彼の受難



 病院は、診察や面会で行き交う人々のざわめきで満たされていた。院長の腕が確かだと、どこからともなく流れてきた噂に、これだけの人々が集まってくる。相変わらずその病院は盛況のようだった。
 まあ、病院が盛況と言うのも、微妙に困ったことでなくもないが。
 ―――桜ヶ丘病院。
(薬を受け取るだけでも、時間がかかりそうだ…)
 相変わらずといえども、壬生の口からは自然にため息が漏れる。暇つぶしに、鞄から文庫本を取り出す。
 殆ど人で埋め尽くされている待合椅子が、雑然と並んでいる。端の方の偶然空いている席に座り、文庫本のページを繰り始めた。
 小説の中盤に差し掛かったところで、アナウンスが彼の名前を呼んだ。思ったより時間がかかったことに再びため息をつくと、受け取った薬を文庫本とともに鞄に入れる。さて、と思った彼の背中に、アナウンスではない生の呼び声がかかった。
「壬生く〜ん」
 その声音で、振りかえらずとも声の主が知れる。足を止めて振りかえると、やはりそこには思ったとおりの女性が駆け寄ってきていた。
「高見沢さん」
 ぱたぱたと軽やかな足音をたてて近づいてきた舞子は、長身の壬生を見上げる。そして、無邪気な笑顔を向けてきた。
「こんにちはぁ〜」
 微かに息をあげている。舞子は胸に手を当てて小さく深呼吸すると、再び壬生を見上げた。
「あのね、壬生くんにお願いがあるの」
「?」
 素直になんだろうと首を傾げると、舞子はごそごそと何かを取り出した。
「あのね、今日は紗夜ちゃんね、風邪でお休みなの。解熱剤は昨日帰るとき渡したんだけどね、他のお薬渡しそびれちゃったから…」
「風邪薬?」
「そう。それをね、紗夜ちゃんに届けて欲しいの」
「僕が?」
 唐突な依頼に、少し目を丸くすると、いつのまにか手に薬の入った袋を握らされていた。
「ホントは舞子が行きたかったんだけど、紗夜ちゃんの分も今日はお仕事しなきゃいけなくて、でね、その中に住所と地図と書いたメモは入れてあるから」
「でも、僕は…」
「忙しいの〜?」
「いや、そういうわけではないけど」
「じゃあ、お願いね〜。壬生くんだったら舞子も安心〜、紗夜ちゃんも安心〜」
 じゃあ、と手を振って舞子はその場を離れようとした。目が回るような展開に、多少面食らってから、慌てて舞子を呼びとめる。
「な…」
ぜ僕が、は喉を通過しなかった。声になる前に、舞子は病院に溢れる人ごみに消えて行ったから。
 しばらくなんともなしに呆然と立ち尽くしていると、今日何度目かと知れないため息をつき、壬生は病院を後にした。

