空色と太陽 前
外は、文字通り、バケツをひっくり返したような雨。 夕方の薄暗闇というよりは、厚い灰色の雲に覆われた空は、夜闇と言ってもよさそうだった。そんな暗い空から降ってくる雨粒は大きく、振り落ちる軌跡は遠目から見てもくっきりとしたいくつもの線となって地面に激突していた。跳ねるしぶきはとめどなく、地面に薄く張った水面には、波紋が重なり、小さな波を作っていく。 如月骨董品店の店主、如月は、突如降り始めた土砂降りに、小さくため息をつき、今日はもう新たな客を見込めないと踏み、店じまいを始めていた。 そんなところ。 土砂降りの中、薄暗い店の前で仁王立ちする人物がいる。 こんな時分に、店の前でそんな格好をする知り合いは、如月の記憶するところで一人しかいなかった。 「雪乃さん。そんなところで何をしてるんだい?」 強烈な雨が作り出す雨粒の直線に遮られ、店先に立つ彼女の表情は判別できなかった。 薄暗闇と雨で染められた制服は、重力に逆らうことなく、とめどない雫をしたたらせている。その肩には、雨粒が当たって砕けてを繰り返していた。 それでも、雪乃であるはずの姿は、動こうとしない。 「雪乃さん?」 相手が動きそうにないのを見て、如月は愛用の蛇の目傘を開き、彼女を店に引き入れようとする。せめて、店先の屋根の下で雨を凌がせさせたいと、手を伸ばした時、彼女がビクリと肩を震わせて、自ら屋根の下に潜った。 これだけの雨だ。たとえ傘を差したところで、如月が雨に濡れることは避けられない。 そう、彼女は判断したらしかった。 「なんだ、やっぱり雪乃さんじゃないか」 衣服を着たまま海に飛び込んだのではないかと思うほど、雪乃はずぶぬれになっていた。どれだけ、この土砂降りの中を傘も差さずにいたというのだろう。 「どうしたんだい?」 とにもかくにも、まずは濡れた衣服をどうにかしないと、風邪を引いてしまう。随分と暖かくなったが、まだ3月だ。このままいれば、体が冷え切ってしまう。 そう思って、如月が手を伸ばすと、雪乃は慌てたように腕を引っ込めた。 なぜ拒まれたのだろう?と如月が首を傾げると、雪乃が呟く。 「…が……く」 「何?」 「如月が濡れたら、風邪を引く」 ぷっ。 雪乃のいたって真面目な言葉に、如月は思わず吹きだしてしまっていた。途端、雪乃の顔が真っ赤に染まる。 「…なっ!」 「いや、ゴメン。それはこっちのセリフだったからさ」 この場合、相手が風邪を引くことを心配するのは、ずぶぬれな者の役割ではないだろう。さらに言えば、男性である如月が、女性の身体を心配するのが常道というものだ。 「まあ、とにかく。入りなよ。そのままでは風邪を引く。…雪乃さんがね」 今度こそ、お互いの意識の差異をなくすために、如月は雪乃の名前を呼んだ。そして、問答無用で雪乃の腕を掴む。 「…如月がっ、濡れる…!」 「僕は、構わないよ」 そのまま、掴んだ腕を引く。雪乃の制服の袖は、触れるだけで含んだ水が溢れ雫が落ちそうに、めいっぱいの水分を吸ってずっしりと重くなっていた。袖の布越しに、冷えた雪乃の腕を感じ取る。 如月は、眉をひそめた。 「随分と冷えてるじゃないか。直ぐに風呂を沸かすよ。タオルと浴衣を貸すから。風呂が沸くまで身体を拭いて、浴衣に着替えていて。暖房もつけよう」 矢継ぎ早な如月の言葉に、雪乃はおろおろとしつつ、引かれた腕から如月の手を離そうと手をかける。 「き、如月っ。いや、いいよ。直ぐに帰るから。どうせ、ここまで濡れたんだし、帰りに雨に濡れたって変わんないから…」 「言い訳は、聞かないよ」 そう言って、如月は雪乃を強引に家の中に引き入れた。 店の戸を閉める。耳を打っていた雨音が、急に遠ざかって、どこか別の世界のことのように思える。相変わらず、如月の家の中は静かなままで、遠い雨音だけが、音として存在していた。 そうして初めて、耳の半分以上を雨音が占めていたことに気づく。 