<その四>


「どうして、ここに?」
困惑と不信感の入り混じったような声音で、総司が問いかける。
表情も硬い。
偶然、などと言うふざけた言い訳が通用する相手ではない。
「すまない!」
気がついた時には、斎藤は総司に向って、深々と頭を下げていた。

まさか、いきなり目に前に総司が現れるなど、予想もしていなかっただけに、珍しく動顛している。
総司の心のうちを覗き見してしまったようで、後ろめたい気持ちになっていたことも確かだった。
頭を下げたままの斎藤の耳に、まいったな、と小さくつぶやく声が聞こえた。


「とにかく・・・、まずは頭を上げて下さいよ、斎藤さん」
困ったような総司の声に、斎藤は頭を上げた。
苦笑いを浮かべた総司は、ふっと息をつくと、
「さっき、診療所から出てきた時、人影がここにさっと引っ込んだんで、気になったんです。もしかしたら、刺客かと・・・」
そう言って、軽く斎藤を睨む真似をする。


(迂闊だった・・・)
新選組は普段から、不逞浪士の取り締まりや、長州藩士の探索を行っている。
町中を巡察する時、不自然な行動をする者が、まず目に留まるのだ。
こちらの姿に気づき、急に視線を逸らす者、方向転換する者、物陰に隠れる者。
総司は特に、そう言った者たちに対して、目が利いた。
あの時、物陰から出かけて、慌てて引っ込んだ、そんな自分の一瞬の動きに気づいていた。
さすがだな、と斎藤は舌を巻いた。


「すまなかった」
もう一度頭を下げた斎藤に、今度はからりとした笑い声が降ってきた。
「よかったですよ、斎藤さんに斬りかからなくて」
総司は、さて、と周りを見渡すと、
「屯所に帰るんでしょ。とにかく歩きませんか。こんなところで話し込んでたら、目立ってしまう」
のんびりした様子で、歩きだした。
斎藤もそれに並ぶ。



池田屋騒動以来、新選組も一目置かれるようになり、その分、長州勢からは目の敵にされていた。
新選組隊士と知って、襲われた者もいる。
総司の言う通り、幹部二人が、町中で長々と立ち話など、避けた方がいいに違いない。
歩きながら、総司はさりげなく切り出した。
「土方さんでしょ、こんなこと命じたのは」
「ああ」
斎藤の短い答えに、総司は大きく溜息をついた。
「あいかわらず心配症だなあ、土方さんは。あんまりうるさいから、医者に通ったのに、それで逆に心配するなんて」
あっ、と斎藤は言葉を呑みこんだ。
そうか、自分の身体を心配して、土方が斎藤に探らせたと思っているのだ。


どうしたものか・・・
正直なところを打ち明けたほうがいいのだろうか。
だが、それはより総司を憤慨させるのではないかと、斎藤は危惧した。
総司にとって、あの娘との係わりはとても大切なものだったろう。
大切に、そっと育みたかったもの。
なのにそれを探り、覗き、さらにあきらめろと忠告しようとしている。
斎藤は、あらためて自分の任務の重さを痛感した。


「ちゃんと医者に行って、薬も飲んでいるから、大丈夫です! って、報告して下さいね」
明るい声で言って振りかえった総司は、斎藤の浮かない様子に気づくと、怪訝そうな顔をした。
「斎藤さん?」
ああ、と気のない返事をした斎藤は、眉をしかめたまま、ぼそりと言葉を落とした。
「違うんだ」
「え?」
きょとんとする総司の様子に、斎藤は覚悟を決めた。
「すまない! 探っていたのは別のことだ。その・・・、さっきの・・・」
ハッと、総司が息を呑む気配がした。
浅黒い頬が、かすかに上気する。


「まさか・・・、佐絵さん・・・のことを?」
娘の名を口にする時の声が、ほんの少しだけ上ずる。
そう、佐絵と言う名だったな、と斎藤は今更のように、その響きを反芻した。
覚悟を決めて、頷く。
すると、総司は小さく首を振り、無言で足を速めた。
あっと言う間に距離が空き、斎藤は慌てて後を追う。


