main drag
8 言霊 人の匂いのない、幾何学的な模様や物で埋められた部屋。 ゴウはとりあえず、ふう、と息を吐き出した。 外傷は全くないが、先刻の風邪の刃の痛みが全身に残っている。 「どうやった?」 「ここを出るぞ」 レッドの問いを無視し、ゴウは即座にドアノブに手をかけた。その足取りは、速い。 「な、なんや?何かあったんか?」 レッドと昇は、面食らったような表情のまま、とりあえず慌ててゴウの後について部屋を出た。 レッドも昇も、ゴウがただ突っ立っていたのを見ていただけだ。途中、ふらりと体が傾ぎ、指を組み合わせて呪文を唱えていたから、何かあったのは確かだ。が、何があったのかまでは、想像もできない。式神の五感はゴウにしか知覚することができなかったから。 「なあ、一体何があったんや?田中はどうした?何か悪いもんでもいたんか?」 レッドが矢継ぎ早に問いを口にしたが、前を足早に歩くゴウは何も応えない。レッドは、ゴウが無表情のままレッドの言葉を聞き流しているのを、顔を見ずとも察知した。もしかすると、聞いてもいないかもしれない。が、これぐらいで引き下がるレッドではなかった。 「なあ、何があった?少しは教えてもええやろ?」 「話は後だ。今は他に確認したいことがある」 ゴウは、振り向かずに応えた。その口調には、面倒臭げな色がある。 レッドは大仰に溜め息をつき、両手を広げ、昇におどけた顔を見せる。これは、今何を聞いても無駄だ。 室外に足を踏み出すと、明るい陽光が目に飛び込んできた。デザインが凝らされた白っぽいブロックが一定の枠を作り、その中に植えられた街路樹が、白いビルの群れに暗い緑色を規則的に塗りつけている。 「ゴウ、車を出しますか?」 「いや、いい」 昇の申し出を短い言葉で断ると、ゴウは半ば走るように門を抜けた。辺りを見回す。 (あそこか…) ゴウの視線の先で、モスグリーンの制服を着た二人の学生が、うずくまって何やら話している。華奢な少年は、もう一人の少年にぐったりと体を預けていた。顔にはびっしりと汗が浮かび、血の気が引いて真っ青な顔色をしていた。 ゴウは二人の姿を認めると、歩調を緩めた。ジーンズのポケットに手を入れ、二人のもとで立ち止まり、見下ろす。 ゴウの影が降りかかった少年達が、驚いたように振り向く。 「やはりおまえ達か」 華奢な少年は、女のような細面の顔。大きな瞳が、気弱そうな眉に飾られている。細く色の薄い髪が、ふわふわと風に揺れていた。見覚えのある制服からは、白く細い腕が覗いている。 もう一人の少年は、顔の造形はしっかりしていたが、その表情には穏やかさを感じた。長めの髪が頬にかかっていたが、決して不潔なイメージはなく、彼の雰囲気によく似合っていた。華奢な少年を支える腕は、華奢な少年と対照的に逞しい。 「あなたは?」 長髪の少年が、逆光で眩しそうに、疑いの眼差しを向けてくる。 「風の刃はなかなか痛かった」 「さっきの…!!」 二人は、瞬時に体を強張らせた。長髪の少年は、華奢な少年を守るように、自分の体をゴウに向け盾にする。華奢な少年を抱きかかえる腕に、更に力を込めた。 ゴウは、その所作に興味を示さず、無表情のまま二人を見下ろし続けた。 「戦う気など、さらさらない。…むしろ、その逆かな」 ゴウはそう言うと、目を薄めた。冷たい微笑が口の端に浮かぶ。 長髪の少年が、表情を曇らせた。 「どういうことです?」 「おまえさんら、能力者なんやろ?見えへんか?」 事情を察したらしいレッドの指摘に、二人の少年は辺りに目を泳がせた。と、その表情が驚愕に染まる。 「な?囲まれてるで」 黒い霧のようなものが、ゴウ達の周りを取り囲むように渦巻いている。水のようにゆらゆらと形を変えるそれには、時折恨めしそうな人の顔が浮かびは消えた。 「どうかしたんですか?」 