タンポポ


 ぼたぼたと、アスファルトに紅い染みが広がっていく。一滴一滴零れ落ちてゆくその度ごとに、意識が少しずつ薄れていった。
 失血。
(まずい)
 壬生は、ずっしりと重く、いうことをきかない体を引きずりながら、ふらふらと歩こうとする。してはいるが、一向に足は進まなかった。重い体、というより、自分の神経からゆっくりと切り離されていくようだ。四肢を失っていくような、うすら寒い喪失感がある。
「今度の暗殺は、周りの人が気づく可能性がある。くれぐれも気をつけることだ」
 それは、仕事に出かける前に、館長が言ったセリフだ。頭の中を、血が失せていく頭痛を伴いながら、重く響いていく。
 気をつけていたはずだった。仕事の慣れが、心に隙を作ったのだろうか。
 そんなはずはない。いつも通りに最大限の集中力で臨んだはずだ。
 大体、まずいと思ったのは、今日で2回目だ。
「まずいな…」
 今日3回目の言葉を、今度は口にして、壬生はそのまま人気のない道端でうずくまった。
 廃工場が連なる地帯に、人影はなかった。辺りは、どんよりとした曇り空を通してでも、太陽がうすく照らしている昼間にもかかわらず。
 工場のさびれた壁に寄りかかり、アスファルトを眺めていると、小さく咲く、タンポポが目に入った。
 こんな時期に?
 壬生の息は、白く辺りに散っていく。
 薄れていく意識を必死にたぐりよせながら、壬生はタンポポを見つめ続けた。
 タンポポが、ずるずると横になっていく。壁から真っ直ぐに伸びているようだ。
 …横になったのは、壬生だったが。
 そんなことに気づかないまま、壬生は変なタンポポだと、ふっと笑った。
 それで最後の緊張の糸が切れたのか、すうっと視界は暗闇に染まった。