怒ったのかもしれない。
無理はない、と斎藤は思った。
自分だとしても、きっと気分を害する。
言い訳の仕様もない。
ただ、これでもまだ任務中だ。娘の婚約のことは確かめなくてはならないだろう。
総司が知らないなら、告げて、説得する。
そこまでが、土方が自分に期待した仕事なのだ。


だが、ずんずんと先を歩いていく総司の背中は、斎藤に声をかける隙を見せなかった。
もしかしたら、もう今までのように、親しげに話してくれないかもしれない。
それほど、嫌な思いをさせたのだろう。
土方のせいではなく、自分のやり方がまずかったからだと、斎藤は自分を責めた。
総司の数歩後ろを、ひたすら歩き続ける。



やがて、屯所にほど近い川べりの土手道に出た。
いきなり総司が振り向き、
「斎藤さん」
と、声をかけた。
はっとして、斎藤は足を止めた。
「少し、付き合ってくれませんか」
いつもと変わらぬ口調で、そう言うと、河原に向かって、土手を降り始める。
総司の意図は掴めぬものの、斎藤は後に続いた。


ゆるゆると流れる川に、傾きかけようとする陽射しが反射している。
総司は、のんびりした様子で、河原に腰を下ろした。
斎藤も、それに倣う。
川面が眩しいと思った。
総司も眩しいのか、目を細めて川を見ている。
しばしの沈黙。
川を渡る風が、少し肌寒く感じられる。



ごそごそと、総司が懐から何かを取り出した。
布に丁寧に包まれた、手のひらに乗るくらいの大きさのもの。
布を開いて、すっと、斎藤の方に差し出す。
それは、丸く赤い珠がついた、かんざしだった。
くっきりときれいな色合いの赤、上物の珊瑚に違いないと斎藤は踏んだ。
慣れない小間物屋で、照れくさそうにかんざしを選ぶ総司の姿が目に浮かぶ。


「これをね、ずっと持ち歩いていたんですよ。いつか渡せるかなと思って」
何気なさそうに、総司は話す。
「ばかみたいでしょ」
自嘲気味に、くすりと笑う。
「いや、そんなことは・・・」
断じてない、と言おうとして、力なく言葉が消える。
替わりのセリフが浮かぶ。
(許嫁がいる娘なのだ、あきらめてくれ)
声には出てこない。
いや、だめだ、言わなくてはと身構えた矢先だった。


「渡さなくてよかった。困らせるところでした」
総司は、そう言って、かんざしを指先でくるくると回した。
「お嫁入りが・・・決まっているんですもんね」
斎藤は、ぎくりとした。知っていたのか・・・
かんざしの赤い珠が、ちかちかと光を放つ。
それにじっと見入っている総司の横顔が、ひどく寂しく見えた。


「沖田さん、あんた・・・」
斎藤が言うより早く、総司はさらりと言葉を継いだ。
「知ってますよ。いえ、実は今日・・・知ったんですけど」
「誰から?」
反射的に聞いてしまった。
総司は、束の間ためらってから、あっさりと言った。
「診察しながら、先生が・・・。よほど嬉しかったんでしょうね。私みたいな者にまで言うなんて」

違う、総司にこそ聞かせたかったのだ。
斎藤は、心の中で断言した。
いや、勘のいい総司のことだ。
なぜ、わざわざ自分に話したのか、すでにわかっているだろう。
娘の父親にまで自分の恋心が知れてしまっていたことに、少なからず狼狽したのかもしれない。 
そして、拒絶されたのだと気づいた。総司ではだめだ、と。


診療所の前での、佐絵とのやりとり。
あれは、総司なりの訣別だったのか。
あの時の様子からして、佐絵にとっても、父親のいきなりの言動は思いがけなかったのだろう。
山崎の報告によれば、佐絵は親の決めた話に乗り気ではなかった。
おそらく、総司に好意を持っていたに違いない。
もし、総司が望んでくれるならと、期待も覚悟もしていたのかもしれない。
けれど、総司は何も言わぬまま、身を引いた。
肩を落とした佐絵の後ろ姿を、どんな思いでみつめていたのだろう。



それきり、総司も斎藤も口を閉ざした。
ただ、目の前を流れる川を、二人してぼんやり眺め続ける。
少しずつ陽は傾き、川面に夕暮れの色が降りてきた。
「これ・・・」
ふいに、総司が独り言のようにつぶやいた。
「ここに捨てようかと思うんです」
斎藤が振り向くと、総司は手にしたかんざしを、愛おしそうにみつめていた。

「いや、だが・・・上物だろう、それは」
なんてばかなことを言っているのだ、と斎藤は自分にあきれた。
上物だから、どうだと言うのだ。
佐絵のために、彼女に渡すためにだけ買い求めたものを、他にどう使えと?


