巡る虚像



 春の陽射しがうららかな、肌に触れる風も暖かい、そんな朝。
 朝食を終え、皆がそれぞれの仕事を始める前の、思い思いにくつろいでいる時間。きしきしと小さな床の軋む音を立てながら、刹羅はその部屋をひょいと覗き込んだ。中には、山のように積んである巻物のひとつを広げ、神妙な面持ちで目をおとす天戒の姿がある。
「天戒?」
 かなり深く没頭していたように見えるにも関わらず、天戒はすぐさまくるりとこちらに首を向けた。
「刹?どうした?」
「これから、町に出ないか?」
「町に?」
「会わせたい人がいるんだ」
 いたずらっぽい笑みを微かに浮かべながら、しかし彼は思慮深く物事を考えている。天戒は、今日するはずだった仕事をちらりと頭に思ったが、小さな息を吐くと、手にしていた巻物をくるくると仕舞い始めた。
 多分、天戒が思い描いた今日の仕事よりも、貴重なことだ。あっさりと刹羅を信頼できる自分に、戸惑いはない。
 天戒は、腰を上げた。
「一体、誰に会うんだ?」
「会うまで内緒」
 そして、やはり彼は、彼らしいいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「そういえば、この前、おまえの妹に会ったよ」
「妹?」
 鬼哭村を出て、山道をてくてくと歩きつつしていた他愛ない会話から、突然変えられた話の内容に面食らって、思わず天戒は問い返してしまっていた。刹羅の言葉を再度自分の中で文字にし、清楚でわずかの染みもない少女を思い描く。
「会ったのか…。…元気だったか?」
「ああ、元気そうだったよ。まあ、おまえは、下忍の報告で知ってると思うけど。あれから、会ってないんだろ?」
「ああ」
 それは、「報告で知っている」ことに対しての返事なのか、「会っていない」ことに対しての返事なのか、刹羅は改めて問うことはしなかった。彼は、もう二度と彼女に会うつもりはないだろうから。
「で、さあ。俺、おまえに言っておかなきゃいけないことがあるんだ」
「なんだ?」
「あくまで『俺』が彼女に言いたかったことで、おまえの考えには関係ないからな。それだけは先に言っておくぜ?」
「分かった」
 子供のいいわけのような口ぶりを耳にして、天戒は、穏やかに微笑んだ。刹羅は、それを見てから、ゆっくりと口を開く。
 …それは、今日と同じような、ある晴れた日。
 その日、刹羅はぶらぶらと内藤新宿を歩いていた。軌道に乗るまでは、と手伝っている鬼哭村の仕事を一段落させ、気晴らしに出かけたときのことだった。
 町のはずれの神社に寄り添うように建つ茶屋でのんびりしようと、喧騒を離れようとしていたときのこと。
「刹羅?」
 透き通った声音に呼びとめられた。聞き慣れたその声に、刹羅は振り向く。
「ああ、藍か。久しぶり」
 近道をしていた刹羅は、長屋が立ち並ぶ狭い路地に、藤の着物を纏ったつつましやかな女性が立っているのを目に入れた。
「何?薬の配達?」
「ええ、さっき渡してきて、今帰るところなの。刹羅は?」
「俺は、気晴らしにぶらぶらと…。そうだ。これから時間あるか?」
「ええ、今日のお仕事はこれで終わりだから」
「茶屋に行こうと思ってたんだ。一緒に茶でもどうだ?」
「ええ、ご一緒させてもらうわ」
 迷うこともなく、その表情に一瞬の曇りもなく、彼女は微笑んだ。絶えることのない、穏やかな微笑み。
 刹羅は、その何気ない表情に違和感を抱く。何故だか、それは分からないようで、確かに自分は知っている。ただ、目を逸らしていただけだ。
 でも、もういいはずだ。戦いは、終わったんだから。
 特にこれといった会話もなく、茶屋に着くと、適当に注文をして、茶屋の前にしつらえられた長椅子に腰を落ちつける。目の前では、境内の紅葉が薄緑色のやわらかい光を放っていた。運ばれて来た温かい茶を口にし、息をつく。
 藍は、刹羅が茶屋までの道のりを殆ど無言でいたことに、薄々勘付いているようだった。しかし、その理由を無理に聞き出そうとはしない。思慮深く、相手を思いやる行動だった。それは、…本当に自然に行われていた、…はずだった。
