回想の彼方



「今日、時間あるか?」
 休日の朝。
 秋に入りかけたやわらかな朝日が部屋に流れ込んでくる。陽光で明るい部屋の中で、ふいに鳴った携帯を取った壬生は、友人のいつもとは違う声音に眉をひそめた。
「ああ。時間がないわけではないよ」
 とりあえず、当たりさわりのない返事をする。相手の反応が知りたかった。
 何があった?
「じゃあ、用意ができたら紫暮の道場で会おう。手合わせをするんだ」
 変な言いまわしだった。いつもの彼ならこんな有無を言わせないような命令口調の言い方はしない。しかも、手合わせなんて、壬生がそれとなく誘ってものってこないくせに、どういう風の吹きまわしだ?
「じゃあ」
 短い言葉を残して、あっけなく電話は切れた。
 一体何があったんだろう。
 壬生は、通話の切れた携帯をいぶかしく見つめ、手早く出かける準備をした。
 見えない背後に落とし穴があるような、妙な不安があった。壬生は、紫暮の道場に向かう。はやる気持ちは、その足をいつのまにか走らせていた。

「…遅かったな」
 紫暮の道場で、ひとりぽつんと正座する彼がそこにいた。朝日が覆う道場の中、彼の姿は壁が陽光を遮った陰に隠れ、壬生に向けた瞳は暗い。
 遅いはずはなかった。壬生はかなり急いで来たのだから。同時に家を出れば、同じ頃にこの道場に着くはずである。…つまりは、彼がすでにこの道場近くで壬生に連絡したということになる。
「飛羅?」
「じゃあ、始めよう」
「ちょっと待ちなよ。なぜ突然手合わせなんて…」
「手合わせ、したかったんだろう?紅葉は」
「そういう意味じゃない。飛羅、何があったんだ?」
「手合わせしたくないんだったらいい」
 立ちあがり、くるりと踵を返すと、あっさりと道場を出て行こうとする。
「飛羅!」
 慌てて肩を掴む。…と、肩に置かれた手を振り払うように振り返った飛羅は、振り向きざまに拳を放ってきた。
「!」
 予想をしなかったこととはいえ、すんでのところで壬生はその拳を避ける。壬生が口を開く隙を与えず、飛羅は次の拳を放った。それは、すでに手合わせが始まったことを意味する。壬生は、半分諦めると、反撃する構えを取った。だが、その頭は混乱を極めていた。
 一体、何があったんだ?