総司は、小さく笑いをもらすと、
「斎藤さんに、見届けてほしいんですよ」
そう言って、総司らしくない、弱々しい笑顔を向けてきた。
佐絵を思い切る、その決意を、と言うことか。
そうだ、係わってしまった以上、自分の役目かもしれないと、斎藤は思った。
無言で頷く。


総司は立ち上がると、握りしめたかんざしを、祈るようにそっと胸に押し当てた。
次の瞬間、総司の手から、大きく孤を描きながら、かんざしが投げられた。
小さな音を残して、かんざしは川の中に消える。
総司が、ふぅっと息をつくのが聞こえた。
立ち尽くしている総司に、何も言えないまま、斎藤もまた、かんざしを呑みこんだ川面をみつめ続けた。
夕闇が河原を包み始めていた。


    * * * * *


次の日、報告をしなくては、と斎藤が思う前に、土方から呼び出しがあった。
部屋へ行くと、土方はどうやら、文の整理をしていたようだった。
机の周りに、たくさんの文が散らばっている。
「島原からですか?」
思わず、聞いてしまった。
それぞれ趣向を凝らした美しい紙ばかりだった。
それらが恋文であることは、一目瞭然である。
が、余計なひと言だったかと、斎藤は内心、首をすくめた。
土方が、じろりと睨む。ふん、と鼻を鳴らすと、面倒そうに文をまとめ始めた。

(まさか、また江戸へ送るのか)
斎藤は、半分あきれ、あと半分は感心した。
土方は、島原の芸妓たちに大層もてる。
ちょっと出かけただけで、大量の恋文が舞い込むらしい。
その処分に困った土方は、以前、あろうことか、その文を故郷の家に送ったと言うのだ。


教えてくれたのは、もちろん総司だった。
「ね、おかしいでしょう? 京でももてるって自慢することで、安心させたいのかな。
土方さんらしいですけどね」
そう言って、総司はくったくなく笑った後に、ふと
「女の人って、自分がきれいに装うだけでは足りなくて、男にもきれいでいてほしいんでしょうかね」
真剣な顔で首を傾げた。


あの時はまだ総司も、自分が陥る恋のことなど、予測もしていなかったのだろう。
そんなことを考えていた斎藤に、土方の不機嫌そうな声が飛んできた。
「おい、斎藤、おめえ総司にばらしたな。俺の命令だと」
何を今さら、と斎藤は思った。
総司が勘がいいことは、誰よりも土方が知っているだろうに。
まあ、確かに斎藤自身も首尾よく行ったとは思っていないが。
どっちにしろ、総司が気づかないはずはない。

「総司のやろう、ぶすっとして、口も聞きやがらねえ」
仏頂面で文句を言う土方が、やけに子供っぽく見えて、斎藤はくすりと笑いそうになった。
が、土方の視線を感じて、慌てて止める。
必死で、しかめっ面を作ってみせる。
自分とて、好きでやってたことではないのだぞとの意思表示のつもりだった。
土方は、斎藤が黙っているのを見ると、仕方なさそうに聞いてきた。
「それで、首尾は?」


斎藤は、事の顛末をかいつまんで話した。
これは話さなくてもいいだろうと判断したことは、さりげなく伏せた。
たとえば、河原でのやりとり、かんざしのことなどは。
土方は、聞き終わると、斎藤の方を見ないで頷いた。
まるで、嫌々納得しているみたいだ、と斎藤は思った。
それでも、
「ま、なんとかおさまったか」
そう言って、土方は珍しくすまなそう顔をしてみせた。

「おめえには、ずいぶんと面倒をかけたな」
「いえ」
斎藤は、心もち俯いた。
「結局、俺は何もしていませんから」
本当に、その通りだと斎藤は思った。
不器用に後をつけて、相手はわかったものの、肝心なところを調べてくれたのは、山崎だった。
しかも、説得をしなくてはと意気込んだら、すでに総司はすべて知っていた。
なんとも無様な探索だと、考えると気落ちしそうになる。


