言葉
喉まで出かかっている言葉。 言ってはいけない言葉。 手をのばせば触れられるところにいるのに、あなたの姿はこんなにも輝いていてはっきりと見えるのに、どうしてこんなに遠いんだろう。 その日、遠征から帰ってきたあの人に会いたくて、いつもは近寄らない執務室に向かった。そこは、作戦会議をする場所でもあって、戦のことをあまり聞きたくないから、好んで立ち寄ったことはない。 けれど。 久しぶりに会える嬉しさで、顔は無意識にほころび、足取りは軽かった。 雑務が終われば、私たちの部屋に戻ってくる。それは分かっていたけれど、それまで待てそうになかった。だって、今もこんなに早歩きで執務室に向かっている。青空に浮かぶ優しい日差しに後押しされ、そろそろそれは小走りになりつつあった。 漆喰の壁を抜け、臙脂に塗られた扉に手をかけたとき、部屋の中から漏れ聞こえた声があった。その声が、あまりに真剣に、低い声だったから、思わず手がとまる。 「……偵察部隊から連絡があった。怪しい動きがあったらしい」 「で?俺を狙ってるって?」 「軽々しく言わないで欲しいね。君の強さは知っているが、多勢に無勢では太刀打ちできないだろう?」 「俺が一人になろうったって、おまえらが一人にさせないじゃねえか。大丈夫だよ。おまえらのことは信頼してる」 「…かなり心配していることを、分かって欲しいんだけどね」 周瑜が、更に声を低くした。笑い飛ばそうものなら、張り倒されるだろう。その顔は真剣そのもので、軽く聞き流そうとしている孫策に怒っているようにも見えた。 孫策は、観念したようにため息をつく。 「分かったよ。気をつける」 「単独行動は、控えて欲しいね」 「…分かりました」 「ただでさえ、ひとつのことに集中すると周りが見えなくなるんだから、いつもより、本当に、気をつけるように」 「…はいはい」 「孫策!」 釘を刺しても、いたって深刻味のない返事をする孫策に、とうとう周瑜は語気を強めた。 「分ーかったって。戦場では一人で行動しないよ」 「こちらとしても、信用したいけどね。相手は、相当手筈を整えてるはずだ。罠も張られている可能性が高い。君は、そういうのに弱いだろう?」 「周瑜と陸遜がそういうのに、強すぎるんだよ」 「軍師が簡単な罠にひっかかっていては、国を守れませんからね」 「頼りにしてるぜ?」 「当然です」 本当にそれが当然とばかりに、胸を張るわけでもなく、あっさりと周瑜はそう言った。 ざあっ。 血の気が引いていく音がした気がした。 閉じられていた扉の影に身を潜め、息を殺していた大喬は、自分の顔が青ざめていくのを自覚する。 「で?俺を狙ってるって?」 頭の中で、その言葉が重い鐘のように何度も何度も響く。ぐらぐらと眩暈がして、目の前が暗くなっていった。 それはーーー。 以前、孫策が孫呉のために、奪った命。その命を大切に思う人がいて、その人は、大切な人の命を奪った孫策が、憎い。憎いから、孫策が生きているのが許せない。孫策が、生きていて、みんなから愛されて、みんなに笑い返しているのが許せない。許せないからーーー…。 分かりたくはないけれど、分かってしまう。 だって、私にも大切に思う人がいるから。 大喬も、孫策が誰かに殺されたのなら、どうなるか分からない。 「殺す」という言葉を思い浮かべただけで、大喬は肩をふるりと震わせた。嫌だ。そんな言葉は好きじゃない。 なにより、孫策のいない世界なんて、想像もつかない。青い空や木々が色を失い、底のない灰色の世界にじわじわと落ちていく。鮮やかな世界は、限界を知らずに黒くよどんで落ちていく。空気は重く、息をすることさえも息苦しい。 孫策のいない世界を、無理に想像するなら、こんな世界。そんな世界、世界とも言えない。そんな世界に生きている意味はない。 それ以上に、誰かの手によって、この世界から孫策がいなくなるなんて、そんなことは駄目だ。理屈などない。そんなことは駄目といったら、駄目なのだ。 ふいに。 喉からでかかった言葉があった。 