今月の「いにしえ人」
                                    
―姜維―


如月、

今月は管理人の誕生月と言うことで(笑)、贔屓の人物を選ばせて頂きました。
いえ、一応は梅に似つかわしい人物、と言うところでもいいかなと思ったのですが。
中国は三国時代の武将、姜維(きょうい)、字は伯約(はくやく)。
聡明にして武力にも長けた、一途なる武将。
無骨な枝に香り高き花を咲かせる梅とも、私的にはイメージは近かったりします。

「三国志」には、あまたなる魅力ある人物が登場しますが、残念なことに後半になるに従い、国の基盤を為した大物たちが亡くなって行き、話自体も寂しくなって来てしまいます。
劉備が長い不遇を経てようやく我が国とし皇帝となり、諸葛亮が命を削る思いで守り続けた蜀。
その蜀も、劉備の義弟であった関羽、張飛が、そして劉備が相次いで亡くなる辺りから、人材が心細くなってきます。
それだけに、諸葛亮は無理を重ねずにはいられなかったのだろうと想像されます。
そこに颯爽と登場するのが、姜維。
諸葛亮にその才を認められた若き逸材、ひたすら蜀のために戦うことになります。
そう、吉川英治さんの書かれた「三国志」で初めて物語の舞台に登場した姜維は、なんとも初々しくも麗しい、しかも腕の立つ若武者でしたねえ(笑)

姜維は、もともと魏の国、天水郡冀県の人。つまり姜維にとって蜀は敵国と言うことになります。
ちょうど諸葛亮率いる蜀軍が近くに攻め込んできた時、天水の太守は巡察に出かけていて、姜維たちも随行していました。
太守は、押し寄せてくる蜀軍に諸県も呼応していると聞き、姜維らも異心を抱いているのではないかと疑い、夜半逃亡して立てこもってしまいます。
追いかけた姜維らが辿りついても城門は開かず、仕方なく冀県に戻りますが、そこでも入れてもらえず・・・
疑いを解こうにも、閉め出されたまま話も聞いてもらえないのではどうしようもない。さぞ口惜しかったことでしょう。
行き場のなくなった姜維は、諸葛亮のもとへ赴いたのでした。

なぜ、姜維はその選択をしたのか? なんとか誤解を解く努力もできなくはなかったのではないか?
確かにそんな疑問はあります。敵国に降ると言うことは、ある意味裏切りにもなりますから、誠実な武将であればあるほど苦しい選択のはず。
そこに至るには、いかに天水の太守に失望したか、さらに噂に聞く諸葛亮の人となりに、もしかしたら姜維はひそかに憧れを持っていたのでは・・・とこれは私の想像ですが。
国や立場を超えてその人物に惹かれたり、巡り会ってしまったり、それこそが運命なのかもしれません。

小説では姜維の人物に惚れこんだ諸葛亮が、あの手この手を使い、わざと姜維の行き場をなくして、思惑通り我がもとへと赴かせ、にんまりすると言う、今考えるとなんとも人の悪い役どころとなっていますが(笑)
実際には、仕方なく投降してきた姜維をなかなかの人物と認め、蜀へと率いて帰還したのでしょう。
タイミング的には、諸葛亮がそれまで目をかけていた若き武将馬謖(ばしょく)が、諸葛亮の言いつけを守らなかったために、街亭(がいてい)で敗北してしまったことも、影響したのかもしれません。
諸葛亮は自分の後を継ぐべき若い人材を、なんとしても育てたかったのでしょうね。
この時、姜維は母を冀県に残してこなければなりませんでした。
幼い時に父は戦場で死亡し、母と暮らしていたと言う姜維、さぞかしつらかったのではないかと推測されます。時に、姜維27歳。

諸葛亮は、姜維のことを褒め称えた手紙を何人かに書き送っています。
「与えられた仕事を忠実に勤め、思慮精密である。軍事に敏達していて度胸もある上、兵士の気持ちを深く理解している。漢室に心を寄せ、しかも人に倍する才能を有している」などなど・・・
この中の「漢室に心を寄せ」ていると言うのは、蜀の人となるための大きな決め手だったかもしれません。
なにしろ、漢室復興が亡き皇帝劉備の旗印だったのですから。

