花一時

  〜 はないっとき 〜

   

「鎌足どの」
ふいに、背後から艶やかな声が追いかけてきた。
調べものをしようかと、巻物を手に、室から出てきたところだった中臣鎌足は、振り向く前から、声の主がわかり、かすかに眉をひそめた。
だが一瞬後、振り向いた時には、いつもの無表情に戻っていた。
「これは、額田王さま。今日も、大層お美しゅうございますな」
にこりともせずに言ってのける鎌足を、額田王はあっけにとられたように、まじまじとみつめ、ふっと苦笑をもらした。

「本当に、鎌足どのったら。相手が真に受けることのできないようなお世辞を、これほど平然とおっしゃるなんて、お人が悪いこと」
「誤解ですな。私はお世辞など言いません」
憮然とした口調で、鎌足が答える。
「そう? では、ご自分ではまったく価値を認めていないことへの、一応の褒め言葉、とでも言い直しましょうか」
額田王は、鋭い皮肉をさらりと言い放つと、いたずらっぽく瞳をきらめかせた。
見た目の優雅さとは裏腹に、茶目っ気も気の強さも、しっかり持っている。
おまけに、憎まれ口まで達者だ。

やれやれ、と言いたそうに、鎌足は目を細めたが、無言のまま受け流した。
必要とあらば、どれほどの言葉を尽くしてでも、相手の納得を勝ち得る鎌足ではあったが、残念ながら、軽やかな冗談で切り返せるような才能は、持ち合わせていない。
額田は小さくため息をつくと、気を取り直したように、声を改めた。

「鎌足どの、少し庭でも歩きません?」
黒目がちな瞳を、まっすぐに鎌足に向ける。
まるで、何かを思い詰めた少女のように、一途な様子に見えた。
そのまなざしを、まともに受け止めた後、鎌足はわずかに表情をやわらげた。
「ご一緒させて頂きます」
二人は、春の陽射し溢れる庭へと、足を運んだ。


          *****


「まあ、桜が・・・。梅の風情もすばらしいけれど、桜は華やかですわね」
庭の片隅の大きな桜の木は、一面薄紅の霞がかかったように、満開になっていた。
仰ぎ見る額田の髪にも、ひらひらと花びらが舞い落ちる。
「額田さまには、桜が似合いますな」
またもや、無感情な声で、鎌足がぼそりとつぶやいた。
振り向いた額田は、今度はにっこりと微笑みを見せた。

「今のお言葉は、たとえお世辞でも、嬉しいですわ。私、桜の花が、大好きなのです」
鎌足は頷いた。
なるほど、額田の美しさは、奥ゆかしい風情の梅よりも、むしろ一斉に咲き誇る桜に似ていると思えた。
そう、あの方とは違うな・・・
鎌足の心に、ふと、ひとつの面影が浮かんだ。


「鎌足どの、姉上を、どうなさるおつもりですの?」


まるで、心の内を読んだかのような額田の不意打ちに、鎌足はギョッとした。
額田の姉、鏡王女。今まさに、思い浮かべていたのは、その人のことだった。
鏡王女は、早くに中大兄皇子に思いをかけられ、妃となったが、幸せな境遇とは言えなかった。
中大兄皇子が次々と妃を迎え、その妃たちに子供ができてしまったからだ。
子供もできず、身分もさほど高くはない。
中大兄皇子の間遠な訪いだけを待ちわびて、ひっそりと暮らしていた鏡王女を、鎌足が貰い受けるらしいとの噂が、宮中に広がり始めていた。

額田に、声をかけられた時から、この話だろうと覚悟はしていたものの、あまりにも唐突な額田の問いに、出鼻を挫かれてしまった感のある鎌足だった。
どうも、額田と言う女人は、こちらの虚を突くことに長けている。
なかなか油断ならぬな、と鎌足は内心、苦笑した。
ゆっくりと間を取った後、落ち着いた声で答える。