 ピンポーン。
 インターホンが、ありきたりの電子音を鳴らす。
 どう軽く見積もっても1分は待った後、扉の向こう側に動きがないのを悟って、壬生は思案顔になった。
 さて、どうしようか。
 他に方法がなかったわけではなかったが、とりあえずドアノブに手をかけると、ひどく不規則な足音が聞こえ、ドアが勢い良く開いた。勢いを弱めようとしないドアを無表情のまま手で押さえると、ドアの重力と共に、人影が倒れこんできた。
「比良坂さん?」
 自然な動作でそのまま比良坂の身体を抱きとめると、比良坂の身体は力なくぐにゃりと、壬生の腕に身を預けてきた。
 ふらつく足取りでドアを開けたはいいが、そのまま気を失って壬生に倒れこんできた、というところだろう。訪ねてきたのが壬生だったから良かったものの、窃盗目的の輩だったらと思うと、壬生の眉は自然に軽くひそめられた。
(これだから、放っておけない)
 器用に身をかがめ、比良坂の小さな体を抱きかかえると、壬生はふと気づいて自嘲気味に笑った。
 本当に依存しているのは、僕の方だけど…。
 比良坂の家は、ごく普通のワンルームマンションだった。白い壁が目立つ部屋は、こざっぱりとして、およそ女の子が住んでいるとは思えない簡素さだった。シンプルと言えば聞こえはいいが、物が少ない、と言った方が、らしいだろうか?
 買えない、という理由より、買わない、という方がしっくりきた。
 部屋のあちこちにあるひとつひとつの小さなモノは、随分前からそこにいるようだったからだ。テーブルひとつを見てみても、比良坂に愛されて大切に使われている形跡がにじみ出ている。
 部屋の半分を占めているベットは、生成りのようなベージュ色のカバーがかけられていた。どうにか抜け出してきた感の布団が、少しだけめくれている。
 壬生は、比良坂を抱きかかえながら布団をめくると、その間に比良坂の身体を降ろした。布団を比良坂にかけようと、比良坂から身体を離そうとして、凍りつく。
 比良坂の手が壬生の制服の胸元を握り締めていた。
 その手は、離れようとする身体を必死にとどめようと、力なく、それでも懸命に握り締めていた。
 ………。
 チッチッチッ…。
 時計の音がやけに耳を打った。
 チッチッチッ…トットットッ…。
 おかしい。時計の秒針にしては早すぎた。
 そこで壬生は、やっとそれが自分の心臓の音と認識した。
 自分がこんなにも動揺する人間と知って、少し肩を落とす。確かに、こういったことは全く経験がなかった。他人に触れるだけでも、いまだに抵抗感がある。仕方ないのかもしれない…。
 それでも、がっくりとベッドに突っ伏すと、シーツに広がった比良坂の髪が頬に触れた。いい香りのシャンプーの匂いがする。
「……」
 壬生は、極力冷静に頭を起こすと、自分の制服を握り締める細い手を見下ろした。
 力が入らないのだろう。手は小刻みに震えている。子供がいやいやをするような表情は、熱のためか微かに赤みを帯びていた。
 比良坂の、無意識であろうその気持ちは理解できた。―――自分もそうだったから。
 壬生は、幼い頃から物分りのいい子供だった。子供にしては、物分りが良すぎた。
 父親が死んで、母親と2人きりになったとき、迷惑をかけてはいけないと、母親を支える存在にならなければだめだと、自分自身に言い聞かせて育ってきた。
 そんな彼だったから、母親に甘える、人に甘えては堕落すると自分を戒めていた。
 甘えてはダメだ。一度でも甘えてしまったら、……それが恋しくなってしまう。
 頭の片隅の方で、それは分かっていた。
 本当は甘えたかったのだ。母親に抱きしめて欲しかった。
 母親は、壬生を愛していないわけではなかった。それも分かっていた。
 だが、子供だった壬生は、やはり母親に甘えたかったのだ。
 子供にしてみれば、至極当然の願い。それを壬生は、自らの意志で抹消させていた。それを今更哀れとは思わない。それが最善の行いだと信じていたから。
「たまには休んでもいいんじゃないですか?」
それは、彼女が言ったセリフだ。
 その言葉にすがり付き、居心地のいい空間で休んだのは自分だ。そんな彼女の手を、壬生に振り払えるわけがない。
 ふう。
 小さな息をつくと、壬生は自らの体もベッドに横たえた。自分の身体と一緒に、比良坂の身体に布団をかけてやる。安心させるように、比良坂の背中をポンポンと軽く叩いた。
 傍らにあるぬくもりが去らないと感じたのだろう。比良坂は、安心しきったように壬生の胸に顔を埋め、規則的な寝息をたて始めた。
(……困った…)
 素直な壬生の気持ちだった。
 どうすればいいんだろう。
 眠ったのを見計らって布団を抜け出せればいいのだが、先刻の比良坂の反応を見ていると、そうやすやすとはさせてもらえそうにない。かといって、こんな状況で一緒に眠れるほどの度胸はなかった。
 壬生の身体は硬直したままだ。
 比良坂の足がちょっと触れただけでも、壬生の身体はびくりと、必要以上に反応した。まるで、全身が繊細な神経にでもなった気分だ。
 比良坂との間には、体温からによるぬくもりが温度を上げている。
 慣れない、身体を密着させた状態に、壬生はかなり落ち着かないでいた。
 気を紛らわそうと、部屋を見渡す。そこには、先刻は気づかなかった緑の植物たちがぽつぽつと部屋を彩っていた。
 けしてどぎつくはない、やわらかな緑色。その先端についた花も、淡い桃色に染まっていた。
「冬にも、花は咲くんだな…」
 壬生には、植物のことは良く分からない。冬に見れる花と言ったら、温室か花屋だけだと思っていた。
 冬でも花は咲けるんだ。
 小さな感慨が壬生の心に降り落ちた。
「夜でも咲く花はあるんです」
 そうだ。
 それは、腕の中の彼女が教えてくれたこと。彼女の言葉は、優しくやわらかに、この部屋の植物のように、壬生に染み渡っていった。そして、確実に壬生の一部になっている。
 飛羅達に会う前に、からからと虚しい音をたてていた心の中は、あたたかなもので満たされていった。
 失くすのが怖いくらい。
 それでも、―――求めることを止めることはできなかった。
 ふと、ベッドの傍らに置いてある写真立てに目を止めた。
 幼い比良坂が、兄と共に戯れて笑っている。
 彼の存在は、今も比良坂の心の多くを埋めているのだろう。
(死んだ人間に勝てるわけがないな…)
 壬生はぼんやりと思った。
 死んでしまったら、勝負などできないから。ある意味、それは勝ち逃げのようなものだ。
 彼の顔を見つめていると、なんだかとても後ろめたい気分になって、壬生はほんの少し身を退けた。
 ほんの少しのはずだった。…が。
「んー!」
 眠ったままの比良坂が、壬生のぬくもりが去って行くのを鋭く感じて、更に擦り寄ってきた。
「―――!!」
 比良坂のやわらかな胸が、壬生の胸に触れた。
 触れたところから、一気に熱が頭まで掛けあがり、脳が沸騰するようだった。
「……」
 我慢の限界だった。まあ、巷の同年齢の青年に比べれば、神のような理性だったには違いないが。
 たまりかねて、壬生は無理矢理身体を布団から引き出した。いたって普通のシングルベッドには、壬生の身体を受けとめるほど、当然広さに余裕はなく、壬生の身体はものの見事に床に打ち付けられた。
 引きずられるようにベッドから転げ落ちた比良坂の身体が、壬生の身体に重なる。
 動転していた壬生に受身を取れるはずもなく、したたかに打ち付けられた背中に、一瞬息を詰まらせる。そのお陰とも言おうか、壬生は比良坂の身体の感触を思いの他意識せずに済んだ。
「…っつぅ…」
「……いたい…」
 比良坂が、寝ぼけた顔でだるそうに頭を上げた。しばらくぼんやりと壬生の顔を見下ろした後、突然がばりと起きあがる。
「壬生さんっ!?」
「目が覚めた?」
 比良坂は、真っ赤な顔をして、無言のままこくこくとうなずいた。
 この状況で、目が覚めないわけがない。
「…どうして…」
「……」
 特に何も言わず、身繕いをし床に座りなおす壬生を前に、比良坂は微かな記憶の糸を手繰り寄せた。記憶の断片が、更に比良坂の顔を赤くする。
「私…、…ごめんなさいっ!」
「僕も悪かった。女性の部屋に無断で入ってしまうなんてね」
「そんなことないです!私…、私……」
 慌てふためいてぱくぱくと口を開く比良坂を見て、壬生はぷっと吹き出した。
 目の前に自分より焦っている人間がいると、こんなにも冷静になれる。そんな自分に素直に感謝できた。
「高見沢さんに薬を届けるよう頼まれたんだ」
「舞子さんに?」
「お腹はすいている?薬を飲む前に、何か食べた方がいい」
「……少し」
 少し落ち着いてきた比良坂は、それでも顔を赤らめながら、恥ずかしそうに上目遣いで壬生を見上げた。
「じゃあ、何か作ろう。キッチンを借りていいかな」
「そんな!いいですよ!壬生さんにご迷惑が…」
「風邪には栄養と睡眠が必要だよ。比良坂さんは寝ていた方がいい」
「でも…」
 それでも申し訳なさそうな比良坂を見て、壬生はあごに手を当てると、少し思案した。
「じゃあ…、こうしよう」
「?」
「比良坂さんをこのままにして帰ったら、僕が心配する。それは僕にとって迷惑な話だ。
いいかな?」
「それは…」
「それに僕は、ここで食事を作ることを迷惑だなんて思っていないよ」
「……」
 比良坂は返す言葉を失って、うつむいて押し黙った。
「だから、比良坂さんは食事のできる間眠っているといい」
 ふらふらと足もとのおぼつかない比良坂の身体を支えると、壬生は比良坂をベッドに横たえさせ、布団をかけてやった。
「あの、壬生さん…」
 ん?というように比良坂を見下ろす。比良坂は、壬生をじっと見つめ、やがて言葉を続けた。
「ごめんなさい。…ありがとう」
 恥ずかしそうなその微笑みに、壬生は優しげな微笑を返した。