 が、もう、刹羅の中でそれは確信に変わっている。それは、必然の「自然」ではない。
「もう、いいんだよ」
「え?」
 開口一番がそれで、何の事やら分からなかったのも無理はない。刹羅は、続けた。
「『枷』はもうないんだ。戦いは終わったんだから。君が、世界が思う『理想』である必要はなくなったんだよ」
 藍の肩がぴくりと震える。
 でも、だめだ。これじゃ伝わらない。もっと、この違和感を確かに口にできたなら。
 刹羅は、上手く言葉にできない自分に苛ついた。頭にあるイメージはとても曖昧で、その全体像を掴むことはできない。
「君は、いろんな哀れな人達を、この戦いで見てきた。いろんな戦いがあった。戦った双方に様々な理由はあったんだろう。でも、いつの時代にも『勝者』と『敗者』はいる。平等な見方をするのは、確かに美徳だろう。でも、人間はそれじゃ納得できないだろう?」
 様々なしがらみを抱いて、共に戦った仲間の一人一人の顔を思い浮かべる。言葉は、確かなその先にある造形を描かずとも、次々と頭に思い浮かんだ。どう話を展開させようか、など考えられるところではない。…ただ、浮かんだまま、口にする。
「人間は、『完璧』じゃないんだ。欠点があっていいんだよ。造られた人間は完璧かもしれない。でも、それは、本当の意味の人間じゃない。そこには、『自分』がいないから」
 藍は、刹羅自身も惑うような想いを、言葉のまま飲みこんだようだった。さすがに、聡い少女だ。刹羅の言葉が足りなくても、彼女は埋めることができる。ただ、その埋めるべき言葉を彼女自身が埋めてくれればいいのだが。
 刹羅は、ひとつ、息をついた。
「鬼哭村の村人は、君に心を開いていると思うかい?」
「…いいえ」
 短い逡巡があった後、藍は真剣な表情で応えた。
 これは、『彼女』だろうか?それとも、造られた『美里藍』だろうか?…まだ、判断はつかない。ただ、その応えは期待を反しないものだった。
「じゃあ、それは何故だと考えてみる。君は、時間をかけてゆっくりと隙間を埋めていこうと、誠意を持って接すればいつか、と思うかもしれない。けど、それは夢想だ」
「刹羅」
「悪い。ちょっとこのまましゃべらせてくれ。もう少しで形になりそうなんだ」
「……」
 藍は口をつぐんだ。不満そうなわけではない。ただ、戸惑っているようだった。
「彼らは、絶対に今の君に心を開くことはない。別に、彼らの考えを認めろとか、彼らの考えが正しいとか、そんなことを言いたいわけじゃない。ただ、彼らには真実の『真心』が必要なんだ」
 同じ考えの者に、全力をかけた心はいらない。なぜなら、同じ想いを持っているから。だから、人は群れる。そして、敵対する。個々がいて、個々の想いがあるから。
 ならば、全く異なる想いで生きている者がいたら。
「例えば、君は、『復讐はいけないこと』と思っている。でも、彼らはそうじゃなかった、そうじゃない。彼らにとって、『復讐はしなければならないこと』だ。それが正しいか正しくないかなんて、実はどうでもいいと、俺は思ってる。ただ…」
 刹羅は言い澱んだ。何も、空気が変わった雰囲気はない。目の前の彼女は、変わらずきちんとした姿勢で礼儀正しく座っている。伝わらないかもしれないという想いが、刹羅を絶望の淵に立たせた。
 この言葉で伝わらなければ、もう、俺にどうすることもできない。それは、自分がこの世界に生まれて生きた意味がなかったことのように思えた。
 それでも。一縷の望みをかけて、次の言葉を発する。
「君にその言葉を言わしめたのは、『君自身』か?それとも、この『世界』か?」
「もちろん、それは、…私自身よ」
 藍の瞳が動いた気がした。刹羅の望みが見せた幻覚かと思ったのだが、その瞳に意志が宿っているように見えた。
「なぜそう言える?本当に君は、彼らの境遇を知って自分なりに考えて、復讐はいけないと思ったのかい?世間一般的に『復讐はいけないこと』という美徳があったからじゃないって、どうして言える?」
「それは、…言えないかもしれないけれど…。でも、復讐することを生きがいにして生きて欲しくなかったから」