ぽたぽたと、雪乃の制服と言わず、髪と言わず、いたるところから雫が垂れ、コンクリートを打ち付けた床に、次々と丸い染みを増やしていく。 「店が濡れる…」 「別にそんなの、構わないから。それより、雪乃さん、貴方の方が重要だから」 至極当然のように、如月は言いのけた。 雪乃を引っ張り、表情の見えない後姿だけれども、雪乃への真摯な思いが伝わってきて、雪乃は申し訳ないような面映いような、不思議な感覚にどんな表情をすればいいのか困っていた。 (仲間ってだけなのに) それ以上ではない関係。なのに、何故こんなにしてくれるんだろう。そう思って、なぜそんな卑屈めいたことを思ったのか、雪乃は首をかしげた。 「じゃあ、濡れた服で縮んでもいいものは乾燥機に入れて。制服は部屋で干そう。タオルはここだから。それと、はい、これ。この浴衣に着替えて」 てきぱきと説明しながら浴室を案内する如月に、雪乃はさらに面食らった。 「わー、ちょっと待て。ゆっくり説明しろ。って違う。そうじゃなくて、この浴衣、売りもんじゃねーか!」 「そうだよ」 「そうだよ…って」 「生憎、うちに女物の服はないからね」 「…これ、高いんじゃないのか…?」 「さあ、僕には女物の着物の価値なんて、分からないけど。値は、客がつけるものだし」 少々の嘘をつく。雪乃に手渡した浴衣は、昔の職人が作った一点ものだ。着物を知っている者が見れば、よだれを垂らすくらいのものではある。 「でも、この染めは…」 「じゃあ、僕の私服でも着るかい?」 「…う。…いや、これでいい…」 下手に話を長引かせると、雪乃が訝しがる。神社の娘だ。幼い頃から、神道にちなむ骨董品などに触れてきたに違いない。それなりに古い物を見る審美眼はあるだろう。 嘘を隠すために貼り付けた営業用スマイルで、如月の思惑を勘違いしたのか、雪乃はまったく突飛なことを口にした。 「あ、いや!如月の服が嫌ってわけじゃないからな!」 「は?」 「俺としてはどっちでもいいってだけで。如月の服でもいいけど。なんか恥ずかしいっていうかなんというか…」 「…ぷっ」 「なんだよっ!」 一瞬呆気に取られた如月が、たまらず吹きだすと、雪乃は火が噴くように顔を真っ赤にさせた。 相変わらず、かわいらしいことを言う。 「いや、なんでもないよ。じゃあ、僕の服をご所望なら、呼んでくれ」 「…分かった」 おかしそうにくっくと笑う如月に不服そうな雪乃だったが、しぶしぶ頷くと、如月が扉を閉めるのを見送った。 相変わらず、雨は止まない。 先刻までのシャワーの音が、そのまま雨音に変わったんじゃないかと錯覚するほど、土砂降りの雨は続いていた。浴衣を身につけ居間に戻ると、つけっぱなしのテレビが突如の異常気象を伝えていた。風雨にさらされ必死に話すレポーターの表情が、そのまま現状の異常さを物語る。 「どうやら、電車も全て止まってるみたいだよ」 居間の奥の台所でこちらに背を向けている如月が、襖の音で気づいたのか、雪乃に声をかけてくる。 テレビの画面を見つめていると、膝下まで泥水につかりながら街中を歩く人がまばらに映る。本当にこれは東京の映像かと疑うような模様だ。 「凄いみたいだな…。洪水じゃないか、コレ」 「しかも、雨は深夜まで続くらしいよ」 「うーん。そうなのか」 唸るように考え込んだ雪乃は、帰る手段をひとつづつ洗い出してみた。 ふと、鼻をくすぐる匂いに顔を上げる。居間の中央の膳には、ついさっき如月が置いたばかりの器が湯気を上げていた。ああ、厚揚げとがんもの煮物だなぁ、なんて無意識に思う。 「これから食事なのか。悪かったな、そんなところに邪魔して」 その反応に、きょとんとした如月は、相変わらずの雪乃の遠慮した態度に小さな笑みを浮かべた。 「ああ、違うよ。これは、これから僕と雪乃さんが食べる夕食」 「へ?」 予想もしていなかったのか、間抜けな雪乃の声に、如月は今度こそくすりと笑った。 「こんな天気だからね。