「正式に、妻としてお迎えしたいと思っております」
「なぜ?」
額田は、目を見開いて、頑是無い子供のように問い詰める。
鎌足は、いささか困惑した。
「なぜ・・・、と申されましても」
額田は、目をそらさず、鎌足の答えを待っている。
先ほどまでの微笑みは、すっかり影をひそめ、今はその透き通るような頬が、厳しく引き締まっている。
鎌足がもらす言葉の中に隠された真実を、見極め、場合によっては裁こうとでもしているようだった。
さらに間を置く鎌足に焦れたのか、額田は、先に言葉を継いだ。

「姉上が、どれほど中大兄皇子さまをお慕いしていることか・・・ あなたとて、知らぬはずはございませんでしょう」
「存じております」
「ならば、なぜ?」
鎌足は、浅黒い頬に、かすかに苦さを滲ませた。
「私も・・・、鏡王女さまをお慕い申し上げているから、ではいけませんか?」

それは、ある意味、真実だった。
鏡王女の物静かな佇まいや、控えめな態度を、鎌足は好ましく思っていた。
どこか、不思議な陰影を感じさせるところが、気にかかってもいた。
なのに・・・、皮肉なものだ。こうも嘘っぽく聞こえてしまうとは。


否定されるか、それともあきれて笑われるか、そんな鎌足の予想に反して、額田は、真剣なまなざしを、少しも揺らさなかった。
「そう。では、お聞かせ下さい。姉上を、どんな人だと思っていらっしゃるのか」
鎌足は、細めた目で、額田を見遣る。
答えを聞くまで、引き下がるまいと言う意志が、透けて見えるようだ。
鎌足は、さりげなく視線をそらすと、低い声で話し始めた。

「鏡王女さまは、お名の通り、鏡の如き御方とお見受けしております」
「鏡の如き?」
額田の声に、好奇の響きが混じる。
思いがけない鎌足の答えに、興味を感じているのだろう。
鎌足は、言葉を続けた。

「おそらく、相手の望むままの姿を映して差し上げる鏡。そして、その姿をご自分も信じ込み、賞賛し、力づけて下さる。曇りのないお心を、お持ちだからこそと思います。ですが・・・」
「まあ、驚いた」
額田は、思わず声をあげた。
常々、自分が感じていたことを、鎌足がずばりと言ってのけたのだ。
不審ばかりが渦巻いていた中に、かすかな期待が忍び込んできたようだった。
「あ、申し訳ありません。続けて下さい、鎌足どの」
額田は、目を煌かせて、鎌足を促した。

「残念なことに、鏡に映したくないところも、人は持っております。
あの方は、ご自分が見たくないものを映してしまうことを、怖れていらっしゃるのかもしれない」
「ええ、そう。確かに」
ぽつりと、額田が同意した。
「あまりにも、美しいものばかり映したいと願ってしまうと・・・、人は不幸になりましょう」
鎌足の言葉に、額田は、切なげな目をして俯いた。その通りだと思った。
見たくないことから、目をそらそうとしてしまう。そらしたところで、逃れられるわけではないのに。

鏡王女は、かつて中大兄皇子と取り交わした相聞歌を、何よりの宝物に、美しかった日々だけを抱きしめて生きている。
自分よりも若く、身分も高く、子供もいる妃たちに比べ、なんと心細い日々を送らなくてはならないことか。
そんな幸薄い風情の姉を見ているのが、額田はつらく、もどかしかった。


「それで、あなたなら、姉上に真実を見せて差し上げられるとでも?」
自分でも気づかず、口調がきつくなっている。
そんな額田に、鎌足は常と変わらぬ無表情のまま、視線を戻した。
「いいえ、そこまでうぬぼれてはおりません。ただ・・・」
「ただ? 何ですの?」
鎌足の顔の線が、かすかにやわらいだ。
「私なら、あの方も、美しいだけの幻影を見ずにすむのでは、と」

「まあ・・・」
額田は、驚いて鎌足の顔に、じっと見入った。
この人は、姉をわかってくれている。
唐突に、そう感じられた。
無愛想で、冷徹で、心のうちの読めない人だと思っていたけれど、どうやら逆に、鎌足自身は、人の心を読むことに長けているらしい。
少なくとも、今までに、これほど姉の内面を見ようとしてくれた人は、いないだろう。たとえ、中大兄皇子でも。


