そこにいる星



 その日、壬生には予感があった。
 下校途中に寄ったいつもの図書館。その中で、純文学の文庫本を借りようと本棚の間を歩いていたときだった。ふと、目にとまるものがあった。
 星座の本。
 写真やかわいらしいイラストが絵本調に収められているそれは、普段の壬生が目にすることもないものだ。その前で、床に足が貼りついたように動けない自分に、壬生はただ驚く。
 なんだろう。その本から目を離せなかった。
 試しに、手にとってみる。鮮やかな深い青に、砂糖をこぼしてしまったような幾億もの星。その星空の下には、一匹の犬を連れた子供が満天の星を見上げている。ページを繰ると、季節月日が巡る毎に違う顔を見せる星空を、相も変わらず子供と一匹の犬が見上げている。そのかわいらしいイラストからは、今にも子供の話し声が聞こえるようだった。
 壬生は、その絵本だけを手にして、貸し出しカウンターに迷わず足を向けた。らしくない絵本を抱えた高校生は、周囲に奇妙に思われただろうが、壬生は全く頓着しなかった。
 壬生には、確かに予感があったから。


 夕暮れの桜ヶ丘病院。診察時間のぎりぎりに、壬生は門をくぐった。母親の薬を取りに、壬生はしばしばこの病院を訪ねている。今日も、母親の薬を取りにきた。
 今、母親が入院している病院の医師は、他の病院の医師が処方した薬を飲ませることに、当然のごとく最初いい顔をしなかったが、目に見えて母親の具合が良くなくなっていることを目の当たりにして、少なからず納得しているようだ。その事実に、壬生は安心している。
「あ、おねえちゃん!一番星!」
「きれいね」
「一番星を見つけたら、お願い事をするんだって」
「そうなんだ。何か、お願い事した?」
「うん!」
「何?」
「内緒!」
 実にかわいらしい話し声とくすくすと笑いあう声が聞こえてきた。見ると、病院の前に広がる庭で、車椅子の少女と、屈みこんで少女と同じ視線を保っている看護婦の姿があった。
(比良坂さん…)
 しばらくすると、こちらの視線に気付いたのか、比良坂が振り返って声をかけてきた。
「壬生さん?」
 辺りを覆う夕闇の中、街灯の灯りを頼りに目をしばたかせる。
「やあ、邪魔をしてしまったかな」
「そんなことありません。…良かったら、こちらで星を見ませんか?」
 ほのかに頬を赤らませ、ためらいがちに壬生を誘うと、比良坂の看護服の裾をつんつんと引っ張る小さな手があった。
「おねえちゃん、あのおにいちゃん、誰?」
「ええとね、時々お母さんのお薬を取りに来る、優しいお兄さんよ」
 説明になっているような、なっていないようなその言葉は、冷たい壬生の雰囲気に顔を硬くしていた少女の表情を緩ませた。そういえば、マリィも壬生を見るとき、そんな表情をしていた。比良坂のように、マリィの緊張がほぐれるような言葉を、壬生も吐ければいいのだが。
「そうなんだ!えらいねえ、おにいちゃん」
 あどけない笑みを浮かべるその少女は、顔から笑みを消すと、少し逡巡してから再び口を開いた。
「…あの、お母さんは、大丈夫なの?」
 まだ小さな少女なのに、随分大人びた気の使い方をするものだと、壬生は目を見開いた。普段はあまり見せない微笑みを少女に向ける。
「ああ、良くなっているよ」
「良かった」
 今度こそ、屈託のない笑みが眩しいほどにこぼれる。
 しかし、そんな笑みを浮かべても、少女の顔色は真っ青なままだった。周囲を覆う薄い闇の所為と言うにも、その青さは異常。パジャマから延びている腕も、痩せているを通り越して、細過ぎだ。
 一目で、かなりの病気を持っていることが壬生には知れた。が、知らぬ顔をし、問いかける。
「星の話をしていたみたいだけど、星が好きなのかい?」
「うん!…でもね、ここは街が明るいから、あまり見えないんだって」
「そうだね。3等星以下は見えないだろうね」
「さん…とうせい?」
(そうか)
 壬生は妙に合点がいった。先刻から脳を離れない予感はこれだったのだ。何故、その予感が壬生の脳裏に浮かんだのかは分からないが。
 壬生は、小脇に抱えていた絵本を差し出した。
「これを、読むかい?」
「わあ!お星さまのご本なの?」
「そう」
「うん、読みたい!」
「良かったわね」
「うん!ありがとう、おにいちゃん!」
 少女と一緒に絵本を覗きこんでいた比良坂が少女に話しかけると、少女は嬉しそうに絵本を抱きしめた。
 この明るい夜空でも、その存在を主張するかのように、シリウスははるか頭上で輝いていた。