 ピンポーン…。
 ふいにインターホンの音が耳をつく。
 熱でふらつく足を奮い立たせ、極力冷静な表情を作り、玄関に赴く。
 油断した。最近風邪などめったにひかないので、うつるわけもないと思っていたが、それは思い違いだったようだ。実際、ここのところ仕事も立てこんでいた。それも原因にあるのだろう。
 無言でドアを開くと、そこには茶色の髪をした少女が立っていた。すっかり体調は戻ったようで、人形のように白いが、健康的な顔色をしている。
「あの、風邪をひいたって飛羅から聞いたから。私でも何かできるかな、って思って来たんですけど、迷惑、ですか?」
 めまいがした。
 まんまと飛羅の策略にはまった自分と、前回のような理性は期待できない意識のはっきりしない頭に、これからのことを考える。
 …どう考えても状況は悪い…。
 心配そうに見つめてくる彼女に、返す言葉はなかった。
 ……壬生の受難はまだまだ続くらしい。


END


壬生×比良坂、第5弾〜!
目指せ「花ざかり」!!(笑)

いやー、ホームステイ(一緒(本当は壬生の)のベッドで寝ること)、やってみたかったのです。壬生比良で。
楽しかった!!壬生を存分にいじめられて!!(笑)まだ満足してないけど!!マジ?(笑)
壬生も涼しい顔して、男なんだよ〜、と言いたかったお話。アホですね〜。でも楽しかったから悔いなし!!
もっといろんなこと書いてだらだら長くしようとも思ったのだが、もうこれでいいやと終了。余計なことなくて、反対によかったのでは。

また、さくさくといじめたいですね〜。がんばれ〜、壬生〜。理性に負けろ〜。(他人事)
無邪気な紗夜ちゃんをいじめたら承知しないぞ〜。(どっちなんだ)

これでも私は壬生をこよなく愛しています。(笑)

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