 全く動きのなかった神妙な面持ちは、ふいに悲しみに歪んだ。強い意志を持った瞳は、真っ直ぐに刹羅を見つめてくる。そこはかとなく、語気も強まっていた。
 ああ。届いたのかもしれない。本当の『彼女』に。
「じゃあ、復讐されるべき人間も、許されるべきだ、と?」
「ええ。だって…」
「だって?」
 藍は、こく、と喉を鳴らした。何かを飲みこんだらしいその動作に、泣くのを我慢したのだと、刹羅はなんとなくそう思っていた。
「みんな愛したいんですもの」
「極悪人も?何人も人を殺した人も?」
「みんな。この世に生きる全て、愛したい」
 それは、願い。彼女の、夢。
 飾りのない、真実の感情だった。それが叶えられていないと、彼女が言ったことで、刹羅は本当の美里藍を引き出すことができたと確信した。
 彼女の中で、全てが答えを持っているわけではなかった。世界が望む、理想の人間は、たった今自分で考え、自分の感情を吐露したのだから。『理想』という衣を脱ぎ捨てた、かけがえのない、彼女自身。
「鬼哭村の皆さんに受け入れてもらうには、復讐を認めなくてはいけないの?」
「そんなことは、ないよ」
 初めて聞くことのできた、真実の問い。それは、すでに持っている答えを、相手の口に出させる問いではなかった。本当に答えが分からないから、思い浮かぶ問いだった、それは。
「でも、そうしたら、どうすれば受け入れてもらえるのかしら」
「ただ、そのままの君で話せばいいよ。今、俺に話したみたいに。君自身がそこに存在すれば、彼らはそのままの君を受け入れると思うから」
「?刹羅、言っていることが分からないわ。今までも、私は自分の考えで鬼哭村の皆さんと話してきたつもりよ?」
「全然、違うよ」
 そして、今までの瞳とは違う、確かな意志を持った瞳を目の前にして、刹羅は笑顔をこぼした。
「これからも、君が世界を考えるんだ。世界が君を動かすんじゃない。…それを、忘れないで」
 衝動のまま、刹羅は藍を抱きしめる。ただ、嬉しかった。『彼女』が存在することが。彼女が、世界の理想から彼女自身に変わったことが。
「刹羅?」
 慌てたような彼女の言葉が耳元で聞こえたが、刹羅は頓着しなかった。
 …勿論、藍を抱きしめたことは、天戒に話すはずもなく…。

 手をかけようした引き戸の向こうから、なにやら話し声が漏れてくる。
「最近、鬼の動きが少なくなってきたみたいだけど…、油断しちゃだめですよ」
 屋内であるにもかかわらず、周囲を気にするような、密やかな声。その声音は女性でありながらあくまでも低く、そして鬼気迫るものがある。
「所詮、幕府の安泰が確実になって、手も足も出なくなっただけのことですよ。鬼はひっそりと生きて、また私達の隙を狙っているんです。用心しなくちゃだめですよ」
 そして、短い間の後に、更に低い声でこう続ける。
「おばあさんなら、分かるでしょう?大事な人を殺した鬼達の残虐さを。…鬼達は狙っているんですよ」
 扉の向こうで、衣擦れの音がすると、突然目の前の引き戸が開いた。少々驚いたが、開けた本人も驚いたようだ。
「ああ、ごめんよ。いるとは思わなかったから」
 足元におとしていた目を上げ、引き戸の前に立つ青年二人を見上げる。その表情が済まなそうな笑みを浮かべる前に、刹羅はその顔に浮かんでいたものを見逃さなかった。
 憎悪。
 取り憑かれたような憎悪が、そこにあった。体に染み付き、顔にまでにじみ出る憎しみ。それが、彼女の若くはない顔に、しわと共に刻まれていた。
 刹羅は、背後に立っている青年の表情を盗み見る。彼の表情に動きはないが、…気づいていないはずはない。彼は、彼女の動きを一瞬でも見逃すまいと、見ていたに違いないから。
 彼女は、めずらしい客にいぶかしむような視線を投げた後、そそくさとその家を離れていった。
 森とまでは言えない、木がまばらに立っている場所。その木々の間に、小さな家が同じようにまばらに建っていた。その村の一番端に、この家は立っている。
 町からは、そう遠くない。木にも登れば、一軒一軒が区別できるほどに、内藤新宿を見渡すことができる。
「ごめんください」
 開け放したままの引き戸に、刹羅は顔を突っ込んだ。