「ごめんなさい、壬生さん、遅くまでつき合わせてしまって」
「構わない。僕が好きでいただけだからね」
 しばらく、病院の庭で星空を見上げた後、少女を寝かしつけた病室を後にし、比良坂は言った。
「すぐにお薬用意しますね」
「ああ、助かる」
「………」
「?」
 比良坂は、考え込むようにしばし沈黙し、はたと足を止めた。つられるように、壬生も足を止める。
「…比良坂さん?」
 比良坂は、壬生の顔を見上げ口を開こうとして、しかしためらい、再び俯いた。
 言ってはいけない。言っては、いらぬ心配をかけて壬生を巻き込むことになる。それは、自分自身でどうにかしようと決めたはずではなかったか。
 消灯が近づいた病院の廊下は静まり返っている。床に姿を写しているのは、比良坂と壬生だけだ。
 心の中で、言ってしまいたい衝動が浮いては消えてを繰り返していると、苦い表情がにじむのを押さえられなかった。そこに、比良坂の表情を察知したのか、壬生が比良坂の顔を覗きこんで、声をかけてくる。いつも通りの冷静な声音を聞いていると、それは比良坂の胸の内から溢れ出した。
「どうかしたのかい?」
「壬生さん、…あの子…」
「うん」
 何気ない相槌に、なぜか嗚咽がこみ上げてくるのを止められなかった。心に詰めて蓋をしていたはずのものは、勝手に溢れ出して、元に戻す方法を比良坂は知らない。
「……あの子、ね…」
「うん」
 特に焦らせるわけでもなく、壬生はただ比良坂の言葉に耳を傾けている。
「あの子は…」


