葉  桜  

    −其の弐−



「そろそろ部屋に戻るかな。片付けなきゃならないこともあるから」
藤堂平助は、そう言って、うーんと大きく伸びをした。
そのままのんびり歩き出し、ふと振り向く。
「あれ、戻らないのか、総司?」
沖田総司は、小さく笑って
「うん、もう少しここにいようかな。風が気持ちいいから」
とつぶやいた。


頷いた藤堂の背中が遠ざかるのを見送る。
頭上の葉桜の間を、風が吹きすぎる。藤堂に言ったこととは裏腹に、その心地よい音が逆に、総司を落ち着かなくさせた。
新しい道を選んだ藤堂が、寂しさを漂わせながらも、どこか誇らしげに見えたことに、自分の気持ちが沈んでいることに気づいた。

自分は、大切なことを何も考えていないのではないか。
世の中の流れや、これから先のこと。自分の身体のことも。
いや、考えることを避けているのだろうか。
力みを捨て、流れに自然に乗ること。自分の気持ちを、無理に捻じ曲げたり、暗い方へ追い込んだりしないこと、そう思って生きてきた。

もともと、あれこれ考えるよりは、身体を動かしていた方が性に合う総司ではあったが、今日は珍しく、そんな自分が心もとなく思えた。
悩んでも仕方ない、とわかっていながら、すっきり割り切れない。
いつのまにか、葉を茂らせる桜の木の下に座り込み、地面に目を落として、ぼんやりしてしまっていた。


       ******


ぽとり、と何かが肩に落ちた感触で、我に返った。
首を巡らせて、着物の肩先を見る。
「う、ひゃぁ〜〜!」
思わず、情けない声が出ていた。
黒々とした毛虫と目があった・・・気がした。
ぞわっと、寒気が走る。
総司は、慌てふためいて立ち上がり、ぶんぶんと肩を振って、必死に毛虫を払い落とすと、飛び退るように、桜の木から離れた。

犬が濡れた身体から水を弾き飛ばすように、ぶるっと大きく背中を震わせると
顔をしかめた。
「どうして落ちてくるんだよ、わざわざ人の上に」
動物や虫は好きな総司だったが、毛虫だけは苦手だった。
そう言えば、小さい頃に、やはり桜の木から落ちてきた毛虫に刺されて、かぶれたことがあった。


嫌な記憶が蘇り、小さく身震いしていると、
「へえぇ、沖田さんでも苦手があるんだな」
いきなり、桜の木の反対側から、声がした。
ぎょっとした総司の前に、のっそり現れたのは、斎藤一だった。


伊東甲子太郎率いる一派が、新選組から分派するにあたり、一緒に屯所を出て行く者の中に、斎藤も含まれている。
そのことに関して、総司は斎藤に、何も聞こうとしなかった。
薄々、内情を察していたせいもある。
特に避けていたわけではないが、考えてみると、そのことを聞いて以来、斎藤とゆっくり話す機会はなかった。

その斎藤が、よりによって、こんな時に現れたのだ。
いつも通りの無表情を装っているものの、笑いを懸命にかみ殺していることは、口元が、かすかにひくついていることで知れた。


「あ〜、斎藤さん、ひどいなあ。笑ってたでしょ」
「いや、笑ってなんか・・・」
そう言いかけて、こらえきれずに斎藤は、ぷふっと噴き出した。
「斎藤さん、正直すぎ!」
総司がふくれて見せる。
めったに声をたてて笑うことのない斎藤だが、総司の様子があまりにも子供っぽくて、可笑しかったのだろう。
ははは、と明るい笑い声を響かせた。
「またみっともないとこ、見られちゃった」
がっかりしたような総司に、斎藤は、まだ口元の笑いを消せぬまま、
「誰にでも、苦手はあるさ」
と、とりなすように言った。

「斎藤さんて、どうしていつも、思いがけない時に現れるんです?」
総司の声は、まだ不服そうだ。
ようやく笑いを収めた斎藤は、いつものぶっきらぼうな調子に戻り、
「たまたま外から戻っただけだ」
総司は、そんな斎藤を、ちろっと横目で見る。
「わざわざ、門からこの木まで遠回りして?」
「いや、それは・・・」
斎藤は言葉に詰まり、顔をしかめたが、仕方なさそうにぼそっと告げた。

「あんたがいるのが、見えたから」
「それで、私が大騒ぎしているのを、面白がってた」
総司は、軽く斎藤を睨む。
「いや、そうじゃなくて・・・、びっくりしただけだ。いきなり、その・・・飛び上がるから。面白がってなんか・・・」
斎藤は、しどろもどろに言い訳する。
焦ると、言葉を継ぐのが、どうも不器用になる斎藤だった。。

「その・・・、悪かった。笑ったのは、つい・・・いや、その、思いがけなかったからであって・・・」
苦虫を噛み潰したような顔で、ぎこちなく詫びる斎藤の様子に、総司はくすっと笑うと、あっさりと明るい声を返した。
「わかりました。で、私に何か用でしたか?」


斎藤は一瞬、え?と言う顔になり、すぐにほっとしたように、
「いや、用と言うよりも・・・」
少し、考えるように間をおいてから、
「俺に、何か言いたいことがあるんじゃないかと思ってね」
そう言って、まっすぐ総司にまなざしを向けた。
「え?」
総司は、不思議そうな顔をする。
「言いたいことって?」
総司のあっけらかんとした様子に、斎藤はいささか、がっかりしたような声を出した。
「なんだ、ないのか」
ばつが悪そうに、視線を逸らすと、無愛想に、
「それならいい。邪魔したな」
そう言って、さっさと歩き出そうとした。