泊まっていけばいい」 「えっ?…いや、いいよ!帰るって」 「どうやって?」 確かに。 考えてはみたものの、帰る手段は一向に思い浮かぶ気配がなかった。 「…歩いて、とか…」 「賛同しかねるね」 …まあ、確かに、雪乃が如月の立場でも、同じように応えたに違いない。 「いいのか?」 「いいと思わなければ、提案しないと思うよ」 決まりが悪そうに、雪乃は表情を曇らせる。申し訳なさそうな声で、続けた。 「悪い。それじゃあ、甘えていいか?」 「もちろんさ」 「じゃあ、食事を作るの、俺も手伝うから!」 如月の穏やかな表情に、雪乃はぱっと表情を明るくさせると、声を上げる。先刻までの元気のない雪乃の表情を見ていられなかった如月は、雪乃の普段見る明るい笑顔にほっとしたものの、軽く首を傾げた。 「客に食事を作らせるなんてできないさ」 「意外と古風なんだな。それに、俺は客じゃないぞ」 そう言いながらも、腕まくりをして台所へ雪乃は向かう。 「客じゃなかったら、何だい?」 「急遽の異常気象で転がり込んだ厄介者」 なんだそりゃ、と思いつつ、如月は諦めたようにひとつため息をつく。 「…とりあえず、客にしておいて欲しいな。個人的に…」 「これでも、意外と材料を切ったり剥いたりするのは上手いんだぜ」 そう言っていた通り、雪乃は器用に野菜を切り刻んでゆく。 「へえ、本当に上手いんだね」 「調理はできないっつーか、したことないけどな。炒めたり煮たりするのは雛の役割だから」 その雛乃には、先刻、如月の家に泊まる旨を伝えてある。雛乃のことだから、上手く家族には説明してくれているだろう。 「本当に、雪乃さんと雛乃さんは仲がいいんだな」 「?そうか?双子だったら普通だろ?」 「僕は、兄弟がいないから、想像がつかないな」 それどころか、家族の愛というものにも縁遠い。この広い家に独りで住んで、一体何年経つのか。 表情を暗くした如月に気づいていないのか、雪乃は明るい声のまま続ける。 「そっか。如月って一人っ子だったんだな。でも、今は兄弟がいるようなもんじゃないか」 「兄弟?」 「最近、村雨とか飛羅とか、まめに来てるって聞いてるぜ?」 「ああ…」 どう間違っても、『友達』とか『兄弟』とか呼びたくない仲間のことを思い浮かべる。『友達』なんて気持ち悪い。アレらは、『悪友』でいいのだ。『悪友』で。 …別に、嫌っているわけじゃない。むしろ『悪友』と呼べる気安さに、如月は絶大の信頼を寄せていた。その気持ちを素直に口に出すことは、決してしないが。『悪友』な連中も、絶対に口にしないだろう。 それを『兄弟』と呼ぶところに、雪乃の強引さというか、純粋さというか、そんなものを感じ愛しく思うのは、末期なんだろうか…。 「それにしても。如月って、料理上手いんだなぁ」 「そうでもないよ。独り暮らしだから、仕方なしに自分の食べる分を作っているだけさ」 味噌汁の鍋に手早く味噌を溶かしこむ如月の手つきは、実に手馴れている。 「十分上手いと思うけどな」 先刻味見した炒め物も、絶妙な塩加減だった。 「いつもは一人分だから、いまいち二人分は慣れてないよ」 「いや、ホント美味かったし!いい主夫になれんじゃねーか?」 ガハハとオヤジのように笑う雪乃が如月の背中を叩く。少々肩を落とした如月は、恨めしそうに雪乃を見た。 「あまり褒められている気がしないな…」 その言葉を受けて、雪乃は本当に不思議そうに首を傾げた。 「じゃあ、雪乃さんは、ここで寝て」 「如月は?」 「僕がいつも使っている布団だけど、勘弁してくれよ」 雪乃の問いをあえて無視して、如月は付け加える。 夕食を終えた後、しばらく洪水の様子を伝えるテレビを見つつ、ちらほら喋っていた如月と雪乃だったが、夜半を過ぎた頃に雪乃があくびをひとつし、寝ようということになった。 居間の隣の寝室で、畳に敷かれた布団を指差し、如月は部屋を出て行こうとする。 「如月は?」 