「あの子は、もう長くない」
 岩山は、ぴくりとも表情を動かさず、言った。岩山に呼ばれ、診察室で岩山の前に神妙な面持ちで椅子に座っていた比良坂は、言葉の意味を飲み込めず、しばし呆然としていた。
「…どういう…ことですか?」
「そのままの意味だよ。あの子はもう、長くは生きられない」
「…長く、ってどれくらい…ですか?」
 自然、声が震えていく。唇は体温を失って冷たく、感覚が薄れていく。
「長くて一ヶ月。状況次第では明日死んでもおかしくない」
「…そんなっ…」
 思わず、比良坂は顔を覆った。「どうにかならないんですか」とは言えなかった。岩山が、人の命を救うことに手を抜くはずがない。岩山の精一杯は、これが限界だったという意味なのだ。
 岩山は、凄腕の医師として知られているだけでなく、その懐の広さでも知られていた。全ての病人に門を開き、それを拒まない。
 詰まるところ、他の病院で手の施しようのなくなった病人を預かっているのである。
 それは、言うまでもなく、医師にとって最も辛いところだった。
「医師は万能ではないよ。それどころか、いつも医師というものの非力さを思い知らされる。薬や器具がなけりゃ、ただの人間だからね」
 以前、岩山はその大きな顔全体を歪めるような笑みを自嘲気味に浮かべながら、そう、比良坂に話している。その表情が、読み取りにくいものの、とても寂しそうだったのは、比良坂の気のせいではないはずだ。
「だからね、もう、あの子には会わない方がいい」
「なぜですか!?」
 比良坂ははっと顔を上げ、その言葉の意味をつかみきれず、岩山に問い返した。その頬は、いつのまにか涙で濡れている。
「それは…」
 岩山は、比良坂から目を逸らし、言いにくそうに口を閉ざした後、意を決したように比良坂の健気な眼差しを受けとめる。
「それは、比良坂、あんたのためなんだ」
「わたしの、…ため?」
「そうさ、おまえにゃまだ早過ぎる」
「そんなこと、ありません!」
「まあ、お聞き。おまえだって、看護婦って職業を選んだんだ。これが、避けられない運命だってことは知ってるね?」
 比良坂は、神妙な面持ちで、こくりと頷く。
「でもそれは、思ってたより、用意していた覚悟より、辛いものなのさ」
「……」
「それは、患者と仲良くすればするほど、顔を会わせれば会わせるほど、辛くなる。だから、慣れない頃は、できるだけ患者と仲良くしないことだ。情が移ってしまったら、戻れなくなる」
「戻らなくてもいいんです」
 比良坂の強い意思を宿した瞳に、若干の驚きを覚えながら、岩山は続けた。
「慣れる慣れないっていうのも、変な話だねえ。あたしゃこの年齢になっても、嫌なもんさ。それを、おまえみたいな若い子が背負いこむことなんてないんだよ?」
「私、ここで逃げたら、後で絶対後悔すると思うから。あの子のこと、好きだから…。上手く言えないんですが、悲しくても、辛くても、必要なことってあると思うんです」
(随分、いい子が揃ったものだねえ)
 岩山は、真っ直ぐにみつめてくる比良坂を通し、彼女の仲間達の顔をそれぞれ思い返していた。優しく、強い、愛すべき子供達。
 岩山の沈黙を、怒っているものと勘違いしたのか、比良坂は心配そうに問いかけてきた。
「…ごめんなさい、私、生意気なことを言ってしまって…」
「そんなことないさ」
 ごくたまにしか見れない、優しげな笑みを浮かべ、岩山は比良坂を見つめ返した。
「頑張るんだよ。あたしがついてるからね」
「それじゃあ!」
「ああ、今まで通り、あの子のことを頼むよ」
「はい!」
 一変して表情を輝かせた目の前の少女に、岩山は一片の不安を覚えた。その真っ直ぐ過ぎる心に。
「でも、これだけは覚えておくんだよ。おまえは一人じゃない。一人で背負いこむことなんて、全くないんだ」


 でも。
 比良坂は、そのときすでに、一人でどうにか頑張っていこうと決めていたのだ。
 が、日に日に痩せていき、顔色が優れなくなっていく少女を見ていると、少女に会っている間だけでもその悲しみを隠そうと決めた心が危うくなってきている。
「どんなに…」
 比良坂は、俯いたまま呟く。
「どんなに願っても、救えないものって、やっぱりあるんですね…」
 知っていたけど。
 辛酸をなめる生活をしてきた自分を忘れていたのだろうか。当時、世間で言う「家」は、比良坂にとって「監獄」だった。
 救われないと分かっていても、毎日願っていた。
 本当の「家」に帰りたい。自分の注いだ愛の半分でもいいから、愛を返して欲しい。
 それは、ささやかな願い。
 でも、叶わなかった願い。
「あの子が死ななければならない理由なんてあるんでしょうか。あの子が何か悪いこと、したのでしょうか」
 少女の面影に重ねられていく、以前の自分。願いも救いも、全てが星のありかのように遠い。遥か遠い星へ、何年もの時をかけて届く輝きも、その胸には儚い。
「もう、愛すべき人達を失うのは嫌なのに。こんなに願っているのに。あの子は死ななければならないの?」
「………」
 壬生は、比良坂の独白とも言える問いかけに、始終無言だった。その表情には、ほんの少しの困惑があったが、迷惑そうではなかった。
(ああ、やっぱりそうなんだ…)
 その壬生の表情を見て、比良坂は絶望してしまったのかもしれない。
 もう、それは仕方のないことなんだよ。
 今更何を言う。
 それは、壬生が発した言葉ではない。以前、比良坂が耳にした、胸をえぐる言葉。
 はらはらとこぼれていた涙に気付き、比良坂は顔を覆う。多分、酷い顔をしているに違いない。関係のない壬生に、これ以上醜態を晒したくはなかった。
 こらえようと思うその喉の奥から、嗚咽がこみ上げてくる。顔を覆っても、涙は止まることはなかった。
 そっと、頭を撫でる暖かな手があった。額に、制服の感触がある。
 壬生が無言のまま、比良坂の顔を胸で隠した。その暖かい胸で、比良坂はしばらく泣いた。


