温泉旅行4



 ふう。
 壬生は、その部屋から出ると扉を閉め、部屋の外の空気を吸い、深い溜め息をついた。
 部屋の中では、まだ麻雀が続けられている。劉と雛乃が買出しから帰ってきて、酒が配られると、比良坂が席を立ち、壬生の後ろに藤咲と高見沢がついた。酒の入った藤咲と高見沢は、何かが憑いたように勝ちまくり始める。正しくは、勝っているのは壬生なのだが、すでに壬生は牌を触るのを止めていた。両手には、藤咲が握らせた酒瓶があったから。
 いわゆるビギナーズラックだろうが、勝つ度に酔った藤咲が壬生の背中をばんばん叩いて喜んでいるのに辟易し、壬生はとうとう部屋を出てしまった。
 部屋の中からは、相変わらず藤咲と高見沢の甲高い笑い声が響いてくる。…また、勝ったのだろうか…。
 まあ、今日泊まる予定のこの旅館に、まともな客といえば壬生達だけなので、旅館の人達がこの騒音に目をつぶってくれればなんとかなるだろう。しかし…。
(藤咲さんに酒は鬼門だな…)
 藤咲と一緒に飲むことは極力避けよう。
 壬生は、強く思った。
 ちゃぷん。
 手にした500ミリペットボトルから水音がこぼれた。部屋を出るときに掠めてきたミネラルウォーターだ。ふと喉の渇きを覚えて、キャップに手をかけようとすると、視界の端に茶色の髪の毛が見えた。
「比良坂さん?」
 比良坂は、旅館の廊下に備え付けられたベンチに、ぐったりと寝そべっている。
 比良坂に歩み寄りながら、確か比良坂はサワーを1缶飲んでいたことを思い出す。その1缶で酔ってしまったということだろうか?壬生には、水と変わらない程の弱い酒だ。
 ザルの飛羅に比べればまだまだだが、晩酌する程度なら壬生は酔わない。泥酔したこともない。泥酔することを、理性が自然に止めているから。そんな人間だ、自分は。壬生は独りごちる。
 ベンチの傍でしゃがみこんで比良坂の顔を覗きこむ。
「比良坂さん?」
 比良坂は、その声にぼうっと瞼を開き、酔いで頬を紅く染めながら、焦点の定まらない瞳で壬生を見、にこりと笑った。何もかもが溶けてしまいそうな、そんな甘い微笑み。
 …完全に酔っている。
 しばらく絶句し、やがて壬生は比良坂の身体を抱き起こした。
「こんなところで寝ないで、部屋に戻った方がいいよ」
「うん、戻る」
 子供のような甘えた声を出し、壬生にしなだれかかってくる。満面の笑みで見上げてくる比良坂を、壬生はまともに見れなかった。
「立てるかい?」
「ううん、立てない。歩けないよ」
 うふふ、と笑いながら、壬生に抱きつく。何か、酒や香水ではない甘い匂いが鼻をくすぐった気がする。
 壬生の中の比良坂のイメージは、艶やかではなく、どこか控えめなかわいらしいものだったのだが。酔うとここまで変わるものだろうか…。
 とりあえず、気持ち悪いというような症状がないのに安心する。が、どうにも酔いを冷まさせないことには始まらないようだ。
「比良坂さん、これ水だから、飲んで」
「ううん、いらない。楽しいからいらないの」
 うふふ、とまろやかな笑みを浮かべたまま壬生を見上げ、そして抱きついたまま瞳を閉じる。
「とっても眠いの。寝る…」
 壬生はちいさく溜め息をつく。水を飲ませることはできないようだ。部屋に運ぶしかない。
 そうしている間にも、比良坂の身体に接しているところが段々熱を帯びてくる。その熱にせかされるような焦燥感があった。
 それを振り切るように、ペットボトルの水を勢い良く飲み干す。
 が。
 予想に反して喉を通った熱い刺激に、壬生はペットボトルをすぐさま口から離した。愕然とした表情で、量の減ったペットボトルを見つめる。…これは…。
「ウォッカ…」
 一瞬気が遠くなった気がした。血の気が引いていくのが自分で分かる。頭の芯は妙に冷静で、ウォッカのアルコール度数がはっきりと思い浮かんだ。
「一体誰が…」
 めまぐるしく遷移していった仲間達の顔の最後に、飛羅の顔が浮かんだ。
 やっぱり。それしかないだろう。
 ……。
(比良坂さんが飲んだらどうするんだ!)
 めこ、と握り締めたペットボトルがへこむ。
 実際、壬生は比良坂に飲ませようとしていた。あのまま飲ませていたら、と思うとぞっとする。
 …いや、待て。多分、あの飛羅なら、それもおもしろいと考えるに違いない。大体、わざわざミネラルウォーターのペットボトルにウォッカを入れ換えるなんて手の込んだ、否、子供じみたことをするか!?普通!!
 最初会った頃の人の良い飛羅は、やはり猫を被っていたのだ、と改めて思う。
 そう考えている間にも、比良坂との間に熱は生まれ、思考にも熱が混ざり、くらりと視界が回った気がした。
 まずい。
 まどろんでいる比良坂を強引に抱き上げると、壬生は急いでベンチを立った。
 朦朧と下意識のまま、女性達の部屋であったはずの扉を開き、仲居が敷いていったであろう布団に比良坂を横たえる。
 それが、限界だった。
 ―――布団に突っ伏した状態で、壬生の意識は急激に熱に落ちていった。

