葉  桜



西本願寺境内の、すでに青々とした葉に覆われた桜の樹の下に、二人の青年の姿があった。
一人はひょろりと背が高く、もう一人は小柄である。
「平助、どうしても、行っちゃうのか」
新緑の枝を見上げて、沖田総司はため息をついた。
「うん、もう決めた。伊東先生について行く」
くりっと目を輝かせて、藤堂平助はきっぱり告げた。


総司と藤堂は、同い年で、江戸の試衛館の頃から仲がよかった。
常に年長者の間にいた総司にとって、藤堂は唯一、気兼ねなく言いたいことを言い合える相手だった。
その藤堂が、新選組の屯所を出て行くと言うのだ。
思えば、ことの始まりは、二年半も前になる。

すでに正規の幕臣としての地位を確立していた新選組は、更なる戦力の拡大を計るため、江戸で人材を募ろうとしていた。
自ら江戸へ赴こうとしていた局長、近藤勇に先立って江戸へ下った藤堂は、かつての剣の師でもあり、文武両道の達人と言われた伊東甲子太郎を、勧誘したのだった。

伊東の一派の入隊は、近藤の歓迎するところとなった。
ただし、最初の頃だけ。なぜなら、伊東の思想はあくまでも、尊皇攘夷。
いつのまにか幕府寄りとなっていた新選組とは、相容れるはずもない。
双方の間に流れる不穏な空気は、徐々に濃さを増していった。

そして、ついに伊東たちは、穏便なる離脱を試みた。
脱退は許されない新選組。ならば「分派を」と、先帝の御陵を護る衛士となり、別個に動きたいと願い出たのだ。
詭弁を弄した伊東の言い分だったが、近藤や土方はそれを認めた。
おそらく、引き止めることの無駄を感じたのだろう。
そして、その離脱組の中に、藤堂もいた。
思想だ、派閥だと言ったことには、とんと関心のなかった総司だが、藤堂が新選組を離れることは、どうにもやりきれなかった。


まだ美少年と言っても通りそうなほど、藤堂の顔は、若々しい端正さを備えている。
そんな藤堂の顔に、目を移し、
「平助が行っちゃうと、稽古の相手がいなくなる」
総司は、恨めしそうに、ぼそっとつぶやいた。
小柄だが敏捷で、なんとも小気味いい剣の腕を持つ藤堂は、総司の格好の稽古相手でもあった。

あはは、と藤堂の笑い声が響く。
「なんだよ、自分の稽古が困るからか? ひどい奴だなあ」
「だって・・・、斎藤さんも行っちゃうって言うし」
総司は、ますます拗ねたように、むすっとして見せる。

そう、なぜか斎藤一も、伊東たちと一緒に行くことになったのだ。
もっとも、それは何か事情がありそうだと、総司にも見当はついていた。
斎藤が、伊東たちと思想を共にするとは思えなかったからだ。
一匹狼のように見えて、実は斎藤は、近藤や土方からの信頼が厚かった。
きっと裏に何かあると思い、総司は斎藤には、伊東たちと行くことについて、何も訊ねなかった。


「永倉さんに頼めばいいじゃないか」
藤堂の口調は、明るいままだ。
「永倉さんは、自分が負けるとムキになるもの」
まるで、駄々っ子のように、総司は食い下がる。
「平助がよかったのになぁ。気持ちよく勝たせてくれるし」
「こいつ・・・。誰が気持ちよく負けてやってなんかいるものか」
総司を小突くふりをして、笑う藤堂のまなざしにも、ほんの少し寂しさが混じる。
それに気づいた総司は、また切なくなる。


わかってはいるのだ。
藤堂が、新選組と袂を分かつ決心するまで、どれほど悩んでいたか。
もともとは、伊東の教えを受けていた藤堂が、近藤勇と言う人物に心酔して、試衛館に居つくようになり、自分たちの仲間となり、共に京へ上った。
育ちの良さを感じさせる素直な朗らかさと、自分なりの思想をしっかり持った聡明さは、誰からも可愛がられた。
小柄できびきびした藤堂と、背が高く呑気な総司が一緒にいると、でこぼこ加減が面白いらしく、よくみんなにからかわれたものだ。