 そろそろ、診療が終わる時間。人がまばらになった病院を、看護婦の仕事を一区切り終わらせた比良坂が、ぱたぱたと走っていた。ナースステーションに顔を突っ込む。
「あの、あの子、知りませんか?」
「あの子?……ああ、さっき庭に出ていったわよ」
 応えた看護婦に、言葉少なに感謝を告げると、庭に向かう。一分一秒も、少女に会う時間を無駄にしたくないから。少女の苦しみは、自分が一番最初に共有してあげたいから。
 壬生の胸で思いきり泣いてから、そんな思いがあった。
「あれは、何?」
「シリウスだよ。東京でも、あの星は見えるね。一番明るい星だから」
 庭で、暗くなり始めた空に向かって、小さな手が延べられる。かわいらしい指は、ひとつの明るい星を指した。
 暗闇の中、車椅子とその隣に長身の体を小さく屈めている姿があった。
「きれいだなあ。私、あんな星になりたいな。知ってる?おにいちゃん。人って、死んじゃったら星になるんだって」
 比良坂は、その言葉を聞いて、体を凍りつかせた。すぐにでも傍に寄って、「死ぬなんて、何を言ってるの?」と言いたかったが、足は動かなかった。
 あの幼い少女は近いうち、死んでしまうのだ。嘘など言って、どうする。
 比良坂には、かける言葉が見つからなかった。
「そうだね。知っているよ。それじゃあ、僕はその隣の星になろうかな」
「本当!?じゃあ、寂しくないね」
「ああ、そこにいるからね」
(壬生さん…)
「それに、いつもこうやって星を見上げている」
「そうだね。お星さまになっても、私はみんなを見ているよ」
「じゃあ、寂しくなんてないな」
「うん!」
 星は、そこにいるから。
 私達は、ここにいるから。
 比良坂は、じんと暖かくなった胸に手をあて、ゆっくりと息を吐き出すと、足を踏み出した。
 少女達と一緒に、星を見るために。


 いつも通り、少女を病室で寝かしつけると、比良坂は壬生を振り返った。
「今日、いらしてたんですね」
「ああ、ちょうど近くに寄ったから」
 例え近くに寄ろうと、来る意志がなければ、壬生はここにはいない。
「あの、壬生さん」
「なんだい?」
「ありがとうございます」
 何か、他にも言いたかった言葉があったはずだが、思いついたのはそれだった。胸の奥から、暖かいものが溢れてくる。
 壬生は、比良坂の笑顔に少し驚いたようだったが、顔を背けると、
「いや」
と、一言だけ言って、口をつぐんだ。
 その顔が、ほんのり赤らんでいたと、比良坂は思う。
 今日もまた、星達は遥か頭上で瞬いている。それは、確かに遠いところに存在しているかもしれない。が、その吐息がすぐ傍で聞こえてくるのは、気のせいではないはずだ。


 もう大丈夫。
 あの子は死ぬかもしれない。でも、それが全てじゃない。
 私は、あの子が好きだから、ずっとそばにいる。
 そこにいるから。


END


5678を踏んだあみあ様のキリリク。
人様へ差し上げられるのもになってないような気は、ちょっと無視しておく。(涙)
「比良坂が壬生に惚れるところを」とのリクエストでした。これが限界でした。(笑(←笑い事じゃねえ))

どうしても壬生がかっこ悪くなってしまう、との悩みを克服する手段をついにryoは見つけました。
壬生視点で書かない!
壬生の心理書いちゃうと、かっこ悪さが露見しちゃうから!
(…それって解決になってないんじゃあ…)

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