でも、それは、言ってはならない言葉。 あの人は、この国の長たる人だから。この国のために、身を削っている人だから。…私が、こんな我侭を言ってはいけないのだ。 こらえた言葉の代わりに喉を通ったのは、小さな嗚咽。そのか細い声で、部屋の中の2人は気づいたらしい。空気の動く気配があった。 大喬は、気づかせてはいけないと、踵を返す。こんな顔を見られたらいけない。隠れて聞いていたことに気づかれてはいけない。顔を覆った掌には、透明な雫が零れていた。 残り香が、あった。 そこにいたはずの姿は、すでになかったけれど。 彼女の好きな、香。柔らかな花の香りだった。 「大喬…?」 孫策は、執務室の扉の前で、小さく呟いた。 ぽろぽろと、頬を伝って零れ落ちてくるものがある。先刻から、止めようと思っていても、その思いとは裏腹に、次から次へと零れ落ちてくる感情の欠片。 本当に、どうしようかと思った。あのまま、目を開かなかったら。良く通る声で、私を呼んでくれることがなくなってしまったら。あの逞しく、温かい腕が上がることがなかったら。 考えても仕方ないというのに、延々とそんな恐ろしい想像が降り積もり、心の中を埋め尽くしていった。けれど、無表情のまま、硬く閉ざされた瞼を見ていると、とめどなく恐怖が溢れてきて、自分の手に負えない感情が身体を翻弄していく。 音を立てない嵐が、ぐるぐると私の周りだけ渦を巻いている。 …助けて。……助けて…。 荒野に独り、ぽつんと取り残された私は、声にならない声で、助けを呼んでいた。 だから、その唇で私の名前を呼んでくれたとき、私は、その手を両手で包み、握り、傍らでうつむいたまま、何も言えなくなってしまったのだ。 「…大喬」 もう一度。 「…はい」 小さく、大喬は応えた。無理やり声をひねり出したものだから、情けないほどの涙声。 「…泣かせちまったなあ…。…悪い」 「…いいえ。私がもっとしっかりしていれば…」 「何言ってんだ。俺のために、わざわざ偵察に出てくれたんだろ?」 「…」 「…ま、何も言わないで出ていったのは、確かにまずかったけどな」 腹の傷に響くのか、ははは、と小さく孫策は笑った。 先程の周瑜の剣幕が思い出される。 「だから!あれほど!私は!言っただろう!!」 怒髪天、というのは、こういうことだろうか。怒るといっても、眉をひそめて機嫌の悪そうな顔をし、嫌味を言ういつもの彼とは明らかに違っていた。まさに「キレた」とは、アレを言うのだろう。怒って怒鳴った周瑜など、なかなかお目にかかれない。…といっても、お目にかかりたいわけではないのだが。 気を利かせて、小喬が周瑜を部屋から引っ張りだし、他の心配して駆けつけた仲間も、目を覚ました孫策に安堵し、退室していった。今、孫策と大喬の居室であるこの部屋には、寝台に横たわる孫策と、その傍らに寄り添う大喬の二人きりである。 二人が沈黙すると、部屋は静かだった。 つい3日前のこと。行軍していた呉軍に、孫策と大喬はいた。その日、まだ霧深い朝に出立し、陽の光が満足に落ちてこないうちに、孫策は大喬がいないことに気づいた。 それほど、近くにいたわけではない。ないが、何か虫の知らせとでも言おうか、ちょっとした胸騒ぎの後、大喬の姿を探したところ、近衛部隊と一緒にその姿はすでになかったのである。 以前から大喬は、孫策と行軍する際に、背伸びをする癖があった。戦が嫌いなはずなのに、行軍を希望し、怖いはずなのに、虚勢を張った。そんな大喬が愛しくて、放っておけなくて、孫策は戦場で大喬から離れないよう、大喬の姿が目に入る場所で戦っていた。ある意味、それは、大喬を常に前線で戦わせていたことにもなるのだが…。 その大喬がいない。 嫌な予感がした。戦場の勘は、すこぶる鋭い自信がある。孫策は、即座に方向を転換した。近衛部隊のみ引き連れ、こっそりと軍列から離れていく。こういう時の孫策の行動は天才的だ。見事なほどに、他の誰も気づかなかった。 案の定、見つけ出した大喬は、敵の刺客に襲われていた。