そんな藤堂が、いつからか、考え込むことが多くなったことに、総司は気づいていた。
藤堂の中には、意外なほど強く、尊皇攘夷の思想があったのだ。
けれど、新選組の現実の立場は、むしろ佐幕である。
さらに、二年前、隊を脱走しようとして切腹させられた山南敬助のことも、藤堂の瞳を翳らせる大きな原因だっただろう。

同じ北辰一刀流の先輩でもあった山南のことを、藤堂は、まるで兄のように慕っていた。
やはり尊皇攘夷思想の山南も、今の藤堂と同じように、自分の理想と新選組の実態との食い違いに、一人深く悩んでいた。
そして、ついに隊を脱走するに至ってしまったのだ。
その山南を、むざむざ死なせたことで、近藤や土方への不信感が募ったとしても、無理はないかもしれない。

もちろん、山南の死は、総司の心にも傷を残した。
それが近藤の命令だったとしても、脱走した山南を追いかけ、連れ戻したのは総司だ。
そして、山南自身のたっての願いで、山南の介錯をしたのも総司だった。
もしかしたら、藤堂は自分をも恨んでいるのではないか、と思ったこともあった。けれど、しばらくして落ち着いてきた藤堂は、それまでと変わりなく、総司に接してくれた。
苦しんだ末、何かを割り切った、総司にはそんなふうに感じられた。

自分に対しては、態度を変えなかった藤堂だが、近藤や土方に対しては、どこかよそよそしくなっていたことも、総司は気づいていた。
たとえ、「局を脱するを許さず」と言う法度があったとしても、近藤たちなら、山南の命を助けることは、できなくはなかったはずである。
それをしてくれなかったことで、藤堂の中のわだかまりは、容易に消せなかったのだろう。
近藤たちとは思想を異にする伊東に、ついて行くと決めた藤堂を責めることは、総司にはできなかった。


納得していたはずだったのに、やはり寂しさが隠せず、つい子供っぽいことを言ってしまった自分が、総司はふいに恥ずかしくなった。
「ごめん、平助」
素直に、謝りの言葉が出た。急にしおらしくなった総司に、藤堂は慌てた。
「な、なんだよ、気味が悪いな」
わざと、いたずらっぽく言い放つ。
「安心しなよ。これからは、一番乗りの名誉は、総司が独り占めだ」
闘いになると、いつもみんなに先駆けて、勢いよく突撃する藤堂のことを、隊士たちは尊敬をこめて、「魁(さきがけ)先生」と呼んでいたのだ。

「ホントは私より先に駆けようと、いつも必死になっていただろう」
藤堂の声が、笑いを含む。
「そんなこと・・・、別に一番乗りなんか、張り合ってないさ」
総司もつられて言い返す。そして、
「だって、腕じゃ負けないからね」
強気に、にっと笑ってみせる。
「おっ、言ってくれるじゃないか、この負けず嫌いが!」
「平助こそ!」
お互い、いつも通りの、気のおけない憎まれ口になっていることに気づき、顔を見合わせて、笑い出した。


散々笑い合い、それがおさまると、総司の中に再び、しんと切なさがこみ上げてきた。
聞いても詮無い、いや、聞くべきではないと思いながらも、言葉に出さずにはいられなくなった。
「平助、近藤先生や土方さんを、その・・・、恨んでいるのか?」
藤堂は、きれいな二重瞼の目を、少し苦しそうに細めた。
「それは・・・、言いたくない。ただ、今の新選組は、私の目指した場所ではないんだよ。いつからか、何かが違ってきてしまった」
そう言って、もどかしそうに、かすかに首を振った。

「そうか」
総司も、力なく頷く。
同じようなことを、山南が言っていたのを、ふと思い出した。
(今の新選組には・・・、もう、私の居場所など、ないのではないかね)
そうつぶやいた、山南の哀しそうな目が蘇り、総司の胸を軋ませた。
同時に、黒雲のような不安が湧き上がってきた。


