ある日の午後



 その日は、冬の寒さが影をひそめ、うららかな春の日差しが暖かい、気持ちの良い日だった。
 卒業式を済ませ、後は次の進学先か就職先しか次の予定のない高校三年生達は、思い思いに遊んでいる時期だ。
 そんな折、台所から香ばしく甘い香りが漂っているな、と思っていると、トントンと軽やかな足音が聞こえてきた。
「姉様?」
「何?雛」
 なんともなしに、部屋の中でひだまりにごろんとしていた雪乃は、控えめにカラカラと戸を開いた雛乃を、起きあがって迎えた。
 部屋の戸を閉め、雪乃の前にきちんと正座すると、雛乃は少し首を傾げた。
 雛乃が雪乃に対しても礼儀正しいことに対して、雪乃は何も言わなかった。ごく親しい相手にも、自然に出てしまう行動だ。そんなことは、ものごころついたときから知っている。
 身に染みついてしまったものを、今更「堅苦しいから」という理由で、否定する気はさらさらない。
 雛乃のそれは、相手を本気で敬っていて、悪意のない者の気分を害することはないから。
 とても、良いことだと思う。そして、そんな雛乃がとても愛しいと思う。
 …姉馬鹿だろうか…?
 ふと、そんな思いがよぎる。
「姉様、今日はお暇ですか?」
「ん?特に予定もないけど?」
「それでしたら、ご一緒に出かけませんか?」
「いいよ。どこに?」
「如月様のところです」
「は!?」
 雪乃は思わず畳の上でずるりとこけた。
「先日、鬼道衆に襲われて、姉様、如月様のことをいたく心配されていたではないですか」
「まあ…、それは…」
 唐突のことに、雪乃はうろたえながら口ごもる。
「先程クッキーを焼いたので、如月様にもお裾分けをと思いましたの」
「お裾分け?」
「ええ、今日は劉様と王子でお茶をしましょうとお約束しましたので」
「それって…」
(デートじゃないか?)
というセリフを、雪乃は無意識に飲みこんだ。
 劉は憎めないやつだし、思ったより実はしっかりしてる。とりあえず、納得しているつもりだった。が、世間知らずな雛乃のこと、心配がないわけではない。飛羅に話したら、一笑にふされたが。
 頭の中で、適当に断る言葉をぐるぐると探していると、思ったよりそれは簡単には見つからなかった。
「うーん、いいよ」
「良かった!では、準備ができたら教えてくださいね」
 心底嬉しそうな顔をすると、雛乃は階段を駆け下りて行った。
 あの表情を見て、断れるだろうか…。
 部屋に一人取り残された雪乃は、如月に菓子を渡したらさっさと帰ってこようと心の中に誓って、ひとつため息をついた。