が、助けに入り、気づくことがある。動きが、違う。大喬の動きを追っていない。俺を…、狙っている? とんだ誤算だった。 大喬を救いに来たはずが、大喬を危険に陥れているのは、自分だ。 注意を自分に向けるため、大喬から離れる。そのときだった。大喬の悲鳴が聞こえたのは。 一瞬の躊躇。 それが、生死の分かれ目となる。 それを、孫策は、した。 いや、その行動には、躊躇はなかったと言えるだろう。躊躇したのは、大喬から離れることと、大喬に駆け寄ること、どちらが大喬を救うことになるか、という逡巡だ。そして、孫策が、目の前の危機を見過ごせるはずがなかった。 肉を割く、嫌な感触が背中にあった。痛みとか、そんなんじゃない。大喬をかばい、雨のように降ってくる矢から守ることに必死だった。それ以外ない。 それ以外、何もなかった。…何もなくなった。 意識すらも。 そして気づくと、この部屋の寝台の上だった、というわけである。それぞれが、心配だったり安堵だったり、複雑な表情を浮かべたまま、孫策を覗き込んでいた。それが、目を開いて一番最初に飛び込んできた風景。 「…よお」 仲間達に、軽く挨拶する。 どうやらとんでもないことをしでかしたらしい、という思いは、少なからずあった。いくら、孫策でも。 周瑜の逆鱗に触れた部屋はやかましく、仲間達がそれぞれに口を開くものだから、良くは分からなかったが。あの後、孫策と大喬がいないことに気づいた周瑜が、行軍を止め、助けに入ったらしい。そして、重傷を負った孫策を手当てし、国に帰ってきたのだという。手当てが少しでも遅かったら、恐ろしい結果となっていた、とのことだった。 確かに、腹と背中の傷は痛かったが、あまりそこまで深刻に考えていなかった孫策の言動に、更に周瑜の怒鳴り声が高くなったのは、言うまでもなく。 が、今は部屋に二人きり。ゆるゆるとした静寂が、心地良かった。外は暗い。灯りが部屋を柔らかく照らしている。 「…悪かったな、大喬」 なんとなく、そう切り出した。沈黙がいたたまれなかったわけではない。普段、賑やかなところが好きな孫策も、大喬との静寂に心地良さを感じていた。 ただ、大喬が顔を上げない。孫策にとって、こういった傷を負うのは戦場で日常茶飯事で、例えそれが死に近かった傷でも、今生きているのだからそんなに深刻になる必要はない、と思っていた。 が、周りはそうではなかったらしい。先刻の周瑜もそうだが、仲間達も、口々にもっと自分を大事にしろ、と言ってくれた。 大事に思われている、というのは、悪い気がしない。けれど、もう大丈夫なのだから、そんなに悲しまないで欲しい、と思うのも確かだ。 「…大喬…。俺が悪かったから。お願いだから、顔を上げてくれねえか?」 大喬からの返事はなく、俯いたままだ。いつもと違う重い沈黙に耐えられなくなって、孫策はそう続けた。 「…大喬?」 「…もっと…」 「うん?」 「…もっと、ご自分を大事になさってください」 ゆっくりと、顔をあげる。泣きはらした瞳は、真っ赤になっていた。元々、男というのは、女の涙に弱いものだが、孫策は大喬の涙にはすこぶる弱かった。それが、愛しい女性だから、という理屈までは、孫策は辿り着かなかったが。 「ああ。分かった」 「…本当に?」 「ああ」 「私に構わず、ご自分の身を守ることに専念してくださいね」 「ばっ…っ。馬鹿なこと言うなよ。そんなことできるわけないだろ?」 本当に。孫策は驚いた顔をして、そう反論した。 …やっぱり、この人は分かっていない。 大喬は、小さくため息をつく。自分のことを大事に思ってくれていることに、嬉しくないわけではないけれど…。 「孫策様は、孫呉の大事な長ですから」 「それを言うなら、俺にとって大喬は大事だぞ?」 大喬は、言葉に詰まる。顔が赤くなるのが分かった。 「私の命より、孫策様の命の方が、大事です」 「そんなの、どっちも変わらないんじゃねえか?」 「そんなことないです!だって、孫呉の皆が、孫策様を大事に思っているんですから!」 