なんだか、いやな予感がする。
引き止めるべきなのではないか。
このまま、藤堂を行かせていいのだろうか。
伊東甲子太郎と言う人物を、総司はどうも信じられなかった。
思想は立派なのだろうと思う。剣術も見事だと聞く。
けれど、取り澄ました物言いや、うっすらと冷たいまなざしに、どこか胡散臭いものを感じていた。


総司は、またしても、聞いていいのか迷いながら、口に出した。
「平助、伊東先生と言う人を、本当に信じている?」
藤堂の瞳に、きらりと怒りのようなものが燃えた。
「伊東先生は、すばらしい思想を持っていらっしゃる!」
「思想はわかるよ、でも、そういうことじゃなく・・」
「私は、伊東先生を尊敬している!」
総司の言葉を遮るように、藤堂はきっぱりと言い放った。
これ以上踏み込むな、と拒絶されたような気がして、総司は、言おうとしていた言葉を呑み込んだ。


二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
互いに、気づかないふりをしていた溝が、無残に表面に現れてしまったことに、戸惑っていた。
何のわだかまりもなく、ふざけあっていた頃が、ひどく遠い昔に思えた。
さわさわと、二人の頭上で、桜の枝が風に揺れている。

先に、言葉を発したのは、藤堂だった。
「総司は強いよな。何があっても、揺るがない。きっと、どこまでも近藤先生や土方さんに、ついて行くんだろうな」
ひどく大人びたような、憂いを含んだ声。
それは、はたして強いと言うことなのか?と、心の中で問いかけながらも、
「そう決めて、ここまで来たからね」
総司も、せいいっぱい落ち着いた声で答えてみせた。


もう、道は完全に分かれてしまった。元には戻らない。
痛いほど、そう感じた。
藤堂は、自分の進む道を選びとったのだ。
たとえそれが、今までの仲間との決別だったとしても、自分の信じる方へ進むしかない。
思えば藤堂は、自分などよりずっと、様々なことを学び、考え、悩んできたのだろう。その末に、出した答えだ。
ならば、総司にできることも、また決まっていた。
総司は、もろもろの思いをぐっと飲み込むと、藤堂に笑顔を向けた。


「平助、無茶だけはするなよ」
総司の言葉に、藤堂もいつもの明るい声を返した。
「おまえが言うかぁ? まったく怖いもの知らずが」 
だが、すぐに真面目な調子で、付け足した。
「総司、ちゃんと医者に通えよ。おまえ、顔色よくない」
「地黒なんだよ」
「ばか、真面目に聞け! 忘れずに薬を飲んで、具合悪い時は休むんだぞ」
形のよい眉を吊り上げて、すごんでみせる藤堂に、総司は思わず素直に、うんと頷いた。
「わかった。気をつける」


藤堂は、ふと頭上の枝を見上げた。
「来年の桜、どこで見ているかな、私は」
総司には、答えられなかった。知るよしもない。
自分は、ここに残るのだ。とは言え、来年の桜を、またここで見られると言う保障など、自分自身にすらない。
ましてや、藤堂は・・・
いや、総司は、何も考えまいとした。
先を考え始めれば、悪いことばかりを想像してしまいそうだったからだ。

こうして、袂を分かつこと、それはもしかしたら、永遠の決別を意味しているのではないだろうか。
近藤と伊東が、この先、再び手を取り合うなど、あり得ない。むしろ・・・
不吉な思いを、総司は慌てて振り払った。
今は、何も、考えまい。
ただ笑って見送ろう、藤堂を。
いつも一緒だった、大切な仲間を。


総司は、この京のどこかで、来年の桜を見上げているであろう藤堂の姿だけを、必死に思い描こうとした。
端正なその横顔には、満開の桜が、さぞ似合うことだろう。
さわさわと風が通り過ぎ、頭上の緑葉がきらめいた。

運命は、二人の青年を、かろうじて平穏の中に置いてくれている。
今は、まだ・・・。


 <完>