 無茶苦茶だった。
 いつもの、自由奔放で流れるような拳裁きには程遠い。子供がやけを起こして、ただがむしゃらに腕を振るっている。そんな印象。
 しかし、その拳に込められた力は、かなりの重みを持っていた。当たったら、…いや、かすっただけでもただでは済まないだろう。そもそも、無茶苦茶な攻撃では壬生に当たるはずもないが。
 その拳に込められた思いは、怒りに見えた。底が見えない瞳に、壬生の存在は映っておらず、そこにあるものは、暗く濁っていて見定めることができない。何に怒っているのか、その瞳には映っていなかった。
 瞳に映る相手がいないということは、飛羅は瞳に映ることのない自分に怒っている。
 どうやら、それが原因のようだった。
 無茶苦茶な拳を避け、まともな防御の構えもない飛羅をおとなしくさせることは簡単だった。だが、壬生は、飛羅をそのままにさせ、気の済むまで付き合うつもりだった。それに気付き、いらだったのか、飛羅は唸りを上げる拳にのせて、声を上げた。
「うあああああーーー!!」
 渾身の一撃は、壬生に避けられ、空を切る。
「ああああーーーー!!」
 重い風切り音をうならせ放たれた蹴りは、壬生に受け流される。
「おああああーーーー!!」
 腹の底から搾り出すような声。拳に込められた怒りは瞳に宿り、その瞳に混じるものがあった。休むことなく繰り出される攻撃を次々とよけていた壬生は、その瞳から見出
すものがあった。合点がいったような表情を刹那すると、飛羅の攻撃を避けていたその動きを、自らの意志で止める。
 それは、一瞬前まで、反対に飛羅を傷つけてしまうという思いからしなかった行動だ。多分、飛羅はひどく後悔する。でも、このまま続けても、飛羅を更に追いこむだけだった。
「うおおおおおおーーーー!!」
 ガツン。
 まともにはらをえぐった拳で、壬生は背後に吹き飛んだ。床に体を打ちつけた壬生を見下ろし、飛羅はその動きをぴたりと止める。その表情は、呆然自失といったところだろうか。
「く…れは…?」
 その声は、泣いていた。
「…ぐ…、げほっ、……ごほっ…」
 分かっていたことではあったが、その威力は想像以上にすさまじく、返そうとする言葉をからまった喉が通さない。あばらは…、ぎりぎり外れていて、無事なようだが…。
 呆然と立ち尽くし、苦しげに腹を抱えている壬生を見下ろしていた飛羅は、ふらふらと後ずさった。何を思っているのか、信じられないというような顔つきのまま、ふるふると首を振る。
 視界の端に、綺麗に整頓された折りたたみイスがあった。それは、壁に立てかけられ、数十個が三列に並べられている。
 飛羅は、そのイスのひとつを手に取った。
「……うわああああーーー!!」
 投げたイスは、派手な音をたて、道場の壁にぶち当たると、ごろごろと転がっていく。飛羅は、…止まらなかった。次は、イスを掴まず、拳でなぎ払う。
 ガシャーン!!
 滴る雫が放つ飛沫のように、数十個のイスが軽々と吹き飛んだ。次々と床に打ちつけられる音は、道場内に響き渡り、静寂の秋の朝を切り裂いてゆく。
「飛羅!」
 壬生は、痛む腹を抱えたまま、その名を呼んだ。
 折りたたみイスは、当然ながら、金属でできている。無造作になぎ払った飛羅だが、金属に勢い良く当てたその拳も無事ではないはずだ。
 飛羅は、それを聞いていないのか、聞かないのか、残っているイスを今度は反対側になぎ払った。次も、…次も。
「あああああーーー!!」
「飛羅!!」
 その壁にイスがなくなると、飛羅はその動きをはたと止める。
「飛羅」
 腹を抱えたまま飛羅に歩み寄ると、壬生はその肩に手をかける。…飛羅は、そのまま力なくぺたりと座りこんだ。握っている拳が、力を入れすぎていて、白い。イスの金属に当たった打撲の跡が白い拳に青かった。
 壬生は、添うように膝をつくと、その拳の指ひとつひとつを開かせた。爪は短く切り揃えられているのに、掌には爪の跡に血がにじんでいる。
 されるがままに座りこんでいる飛羅は、呆然とした表情のまま、虚ろな瞳を虚空に泳がせていた。その首は力なく道場の天井を見上げている。
 壬生は、飛羅の両手を開かせると、静かに問うた。
「僕の家に来るかい?」
「……」
 飛羅は、無言のままこくりと頷いた。
 そして、床にうずくまると、声を上げて、……泣いた。
 壬生は、何も言わず、ただ傍で飛羅の背中をなだめるようにさすっていた。いつもは大きいはずの、小さな背中を。

 コトン。
 テーブルに二人分のマグカップを置く。淹れたての緑茶が、鮮やかな緑色でそのカップを満たしていた。こんなときは、コーヒーや紅茶ではなく、緑茶がいい。スープがあればいいけれど、あまり調理に時間をかけるつもりはなかった。
 体を温めて、少しでも緊張の糸が緩まればいい。そんな願いがあった。
「飲むといい」
 飛羅は、無言のままマグカップに手を出した。口には運ばず、両手でマグカップを包みこむ。温かいカップは、飛羅の手を労わるように温めた。
 壬生が、飛羅の泣き顔を見たのは初めてだった。マリアが死んだときも、それまでの覚悟と一秒も無駄にしない行動があったためか、飛羅は泣き顔を見せなかった。見せなかっただけで、一人泣いていたのかもしれないが。
 男は人前で泣けない。
 少なからず、誰もがそう思っているだろう。数少ない心を許せる友達以外の前では、人一倍体面を気にする飛羅のことだ。その思いは強いに違いない。
 その飛羅が泣いた。
 何があったのかは分からない。しかし、ただ、その原因はとても大きなことだったのだろう。それは想像がついた。
 何も語らなくてもいい。ただ、少しでも気持ちが落ち着けば。
 壬生は、俯いたままマグカップを見つめる飛羅を目の前にして、そう思っていた。
 飛羅は、ずっと無言だった。壬生の家に向かう電車の中でも。消沈した表情は暗く、うつろな瞳は何も見ていなかった。
 ふいに、その飛羅の顔が苦く歪んだ。緑茶を一口飲み込むと、口を開く。
「…昨日…」
「飛羅、無理に話さなくてもいいよ」
 辛そうな飛羅の表情に、壬生はその言葉を遮った。飛羅は、その言葉に、済まなそうな悲しそうな複雑な表情をしたまま、笑う。胸の痛くなりそうな笑顔だった。
「いや、いい…。俺が話しておきたいから」
 そう言う飛羅を止める気はない。元より、飛羅の好きなようにさせたかった。人を励ますなどということは、不器用な壬生にできることとは思えなかったから。
 飛羅は、もう一口緑茶を口に入れると、続けた。
「…昨日、織部神社に行った時、巻物、見たよな」
「ああ」
 江戸時代の大名、九角家の巻物だった。鬼道を操った九角天童の先祖にあたる。そして、菩薩眼を受け継ぐ静姫の記述もあった。
 難解極まりない流れるような草書を目の前にして、一様に難しい表情をしていた飛羅達に、雛乃が丁寧に詳しく解説していった。
「…夢を見たんだ」
 一見、脈絡のない言葉だった。それがどう九角の巻物に繋がるのか。
 飛羅は、ゆっくりと話し出した。

