ありがとう


 いつからだろう。
 胸に去来する憤りと切なさは、どこから来て、どこへ行くのだろう、と。そんなことを考え始めたのは。
 苛々と募る焦燥感は、その感情がどこへも流れていない。むしろ、胸にこごったままなのだと、教えてくれた。
 ああ、そうか。
 だから、今も、もがいている。足掻いて、歯を食いしばって。暴走する本能を、理性が酷く危うい糸で押しとどめているのだった。
 その糸は、何度もこすられて、既に毛羽立ち、いつ擦り切れてもおかしくなかった。
 むしろ、それを望んでいたのは誰だったか…。

 考えてはいけない。
 常に、その警鐘は頭の隅で、空耳かと思う程、小さく鳴っていた。か細い、音。しかし、何に溶けて消えるわけでもなく、細々ながら、根強く続く音色。
 誘うようなその甘美な音色に、気を抜くと捕らわれそうになる。誘惑に乗りそうな本能を押しとどめ、何故、その耳障りな音が甘く、そして誘うように流れるのか、自身に言い聞かせる。
 その誘惑に流されてはいけない。
 ―なぜだ。こんなにも甘く、心地よい音色なのに。
 それは、罠だ。自らを陥れる罠。そこに堕ちたら、二度と戻れない。
 ―いいではないか。むしろ、それは幸せだ。欲しいのだろう?真綿にくるまれた優しいぬくもりが。
 それは、罠だ。自らを貶める。
 ―罠ではない。楽園だ。
 それは、罠だ。
 意固地になって、そう応えるしかなかった。知っているから。だって、確かにそこは楽園だったから。何の争いもない、憂いもない、その言葉通り、真綿にくるまれた平穏。
 喉から手が出るほど、それが欲しくはなかったか。それがあれば、半身のような友人達を失うことはなかった。胸はえぐれ、絶えず血を流し、身体は既にずたずただった。
 なぜ、そんな満身創痍になってまで、戦う。戦わずとも、この世には生きていく術はある。
 甘い誘惑。
 そのかぐわしい香りに、脳が麻痺し、眩暈が襲った。必死に戦ってきたのに、その決意が揺らぐ。とうに、限界は超していた。それでも…。
「ディアッカ!」
 肩を揺すられて、初めて気づく。びくり、とその肩を震わせた。バスターのコックピットを覗きこむ姿が目に入る。それまでにサイは、鬼神のようにキーボードを叩くディアッカに、5度は呼びかけていた。
「眉間に皺が寄ってるよ?大丈夫?」
 心配そうに言われて、無意識に額に指を当てた。…確かに。眉間に深い皺が寄っている。
「休憩にしよう」
「いや、もう少しでメンテ終わるから…」
「お・れ・が、休みたいんだけどね」
「サイ?」
「せっかく休憩するんだったら、付き合ってくれてもいいんじゃない?」
「でも、あと少しでキリが…」
「…」
 一瞬、剣呑な目つきでディアッカを睨むと、サイは強引にディアッカの手を引いた。生粋の軍人ではない、いくらか華奢な体からは想像もつかない力で、コックピットから引っ張り出される。
「…なっ…。…サイ!?」
 思いがけないサイの行動に、ディアッカは目を白黒させた。
「まったく。ザフト軍では教えてもらわなかったわけ?それとも、プラントの学校?」
「?…どういう意味?」
 おとなしく手を引っ張られるのを、我ながら珍しいと他人事のように思いつつ、ディアッカは首を傾げた。サイの行動も言動も読めない。
「作業と休憩の切り替え。休憩を取るのも、大事な仕事のひとつだってこと」
「知らないわけじゃない」
 むっとして応える。
「じゃあ、知ってても、できないってこと?それじゃ、知らないと同じだと思うけど」
「知ってるし、やってるよ」
「…ふうん?」
 むっつりしたまま応えたディアッカを横目で見ながら、意地悪そうにサイは笑みを浮かべた。なんだか、おかしい。これは、いつもと逆の立場ではないか?
 いつのまにか、格納庫を出て、休憩室の前に立っていた。センサーがサイとディアッカを感知し、扉がスライドする。
「連れて来たよ」