「おや、刹さんかい?」
 人の良さそうな声だ。そういえば、先ほどの彼女の声は聞いていたが、相手の声を聞いていなかったことを思い出す。
「こんにちは。今日は、俺の友達も連れて来たんだけど、入ってもいいかな?」
「こんなあばら家に二人もお客さまが来るなんて、もったいないねえ。どうぞ、お入り」
 小さな土間の奥に、六畳ほどの居間があり、小さく佇む老女の姿があった。腰は見事にくの字に曲がり、皺くちゃの顔ながらも、薄暗い部屋の中で、その瞳は澄み暖かかった。
「あらまあ、ずいぶんと別嬪さんだねえ。刹さんに負けず劣らず」
「また、うまいなあ、雪さん」
「やだねえ、そんな名前で呼ばれたら、恥ずかしくなっちまうよ。雪ばあちゃんでいいのに」
 ははははは。
 二人は、声を揃えて笑う。天戒は、その微笑ましい二人のやりとりに、自然に顔がほころんだ。あ、というように、刹羅が天戒を振り返る。
「あのさ、雪さん。紹介するね。こいつ、天戒って言うんだ。悪いんだけど、あの話をこいつに話して欲しいんだけど…」
「あの話だね。構わないよ」
 滅多に見れない刹羅の申し訳なさそうな顔に、そのままの笑顔で雪は応える。
 何かがある。
 天戒の勘だった。

「さてねえ。何から話したらいいかねえ…」
 にこやかに微笑んだまま、雪は思案を巡らせたようだった。
「昔、このおばばにも、息子がいてねえ…」
 彼は、幕府の徴兵令により、幕府軍にいた。徴兵されてまだ日の浅いある日、彼は上からの命により、とある村に潜んでいると思われる賊の討伐に向かっていた。総勢二百。女子供も含めて百人にも満たない村に対して、それは仰々しいほどの兵だった。
 思えば、そのときから不安はあったのだ。
 彼は、幕府を信じていた。周囲の人間と変わらず。幕府に不満がないわけではなかった。が、彼の思うところよりも難しいことなのだ、幕府の運営というものは、と勝手に解釈していた。自分のあさはかな考えなどで幕府を動かしたのなら、ただ幕府を潰すのみなのだろう。
 そう、思っていた。
 そして、その村で行われたのは、虐殺だった。
 賊が潜んでいるのではない。その村の住人こそが「賊」なのだ。
「賊は一人残らず殺せ。女子供もだ。特に、子供を取り逃すと後が厄介だ」
 命令が下される。彼に選択権はなかった。その命令を忠実に実行しなければならない。反抗しようものなら、家に残してきた家族は、人質へと変わる。
 ザザッ。
 ふいに揺れた藪から、小さな影が飛び出してきた。痩せた体。生意気そうな瞳は、一瞬恐怖に歪んだが、毅然とこちらを睨んでくる。
 少年は、握りこぶし大の石を握っていた。彼の、唯一の武器を。
「殺せ!一人残らず!」
 硬直した彼の体に、容赦なく命令の声が降ってきた。軍をまとめる者は、騎馬で辺りを駆け回り、その刀を賊のもので紅く濡らしている。
 響き渡る断末魔の悲鳴と、じっとりとかいた汗にはりつく埃。土ぼこりと血のむせ返るようなにおい。斬りかかるときの、怒号。
 多分、考えてはいけないのだ。ここは戦場。繊細な考えなど、虫けらのように踏みにじられる。それは、敵味方関係なく降りかかってくる災厄。
 少年の持つ石で、何故自分が死なないと言えるのだ。その石は、狂気から凶器に変わることができる。
 僕は、こんなところで死ねない。
 老いた母親の顔が浮かんだ。その顔には、彼を優しく包む微笑みは浮かんでいなかったが、それが何故なのか、彼には考えている余裕はなかった。
「うおおおおお!!」
 彼は声をあげ、手にしていた刀を振りかぶった。
 人を斬ったのは初めてだった。
 だが、その感慨などを残している余裕はなかった。隙を見せたら、自分も殺される。
 視界が横転したのは、しばらくしてからのことだった。太ももに、激しい痛みがある。斬られたのだという意識がはっきりしたのは、地面に手をついて斬った相手を見上げた後だった。
 同じ年頃の青年だった。
 ふと、彼は周囲を見まわした。骸が累々と重なっている周囲には、悪鬼のような凄まじい表情をした同軍の者達が刀を振り回している。
 彼らは、誰だ?