「人数の問題じゃないだろ?」 あくまで、真面目な表情のまま、孫策は言い返す。本当に、そう思っているのだ。疑う余地もない。 「…でも…!」 「なあ、大喬。もう止めにしよう?こうやって、無事に生きてることだし」 「ダメです!またこんなことがあったら…!あのときも、私が敵を引き付けている間に、安全なところに…」 「大喬。言っただろ?俺には、大喬が大事だって」 孫策は。どうやら怒っているようだった。少々厳しい顔で、大喬を見つめている。 でも、大喬も、このまま引き下がるわけにはいかなかった。 「だって、狙われていたのは、孫策様だったじゃないですか!」 「仕方ない。それが俺の仕事でもあるしな。大喬を巻き込んじまったのは、本当に悪かった。だから、あれ以上、大喬を危険な目に遭わせるわけにはいかなかった」 「それなら…」 言いかけて、やめた。それは…。 言ってはいけないコトバ。 言いかけてやめた大喬に、孫策は小首をかしげた。 「大喬?」 「…なんでもありません」 「なんでもなくないだろ?なにか言いたいことがあるのか?」 なぜ…。 「そんなこと、ありません」 「でも、今…」 「なんでも、ないです!」 だって、それは私の我侭だから。言ってはいけない言葉だから。 どうして…。 「なんでもないなら、なんで泣いてるんだ?」 いつのまにか、大喬の瞳からは、ぽろぽろと涙が零れていた。先ほどまで、両手で包んでいたはずの孫策の手は、大喬の手首をとっている。あたたかい、大きな手が。 止めようとすればするほど、こみ上げてくる涙は止めようもなく。慟哭は言葉を押し上げた。 「なぜ…」 「うん?」 「どうして…、命を狙われるようなことを…、誰かが大切に思っている命を奪わねばならないのですか…?」 孫策は、少し、目を見開いた。そして、大喬の手を優しく引き、横たわっている孫策と顔を見合わせるように、引き寄せた。小さな肩を抱く。 その表情に、微笑みを浮かべた。 「そうか。大喬は、それが言いたかったんだな」 「…」 合点がいった。国を出る前の執務室の外のあの残り香は、やはり大喬だったのだ。 言えなかった理由は簡単だ。それが、孫策にとって必要悪と分かっているからである。 あくまで、それは、孫呉のためだ。何も、孫策が楽しんで人を殺めているわけではない。それを知っていたから、大喬は言うのを我慢していたのだ。この小さな身体に想いを押し込めて。 大喬が、無断で偵察に出た理由が、分かった気がした。 「そうだな。人の命を奪わなくてもいいような、そんな平和な国にしたいな」 泣きじゃくる大喬を、そっと抱き寄せる。 「ごめんな」 「孫策様が…、悪いわけじゃ…ありません」 嗚咽を堪えながら、必死に答え、首をふるふると振る。涙は、歯止めが効かなかった。 本当に。 そんな平和な世界になるといい。 …いや。 「孫呉は、平和な国にする」 誓い、ともいうのだろうか。しっかりと、はっきりと、孫策はそう言った。 大喬は、孫策の胸に埋めていた顔を上げる。涙は止まらなかったけれど。真摯な瞳で、孫策を見つめ返した。 「はい。私も、出来る限りお手伝いします」 そして、また日は昇る。 変わり映えのしない日でも、辛いことがあった日でも。強い願いをその陽光にのせて。 END |
策大ss。 策大ファンなら、1度は書こうと思うであろう、猛将伝のあのシーンを。 焼き直しはしたくないので、あのシーンはがんばって省略しましたが、 思った以上に長くなりました。 孫策に、思ったより「ずぇ〜」と言わせられなくて、ちょっとがっかり。(笑) というか、初めての三国ssなので、いろいろと間違ってる部分もあるかと思いますが、目をつぶってやってくださいませ・・・。 それと、史実との関連ですが。 あくまで、三國無双の世界の話、ということで、お願いしたい限り・・・。 |
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