少し強めの口調で、雪乃は同じ問いを再度口にした。 有無を言わさぬ口調に、襖に手をかけていた如月は、諦めたようにため息をついてからゆっくりと振り返る。 「この家には、布団は一組しかないんだ。…必要ないからね」 寝泊りするのは、あくまで如月しかいない。一人しかいないこの家に、布団など一組以上あっても仕方ない。泊まってゆく来客だって、如月の記憶する限り、一人としていなかった。 「じゃあ、どこで寝るんだよ」 「大丈夫」 「…応えになってない」 こういうところは、本当に雪乃は強情だと思う。一歩だって引く気配はなかった。 「…居間で寝るよ」 「全然大丈夫じゃないじゃないか。ここで寝ろよ」 如月は思わずぽかんと口を開けた。何を言っているのか、本当にこの人は分かっているのか? 「…雪乃さん、言ってる意味を分かっている?」 「もちろん、分かってるさ。でも、二人くらい、布団一組で寝れるだろ?」 いや!まったく!本当に!分かっていない! 如月は、声を張り上げるために肩をいからせたが、何かが脳を突き抜けていってしまうと、今度こそがっくりと肩を落とすハメになった。 「大丈夫だ。こう見えても、結構寝相はいい方だから」 (勘弁してくれ…) とうとう畳に手をつきうなだれた如月は、雪乃の顔を見上げられないまま、心の中で呟いた。 「久しぶりだなー。ひとつの布団で一緒に寝るなんて」 「随分と嬉しそうだね…」 重い頭をゆっくりと持ち上げながら、如月は恨めしそうに声をかける。案の定、そこには雪乃の浮き立つ表情があった。 「ああ。前は雛と一緒に寝たもんだけどなー」 「そ…」 「?」 あまりのショックに、如月は続く言葉を飲み込んだ。 それは、僕が雛乃さんと同じとしか思われていないということか…! 男として、見てもらえていないと…! そういうことか!! 「分かった」 「?」 ああ、もういいや。もういいさ。 やけっぱちになって低い声を発すると、如月はかけ布団をめくった。 雪乃が寝てしまったら、早々に居間へ引き上げよう。そう思い、覚悟を決める。 嬉しそうな雪乃も、布団にもぐりこんできた。二人の体温で、一気に布団の中は暖かくなる。予想以上に、見合わせた顔は近くにあった。呼吸する息さえ、頬に暖かく感じるほどだ。 強張ったままの如月の表情に対して、雪乃は修学旅行の生徒のようにはしゃいでいる。 「なんか、久しぶりだな。雛ってさ、結構恐がりなんだ。だから良く『一緒に寝ていい?』って、言ってきたっけなぁ」 懐かしむように言う雪乃に、多少余裕の出てきた如月は、本当だろうかと思った。如月が二人に感じていたのは、正反対で…。 「本当かい?むしろ、雪乃さんが雛乃さんに泣きついてたんじゃないのかい?」 「なっ!そんなわけないだろ!」 反応は案の定で。むきになって否定するところが、本当に分かりやすい。 きっと、『恐いから一緒に寝ていい?』と聞いて、相手の布団にもぐりこんだのは、雪乃の方なんだろう。 「一緒の布団で寝て、雛は喜んでたんだからな」 「…そうだね」 口を尖らせる雪乃に、こみあげてきた笑いをこらえながら、如月は同意する。 雛乃が安心して喜んだというのは、きっと嘘ではなかった。傍にある体温の温もりと、雪乃の明るい笑顔に、如月は遠い昔の双子の様子が目に浮かぶ。 遠い昔の雛乃の気持ちが、心にしみこんでゆく。 「暗い中で、二人で顔を見合わせて、『大丈夫、大丈夫』って言い合うんだ。そうすると、…暗闇に恐いものがいるなんて思わなくなって…、二人でいれば恐くないって…、そう思えて…きて……」 うつらうつらと、落ちてゆく瞼に、雪乃はとうとう寝息をつき始めた。身体が暖かくなって、急激に眠気を催したのだろう。安らかな寝顔に、如月の表情も自然と綻ぶ。 しばらく安らかな心地で雪乃の寝顔を眺めていた如月だったが、ゆっくりと布団から身を退けようとすると、頭におもむろに延びてきた手があった。 くしゃりと、柔らかく掌が如月の頭を撫でる。 