「あ、待って下さい、斎藤さん」
総司は、斎藤を引き止めると、少し迷ってから、
「あの・・・、くれぐれも、無茶だけはしないで下さいね」
斎藤は振り向きざま、思いきり眉をしかめた。
「あんたに言われるとはなぁ」
「えぇ〜〜っ!」
総司は、またもや不服そうな声をあげた。
「なんで同じことを、平助と言い、斎藤さんと言い・・・、ひどいなあ」

斎藤は、きょとんとして、総司を見遣り
「藤堂さんにも、同じことを言われたのか?」
そして、やれやれと言うように、首をすくめてみせた。
「無理もないな。あんたの無茶は、みんな認めてる」
「何言ってるんですか。今回は、斎藤さんの方が、よほど無茶ですよ」


総司の言葉に、斎藤は、にやっと凄みのある笑いを、頬に浮かべた。
「なるほど、俺の事情はわかってるらしいな」
総司は、かすかに眉をひそめる。
「知りませんよ、何も聞いてないし。ただ、想像しているだけです」
「たぶん、合ってるよ、その想像は」
総司は、小さくため息をついた。
「やっぱりね」


斎藤が、藤堂たちと一緒に、伊東甲子太郎について行くのは、やはり、土方に何か言い含められているらしい。
おそらく、密偵のような真似をすることになるのだろう。
きな臭さが、総司の不安を煽ったが、かと言って、口出しできることではなさそうだった。

斎藤は、総司に横顔を向けたまま、低い声で言葉を継いだ。
「あんたはわかってるだろうと思っていたさ。そのことについてはいい」
そして、総司に視線を戻すと、表情をやわらげた。
「俺が、言いたいことはないのかと聞いたのは・・・、藤堂さんのことだ」
「え、平助のこと?」
総司の驚いた顔に、斎藤は少し照れたように
「いや、気がかりだろうと思って・・・。何かできることはないかと、な。
まあ、いらぬお節介だろうが」
そう言うと、ぽりぽりと首筋を掻いた。

総司は微笑んだ。
斎藤らしい。無愛想に見えて、意外なほど細やかな気遣いをしてくれるのだ。
「すみません、気を使ってもらって。でも、もういいんです。平助は、ちゃんと自分の考えを持っているから」
総司の声が、ふいに寂しげに沈む。
「私には、何も言えないんだ、もう」
ぽつりと言って、俯いた。
「そうか、ならいい」
斎藤は、あっさりと頷いた。


「あんたは、人のことより、自分の身体を大切にしろよ。どうも、顔色が冴えないし」
心配そうな斎藤の声に、
「地黒なんですよ。って、またかぁ。あははは・・・」
総司は、むすっとした口調から、いきなり笑い出した。
どうやら、またもや自分は、藤堂に倣ってしまったらしい、と斎藤は察した。
「二人して、同じことばかり言わせないで下さいよ」
可笑しそうに、総司は斎藤に笑顔を向けた。

それは、みんな同じように心配しているからだ、と言おうとして、斎藤は思い留まった。
言わなくても、わかっているだろう。いや、わかりすぎているはずだ。
それでも、総司は認めようとはしない。自分の体調の悪さなど、決して。
(何もできないのは、俺たちの方だ)
だから、せめて総司の気がかりを、少しでも軽くしてやりたかった。
けれど、それすら、すでに藤堂と話して、納得しているのだろう。
どんなしがらみも、気がつけば、すり抜けている。
とらえどころがない風のようだ、と斎藤は、総司のことを思った


「また、会えますよね、斎藤さんには」
総司の声に、斎藤は顔を上げた。
いつも通りの、のどかな様子の総司がいた。
「たぶん、な」
何か、報告すべきことができれば、きっと自分は戻るだろう。
伊東たちのところから、この新選組へ。
ただし、それはどう考えても、よい報告であるはずがない。
自分が戻る時は、ひと波乱起こることを意味する。

「じゃあ、その時まで、稽古はおあずけにしておいてあげますよ」
そう言って、総司はにっと笑った。
「だから・・・、必ず、戻ってきて下さい」
斎藤は頷いて、眩しそうに目を細めた。
強いな、と思った。
何が起ころうと、覚悟はできているのだろう。
その上で、自分に戻ってこいと言う。

運命は、どう転ぶかわからない。誰にしても。
どんなことにぶつかっても、ぶれないでいることを、総司は自分に課しているのかもしれない。
自信があるのか、ただ何も考えまいとしているのか、傍からは窺い知れない。
相変わらず、不思議な男だ、と斎藤は思った。



「さて、俺はそろそろ部屋へ戻るが」
斎藤は、片頬に笑いを浮かべた。
「どうする、沖田さん? まだ毛虫と遊んでいるか?」
ぎょっとしたように、総司が桜の木を振り仰いだ。
大きく張り出した枝からは、数歩離れていたが、ぶるっと肩を震わせる。
「なんてこと言うんですか。戻りますよ、もちろん」
言うが早いか、大またに歩き出した。
ふふっと笑うと、斎藤も後に続いた。


「葉桜には要注意、だな」
「言われなくても、わかってます!」
肩を並べた二人の影が、傾きかけた陽射しの中に、長く伸びている。
春は、すでに次の季節に移り行こうとしていた。





 <完>