 一人目は、黒衣の男。
 キリスト教を伝え、その教えを説く。彼はキリシタンだった。
 だが、それは異端。
 その強力な伝播力と、矜持に従う団結力は、いつしか幕府の敵となっていた。
 思いの伝播も軽視するものではない。
 幕府の恐怖は、ものの見事に感染し、隠れキリシタンを処罰するまでになっていた。その感染は、平和に溺れ膿を溜めこんでいた幕府を通し、醜く歪んでいた。
 処罰とは名ばかりの、虐殺。
 飛羅は、友人達を救いたかった。教えを守り、つつましやかに暮らしていた、何の罪もない人々。愛すべき人々。
 目の前で、十字架に張りつけられ、油をかけた体に火が投じられる。止めようともがく手足は、拘束された。それだけではない。キリストの名を使い、呼び集めたキリシタン達を、奴らは戯れに切った。その叫び声と苦悶の表情を、奴らは楽しんでいた。
 はた、と血が地面に小さな円を描いた。血の涙だった。その紅い円は、次々と地面を濡らしていく。
 飛羅は、奴らが心の底から憎かった。
 飛羅の姿は、鏡に映るように目の前に投影された。金髪の、普段は優しげな表情を浮かべているのであろう、整った顔立ち。しかし今は、憎しみにその顔を歪めていた。
 次第に彼の体は、飛羅の見知った姿に変化していく。それは、…雷角。それは変生し、鬼になり、更に宝珠に変遷する。
 そこで飛羅は自覚した。彼は、自分ではない。それが分からない程に、同調していた。いや、むしろ、彼は自分自身だった。彼の痛みや傷は、飛羅の中に刻まれていたから。
 それは、ただ痛かった。苦しみから、自然にうめき声が出た。

 二人目は女。
 彼女である飛羅が愛した村は燃えていた。断末魔を上げて、次々と倒れゆく親族、友達…。血の海で泣く飛羅の足首に、その刃は降ろされた。
「――――ッ!!」
 悲鳴は声にならなかった。痛みが脳天を突き刺し、ただ体を硬直させて、その痛みが去るのを待つしかなかった。いつ消えるともしれない壮絶な痛みを。気の遠くなるような、時間。
 飛羅は、彼らを呪った。
 何故。俺達が何をした。おまえ達に、俺達の生活を奪う権利などあるものか。
 倒れた飛羅の目の前に、目を見開き、こときれている血濡れた父親の顔があった。それはやがて、妖艶な女に変化していく。女は、飛羅を冷たい表情のまま、見つめていた。彼女の瞳は空虚で、しかしその奥にある憎悪を垣間見、飛羅はぞっとする。
 しかし、その憎悪は飛羅の中にも確かに存在していた。
 その女の姿は、やがて飛羅の知るところの水角に変化していく。

 三人目は、憎しみの炎を宿す瞳を持つ男。
 飛羅は、戦いが嫌いではなかった。高揚する精神。自らの力を鼓舞できるところ。自分自身が生きている証。
 しかし、それは、自らが生きているからこそ持つことのできるものだった。自らに「死」はあり得ない。いつからか、己の慢心に埋もれ、自分の「死」があることなど、飛羅は忘れていた。
 思い知ることになる。
 自分は、捨て駒だった。そうだ。奴らは、いつでも飼い犬が自らを噛まないようご機嫌をとっていただけのこと。俺達に何の未練もなかったのだ。始めから、奴らと同じ立場で話し合うことなど、あり得なかったのである。
 なぜ、それを今知るのだ。もっと早く気付かなかったのか?
 修羅場を潜り抜けた同胞達はみな、死んだ。自らの腕は、両方ともない。切り口からは絶えず血が流れ、痛みは思考を遮り脳を満たす。
 飛羅は、自分の愚かさを呪った。
 しかし、もう遅い。…もう取り戻せるものは、何もないのだ。
「うおおおおおおおっ!!」
 叫び声と共に、飛羅の視界は彼から遠ざかり、その姿は炎角に変わっていった。