 「人殺し」
 壬生の胸を鷲掴みにする言葉だった。それは。
 時間は少し戻る。
 足元に、人間が倒れていた。
 ぴくりとも動かない。すでにこときれていた。見開かれた瞳が虚空に向けられている。その瞳の瞳孔は開き切っていた。
 憎むべき人間だった。人間と呼ぶにも値しない。そんな存在だった。
 この仕事を続けると決心がついたときから、壬生は暗殺する人間のことを事前に調べるようになっていた。館長に聞くだけ、調査員が調べた資料だけでなく、自ら。
 できるだけ、冷静に中立の立場を持って調べるようにしていた。感情を切り離し、どちらがわにも同情をせず。
 それでも、憎むべき存在だった。
 彼に、理由はなかった。葛藤はなかった。ただ、自分の欲望のまま、自分の他の生命を弄びつづけた。
 後悔することも、反省することも、彼は知らないといわんばかりに、したことがなかった。
 人は、人を許せる。
 しかし、それには絶対なる条件がある。それは、罪を犯した人間が、自分の罪を認め、悔い改めることだ。
 罪を犯さずにはいられない立場に追い込まれたわけでもなく、罪を犯したことに罪悪感も感じない彼は、生き続けていても罪を重ねるだけで、清算は決してなされない。
 彼の暗殺は、起こるべくして起きたことだった。
 カタン。
 廃工場の物陰で、物音がした。はっと気づいて壬生が視線を向けると、いないはずの人間がいた。
 この廃工場に入る前、ターゲット一人きりが行動していると、他に近くには人がいないと確認していた。
(なぜ…)
「今度の暗殺は、周りの人が気づく可能性がある。くれぐれも気をつけることだ」
 館長の言葉が反芻される。
 物陰からこちらを覗いていた、小さな女の子は、大きな瞳を見開いて、無表情のまま言った。
「人殺し」
 瞬間、壬生は重い鈍器で頭を殴られたような気がした。ずしりと重い物体が自分の中に入ってくる。
 感情の込められていないそのみじかな言葉は、壬生を深くえぐった。
 それは分かっていたことだった。自分でも認めていた。
 人殺し。
 そうだ。……でも。
 打ちのめされたように、壬生はふらりと廃工場を出た。
 コンクリートの灰色だらけの廃工場群には、どんよりとした灰色の雲がたれこめている。あたり一面灰色だらけの風景は、壬生の平衡感覚を狂わせた。地面がぐるぐると回っている気がする。
 壬生は動揺していた。激しく動揺していた。
 人殺し。人殺し。人殺し。ヒトゴロシ。
 耳とも頭ともつかずに、その言葉は壬生の中をかきまぜていた。…吐き気が、する。
 彼は、憎むべき存在だった。生きていく意味などない人間だった。人間と呼ぶにも値しない存在だった。彼に関わった全ての人が不幸になった。
 僕は、彼が憎かった。人を人とも思わないその思考は、僕の神経を逆なでした。自分が世界の中心だという自分勝手な誇大妄想も、全てが憎かった。
 僕の憎しみが、彼を死に至らしめた。
 ―――――チガウ!!!
 僕じゃない!
 壬生の頭が、彼への憎しみで埋め尽くされていく。その本質は失わず、憎しみは形をめまぐるしく変え、壬生を打ちのめしていった。
 ヒトゴロシ。
「違う!!」
 壬生は、叫んだ。
 自分の叫び声で、はっと気づく。
(まずい…)
 壬生は、手で額を覆って、俯いた。いつのまにか呼吸が荒い。じっとりとした感触を、額に当てた掌が伝えてくる。
 明らかに、僕は我を失い、冷静な判断を下せなくなっている。それどころか、先刻の少女の声が、頭にこびりついて、一瞬なりとも離れない。
 こんなときは、まずい。
 とても…。
 そのとき、唐突に胸元に振動が走った。
 携帯のバイブレータが鳴っている。相手を見ると、見なれた名前が表示されていた。その名前にも、胸をなでおろすことはできず、震えた手でボタンを押し、耳に押し当てた。
「もしもし?紅葉〜?」
 何も知らない明るい声が耳に流れてくる。が、今の壬生には、その声に応える余裕はなかった。
「……」
「紅葉?」
「あ…すら…」
 壬生が、やっとの思いで硬い声を出す。その声を聞いた途端、受話器の向こう側の空気が変わった気がした。
「紅葉?何かあったのか?」
 先ほどまでのおどけた高い声とは対照的に、ひどく真面目な低い声。
「……」
「今、どこだ?仕事なのか?」
「……」
「紅葉、何があった?」
「…僕は…、人殺しだ…」
 壬生を良く知っている者でさえ聞いたことがないような、泣きそうな声だった。壬生自身さえ、自分の声を疑うほどに。
「……。紅葉、いいか?良く聞けよ?」
 電話の向こうでしばし考えたような沈黙があった後、飛羅はこう切り出した。
「おまえの仕事は、確かに人を殺すことがあるかもしれない。でも、それだけだ。おまえ自身は変わらない。俺たちはおまえを信じてる。おまえの選択を信じてる」
「…飛羅…」
「いいか?俺たちを裏切るなよ」
 そう言い残した後、電話は飛羅によって切られた。携帯を持ったまま、呆然と立ち尽くす。
 かさり。
 アスファルトを裂いて生えた雑草が、靴裏にすれる微かな音で、壬生は振り返った。無意識の動作だった。事実、表情はまだ凍りついたままだ。
 背後数メートルに、痩身の、だがただの痩せた躯ではない、若い男が立っていた。壬生の全神経が警鐘を鳴らす。ただ何気なく立っているように見えるが、彼の気配は油断ならない。
 彼は、敵だ。
 しかも、これは、同業者のにおいだ。理屈抜きで、それは、分かる。
「壬生紅葉。死んでもらう」
 彼がずっと自分の隙を狙っているのは知っていた。だが、普段の壬生には、その隙は完全になかった。そして、彼は、壬生とまともにやりあうと、自らの命を落とすことを知っている。
 だから、今なのだ。
 館長から話は聞いている。彼は、拳武館と協力関係にある組織と、対立する組織に属している。
 協力関係にある組織が、最近拳武館や自らの組織の人間に対して、狩りが行われているというのだ。優秀な部下を抱えている、その組織の優れた長は、盛んに警告を発していた。
「未来を作り出す君たちの意志を、根本から抹殺するのは、世界の意志に反すると思うのだがね」
 若いのかそうでないのか判断できないその組織の長は、整った顔立ちにやんわりとした表情を浮かべて言った。
 彼の部下に、被害者はいない。
「彼らの言い分は、この世界の絶対的な自然に任せるといったものでね、暗殺という手段を認めず、暗殺者を暗殺するという、ひどく矛盾したものなのだよ」
 落ち着いて、ゆっくりと話す声。その声には、魅力的な響きがあった。
「私は、世界を良くしようと真剣に考えている君たちを、失いたくはないのでね」
 ひどく鮮明に覚えている。
 そんなことを思い出していると、目の前の男の手に、ナイフが握られた。ぎらりと、背筋が寒くなる冷たい光が、ナイフから放たれる。
 壬生は、硬い表情のままそのナイフを見ると、重い動作で構えをとった。
 途端、男の躯から、抑えられていたと思われる殺気がほとばしった。鋭い殺気を身にまといながら、ナイフを構え、突っ込んでくる。
「いいか?俺たちを裏切るなよ」
 飛羅の言葉が、壬生の中を反響していった。