はたして、中大兄皇子と鎌足との間に、どんな約束事が成り立っているのか。
額田は、そんなことは気に留めていなかった。
もしかしたら、姉の存在を持て余した中大兄皇子が、厄介払いしようとしたのかもしれないし、本当に鎌足が姉を見初めて、頼み込んだのかもしれない。
それは、どちらでもよかった。
いずれにしても、女には、道は限られている。
望まれるままに流されて行くか、とことん突っぱねて、みじめな境遇になるか。
姉は、自分を押し通せるほど、強くはないだろう。
けれど鎌足が、姉と言う人をわかってくれているなら、それだけでも救われる。


「わかりました。鎌足どの、姉上をよろしくお願い致します」


額田は、あっさりそう言うと、美しい仕草で礼を取った。
突然の変化に、鎌足は面食らった。
「は? その・・・、それは鏡王女さまが、お受け下さっていると思って、よろしいのでしょうか」
額田の瞳が、またもやいたずらっぽい光を放つ。
「さあ、わかりませんわ、姉上のお気持ちは」
鎌足は、思わず眉をしかめた。
「これから先が、あなた様の腕の見せ所。そうではございません、鎌足どの?」
そう言うと、額田はくすくすと笑いを漏らした。

無表情な鎌足の頬に、かすかに朱が上った。
これでは、まるでからかわれたようだ。
うっかり姉が承諾してしまう前に、この男で大丈夫かどうか、自分が確かめにきたと言うところか。
してやられたな。
鎌足の中で、苦々しさと可笑しさが同時に湧いてきた。
額田に、あっけなく振り回されてしまった。自分ともあろう者が。
そんな鎌足の心の内を知ってか知らずか、額田は無邪気そうに、小首を傾げてみせた。

「でも、もし姉上が迷っていたなら、私、安心して鎌足どのにお任せなさいと、けしかけますわ」
そう言って、花がほころぶように、にっこりと微笑む。
「それは、私には何よりの援軍となりましょうな。心強いことだ」
いかにも気のなさそうな声で、鎌足はつぶやいた。
それでいて、額田は、本当にそうするだろうと言う確信があった。
どうやら、姉の相手として、自分は額田に認められたらしい。
快活な妹の後押しに、鏡王女も心を決めるかもしれない。


そして実は、額田自身にも、ひとつの運命が近づいていることを、鎌足は薄々察していた。
中大兄皇子のまなざしが、いつしか額田をしっかり捕らえていることを、知っていたからだ。もっとも、そこには、複雑な思惑も絡んでいるようだ。
弟、大海人皇子の想い人である額田。十市皇女と言う子まで生している額田を、あえて望むと言うことは、弟の忠誠を試すことにも相成る。

皮肉なものだ。兄と弟、姉と妹、それぞれが一人の相手を巡って、波乱に巻き込まれるようとしている。
血を分けた者同士なだけに、確執はじわじわと深まるだろう。
だから、その嵐が吹き荒れる前に、せめて鏡王女だけは、穏やかな場所へ逃したい。いくらかでも、耐えやすくなるように。
そう思った気持ちに、嘘はなかった。

(私らしくもない、か・・・)

自嘲めいた笑みを、口元に浮かべた鎌足の目の前で、額田は満開の桜を見上げていた。
はらはらと、薄紅の花びらが、いくつも額田に散りかかる。
鎌足は、あらためてその光景に、目を止めた。
美しい。そして潔い花だ。たとえひと時でも、無心に咲いてみせる。

女人も、そうなのだろうか。
己が運命を、他人の手で操られながらも、ひたすら美しく、咲こうとする。
もしかしたら、男よりも、ずっと強いのかもしれない。
鎌足は、胸のうちに湧いた、素直な賞賛に、少しだけ驚いた。
今一度、咲き誇る桜を振り仰ぐ。
薄紅の花霞越しに、澄んだ空の青さが、どこまでも広がっていた。


            
 <完>