 四人目は、岩のような体を持つ男。
 つい昨日まで、その村は平和だった。幕府も天皇もない、小さな村だったのだ。
 その村の生活は、真綿でくるまれたようで、飛羅にとってとても愛しいものだった。優しい村人達。実りある山。山に住む動物達。全て、愛しいものだった。
 その村は、あっけなく燃やされた。
 きな臭さで慌てて村に戻ると、そこは地獄絵図に豹変していた。血の匂いと、響き渡る断末魔。
 覚えているのは、村の少女の髪を掴み、切りかかろうとしていた侍を、斧で真っ二つにするまで。その後の記憶はない。
 残ったのは、いつかに切られた頭の傷と、燃え尽きた村。昨日まで、優しげな笑顔を交し合った、村。今、その村に住むものは、骸のみである。
 頭に切りつけられた傷で、思考ははっきりしない。ただ、その脳に、その肉体に刻み付けられたものは、幕府に対する憎悪だった。
 俺達が、何をした。幕府など、俺達には関係のないものだ。勝手に戦争をしていればいいだろう。この村以外で。
 返せ。俺達の村を。
 飛羅は、激情のままに斧を振るった。一撃で倒れる一抱えもある大木を見下ろし、再度顔を上げると、そこには憎しみで顔を歪めた岩のような男がいた。彼の姿は岩角に変わっていく。

 最後は、九角家に代を越えて仕える男。
 その幕府への憎しみは、直接先代から伝えられていた。毎日、その憎しみを増幅させるように。代が代わっても、自らが経験したと思えるほどに。いつまでもその憎しみが薄れないよう。
 日々重ねられるその憎悪は、そのまま幕府の凶行に重ねられた。ひとつひとつの細かな事も、その憎しみに重ねてゆく。
 いつか、その憎しみは飛羅の中で凝り固まっていった。決して融解することのない、静かなる激情。
 幕府が、心の底から憎かった。自らを取り巻く者の幕府への憎しみも全て、自らの中に書き換えていく。…それは、膨大な量になり、体から溢れ、飛羅の身を覆った。
 飛羅は、代々受け継がれる鳥の仮面を手に取る。虚空を睨んだまま、その仮面を身につけた。その仮面を正面から見つめる。
 仮面は徐々に崩れ、彼の姿は風角に変わっていった。

 それが、飛羅の見た夢の全て。
 飛羅は知っていた。それが、九角の巻物が見せた現実であることを。そして、その傷の痛みと憎しみは言語を絶することを。
 何より、飛羅自身が体験した痛みだったから。飛羅は、幕府が憎かった。それは、事実、現実の飛羅にもそのままの形で残っている。
 所詮、同情など、他人事に過ぎないのだ。彼らを可哀相と思う傍ら、彼らを死に至らしめたのは、自分ではなかったか。
 お笑い種だ。
「俺が、彼らの息の根を止めた」
「飛羅、それは…」
「いや、俺が彼らを許せなかったから。ただ、その自分の意思のために、彼らを倒したんだ。彼らの気持ちなど、俺の中では小さなものだったんだよ」
 こんなにも違う。当事者と、そうでない者では。どうあっても、その当人にしか、その苦しみや痛みは存在し得ないのだ。
 飛羅は、夢の中で彼らとなって初めて、その事実に打ちのめされた
「救えるとか、そんな高尚なこと思ったわけじゃない。俺にはどのみち無理な話だったんだ。でも、彼らの真実を知っていれば、もう少し何かできたかもしれなかったのに」
「飛羅…」
「俺は…、馬鹿だ…」
「…僕は、そうは思わないよ」
(だって、僕は君に救われたから)
 心からそう思い、口を出た言葉だった。
「…ああ、ありがとう…」
 飛羅は、瞳を悲しみに濡らしたまま、口だけで笑った。今にも、泣きそうな、顔だった。涙はその瞳から流れ出でてこない。いっそ、泣いてしまった方が、その苦しみから抜け出せるのではないのだろうか。
 壬生の声は、今の飛羅には届かない。壬生は、悲しみの殻に閉じこもった飛羅を前に、途方に暮れていた。