 なぜだろう、身体の自由がきかない。身じろぎをすると、優しい声が降ってきた。
「ミルクはお腹いっぱい飲んだだろ?もう、おとなしく寝るんだよ」
 ミルク?
 ぼんやりと思う。それは、子猫とかが飲む、それかしら。白濁した意識の中で、なぜかその考えが合っている自信があった。
 私は子猫じゃないわ…。
 声に出したはずのそれは、空気に溶けていく。声のする方に、顔を上げ、声の主を探す。
 が、いくら目をこらしても、霧に包まれているのか、さっぱり輪郭は浮かび上がらない。見つからない。…どこ?
「さみしいのかい?僕がここにいるから安心して寝ていいよ」
 そして、額に温かいものが触れた。とても、くすぐったいような感触。とても、安心する感触…。
 そして、ずっと感じていたぬくもりが、声の主によって身体を包むようによりいっそう強められた。
 それは、抱きしめてくれたのだと、ぼんやりとしたまどろみのなかで、比良坂は思った。
 そして、自らも、そのぬくもりを確かめるように寄り添っていく。日溜りにいるようなぬくもりが心地よかった。

 うわあ!
 暗闇の中、危うく壬生は声をあげそうになった。すんでのところで声を飲みこんだのは、さすがと言うべきか。
 慌てて腕の中のものを放り出さず、身体が硬直したのが幸いしたのか、腕の中のものは瞼を上げなかった。
 冷静になれと自分に言い聞かせ、ゆっくりと身体を退け、思い起こして見る。…確か、部屋を出て、比良坂がいて、ウォッカを誤って飲んでしまって、比良坂を運ばなければと思い、部屋に入って…。
 そう、先日拾った子猫の夢を見た気がする。お腹いっぱいになっても寝ないくせに、寂しがるので胸に抱いて寝た。貰い手が見つかったので、もう家にはいないけれど。
 壬生が子猫と勘違いしていた比良坂は、目の前で幸せそうにすやすやと眠っていた。
(無防備すぎると思うんだけど…)
 それは、今の比良坂に言っても無意味なことは知っている。
 全身に、ぬくもりが残っていた。眠っている間に、酒は抜けている。これは、酔いからくるほてりではない。
(らしくないな)
 壬生はふるふると頭を振ると、比良坂に布団をかけ、部屋を出た。あのままあそこにいると、寝起きのはっきりしない頭で何をしでかすか、自分でも分からなかった。普段、理性や合理性で全てを判断する自分には、その枠組外のことが想像できず、本当に何をしでかすか分からなかったのだ。
 目を覚まそう。
 そう思い、壬生は旅館の風呂に入ることにした。
 目を覚ますにも、酒を完全に抜くにも、風呂に入るのはとても理に適っている。
 旅館は静まり返り、消灯の過ぎた薄い明かりはひとつおきにつき、ぼんやりと廊下を浮かび上がらせていた。
 暗闇に支配されている外の景色を見ても今が何時なのか判断はできない。…他の仲間達は寝てしまったのだろうか?
 目の前に「ゆ」と達筆な字が染め抜かれた暖簾が下がっている。露天は24時間入れる。壬生は旅館に着いたときに聞いた説明を思い出していた。
 露天は混浴だが、暗黙の了解で男湯という認識がある。実際、こんな時間で、こんなに静まり返っていると、誰も入ってこないに違いない。一番心配な女性も、先ほど熟睡していたのを確認済みだ。
 壬生は気軽に暖簾をくぐった。