こうして蜀の国へと来た姜維は、諸葛亮亡き後もひたすら戦いに明け暮れることになります。
姜維の戦いぶりについては、まさに獅子奮迅・・・ですが、それは必ずしも周りから認められていたとも言えないところが哀しい。
考えてみれば、大国である魏との戦いは、諸葛亮をもってしてでさえ苦戦の連続でした。
なぜそこまで?とも思えますが、やはり後の憂いを無くするために、諸葛亮にとってはおそらく自分の死後の蜀を安泰にしたかったのかと思えますが、魏に勝たなくてはならなかった。
けれど、諸葛亮は戦いの半ば、五丈原で斃れます。
姜維は、その遺志を継がなくてはと思ったのでしょう。

結果的に戦いはなかなか思うようには行かなかった。
姜維に向かって「われわれは丞相(諸葛亮)にはるかに及ばない。その丞相でさえできなかったことを、われらに至っては問題にもならない」と諭し、戦いをいさめた者もいたようです。
それでも戦い続けた姜維。
もともと魏の生まれである姜維が、連年戦いながらも功績を立てられなかった間に、成都の宮中では宦官らが権力をわがものとしていました。これこそ、おそらく諸葛亮が一番望まなかったことだったのではないかと思いますが。
宦官の一人は右大将軍と結託して、ひそかに姜維を廃しようとしていました。
それを危惧していた姜維も、成都には帰還しなかった。
それが果してよかったのかどうか・・・いえ、きっと姜維の立場ではどうしようもなかったのではないかと思わざるを得ません。
結局、姜維が外で苦戦しているうちに、抜け道を通った魏の武将が進軍し、後主(劉備の息子劉禅)が降伏を願い出たため、成都は占領されてしまいました。
事実上、ここに蜀は滅亡したわけです。

姜維は、その時戦っていた相手、魏の鐘会(しょうかい)のもとへ、武器を捨て出頭します。
この辺りが少々微妙なところなのですが・・・
鐘会と言う人は姜維の才を認め、戦っている最中にも書面を送ったりしていたようです。
姜維がついに鐘会のもとへ来た時にも手厚くもてなし、姜維を率いて成都に至り、反旗を翻します。
これに関しては、鐘会がひそかに魏への反逆の意図を持っていたのを姜維が見抜き、騒乱させることによって蜀の復興を図ろうとしたとか、姜維が鐘会をそそのかして魏の諸将を誅殺させ、その後鐘会をも殺して蜀を復興させるつもりだったとか、諸説さまざまです。
いずれにせよ、姜維はその時点でもまだあきらめていなかった?
投降したものの、その相手をも利用して、なんとか巻き返しを計ろうとしていたのかもしれません。蜀を復興させるために・・・
そして、それは叶わず、鐘会も姜維も魏の将兵に無惨に殺されてしまいます。

最後の最後まで戦い続けた姜維。
彼に対して批判があるのは確かです。中には、軍勢を軽々しく扱い、むやみに外征を繰り返し、身の破滅を招いたとの、かなり辛辣な批難も浴びせられています。
蜀が滅亡した時に死なずに、鐘会の乱で死んだことに対し、いわゆる死に場所が違うだろうとの声もあるようです。
逆に、機会に恵まれず失敗したとは言え、決して姜維に勝機がなかったとは言えないと言う意見や、粗末な家に住み、余分な財産も持たず、学問を好んだ清潔で質素、己を抑制した人物だったと言う評価もあります。

姜維の生き方は、決して器用とは言えないでしょう。
頑ななまでに自分の信念を貫いてしまった。
それは、もしかしたら諸葛亮に見出された時から定められた運命だったのかもしれない、と私には思えます。
帰る場所をなくした自分を受け入れ、認め、蜀で生きるための立場を与えてくれた諸葛亮。
病の身体に鞭打っても戦場に立ち続け、ついには志し半ばで戦場に散ってしまった恩ある人のために、自分ができることは同じように魏に立ち向かうことだけ。
戦えるうちにそこから逃げることなど、姜維には考えられなかったのではないでしょうか。
成都が陥落してしまった時でさえ、まだどこかに望みがあるかもしれない、そう思って鐘会と行動を共にした。運命は姜維に最後の逆転を許しませんでしたが・・・

後腐れ無く、ぱっと美しく散り行く桜と違い、梅は花が朽ち果てるまで、枝にしがみついている。
その散り際は決して潔いとは言えないかもしれません。
けれど、たとえ無様に見えてしまったとしても、ぎりぎりの最後まで自らの生き様に執着することも、またひたむきな人生と言えるのではないかと思います。
そして、凛として咲き誇っていた時の薫り高さを、人は決して忘れない。
そんな梅の様と姜維の面影を、ふと重ねてみたくなるのは、私だけでしょうか。


平成17年2月1日
                                                        
翠蓮