 あの後、壬生はナイフで切りつけられもしたが、彼を倒した。彼もかなりの重傷を負ったが、致命傷はひとつもなかった。壬生の冷静な闘いによるところが多い。
 気を失った彼を残し、少しでもその場所から離れようと、重い体をひきずり、タンポポの前でうずくまるまで、それなりの時間が経っていた。
 たんぽぽは、気を失った壬生の前で、小さな花を微かな風に揺らしている。
 うずくまる壬生に、靴音が近づいてきた。壬生の目の前で足音は止まり、屈みこむ。
 あたたかい…。
 壬生の体にコートがかけられると、目は閉じられたまま、壬生の表情がやわらいだ。
 右手で押さえられている脇腹の傷は、少しずつ血液を流しつづけている。
 アスファルトの血だまりの中で、壬生はうずくまっていた。濃紺の制服は、血を吸い込み、赤黒く変色している。
 かがみこんだ人物は、そっと壬生の頭をなでた。傷の痛みに耐えたことによるのか、額は脂汗でじっとりと濡れている。ハンカチを取り出し、汗を拭く。細い指が髪にさらりと触れた。
「もう、大丈夫」
 優しげなその声の下で、壬生は眠り続けた。

 ……歌。
 ……歌が聞こえる…。
 頭がなでられている。人には言ったことがなかったけれど、それはとても好きな感触。
 母親は、言わなくても分かっているとでも言うように、いつも頭をそんなふうに優しくなでてくれた。
 とても、遠い記憶。
 あたたかくて、やさしくて、時がゆるゆると流れていた。
 そこには、激しく揺さぶるものも、冷たい棘もなかった。
 いつから、僕はその場所から離れてしまったのだろう。その場所を探しているはずだったのに、ここは、どこだろう?
 僕は、迷子だ。
 …歌…。
 …歌だ。
 その声は、優しく、そして澄んでいた。のびやかにつむがれる歌。
 歌が呼んでる
 僕の行く先を照らしてくれている。僕は、そこに行かなきゃいけない。いきたいんだ。
「歌が…、聞こえる…」
 次は、口に出して言っていた。
 ぼんやりとした風景。曇り空の陽光は優しく、緩やかに壬生の瞳に吸い込まれていった。
 ゆっくりと瞬きを繰り返す。歌は、途切れず耳に流れ込んでくる。とても、心地よい響き。
 ゆっくりと首を回すと、頭上に見慣れた顔があった。
「比良坂…さん…」
 ふと、歌が止まる。
 比良坂が、自分の膝を見下ろした。
「壬生さん、気分はどうですか?」
 まだもやが晴れ切っていない頭で、歌の主も、頭をなでていた手の主も、比良坂だったことを、壬生は認識した。そして、自分の頭を預けているのが、比良坂の膝だということも。
 起きあがらなくては、という気持ちは、身体の重みと居心地の良さになえていく。
「…どうして…」
 やっとの思いで出たセリフがそれだった。
「飛羅から、連絡があったんです。壬生さんがここにいるから、手当てして欲しいって」
「飛羅が?」
 壬生は、ここにいること、仕事があったこと、全て飛羅に話してはいない。館長に、飛羅が聞いたのだろうか…。それに、飛羅がここに来ず、比良坂を行かせたということは、誰かに狙われていて、すでに助けに行くのには間に合わない。手当てが必要だ。
 壬生は、死なない。
 そう、信じてのことだろう。
「いいか?俺たちを裏切るなよ」
 飛羅の声が、すぐ傍に聞こえるようだ。
「…僕は、人殺しだ」
「はい」
 壬生は、しばらく前に飛羅に言ったセリフと繰り返した。比良坂が、やけにあっさりと返事をする。
「壬生さんは、選んだんでしょう?」
「……」
「私は、壬生さんの選んだ道を、壬生さんを信じています。それは、人を殺めた壬生さんでも、人を殺めない壬生さんでも、同じです」
「飛羅と、同じことを言うんだね」
「飛羅も、壬生さんがとても強い信念を持って道を歩んでるって、知ってると思うから」
 壬生は、居心地の良さに抗いながら、ゆっくりと起きあがった。思ったほどは、身体は重くない。脇腹に包帯の感触があった。比良坂の手当てのお陰だろう。
 起きあがった動作にも、殆ど傷が痛まないところをみると、比良坂の歌の能力によって、傷もふさがっているようだ。