「やあ、いらっしゃい」
 人を食ったような微かな笑みを浮かべると、その店の主は双子の姉妹を奥に招いた。
(なんでこいつは、もっと素直に笑わないかな)
 雪乃は、無言のまま眉間にしわを寄せた。
 そんな雪乃に気づかないふりをして、如月は雛乃に問い掛けた。
「今日は、どうしたんだい?」
「家でクッキーを焼きましたので、如月様にもお裾分けをと思いまして。洋菓子はお嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃないよ。嬉しいね」
 好き、ではなく、嫌いじゃない、と言うところが、如月の性格を顕著にあらわしていた。
(好きなら好きと言えばいいじゃんか)
 ぶすっと雛乃の後に立って、雪乃はそう思う。その表情を見たのか、如月がくすっと笑った気がした。
(!?)
 如月の顔を見ても、もとの無表情しかそこにはない。気のせいだったんだろうか?
「あがって。お茶でも入れるよ。クッキーだから、紅茶、かな?」
「お店はよろしいんですか?」
「ああ、いいよ。今日はもう閉めてしまおう。どうせ、もう客は来なそうだし」
そう言って、如月は手早く店を閉めてしまうと、双子を店の奥の居間にとおした。
 ごく普通の6畳間。高校生の青年ひとりが住んでいるには、ひどく所帯じみている。膳や小棚は黒ずんでいて、とても古いものだと知れる。
 初めて来たときには、何か違和感を感じた。何度か訪れているうちに、それが何なのか、雪乃は気づいた。
 欠けている。
 本来の生活感が欠けているのだ。所帯臭さはあっても、それは本物ではない。普通あるはずの、日々を過ごしている間に増える雑多な小物や物が全くないのだ。
 生活感が染みついた家具がそこにあるが、生活の匂いがしない、とでも言おうか。
(如月はこの家に住んでいて、ほっとするのか?)
 疑問にすら思う。
「まあ、姉様、姉様の好きなアールグレイですわ」
 気づいて、目の前のカップを見ると、微かな湯気がたゆっていた。さわやかな香りが鼻をくすぐる。とても好きな香りだ。
「この前、飛羅が好きだと言っていた紅茶を買わされてね。そのとき、うち用にも買ったものだよ。なんて言ったかな?確かトワイニングのファインアールグレイ、だったと思うよ?」
「まあ、それって、姉様も好きな紅茶です。ねえ、姉様」
「あ?…ああ」
「それは良かった」
 ニコリと笑う。雪乃には、その表情がまだ腹に一物あるような気がして、どうにも居心地が悪かった。
 年季の入った膳の上には、雛乃が焼いたクッキーと、紅茶が並んでいた。いつもの着物姿の如月が紅茶のカップを手に取っていると、何か奇妙に思えて、笑えてくる。当の本人は、そんなことは全く気にせず、カップの紅茶を口にしているが。
 雪乃も、目の前の鮮やかな琥珀色をたたえているカップを手に取った。
 ほのかな柑橘系の香りと、渋みの少ないさわやかな味。
「…おいしい」
 無意識に顔がほころんだ。
 紅茶から顔を上げると、目の前に座っている如月の微笑が目に飛びこんできた。今までの、人を馬鹿にしたような表情ではなく、真実の笑み。
 雪乃は、思わず言葉を失った。鼓動が早まった気がする。ドギマギとした胸から、熱い紅茶のせいだけでなく、ほてりが頬を染めていく。
「お気に召したようだね」
 如月のセリフが、更に追い討ちをかけた。
「ああ!うまいよ!!」
 あかい顔のまま、それを気づかせないよう言ったはずだが、変に大声になってしまって、逆にばれている気がする。実際、如月は、とてもおかしそうにくっくと声を殺して笑っているから。
(なんだよ、あんな表情もできるんじゃないか!!)
 こんなにドキドキしているのは、変に如月が整った顔してるからで、殆ど仏頂面しか見たことないのに突然笑顔を見せたからで、絶対に見とれたからじゃない!
 雪乃は、必死に自分の中で言い訳をしていた。
 それを見て、更に腹を抱えて如月が笑っている。
「本当においしいです。如月様」
 そんな如月の表情に気づかず、雛乃は無邪気に微笑んだ。
「あまり紅茶は淹れないんだけど、どうにかまともに淹れられたようだね」
「そんなことありません。とてもお上手です。教えていただきたいくらいです」
「それは光栄だね。雛乃さんの焼いたクッキーもとてもおいしいよ」
「ありがとうございます」
 雛乃の作ったクッキーは、本当においしい。もう少し、その器用さを自分が持っていたらなあ、とクッキーをほおばりながら思う。
 雛乃はとても器用だ。とてもおしとやかだし、礼儀も心得ている。雪乃にはとても真似できなかった。
 それに比べて、自分にどこか良いところはあるのだろうか?雛乃は雪乃に対して尊敬の眼差しを向けてくれるけど、それに返すものを自分は持っているだろうか?時々、とてもわからなくなる。
 自分の性格は嫌いじゃない。自分以外の自分を想像できない、ということもあるが、それ以上に自分に心地よいから。周りのみんなも認めてくれているから。