だが、そんな斎藤に、土方は
「奴の初恋を見届けてやったんだろうが」
と、言って、にやっと笑ってみせた。
「いいんだよ、それだけで」

斎藤は、またもやひやりとした。
まさか、河原でのことを総司が漏らしたりはしないだろう。
総司の恋が、かんざしと共に消えていったのを斎藤が見ていたことを、土方が知るはずもないのに・・・
土方は、時折こちらの隠していることを、ずばりと見抜く。
総司の勘とは、また違う形での、人間に対する嗅覚のようなものだろうか。
(あぶない、あぶない・・・)
こんな人を敵に回したくはないな、と斎藤は本気で思った。


その土方は、しばらく腕組みして何か考えていたが、やがて、ぼっそりと問いかけてきた。
「どんな女だった?」
「は?」
斎藤が、驚いたように眉を上げると、
「ああ、いや、いい。今更・・・だよな」
土方は、慌てたように早口になった。
そして、わざとらしく威厳のある声を作り、
「任務完了だ。ご苦労だったな」
と、短く労った。
もういいぞ、と目で促す。
斎藤も頭を下げ、部屋を退出しようとしたが、ふと足を止め、振り向いた。


「お似合いでしたよ」
斎藤の言葉に、土方は
「・・・お似合い?」
訝しげに聞き返す。
斎藤は、かすかに笑みを浮かべると、
「沖田さんとその娘、とても似合ってみえました」
そう言って、じっと土方に視線を注いだ。
土方は一瞬、切なげに目を細め、口元を引き結んだが、すぐにいつもの調子でふんと鼻を鳴らし、
「総司もいい経験になったじゃねえか」
と、憎まれ口をきいた。

斎藤は、部屋を出る束の間に、土方がやりきれなさそうに首を振り、頭をかくのを、目にした。
なんだかんだ言っても、総司のことが気の毒で仕方ないのだろう。
(やっぱり、副長は優しい)
斎藤は、少し微笑ましい気分になった。


    * * * * *


(半年か・・・)
斎藤は、あらためて思い返した。
あれ以来、総司も土方も、そのことについては一切触れなかった。
もちろん斎藤も、そんなことなどなかったかのような顔をした。
総司の気持ちは、わからない。
みんなの前では、何も変わらない様子だった。
ただ、一人でぼんやりとしている時、やけにその背中が孤独に見えるのは、斎藤の考えすぎか。
そう言えば、佐絵がどんな娘だったのか、どこに惹かれたのか、そんなこともついに聞かず終いだった。
ただ、穏やかに時が忘れさせてくれればいいと、それだけを願っていた。


総司が見入っている紅梅に目をやり、ふと、あの時のかんざしの色に似ているな、と斎藤は気づいた。
(紅く、和やかでつつましい、か・・・)
春を告げる花の、穏やかに明るい色。
あのかんざしは、きっと佐絵に似合っただろう。
総司と二人で、紅梅の下に立ったなら、さぞ似合って見えるだろうにと、斎藤は胸に小さな痛みを感じた。
だが、どうしようもなかったのだ、と今更のように、自分に言い訳する。
思うままにならないのが、人の気持ち。
いや、違う、二人の気持ちは近かったはずなのだが・・・



「斎藤さん!」
あれこれと思いめぐらす斎藤を、明るい声が現実に引き戻した。
振り向く斎藤に、総司が笑いかけている。
「ねえ、これから少し稽古に付き合ってくれませんか?」
いつもと変わらぬ様子に、ほっとする。

どうやら、感傷的になっていたのは、自分の方だったらしい。
総司が潔いのは、今に始まったことではない。
しっかり自分の中で、決着がついているのだろう。
たとえまだ忘れずにいたとしても。


稽古か・・・
この頃は、身体の調子もいいと聞いていた。
「無理をしない程度ならな」
「大丈夫ですよ。さ、行きましょう!」
無邪気な声に引っ張られて、庭を後にする。
清々しい香りに、視界の隅に残る柔らかな紅に、ほんの少しだけ後ろ髪を引かれながら・・・



            
 <完>