少年二人の尋常ではない表情に、周囲の異変が全く見えない昇が、気の抜けるような問いを口にした。 「おまえには見えへんやろな。…離れんなや」 もの言いげな昇を手で制し、レッドは九字を唱え始めた。 九字とは、密教の最も基本的な破魔の法である。レッドには、密教の心得があるのだ。栗色の髪と碧眼で、密教僧と言われてもピンとはこないが。 呪文と共に、レッドの指は素早く組み合わされていく。その指の組み方にひとつひとつ意味があるらしいが、それを理解しないことには、この呪法は力を発さない。 「臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前!!」 途端、黒い霧の流れのひとつが、弾けるように消し飛んだ。が、幾重にも重なる黒い霧は、その姿に全く変化がないように見えた。 「くそ!数が多すぎや。全然効いとらん!こないに集まってくる原因を壊さな、全部は消えへんで。元々の念が強すぎるんや!」 何かに引き寄せられていない限り、これほどの数は集まらない。その原因を突き止めなければ、この状況は打開できないだろう。それは、こういった現実とはかけ離れた世界では、直接「死」を意味する。 何のために現れた? その疑問に答えるものは、この緊迫した中ですぐ見つかるとは思えない。 「思ったより早かったな」 ゴウは、頭上まで埋め尽くす黒い霧を見上げ、呟いた。 「呑気にそないなこと言うとる場合か!?どないすんねん、これ!」 レッドのわめき声を耳にして、ゴウは呆れたようにレッドを見返した。 「おまえは破魔することしか知らないのか?こいつらが求めているのは、『救い』だ」 「知っとるわ!」 レッドは苛々と吐き捨てると、ふと気づいたように問い返した。 「…もしかして。おまえ、こいつらが出て来た理由を知っとるんか?」 「まあ。そういうことになるかな」 ゴウは、意味深な笑みを浮かべた。が、真顔に戻って言葉を続ける。 「『理由』は知ってるが、どんな『救い』を求めているかは知らない」 「は?それは、対処が分からないと同じなんやないか?」 「探りながら、分かるまで、ひとつひとつ潰すしかないだろうな」 ゴウはやけにあっさりと言い放った。目の前を飛び交う幾十もの黒い塊を目にし、気の遠くなるような作業を思い浮かべて、レッドは頭を抱え天を仰ぐ。 と、長髪の少年が空中に手を差し伸べた。 「おいで…」 少年は、穏やかな表情のまま言った。人魂を思わせる黒い霧の流れのひとつが、誘われるように少年の手に巻きつく。 「もう、ここにはいない方がいい。行きなさい。導いてあげるよ」 少年はゆっくりと手を上げた。同時に、彼の手に巻きついた黒い流れは、徐々に色を失い鈍い光を帯びた白い球体に変化していく。そして、少年の手からふわりと離れると、空気の中に溶けるように消えていった。 それを見たのか、幾つもの塊から成っている黒い霧から、黒い流れが次々と剥がれていく。少年の手に戯れ、色を変えると、名残惜しそうに空中に溶けていった。 (久々に見るな。…浄化か…) ゴウは、ある種幻想的な光景を眺めながら独りごちた。目の前には、黒い霧が薄れ、少しずつ本体を現す黒い物体がある。黒い霧は、ただの目くらましに過ぎない。 果たして、黒い本体は自らを隠していた黒い霧を脱ぎ、その姿を現した。 人間の約二倍はある黒くくすんだ体に、釣り合いの取れない大きな頭。その顔はげっそりとして、落ち窪んだ目に瞳はなく、ミイラを思わせた。嵐の風のような低い叫びを、苦悶に歪んだ表情で吐き続けている。正確に言うと、骨だけの顔に表情はないが、地鳴りのような唸り声が、否が応にも苦悶の表情を想像させた。重い頭を、骨の見えそうな細い腕で支え、ゴウ達を見下ろしてくる。 「なっ、なんだこれ!?」 昇は、傍にいたゴウのコートの袖を、思わず引っ張った。