 その日、一人で眠ることを恐れた飛羅は、壬生の家に泊まることとなった。特に何をするのでもなく、飛羅は壬生から借り受けた文庫本に目を落とす。ページを繰る手は止まりがちで、その目が文字を捉えようとも、文章を追っているとは思えない。
 飛羅は、壬生が気付くときにはいつも、窓の外をただぼんやり眺めていた。そこには、何の変哲もない、雑多な街並みと穏やかな秋空があった。
 何を話すでもなく、ただゆるゆると過ぎる時間を過ごす。深夜になって、飛羅は自ら寝床を整えると、あっさりとその中にもぐりこんだ。隣でベッドに横になった壬生は、電灯を消した真っ暗闇の部屋の中で、飛羅に注意を向ける。
 飛羅は、眠っていないようだった。しばらく寝返りを繰り返す。あるとき、その寝返りはぱたりと止み、規則的な寝息が聞こえてきた。さすがに、睡魔には抗えなかったらしい。見慣れない夢を見た所為もあるだろう。疲れているのだ。
 壬生は、そんな飛羅がうなされることがないか、耳をそばだて、…いつのまにか眠りについていた。

 造りはしっかりしているものの、余計な装飾がない質素な屋敷の裏。森は柔らかな緑を湛え、暖かな風にその葉を揺らしている。彼らは、その屋敷の裏に立つ墓の前に佇んでいた。
 紅い髪の男は、隣に佇む男に伝えたいことがあるようだった。ただ、その言葉は口にされることはなかったが。
 何故。
 それはもう、彼には伝わっているからだった。
(これから、己の信じる最善の道を歩く。消えることのない重い宿命を背負い。もし、それでも、最悪の事態になったら、止めてくれよ。…信じている)
 紅い髪の男の切なる思いが、飛羅の中に流れこんで来た。平穏に暮らしている者には決して生まれることのない、思い。その思いには現実的な重みがあった。
 隣に立つ男には、どこか見覚えがある。なにやら、鏡を見ているような、不思議な感覚。
 無造作に短く切った黒髪の男は、紅い髪の男の隣で、ふいに笑みを浮かべ、おもむろに口を開いた。
「トンビの子は、トンビだぜ?」
「そうだな」
 紅い髪の男は、つられたように笑う。
 紅い髪の男の思いは、受け継がれる。それは、子を思う慈愛の心も、取り巻くものを陥れた者に対する憎しみの心も。
 できれば、憎しみの心など愛する子らに伝えたくはなかった。しかし、それはすでに自分を形作る一部となってしまっている。それだけを隠すことはできない。存在すれば、気付かぬところでにじみでるものとなるだろう。自分だけではない。同じように憎しみを抱く者達に、自らを置いてその憎しみを捨てろなどと、無理な言葉は言えるはずもなかった。
 おそらく、この憎しみは受け継がれる。本人の意思に関係なく。
「俺も止めたいんだがな。多分、この遺志を止めることはできないだろう」
 受け継がれる遺志。その重すぎる遺志を、全て子らに背負わせるわけにはいかない。ましてや、自分にできなかった、その遺志を消し去ることを、子に求めてはいけない。
「子らに多くを望んではいけないな。ただ望むのは、戦を憎み、平穏を願う心」
「ああ、そうだな。それは、強く願えば受け継がれると思うぜ」
 黒髪の男は、虚空を見上げた。その瞳は、見えないはずの飛羅を捉える。
 そして、愛しい子を見るように、彼は微笑んだ。

 瞳に明るい朝日が飛び込んで来た。陽の光を掌で遮りながら、窓際に座り込む彼に声をかける。
「…飛羅…?」
「ああ、悪い。起こしちゃったみたいだな」
 窓の外を眺めていた飛羅は、壬生を振りかえる。
「紅葉。話したいことがあるんだ。聞いてくれるか?」
 その言葉を拒むはずもなく。壬生は飛羅に頷き返した。
 窓から注ぐ陽の光を背負った飛羅の表情は逆光にはっきりしなかったが、そこには昨日のような澱みはなく、何かを悟ったような静かな微笑みが浮かんでいるように見えた。


END



外法帖納得できないところぶちまけss第二弾。(笑)
外法帖と言ってはありますが、最近思うことを重ねて書いてはいます。
強く思っていることで、どうしても「見渡した世界」で終わりにしたくなかったのです。
ただ、これを書いても、まだもうひとつ書かなければならない話が。
書かない、と思っていましたが、ここまで書いてしまったことで、書かなければならないと思っています。自分自身に納得するために。

ただただ、この読みづらいであろうssを読んでいただいた皆様、ありがとうございます。


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