「…もう、これで…恐くないだろ?…」 瞼は閉じられたまま、穏やかな雪乃の笑顔に、なぜか、胸にせり上がってくるものがあった。 きっと、寝言だ。それに、相手は夢の中の雛乃に違いない。 雪乃の見ている相手は、如月ではないというのに。 それでも。 温かい聖域に胸が熱くなり、頬を伝うものがあった。 がばり、と。 目を開いた瞬間、何の考えもないまま、反射的に起き上がった。考えるのは後でいい。考えるのは後で良くて…。 「…な…!」 思わず声が出た。 いつのまにか寝ていて、いつのまにか部屋は明るくなっていて、いつのまにか布団に雪乃はおらず…。 …いつのまにか、雪乃と一緒に寝てしまっていた…! 目を開いた時からフル回転で動く脳が導き出す結論。それは、如月が眩暈で身体をぐらつかせるに十分な衝撃だった。 「あ、如月、起きたのか?ぐっすり寝てるみたいだったから、起こさなかったぞ」 それほど探す必要もなく、衝撃の原因の彼女は、いたって暢気に縁側で足をぶらつかせていた。居間から続く縁側は、昨日降った雨粒が朝日を浴びて、まばゆく輝いている。その光の中、同じように輝く笑顔があった。 「…そう…」 茫然自失というふうに、如月は呟いた。雪乃の作り出す聖域に、安心しきって寝てしまったというのだろうか。男女間の問題として、何もなかったことは良かったものの、男としてそれで情けなくないかとか、女性として雪乃は魅力がなかったのかとか。不毛なことをぐるぐると考えてしまう。 もちろん、雪乃に魅力がないなどとは、露ほどにも思っていないのだが。 …そうすると、僕がただ情けないってことだけなのか? 如月は、頭を抱えてしまう。 「如月!見てみろよ!すげーぞ!」 そんな如月の悩みなど、どこ吹く風という雪乃が、縁側から覗く空を指差した。指先の遥か先に、透き通った空気に浮かぶものがある。 「…虹…」 七色の橋が、住宅街の屋根の隙間から、半円の堂々とした姿を覗かせていた。 「こんなはっきりした虹を見るの、初めてだなぁ」 興奮したように、雪乃は破顔する。 「そうだね、綺麗だ」 「あれかな。雨が降って空気が澄んで、空がこんなに青いから、虹もこんなに綺麗に見えるのかな」 「さあ、それはどうだろう。僕は良く分からないけれど」 「空って、海と似てるなぁ」 ふと気づいたように、雪乃が呟いた。突拍子もないその言葉に、如月は首を傾げる。 「青い、ってこと?」 「うん。それだけじゃなくてさ。水って、深くなると青く見えるじゃんか。空も、空気が重なったもんだったなぁって思って。近くで見たら、透明なんだよな。水も」 如月には、そんな意識はまったくなかった。海は、暗いものだ。海の色は、空の色のような優しいものではなくて、暗く冷たく、限りなく漆黒に近い群青だと思っていた。 けれど、雪乃には、海は南国の白い砂浜に映えるエメラルドブルーが見えている。 「海って、…水って、空色なんだなぁ」 そんなこと、考えたこともなかった。 如月を縛る、水の掟。飛水の掟は、冷たい鎖となって、淀んだ群青のはずだった。 けれど、雪乃は、水を空と同じだと言う。太陽のような輝く笑顔で。 「…ありがとう」 「へ?なんで如月が俺に礼を言うんだ?」 不思議そうな雪乃に、如月はただ笑顔を返す。 「さ。朝食にしようか」 「ああ。じゃあ、手伝うぞ」 朝日を浴びた雪乃の姿を眩しそうに見つめ、如月は目を細めた。 そして、雪乃の温もりにいつのまにか寝てしまった理由が、分かったのだった。 END |
以前書いた「ある日の午後」の続編みたいな、 そんな感じです。 やっぱり楽しい如月×雪乃。 たまに書きたくなります。また書きたいなー。 これは「前編」になるのですが、「後編」は年齢制限(たいしたことない)アリなので、 サイトでは公開しない予定です。 |
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