ごく普通の街並みに、突如化物が現れ、昇達を見下ろしている。これで驚かない方がどうかしている。 「おまえにも見えるのか。早く片付けないとまずいな。騒ぎになったら面倒だ」 ゴウはそう言うと、幸いにも人影のない辺りを見まわしもせず、黒い化物に進み出て、ためらいもなしに左手を伸ばした。黒い化物に触れた手から、黒い化物の意志が、針のようにとげとげしい攻撃的思念と共に、直接流れ込んでくる。 (殺してやる。もうこれ以上、私から何を奪おうというんだ。妻も子供も飢えて死んだ。この私には米一粒も残っていないというのに!!―――――殺してやる!!) 激しい感情が、針の突き刺す痛みと共に、ゴウの中を怒涛のように駆け巡っていく。そして、黒い化物は、くわと大きく裂けた口を開くと、ゴウを飲みこもうと体をしならせた。 「ゴウ!!」 レッドと昇の叫びを背に、ゴウはゆっくりと黒い化物を見上げた。 「そうか、…分かった。……放錠!!」 瞬間、黒い化物の動きがぴたりと止まった。ゴウを飲みこもうとした体勢のまま、呆けたように立ち尽くしている。 いつのまにか、その体から発されていた針のような攻撃的思念は霧散していた。 しばらくすると、どこからともなく吹いてきた暖かい風に、黒い体は徐々にさらさらと崩れ、光る砂となって舞う。ふと気付けば、黒い化物の口から出ていた叫びは消え、その顔には安らかな笑みが浮かんでいた。 それを確認した直後、全ての形が砂に変わり、崩れ落ちた。砂は、コンクリートの地面に吸い込まれていく。 この世を正しく去れなかった者は、今やっと土に還ったのだ。 「…豊穣か。考えたな」 レッドが進み出て、ゴウと肩を並べた。 「何が起こったんですか?あの黒い化物、消えちゃいましたけど」 昇が、興奮冷めやらぬといった風に話しかけてきた。 「言霊や」 「言霊?」 聞きなれない言葉に、昇はおうむ返しに問い返す。 「言葉に元々ある力を使ったんや。『放錠』とは、『錠を放つ』。さっきのバケモンを縛っとった錠を外してやったんよ」 『放錠』とは、『豊穣』。飢えに苦しむ魂から成った黒い化物は、その渇えた欲望を『豊穣』によって満たされ、還るべき処に還っていった。 「それにしても、さっきのバケモン、えらく昔の魂やったみたいやけど、何にそないに縛られとったんや?」 レッドの問いは、自然、ゴウに向けられた。ゴウはちらりとレッドを見ると、目の前に屈みこんでいる二人の少年に目を戻す。 「大方、こちらの探りに気付いて、刺客を送ってきたというところだろうな。使役者に返っていかないところを見ると、式神とは違うようだが。何を使って俺達を敵と認識させたのかは、…まず、この二人に話を聞いてからだな」 二人は、その瞳から警戒の色を解いていた。長髪の少年が、華奢な少年を支え、ゆっくりと立つ。華奢な少年が長髪の少年の肩くらいなのに比べ、長髪の少年はゴウと同じ位長身だった。 「俺は、織田道行といいます。そして…」 「僕は、兵頭春樹!」 落ち着いた声を、少し高めの声が遮った。ハルキを見下ろすミチユキの表情が曇る。 「もう、立てるから、ありがとう、ミチユキ」 そう言って、危うげに足元をふらつかせながら、振りほどくようにミチユキから体を離す。今にも倒れそうな青い顔をしたまま、心配そうな顔のミチユキから目をそらしている。 それはそうだ。ゴウは、攻撃してきた相手のことを薄々勘付いてはいたが、切り裂かれた傷の痛み分は、容赦しなかったから。もちろん、手加減はした。少しは。 ゴウは、何か訳ありそうな二人のそれを無視して、もう一度同じ問いを口にした。 「おまえ達は、ここで何をしている?」 「実は…」 ミチユキが、ゴウを真っ直ぐに見て話し出した。 to be continued |
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