが広がってしまいそうですが。
実際にはどんな思いで、斎藤は任務についていたのだろう、と考えてしまいます。
去年の大河ドラマの中での斎藤一に関するエピソードで、とても印象に残っているシーンがあります。

ひとつは、芹沢鴨の暗殺に向かう土方たちの前に、斎藤が立ちはだかって止めようとするシーン。
確か、江戸にいた時に人を斬り殺してしまった斎藤を逃がすため、近藤が芹沢に斎藤を江戸から逃がす手配を頼んだのだったと思うのですが。
斎藤にとって、芹沢は恩人のひとり。殺させるわけには行かないと言うことでしょう。
結局、それ以上に恩人である近藤の説得で、やむなく道を開けるのですが。いかにも義理堅い斎藤一らしい。
もうひとつは、病気がかなり進んで寝たきりになっていた沖田総司を斎藤が見舞うシーン。
帰ろうとする斎藤に向かって沖田は「私はあなたのようになりたかった。よけいな口は利かず、任せられた仕事を確実にこなす、あなたのようになりたかった」と言います(言い回しはちょっと違うかもしれないですが)
この時の沖田の語った斎藤像は、これまたまさにと思えました。
この二つのエピソードは、もちろんどちらも脚本家三谷幸喜さんの作り上げたフィクションなのでしょうが、斎藤一と言う人物の特徴をとてもよく捉えているのではないかと思うのです。

新選組の旗色がどんどん悪くなり、ついに近藤勇は斬首され、土方歳三も宇都宮で足を負傷して戦線離脱。
そんな中、会津に辿り着いた新選組を率いて会津藩兵と共に白河城の攻防戦に望んだのは山口次郎と名を変えた斎藤一でした。
やがて傷が癒えて合流した土方が再び新選組の指揮を取りましたが、会津藩の敗色は濃く・・・
さらなる戦力の可能性に賭けた土方は、仙台へ向かおうとします。
が、斎藤は少数の同士と共に会津に残りました。
あれほど恩義をこうむった会津が落城しようとする時に見捨てることはできない、と言い・・・
そして、まさに多勢に無勢の如来堂の戦いで九死に一生を得た時、会津藩は降伏し、会津戦争は終結したのでした。

この後、藩が下北半島の斗南に移封されると、一戸伝八と名を変えた斎藤もまた会津藩士たちと共に厳寒の地で謹慎生活を送ることになります。
明治に入り、前会津藩主であった松平容保(かたもり)から、藤田五郎と言う名を与えられ、さらに容保の媒酌で旧会津藩士の娘、高木時尾と結婚。
警視庁、東京教育博物館看守、剣道師範、女子高等師範の書記などを勤め、71歳(72歳とも?)で亡くなりましたが、なぜか床の間にきちんと正座したまま息を引き取ったそうです。

新選組は本当の武士を目指した者たちの集団だったのではないかと思います。戦いに生きる武士らしい死に様は、戦いに散ること、もしくは切腹・・・と言ったら言い過ぎかもしれませんが。
試衛館メンバーの中で、近藤勇は斬首、沖田総司は病死、戦いで命を落としたのは土方歳三、藤堂平助、原田左之助(生き延びて満州に渡り、馬賊になったと言う説もありますが)、井上源三郎。
そして切腹したのは山南敬助のみ。
永倉新八、そして斎藤はいわゆる天寿を全うしたわけですが。
斎藤の正座したままの死と言うのは、どこか切腹の姿勢を彷彿させます。
あくまでも武士としての毅然とした死でありたいと願ったのかもしれない、と・・・
ちなみにこの年、大正4年が奇しくも同じ新選組の生き残り、永倉新八の亡くなった年でもあったと言うのは因縁を感じますねえ。

会津での戦いで、おそらくは死をも覚悟したであろう斎藤一。はたして生き残ってしまったことを、彼はどう思ったのでしょうか?
後に何者かによって危ない目に遭わされた時、裏切り者としての汚名を着たまま生きなければならないことがつらくはなかったのでしょうか?
その点は想像するしかありませんが、斎藤一と言う人はもしかしたら運命を、目の前に敷かれた道を、ただ黙々と歩き続けた人だったのかもしれない。
戦いの場では、余計なことを考えず全力で戦い抜く。恩義は決して忘れず、自分を信頼してくれた人から任されれば、どんな仕事でも確実にこなす。
大河ドラマの中でオダギリ・ジョーさん演じる斎藤一が、使命を課せられた時、ひとこと「承知」とだけ言って仕事に赴く姿が目に浮かびます。
生き長らえた中で、生涯の伴侶とも出会い、新しい仕事にも就き、またひたむきに自分の道を歩いたのだと思いたい。
謎の多い人物と言われる斎藤一。
きちっと姿勢を正し、まっすぐな鋭い目を光らせた無口な剣士の姿が、私の目には浮かびます。


平成17年3月1日
                                                        
翠蓮