 多分、それでいいのだろう。
「ごめんなさい、如月様。私、そろそろお暇しなくてはなりません。お茶、ごちそうさまでした」
「こちらこそ、おいしいクッキーをありがとう」
「じゃ、オレも…」
 そそくさと退席しようとする雛乃を追って、立ちあがろうとした雪乃を、雛乃が引きとめる。
「姉様は、もう少しゆっくりなさってください。如月様さえ良かったら」
「僕は構わないよ。どうせ店も閉めてしまったことだし、暇だしね」
(断れよー!店閉めたのは、オレ達が来たから、オレ達の所為だって言いたいのか!?これじゃあ帰れないじゃんか!)
 雪乃は心の中で叫んだ。
「良かったですわね、姉様。ゆっくり如月様とお話でもなさってくださいね」
(話なんかあるかー!)
 そんな雪乃に気づかず、雛乃は部屋を出ていった。劉との約束の時間が迫っているのだろう。
 しぶしぶと腰を下ろすと、所在無さげに紅茶を口に入れる。悔しいが、うまい。
 部屋には、春を思わせる日差しが入りこみ、ぽかぽかと暖かい空気が漂う。
 無言で紅茶をすする如月に口を開くようなふしがないので、雪乃は常々思っていることを聞いてみることにした。
「鬼道衆は、まだおまえを襲ってきてるのか?」
 少し意外そうに顔を雪乃に向けると、如月は紅茶のカップを受け皿に戻した。
「心配してくれているのかい?」
 こんなときも皮肉を言うのか。多少、如月の頑固さにうんざりする。
「馬鹿言うなよ。みんなが心配するからだよ」
「それは、嬉しいね」
「ばっ…!!」
 かっと頭に血が上るのが分かる。
 身を乗り出して、如月を面と見る。膳の上の紅茶が少し波打った。
「心配しないやつがいるかよ!!もうちょっとは…」
「雪乃さんは、『家』をどう思う?」
 雪乃の言葉をさえぎった如月の声は、先刻とはうってかわって、ひどく真剣で冷静だった。雪乃を支配していた突如の熱は、急激に引いていく。
「家?」
 再び、座布団の上に腰を落ちつけると、雪乃は問い返した。
「僕の家は、表では骨董屋を営んでいるけど、知っての通り、飛水流の本家だ。それは、徳川の時代から続いている。その『家』のことだよ」
「だって、それは随分と昔のことだろ?今のご時世に、忍者なんて時代錯誤じゃないか」
「言ってくれるね。じゃあ、言い方を変えよう」
「?」
「雪乃さんの家は、代々続く織部神社だ。それが、自分の代で取り潰されるとしたら」
「!」
 そんなことは考えたことがない。
 でも、実際ありえない話ではなかった。織部を次に継ぐのは、自分か雛乃。女しかいない。婿を迎えることになるだろうが、織部が断絶することも、十分ありえる。…でも…。
 そこで、雪乃はあることに気づいた。
 如月は、飛水を自分の代で終えるつもりなのだろうか?
「でも、神社と忍者じゃ全然話が別だろ?」
 自分でも声が震えているのが分かる。
「そうだね。でも、それなら、忍者になるべくして教育され、生きてきた者はどこへ行けばいいのかな」
「そんなの、普通に生きていけばいいじゃないか!いくらでも道はある!」
「そんな簡単にいくかな。実際、鬼道衆は昔の怨念に縛られて、宿敵を倒すのに必死だ。こちらにその気がないのもお構いなしにね。
 代々飛水を受け継いだ者の中には、飛水を継ぐことを良しとしない者もいただろうね。だが、飛水はその命を永らえてきた。そんな者に、家を潰す者が顔向けできるかな」
「…そんなの、嫌だ」
 泣きたくなった。
 自分も雛乃も、家を継ぐことなど強要されず、いたって自由に育てられた。そんな、呪いのような存続を考えたことはない。
「僕は飛水だ。ゆえに鬼道衆に狙われる運命なのさ」
「そんなの、あるかよ!!自分の人生は自分で決めるもんだ!鬼道衆が狙ってるんなら、その気もなくなるまで叩きのめしてやる!家なんて、継ぎたくなかったら、継ぎたいやつに渡せばいいんだ!」
 いつのまにか仁王立ちになっていた。握り締めた拳が熱い。
「道なんていくらでもある!いくらでもやり直せるんだ!」
「……」
「なんだよ、みんなといて、如月は楽しくなかったのかよ。一人で全部背負って、何も言わず苦しむのかよ。そんなの、…」
「……」
「そんなの、オレ達が馬鹿みたいじゃないか!!」
 立ちあがった雪乃を、如月が無言のままじっと見つめている。いつのまにか荒くなっていた息をしばらく整えると、ふっと力が抜けて、すとんと座りこんだ。
「…悪い。変なこと言った」
「いや」
 沈黙が流れた。
 何を言っていたのだろう。何も考えず口についた言葉を言っただけだが、それはとても重いものに感じられた。紅茶のカップが歪んでいたことで、目が潤んでいることを知る。慌てて手で拭った。
「オレ、帰るわ」
「髪が…」
「え?」
 くるりと背を向け、帰ろうとしたところに声をかけられ、振り向く。
「髪がほつれてる。直したほうがいいかもしれない」
 頭に手を当てると、確かに。結んでいたリボンが外れかけ、髪がほどけ始めていた。