 僕は、彼らを、彼らなんか、知らない。
 この村に向かっていた時、一緒に訓練を受けた者達と話してはいなかったか。彼らは、どこにいる?
 ふと目を向けた先に、逃げ惑う女を背後から斬りつけた者がいた。その顔を見て、人が良く優しい、訓練中に笑い合った青年の顔が思い浮かんだ。
 彼なわけないじゃないか。
 彼は、かぶりを振った。あそこに見える見知ったような者も、僕が知っている者に見えて、実は違うんだ。あっちでも、こっちでも、戦っている人がいるけれど、みんな、僕の知っている人達とは、違うんだ。
 …違うと思いたかった。
 ああ。やっぱり無理だったんだね。僕は。こんな戦場で、こんなこと考えちゃいけないって、知っていたんだけど。だけど、やっぱり、僕は…。
 彼を斬った青年は、二の太刀を振り上げる。
 応戦できるはずのその太刀を、彼は避けようとしなかった。降ろされる太刀と、その太刀を持った青年を見つめる。
 君も、…知らない人になってしまうのかい…?

「三日後だったかねえ。息子が戦死したって話を聞いたのは。でもねえ、おかしな話だったんだよ。倒れた息子は、刀を握っていなかったんだとさ」
「!」
「多分、いろいろ考えちまったんだろうねえ。身体が弱い子でねえ。戦で生き残れるとは思っちゃいなかったけど、親馬鹿なんだろうけどねえ。そんな息子を誇りに思っているのさ、このばあはね」
 皺くちゃの顔が、更に皺くちゃになり、雪は笑った。
「…しかし、その息子さんを斬った相手は憎くないんですか?」
 天戒には、分からなかった。最愛の息子が殺されたのだ。殺した相手が憎くないわけがないではないか。なぜ、この目の前の老女は笑っているのだ。
「確かに、そのときは、悔しかったねえ。なぜ私の息子が、と思ったねえ」
「ならば…」
「でもねえ、相手は憎くはなかったね」
 何故。
「まあ、お聞きよ。まだ話したいことがあるんだよ」
 雪は、再度穏やかな表情を浮かべると、混乱しているらしい天戒に微笑みかけた。
「その一日後だったかねえ。気を紛らわしに外に出たとき、行き倒れと会ったんだよ」
 道から少し林に頭を突っ込んだかたちで、青年は腹を抱え倒れていた。殆ど失血してしまったのだろう。その顔は青く、腹をざっくりと割った傷から血が流れ出でることはなかった。どこかの戦で傷を負ったに違いなかった。
「息子に重ねて考えちまったんだろうねえ。同じ年頃で、見捨てちゃおけなかったのさ」
 雪は、その青年を背負って家に連れ帰ると、手当てを施した。こんな小さな村に、医者がいるわけもなく、ただ、傷を洗い、さらしで止血をする。他は、見知っている薬草を混ぜ、傷にあてがうのみだった。
 その日の夜、青年は高熱を出し、雪は徹夜で看病をした。そのせいか、翌日の朝には、青年の熱は下がり、安らかな寝息をたてるようになった。
 丸一日、青年は眠りつづけると、昼頃にうっすらと瞼を開いた。見知らぬ天井に、自分に起こった出来事をひとつひとつ思い返してみる。
「おや、起きたんだね。気分はどうだい?」
「……」
 青年の瞳に、瞬時に警戒の色が浮かぶ。彼は、堅く口を閉ざした。
 雪も、それに気付かないわけはなかった。が、特に気にした様子もなく、そのまま語りかける。
「何か、食べられるかい?体力をつけなきゃ、回復するもんもしないからね。…って言っても、ロクなものはないけどねえ」
 はははと笑いながら、雪はいろりにかけていた鍋から雑穀とわずかの米と野菜が入った粥を器に取り分けた。そして、さじですくうと、青年の口元に運ぶ。
 青年は、口を開かなかった。
「なんだい、毒かなんかでも入ってると思ってるのかい?まあ、うまくはないもんだが、食べられなくもないよ?」
 そして、青年の前で、一口食べてみせる。味気のない粥に苦笑いをすると、再度粥をさじですくいとって、青年の口に運んだ。
 青年は、しばらく考え込んだような後、ゆっくりと口を開いた。とろりと温かい粥を、乾ききった喉に流し込む。