 サイが、休憩室の中の人影にそう声をかけた。
「遅かったのね。準備できてるわよ」
 ふわり、と柑橘系の香りがした。雑多な臭いが充満する艦内では、珍しい。
「…紅茶?」
「よく分かったわね。そう、紅茶。珍しいでしょ」
 得意げに、ミリアリアはドリンクボトルを差し出す。
「このボトルが、なんというか無骨で、雰囲気ぶち壊しなのが玉にキズなんだけど」
 ふう、とため息をつく。
「ホントは、キレイな庭園にテーブルセット揃えて、柔らかな日差しをパラソルで遮って、焼きたてのスコーンに手作りジャムと生クリームがあって、マイセンのティーカップとかで優雅に過ごしたいんだけどなあ」
「ま、無重力なんだし、仕方ないよ」
 それ以前に、ここは戦場なのだが?…と、夢見るような目つきのミリアリアを見つつ、宥めるサイにディアッカは心の中でいらぬツッコミをしていた。夢想もいいとこだ、と。
「まあ、そこまで贅沢は言えないのは分かってるけどね。偶然残ってた茶葉があっただけでもラッキーなんだし」
「結構値打ちもののお茶なんだって?」
「そうみたい。前に砂漠で買い物に行ったときに手に入れたらしくて、そのままになってたみたいだから良く分からないけど、香りは確かだしね」
「ダージリンだろ」
 それまで無言だったディアッカを、2人は振り返る。
「詳しいんだ」
「普通だよ。この香りが、そうだろう、と思っただけ」
「香りだけで分かるんだね」
 2人とも、感心したように、手に持ったボトルを見つめた。漂う香りに、しばし浸る。
 そして、温かい紅茶をボトルに入れてストローで飲む―というのもまあなんとも奇妙な感じだが―紅茶をストローで吸った瞬間。
「しぶっ!」
 ディアッカが、ぺっぺという感じに、舌を出した。
「これ、ミリアリアが淹れたのかよ!?」
「なによ。そうだけど?」
 明らかに険悪な雰囲気で、サイは1歩下がった。試しに、紅茶を口にしてみる。…うむ、確かに渋い。
「おまえ、紅茶の淹れ方知らないのかよ!紅茶は、沸騰直後のお湯を使うの!ぬるいお湯なんか使ったら、色も綺麗に出ないし、渋みも出ちゃうわけ。そんなことも知らないのかよ、女のくせして」
 ぶちっ。
 何かが切れる音がした。サイは、更に2歩下がる。
「女のくせに、紅茶の淹れ方も知らなくて悪かったわね!仕方ないでしょ、宇宙じゃ沸騰したお湯が使えないんだもの」
「それにしたって、茶葉がもったいないっつーの!」
「使わないで、そのまま腐らせるよりはいいでしょ!」
「茶は湿気さえ防げば、腐らないのも知らないわけ?」
「知ってるわよ!細かいわね!そんなの、言葉のあやでしょう!?そんなのも分かんないの?」
「へえ。知ってるとは思わなかった」
 馬鹿にするようにニヤニヤと笑うディアッカを、ミリアリアがぎろりと睨む。その視線に気づいて、ディアッカも笑みを消して、睨み返した。冷えた空気が、休憩室をどこともなしに流れた。…寒い。
「…じゃあ、ディアッカが淹れ直せば?」
 この状況を打破すべく、サイが譲歩案を出す。ディアッカとミリアリアは、サイを振り返った。2人とも、不意を突かれて、ぽかんとした表情のままだ。思わず、笑いがこみ上げる。
「茶葉は残ってるんでしょ?」
「うん」
 これには、ミリアリアが応える。
「お茶を淹れる道具もそのままだし?」
「うん」
 おかしい。ディアッカが黙ったままだ。
「ディアッカ?」
「え?」
「淹れ直せば?」
「…あ、ああ」
 なんだか、歯切れが悪い。サイは、怪訝に思って首を傾げた。
「もしかして、淹れたことがないとか」
「…」
 沈黙は、肯定を示していた。
「仕方ないだろ。機会がなかったんだから」
「呆れた。それで私につべこべ言う資格があるわけ?」
「悪かったって。でも、淹れ方は知ってはいるんだよ」
 ディアッカは、バツが悪そうに、ミリアリアから目を逸らす。
「じゃ、こうすればいい」