「いいよ。こんなの」
「良くないさ。直してあげるよ」
「できるのか!?」
 断るよりも、如月の申し出に驚き、思わず問い返してしまった。
「これでも、手先は器用だよ」
「そうかもしれないけど、想像つかないな」
 本音だ。
「いつも後ろに結っているね。編まないのかい?」
「自分じゃ編めないんだ。それに、似合わないし」
「たまには編んでみるのもいいんじゃないか?編んであげるよ」
 如月がどんな風に髪を編むのか、好奇心があった。
「じゃあ、頼むよ」
 髪を結ってもらうのは、好きだった。時々、雛乃が結わせて欲しいとせがんでくるときがある。雪乃にしてみれば、雛乃ほどきれいな黒髪の持ち主が、自分のねこっ毛を結うということに抵抗があったが、雛乃は雪乃の髪が好きだと結うたび毎に言っていた。
 それは、なにやらくすぐったいような嬉しい気分だった。
 如月の指が雪乃の髪を掬い上げる。その感触が好きだった。
 幼い頃、神社の双子ということで、いろんな大人からめずらしがられ、頭をなでられたことがあった。だが、雪乃はそれが嫌いだった。見知らぬ大人に髪を触られること、肌に触れること、どちらも嫌いだった。
 ああ、そうか。
 雪乃が気づいたことがある。
(オレって、如月が嫌いじゃないんだ)
 部屋には、外のうららかな陽気がひだまりをつくる。その暖かい空気の中で、雪乃は幸せだった。
 骨董屋の商品であろうか?随分と細かい細工がされた櫛を器用に使い、如月は思いのほか手際よく髪を編んでいった。仕上げに、リボンを結ぶ。
「できたよ。鏡を見るかい?」
「いや、いい。触れば分かるから。…ほんとに、うまいんだな…」
 やや感心するように、雪乃は編みこまれた髪を指でなぞった。それは、おおきなほつれもなく、きれいに編まれている。
 久々のみつ編みに満足していると、背後で空気が動いた気がした。直後、雪乃の肩に、如月の頭がのしかかる。
「わっ!何やって…!」
「……」
 驚いて如月の頭を退けようとすると、それに力がないことに気づく。
「もしかして、この前の毒が…!?」
「……」
 この体勢だと、如月の顔が見えない。
「如月っ!!大丈夫かっ!?」
 慌てて降りかえり、如月の肩を掴む。如月の身体はあおむけに倒れ、その肩を掴んでいた雪乃もそのままひきずられてかがみこみ、雪乃が如月を押し倒したような格好になった。
「……あはははは!」
 如月が唐突に笑い出す。雪乃には何のことやらさっぱり分からなかった。
 気が動転していて、如月の笑ったところを見たのが初めてということにも気づかない。
「何?どうした!?」
「冗談だよ」
「は?」
「毒なんてとっくの前に身体から消えてるさ。身体はいたって健康」
 頭の中に疑問符が飛び交っていた雪乃に、じわじわと状況が把握されてきた。それと同時に、ふつふつと怒りがわいてくる。
「だましたのか!?」
「こんなに心配してくれるとはね。試したわけじゃなかったんだけど」
 くっくと、まだおかしそうに如月は笑っている。
「この…!」
 雪乃が拳を上げる。如月はいともたやすくそれを掴んで引き寄せた。
「うわ!」
 耐えきれず、雪乃は寝転がった如月に抱きついたかたちになる。馬鹿にするのもいい加減にしろ、と言おうと思った矢先、如月の表情が一変して冷静になり、雪乃の顔をじっと見つめた。
「な、なんだよ」
「ありがとう」
 そう言って、如月は雪乃の唇に軽く口づけした。
 目が点になった雪乃を起き上がらせ、座らせると、自分も着物の乱れを直す。それから、自分の席に戻り、ゆっくりと冷めた紅茶をすすった。たのしそうに雪乃の顔をゆっくりと見つめ、充分待ち、紅茶を淹れ直そうとポットを手に取ったとき、やっと雪乃の目に焦点が戻った。
「なんだー!!今のはーーー!!」
 雪乃の叫びがこだまし、如月の笑い声が再びあがった。

 春のきざしが見え始めた日の午後、いつになく如月骨董店は賑やかだった。


END


初めての壬生比良以外の剣風帖ss。
どうせ書くこと決まってきたし、書き始めれば早いさ〜といって、夕メシ食ってから書き始めたら、夜中になってみたり。
…なんで原稿が忙しくなると、他のことしたくなるんだろう…。

如月の剣風帖での位置付けが、微妙に壬生に似ているので、ちょっと悩んでみたり。
話し言葉もかぶってるとは知らず、思わず同人誌とか読んで確かめたり。(笑)
でも、前から「どこが」とは分からなかったんですが、完全に如月と壬生は違うって思ってたんですね。
これを書いてみて、それがなんだったのか分かりました。
如月って、壬生に比べてずっとずるい人なんですよ。ずるがしこい。
そんでもって、計算高い。壬生よりちょっとエロい。(笑)
こう書くと、如月の扱いひどいようですが、結構好きですよ〜。

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