「ああ、良かった。食べられるみたいだね。こんなのでよけりゃ、いっぱいお食べ」
 粥をさじですくおうとした雪に、青年は口を開いた。
「…ありがとう…」
 なぜか、その青年の瞳に、雪は息子を見た気がした。ふいに熱くなる胸をそのままに、雪は青年に笑い返す。
「お安い御用さ」

 青年は、雪の看病も虚しく、日に日に衰弱していった。多分、彼の傷は、すでに死の運命を決めていたのだろう。
 だが、雪は何も言わず、相変わらずの手厚い看病を続けた。青年も、そんな雪を見てか、そのことについては何も言わなかった。
 しばらくすると、青年は、毎夜うなされるようになった。それはいつも戦の夢で、決まった最後だった。
 いつか青年が斬った、相手。彼は、青年を哀れむように見つめている。反撃しようともせず。
 青年は、その瞳が恐ろしかった。どこまでも澄んでいて、戦場でそんなものを見たことがなかった青年は、その瞳がとても恐ろしかった。
 …だが、彼が青年を恨んでいないことは知っていた。なぜだろう、それは、青年の中で真実だったのだ。彼の瞳が、とても澄んでいたせいかもしれない。
 そして、自分が手を下したのであるその彼が、青年は好きだった。多分、出会い方が違ったのなら、友人になりたかった。
 そう、思っていた。
 決まって、うなされていた青年が目を覚ますと、雪が頭を撫でていた。
「大丈夫かい?怖い夢を見たのかい?」
「…ごめんなさい…」
「なに謝ることがあるさね。私がここにいるよ。安心しておやすみ」
「…ごめんなさい…」
 青年は、それでも謝っていた。何にかは、青年自身にも分からない。ただ、雪の言葉と頭を撫でる暖かい手を感じた後は、再び眠りについても、うなされることはなかった。

「一ヶ月後…だったかねえ。その子が亡くなったのは。いい子だったよ」
 天戒は、薄々気付いていた。その青年は、『鬼』だ。雪も気付いているようだが、それは気のせいだろうか。気付いているのなら、どうしても聞きたいことがあった。
「憎くはなかったんですか?」
「何がだい?」
「そんな仕打ちを起こした根源、幕府が」
 全ては、幕府が起こしたことだ。雪の息子が殺されたことも、雪が助けた鬼が死んだことも。そんな幕府を黙って見ていられるのか。
 はははは。
 真剣に問う天戒の前で、雪は突然笑い出した。何のことやら分からず、天戒は目を丸くする。
「いやいや、ごめんよ。思いもかけなかったことだったからねえ。…憎くは、ないよ」
「何故ですか?」
 天戒には分からなかった。雪に分からないはずないのだ。どれほど愚かな連中が幕府を腐らせ、雪の息子のような、まるで関係のない者を死に至らしめているか。
「確かに、息子が死んだときも、助けたあの子が死んだときも、悲しかったけどね。でも、幕府を憎もうとは思わなかったね」
「何故。息子さんが出なくてはいけなくなった戦を起こしたのも、幕府だ。幕府が息子さんを殺したようなものではないですか」
 天戒の語気は、次第に荒くなっていった。
「復讐しようとは思わなかったんですか?」
「何に復讐するんだい?息子を殺した鬼かい?息子に命令した上かい?彼らの意思にそぐわない行動だとしても、かい?」
「しかし、もっと上の、直接命令を下した者が…」
「その人が悪いのかい?その人の環境も人生も周りで影響した人達も含めず、その人だけ?」
「……」
 確かに、天戒は知らないわけではなかった。幕府は腐っている。だが、全てが腐っているわけではない。ましてや、以前は腐っていなかったはずなのだ。
 その腐敗を蔓延させてしまったのは、何なのか。人一人の思いや行動で、何千人何万人の組織が一気に腐ることはないのだ。
 例え、良質な上がいようとも、上の命を下に伝えるものが腐っていれば、その機構そのものが歪んでしまう。
 …正しくは、歪んで見えてしまう。
 そして、その機構に、どう復讐しようというのか。その機構を構成する人全てを斬るのか?その機構を壊すのか?
