やさしい眠り


 あの日、自分の無力さと、非情な選択に虚無感を思い知らされた。
 倒れた兄を抱いたまま立ち去った親友は、その後行方を断った。今、手元にあるものは、過去の記憶と、暗く沈んだ未来。
 過去は過去であって、やはり、戻っては来ないのだろうか。
「恭介、もう私達のところには戻ってこないのかな…」
「……」
「もう一生会えないのかな…」
 そう言いながら、傍らの少女は涙ぐんだ。ここのところ、毎日見ている表情だ。
「……恭介を、信じようぜ」
「……でも、こういう時こそ側にいてあげるのが、友達じゃないの?うまく話せないかもしれないけど、側にいれば、そのうち…」
「…多分、さ。あいつらは、俺達が思うよりずっと、兄弟だったんだよ」
「?」
「俺は、あんなことになる前は、恭介はやつのことを憎んでると思ってた。兄弟なんだからやめろよ、って俺が恭介を止めていると思ってたんだ」
「……」
 …それは、少女、―――ひなたも同じだ。でも―――。
「でもさ、実際は違ってて、二人とも、自分犠牲にするくらいすげえ相手のこと気遣っててさ。
…俺には立ち入れないと思った」
 バツは、教室の机に座ったまま、夕暮れの校庭をぼんやりと見やると、言葉を選ぶように続けた。
「信じようぜ。俺達のすべきことは、それだけだと思うんだ」
 あの日の恭介の後姿は、悲しみであふれていたのと同時に、何者も拒絶していた。多分、窮地を共にした自分達でも、受け入れてはくれないだろう。
 その現実に、バツとひなたは打ちのめされた。
 信じよう、と思う心の裏側に、信じることぐらいしかできないという、無力感がある。
 目を閉じると、鮮明に浮かび上がってくる記憶。いろんな苦しいことがあったはずなのに、なぜか記憶の親友はまぶしいくらいの笑みを浮かべている。
 バツは知っている。その表情は、誰にでも向けているものではない。
「…やっぱり信じてえな。恭介のこともだけど、恭介が俺たちのことを信じてくれてるってこともさ。
…うまく言えねえけど」
 頭にある思いがうまく言葉にできず、バツは顔をあからめた。
 その顔を見て、ひなたは涙を拭うと、その名の通り、日向のような笑みを浮かべた。
「そうだね。私も信じたい」


 緩やかな日差しが部屋を満たす。眼下には、緑に包まれた緩斜面の先に青い海が見える。海岸には、民家が並び、小さな町を形成していた。
 ふとふいてきた風が、白いカーテンを揺らす。窓際に立っていた少女は、長い黒髪を耳にかけた。
「あれ、来てたんだ」
 キィと、ドアの開く音がして振りかえると、見慣れた顔がそこにはあった。
 短く切りそろえられた、暖色の髪。余裕のある服を着ていても分かる、引き締まった筋肉、長身の体躯。整った顔のメガネの奥には、神経質な瞳が覗いている。
「恭介さん」
「やだな、恭介でいいって言ったじゃないか」
 そう言って、恭介はすたすたとベットに歩み寄った。
「今日も落ち着いているみたいだね」
「はい、以前のように、生死の境をさまようことも、うなされることもないです。表情もすごく安らかですし」
 黒髪の少女も、ベットの側に立つ。
 白い壁の部屋の、白い清潔なシーツで包まれた白いベット。枕元には切花が飾られている。
 病院の個室。
 ベットには、恭介のたった一人の兄が横たわっている。
 あの日、完全に我を失っていた恭介に、バツ達の元を去ってからの記憶はない。ただ、ふと気づくと、やわらかな緑に包まれた森におり、腕の中の変化に気づいた。
 微かな鼓動と、暖かな感触。
 ―――思えば、あれは父上の死だったのだろう。
 しかし、父上の人格が人間の器で壊れたとき、器である兄は、肉体的にも精神的にも大きな衝撃を受けた。
 あの日から、兄は目を覚ましていない。
「ここのところ、今このときにも目を覚ましそうな予感があるんです。だから、ここにずっといてしまって…」
「ありがとう。兄さんも君がいてくれて喜んでるはずだよ」
 取り乱した恭介が、真っ先に連絡を取ったのは、この少女だった。
 兄がこの少女の前でだけ、やわらかな表情を浮かべていた。そんな兄を、今までに見たことはなかった。
 嵐のような激しい気性に、ひとひらのぬくもり。段々と氷が溶けていくような兄を見て、言葉にできないほど嬉しかったのを覚えている。僕には、最後までできなかったことだ。
「……あの、前から言いたかったことがあるんです」
「?何?」
「バツさん達には、いつ連絡するんですか?」
 恭介の表情が、一瞬にして強張った。まずいことを言ってしまったのかと、少女の顔が心配そうにゆがむ。少女のせいではないと、慌てて言葉をつむごうとして、舌がもつれた。
「そ、それは…」
 ひとつ息をすると、恭介は再び口を開いた。
「いつかは連絡しようと思ってる。…でも、今の僕にはバツ達に会わせる顔がないから…」
「私が言うのもなんだとは思うんですけど、バツさん達は、どんな状態であれ、恭介さんを信じて待っていると思うんです」
(そうかもしれない…。でも…)
「でも、それに甘えていいのか、と思って…」
「甘えとか、会わせる顔とか、恭介さんとバツさん達ほどの深い間柄には、関係ないんじゃないでしょうか」
 確かにそうだ。
 僕は、バツ達に会わせる顔がないという口実で、自分に自信がないのを見ないようにしていたのだ。
 兄がこの少女に心を許したのも、分かるような気がする。この小さな身体のどこにそんな力が秘められているのか…。
「そうだね。じゃあ、会ってくるよ」
 ありのままの自分をさらけ出すこと、そして認めてもらうこと。不安がないわけではない。でも、僕も信じよう。自分を、バツとひなたを。
 なにより、素直な自分は、ただ側にいることを望んでいるのだから。


 跳びこんできた暖かな白い世界。そのまぶしさに、ゆっくりとまばたきをすると、傍らにたたずむ優しげな表情に気づいた。
 ゆっくりと顔を向ける。
 傍らの少女は破顔した。
「おはよう」

…。やっちまいました。
これが私の往生際の悪いssです。
でも悔いなし!!
笑いたけりゃ、笑えー。(涙)


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