「は?」
 明らかにしょぼくれたディアッカに、サイは再度提案した。
「ディアッカがミリアリアに淹れ方を教えればいいんじゃない?」
「ハァ?なんで私が、こいつなんかに」
 ディアッカより先に、ミリアリアが応えていた。
「…なんというか。酷い言われようなんですけど?」
「まあ、いいじゃない。おいしい紅茶、ディアッカもミリアリアも飲みたいでしょ?」
「…うん」
 渋々、という感じで、ミリアリアが頷いた。自分の淹れた紅茶が渋いというのも、分かっては、いる。
 ばつが悪そうにおずおずと顔を上げると、ディアッカを見上げた。
「…ごめん。紅茶の淹れ方、教えてくれる?」
 ああ、またか。
 ディアッカは、表情を固まらせたまま、心の中で頭を抱えた。誰にも見られてなければ、座り込んで赤面して体内の息を全て吐き出してるところだ。
(…なんでこいつは…)
 なんでこいつは、さっきまで腹を立てていた相手に、こんなにも素直に謝れるのだろう。不意打ちにもほどがある。オーブでアークエンジェルを降りるとき、「こんなことになっちゃって、ごめんね」と、敵であったディアッカに謝ったミリアリアが、いまだ強烈に脳裏に焼きついていた。
「…ああ。分かった」
 真実の態度を隠し、どんな表情をすればいいのか分からないまま、ぎこちなくディアッカは応える。
「じゃあ、俺は、部屋で本を読んでるから。後でまた来るよ」
「分かった。紅茶、淹れておくね」
「うん、おいしいのを期待してるよ」
 妙な笑みをディアッカにくれてから、サイはあっさりと食堂を出て行く。ミリアリアはまったく気づかないのか、のんきな返事をしていた。気を遣ってくれたのは嬉しいが、思わせぶりな笑みが、まったくもって嫌な感じだ。…と、ディアッカは思う。
 内心げっそり、のディアッカは、それでも無表情を装って、既にサイが出て行ったドアを見送っていた。
「さ。じゃ、教えてくれる?」
 ミリアリアは、ディアッカを見上げて、その表情を仰ぎ見て首を傾げる。
「どうか、した?」
 ミリアリアには、隠し事が通用しないらしい。ディアッカは小さな息をつくと、かぶりを振った。
「いいや、何でも。そうだな、さっさとお茶としゃれこもうじゃないの」
 ミリアリアと一緒にお茶を淹れるなんて、嬉しくないわけではない。ミリアリアを見下ろして、安心させるように笑んだが、その笑みは自然と浮かんでいたことに、ディアッカ自身気づかないでいた。
 あれ?と思う。先刻まで、何か気持ちがささくれ立っていた気がしたが、気のせいか?
(…なんだっけ?)
 でも、無理に思い出さなくて良い気がした。思い出すこともないだろう。今、こうやってミリアリアと紅茶を淹れている。こんな些細なことが、…こんなにも幸せなのだから。

 宛がわれた部屋に戻り、古い戦術の本を繰っていると、ふと顔を上げ、小さな窓から覗いた星の瞬く宇宙を眺める。
 また、戦いの時間は訪れる。けれど、休息があってもいいではないか。我々は、機械ではなく人間だ。計算し尽くされたシステムの中で、疑問なく生きられるはずもない。
 大切な友人達を想う。
 彼を気遣って退出してきたけれども、寂しさはなかった。むしろ、胸にのこる温かさが心地良い。どうせ、そろそろ呼び出されるのだ。それまで、優雅に読書と洒落込もうではないか。
 美味しい紅茶が飲めることだし。

 しばらくした後、すったもんだの挙句、ようやっと紅茶が入ったという連絡を、サイが苦笑しつつ受けたのは、言うまでもない。


END




キラやアスランだけじゃないんです。
ディアッカだって、大事な仲間達を戦争で亡くしてるんです。
他人には、おくびにも出しませんが。

そんなディアッカが好きで、ミリアリアも好きであって欲しいなあ、という願望。


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