 その機構が壊れても、腐りきった人間は残ることになる。腐った人間のみ抽出して、斬るのか?
 できるできないは別として、そんな神罰のようなことを、本当に人間は、俺は、できるのか?
「時代の流れというのは、逆らえないものだよ。人の心の移り変わりもね。『正しい』と世間様が認めたものは、悪でも善でも正しくなってしまうのさ」
 「時代の流れ」という言葉に、天戒は鋭く反応した。鬼道衆は、かつて幕府に復讐する組織だったが、もうひとつの夢を抱いていた。
 時代の流れを変えること。
 結局、鬼道衆は、時代の流れに逆らえなかった。しかし、かといって、鬼哭村の村人達が受けた痛みや苦しみは、正しいはずなどない。鬼哭村の境遇が間違っているのなら、幕府も間違っているはずなのだ。それが、なぜ「正しく」「善」になってしまうのだ!
「時代の流れに逆らえないのなら、いつまでたっても、世界は良くならないではないですか」
「いや。人一人一人が常に自分に満足しないで、周りをよく見て、自分の考えが人道に外れていないか常に考え直して、日々精進していけば、世の中は良くなっていくと思うけどねえ」
 気の遠くなるような話だ。そのうちに、またどこかが腐っていってしまうのではないのか?
 そこで、天戒は気付いた。復讐する相手は、移り変わって行く。幕府を潰せば、終わることではない。第二、第三の幕府が生まれるのは必至だ。
 どう、防げばいい?どう、復讐すればいい?
 実体を持たない、虚像のような相手に。
「それにねえ、私らは、復讐するような力を持たない、ちっぽけな存在なんだよ」
「ならば、その力を…」
「だからって、強い力を持ちたいとは思わないねえ。手に余る力なんて、悲しい結果を生むに決まってる。それ相応がいいんだよ。確かに、そんな力では復讐はできないかもしれない。でも、それこそが、ずっと続いちまう復讐を止めてくれると思うんだよねえ…」
「しかし、それは泣き寝入りなのでは」
「そう聞こえても仕方ないねえ。でも、受けとめ方によって、良い方向にも、悪い方向にも転ぶことができると、私は思うよ」
 雪の言葉を全て受けとめ、真剣に考え込む天戒を見、雪は微笑んだ。
「これで、私の話は終わりさ。悪かったね、年寄りの御託を長々と聞かせてしまってね」
「いえ、とても勉強になりました。ありがとうございました」
 真面目な顔のまま、天戒はあっさりと頭を下げる。鬼哭村の長であることを明らかにしていないからこそ、できることだった。ただ、勘の良い雪なら、気付いているのかもしれないが。雪が、ただの青年として扱ってくれているのだ。天戒もそれに応えるつもりだった。
「いやいや、こんな皺くちゃのばあの話を良く最後まで聞いてくれたよ。いい子達に会えて、ほんとに私は果報者だねえ」
 そう言いながら、皺くちゃの顔をほころばす。天戒も、その笑顔を見て、表情を緩ませた。
「悩むといいよ。その悩みは、決して無駄じゃない。真剣に考えれば、それは良い方向に転ぶだろうさ」
 はははと、雪は再度笑った。そして、
「本当に、あんた達に会えて、私は幸せだよ」
と、幸せそうに微笑んだ。

「会って、良かっただろ?」
「ああ」
 帰り道、刹羅は天戒の顔を覗きこんだ。
「来るとき、話したろ。藍の話」
 なぜその話に戻るのか分からず、天戒は微かに首を傾げた。
「おまえには、さ、ちゃんと自分の気持ちを正直に話す相手が必要と思ったのさ」
「俺は、おまえに正直のつもりだが?」
 「心外だ」というふうに、天戒は問い返した。
「俺には、復讐について、正直に話してもらったことなんて、ないぜ。俺の人徳が足らんだけなのかもしれないけどな」
「そうか?」