 露天の傍を流れる清流のせせらぎが耳に心地良い。頭上には満天の星と満月。湯気に覆われながらも、その存在を主張する見事な石庭と庭木に囲まれた岩風呂は、格別だった。
 とぽとぽと絶えず溢れてくる温泉は、ぬるくもなく熱すぎもなく、とても良い湯加減だ。
 ふう。
 自然に、身体の中の全ての息を吐き出すような、そんな息をつく。代わりに流れ込んできた空気はひんやりとして、森が作り出したばかりの新鮮なにおいがする。
 いつもの都会の生活からは考えられない場所だ。むしろ、相対する場所。
 ここには、埃と血の匂いはない。あるのは、優しい空気と暖かい闇だ。
(同じ闇でもこんなに違うのか…)
 壬生の胸には、感慨めいたものがせりあがってくる。
 空に星があるだけで、森の作り出した清廉な空気があるだけで、こんなにも闇は優しい。壬生の知っている闇とは全く異なっていた。
 闇とは、本来こんなものなのか…?
 ふとした疑問が舞い降りる。
 闇を生きる場所とする壬生には、今まで生きてきたすさんだ闇がその居場所だった。闇はすさんでいる、その認識は間違っていたのだろうか?
 実は、闇そのものに悪意はないのかもしれない。闇をすさんだものに成さしめているのは、他ならない自分かもしれない。
 そして思い出した。
 人は、闇の中で眠る…。
(そんな闇…)
 壬生は、星が瞬いているにも関わらず、その本質を失わない、漆黒の闇を見上げた。
(そんな闇を、僕は守りたい)
 それは、ですぎた夢だろうか?
「おまえさ」
 ふと飛羅の言葉が思い浮かんだ。
「おまえさ。謙虚もいいけど、もうちょっと自信持っていいぜ?なんてったって、俺がおまえのこと仲間だって認めてるんだからな」
 なんて自分勝手な思い。
 だか、その言葉に壬生は救われた気がした。それは、今まで手に入れられなかった真実のもの。真実の願い。
 命までも賭した、真実の思い。
 それはここにある。
(僕にはそれがある)
 それは、とても幸せなことだった。一生のうち、見つからない人間もいるだろう。いや、見つからない人間の方が多いのかもしれない。
 それが、こんなにも近くにある。
(僕は生きていける)
 湯面に映った自分の顔が、ざぷんという音とともに、ふいに揺れた。壬生はギクリとする。それは、誰かがこの露天風呂に入ってきたことを意味する。誰が?
 湯煙の中、人影は全く見えなかった。音のたった方に向かえばいいのだが、なぜだろう、そこに行くのがひどくためらわれた。
 すると、入ってきた人間がこちらに人がいるのに気づいたのか、近寄ってくる気配がする。しばらくちゃぷちゃぷと波立つ音があり、やがて人型の輪郭が湯煙の中に現れた。
「壬生さん?」
 身体はもとい、表情までが凍りついた。
 …その声は。
「…比良坂さん?」
 一瞬ためらったのがまずかった。声を返したときには、そこに比良坂の姿があった。
 湯面から出た白い肩。濡れないようゴムでまとめたところから、ほつれて湯で濡れている髪。髪を上げているために露になった細い首。雫がたまった鎖骨。上気した頬。
 言葉をつむぐ口が自由に動かせない。
「…壬生さんも、お風呂に入っていたんですね」
 比良坂の言葉に迷った風の問いかけにも、返せない。
 目が離せなかった。比良坂をじっと凝視していると、比良坂が恥ずかしそうに身じろぎをする。そこで、壬生は無理矢理視線を逸らした。
「…なぜ…?」
「私、かなり酔っ払っちゃってたみたいですね。ちょっと酔いざましにと思って」
「そう」
 見透かされないよう、素っ気ない返事をする。顔は強張ったままだが。
 それを、比良坂は怒っていると勘違いしたらしい。
「…あの、さっきはすみませんでした。私、介抱してもらったみたいで」
「気にしなくていい」
「…あの、怒ってます?」
「怒ってないよ」
 いぶかしむように、比良坂は壬生を覗きこむ。自然、壬生はじりじりと退いた。
(なんで気づかないんだ!普通、女性が混浴でこんなに男に近づかないだろう?)
 全く気にする風がないのか、比良坂は更に近寄ってくる。
「あの、…本当にごめんなさい」
 逸らしても逸らしても、視界の端に比良坂の胸元が入ってくる。そうなるともう、壬生にはどうしようもなかった。
「本当に気にしていない!すまない、僕はのぼせたみたいだから、もう出るよ!」
 全神経を総動員して目を再び逸らし、くるりと踵を返してざばざばと湯をかき分け、湯船から出る。決して振り返らないよう、早足で、しかし地を踏みしめるように脱衣場へ入り、扉を力いっぱいバタンと閉める。
 本当に、自分が理性を失ったらどうなるか、壬生には到底思いつかなかった。それは自分のことであったはずなのだが。理性は、壬生を大半埋めているものだから。
 …ただ。
(…疲れた…)
 疲れをとるために温泉に入るはずが、壬生には入る前よりずっと疲労していた。
 そして、こんな状況は二度とごめんだと思う。
 …思うが、それは叶わなかったと、後に知ることとなる。


END


夏コミ落ち記念〜。(ウソ)
勢いづいて書いちゃいました。
寝ないと〜。明日まずいよドラえも〜ん。

壬生比良第…何弾だっけ???ま、いいや。壬生いじめでした。(結論(笑))
この温泉旅行シリーズはこれくらいにしようと思います。
なんとなく、それぞれのカップリングが思いついたのが温泉街だったので、こんな感じになりました。
劉雛とか主マリアは練りこみ不足でしたね。じっくりと腰すえて書かないと、きゃつらは手ごわいです。
壬生以上に?…いや、壬生も相変わらず手ごわいです。っつーか、どう書いても、自分の書く壬生がかっこ悪くて、壬生っぽくなくて、だめだ〜。
…というか、比良坂の前では壬生ってかっこ悪いのでは……。
次は比良坂のいない壬生か〜???(笑)

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