 壬生は、比良坂と向かい合い、じっとその瞳を見つめた。
「買かぶり過ぎだよ。僕はそんなに強くない」
「たまには、いいじゃないですか」
「?」
「たまには、休んでもいいと思うんです。辛くて、疲れたら、誰かの肩を借りて、休んでも」
「僕は、弱音を吐いて、僕じゃなくなるかもしれない」
「それも、壬生さんです。全ての壬生さんを、飛羅も私も信じてます。そんなに私たちが信じられませんか?」
 それは、壬生への思いを信じられないのと同時に、そんな思いを抱いている比良坂たちの眼をも疑っているのと、同じだ。
 自分の道を信じて歩め。
 周りの人物は、みなそう言っていたではないか。
 疲れたら、ここに来て休め。
「休んでいいのかな」
「もちろんです」
 比良坂は、静かに微笑んだ。
 壬生がその小さな肩を抱きしめる。
「悪いけど、少しの間我慢してくれないか」
 返事の代わりに、比良坂の手が壬生の背に回された。壬生の肩が、小刻みに震えている。比良坂の視界からは、壬生の表情は覗えなかったが、それでもよかった。
 瞳を閉じて、比良坂のぬくもりを全身で感じ取る。遠い昔、孤独に耐えられなくて欲していたものだ。欲しくても得られなかった記憶がある。
 瞳を開いた。
 視界の端に、タンポポが揺れていた。
 その傍に立つ少女がいる。壬生に、動揺する言葉を投げかけた少女だ。
 少女は微かに優しい笑みを浮かべているようだった。陽炎のように立つ姿は、うっすらと消えていく。ちらちらと、粉雪が陽光に当たってきらめくような余韻を残し、光はタンポポに吸い込まれていった。
 何もなかったかのように、ただそこにはタンポポのみがたたずんでいる。
 そして。
 新たな姿を、壬生は視界に入れた。
「よう。いい姿だな」
 声を掛けられて、壬生は普段通りの不敵な笑みを口の端に浮かべた。比良坂の身体をゆっくりと離すと、その姿に真正面から向き合う。
「心配をかけたようだね」
「まあな。まー、見事に血色に染めたもんだ。着替えを持ってきてやったぞ」
「気がきくね。君にしては、めずらしく。飛羅」
 飛羅が、肩にかけていた紙袋を、壬生に投げた。
「劉には伝えないでおいたよ。あいつが来ると、今のおまえ見て、泣いたり騒いだり、うるさそうだからな」
「そうだね」
 壬生は、くっくっと、おかしそうに笑った。
「高くつくかな?これは」
「紗夜にもな。だから、これから劉も連れて、遊びに出るのに付き合うので許してやるさ」
「僕は、怪我人だよ?」
「もう、傷は癒えてんだろ?紗夜」
 飛羅は、壬生を無視して、比良坂に問い掛けた。比良坂はというと、2人のやり取りを見て、無邪気に笑っている。
「さ、早く着替えろよ。紗夜に見られないところでな」
「君の服のセンスは疑わしいけどね。他に選択の余地はなさそうだし、仕方なく着させてもらうよ」
「口がへらねーな」
「もうひとつ」
「なんだよ」
 壬生が紙袋から服を取り出す手を止めて、表情を変えた。
「ありがとう」

 少し早めのタンポポは、暖かみを帯びてきたささやかな風に、静かに揺れている。


END


壬生×比良坂、第4弾ー。…か?(疑問形)
かなりのシリアスを書いてみました。これは、このごろ影響を受けていることから生まれました。
至極個人的なことが多いですが。
憎しみ。忘れていたことですが、やっぱりあるなあ、と思いました。
その思いに突き動かされて、自分も我を失うことがありました。
なにが一番腹が立つかって、分からないことですね。分かろうとしない。理解しようと努力をしない。
これが一番むかつきます。
馬鹿なことじゃない。それを直そうと努力をしないことが、私は大嫌いです。
闘っていない人は、大嫌いです。

そんなこと思って書いたんですが、どうなんでしょう?
ひかないでいただきたいです〜。へへ〜。(ひれ伏し)

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