 ひねくれたような刹羅の態度に戸惑って、ゆっくりと思い返してみる。…確かに、刹羅に復讐について話すことは避けていた気がする。自然と。
 刹羅に、歪んだ目で世界を見て欲しくなかったからだ。常に、周りや天戒の考えに染まらず、刹羅自身の考えや思いで、世界も天戒も見て欲しかったから。
「村人に弱いところを見せられないのは分かるけど、たまには奥底に押し込めてる感情を、包み隠さず吐き出さなきゃ、そのうち息が詰まるぞ」
「ああ、そうだな」
 粗雑に見えて、細やかな気遣いも持ち合わせている親友に、天戒は笑い返した。
「おまえ、さ。本当は復讐なんて、望んでなかったろ。ただ、欲しかったのは、鬼哭村の村人の幸せだ。違うか?」
 天戒は、足を止めた。親友の歩みも止まる。
 空は、青かった。山の緑はやわらかく、空気は澄み、自然の恵みを全身に感じることができる。
「ああ」
 天戒は、静かに親友に微笑み返した。

 訃報が届いたのは、しばらく経った後だった。
 雪が亡くなった。
 老衰だったらしい。毎日のように彼女の家を訪ねる村人が、いつものように扉を開けると、雪は布団に寝ていたが、息をしていなかったそうだ。息をしていないのが不思議なほど、安らかな表情だったそうである。
 大往生だった。
 彼女を知る人は、全てそう思ったに違いない。彼女は、この世界の生を、とても至福と思っていたから。幸せだと、言っていたから。
「雪さんの墓参り、行くか?」
「ああ、もちろんだ」
 身支度を整えた天戒が、腰を上げようとしたときだった。どたどたとけたたましい足音をたてて、襖を開ける者がある。顔を見ずとも、その足音をたてるのは、この屋敷に一人しかいなかった。
「雪ばあの墓参り行くの、ホントか!?」
「相変わらずうるさいな、おっきー」
 顔をしかめて、刹羅が風祭を蹴る。蹴りを受けて、床にしりもちをついた風祭は、拳を上げて非難の声を上げた。
「ホントにうるさい坊やだねえ。せーさん、そろそろ行くのかい?」
「ああ」
「経のひとつでも、捧げんとな、ここは。僧として」
「こんな生臭ボウズにお経上げられたら、雪さんがゆっくり眠れないんじゃないか?」
「いいこと言うねえ、せーさん」
「たまには、坊主らしいこともするぞ、これでも」
「自分で『これでも』って、普通言うかよ」
「それもそうだな」
 あっはっは。
 刹羅達は顔を見合わせて笑いあった。
 狐につままれたような天戒は、口を開く。
「…おまえ達、雪さんを知っているのか?」
「知ってるよ」
 即座に、刹羅が振り返った。
「みんなが知ってるのを知らなかったのは、おまえだけだけどな」
 そして、刹羅はいたずらっぽく笑う。呆れた天戒に、返す言葉はない。はめられたことに気付き、なぜか笑いがこぼれた。
「ああ、みんなが雪さんを知っていて、良かったよ」
 人が亡くなったとは思えない、明るい空気。それを作り出したのは、雪に他ならなかった。
 彼女に伝えたいことがある。
 でも、彼女はもう知っているんだろう。それでも伝えてしまう言葉を。「ありがとう」という言葉を。
「さあ、行こうか」
 天戒は、ゆっくりと立ちあがると、かけがえのない友人達を見まわして、微笑んだ。
 …今、確かに、天戒は幸せだった。


END



外法帖納得できないところぶちまけss第三弾です。
やっと書けました。
内容的には、自己満足の世界を離脱できていないようですが。(情けなし)
これで終わらせようということで、残っていた全てを詰めこみました。
特に、これ以上、言い訳はしません。これが私の今の限界です。

このssを読んでいただいた皆様、本当にありがとうございました。


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