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  3 聖域
 そう遠くない場所に、新宿の高層ビル街と、東京タワーが、闇の中にぼうっと光り、浮かんでいる。
 冬に入りかけた十一月の風は冷たく、ゴウの首筋を足早に掠めていった。指先はすでに、血が通ってないかのように冷たくなっている。
 ゴウは、粗く削った石の階段を登り切ると、背後を振りかえった。石段の頂上からは、一帯に広がる住宅街を見渡せる。夕飯時の街は、そこかしこに明かりが灯っていた。
 石段の正面には、古ぼけた神社と、木でできた鳥居が申し訳程度に建っている。石の狛犬はぴくりとも動かず、こちらをじっと睨んでいた。
 ゴウは、それらのものに目もくれず、社の横の回って、本殿の奥に真っ直ぐ歩いていった。
 目前には、純和風の家が建っている。二階建ての、そう新しくはない家。内側の明かりが漏れて、辺りをぼんやりと照らしている。そのささやかな明かりはしかし、この神社が建つ丘の木々に遮られ、街に降りようとはしなかった。
「ごちそうさま!」
 女の子の元気な声がすると、食器を運ぶ音がゴウの耳に入った。無視して歩き去ろうとしたゴウは、その女の子の声に不意に呼びとめられる。
「あ、護だー。どしたの?こんな遅くに」
 台所の窓から、女の子の顔がのぞいている。逆光のため、顔はよく見えないのだが、それが誰なのかゴウはよく知っていた。
 ゴウは、思わず声のした方に顔を向け、女の子の顔を見てしまったことに気づき、しまったという表情をした。いつのまにか、歩みも止まっている。
 急いで顔を背け、歩き出す。
「なんだよー。無視することないでしょ」
 女の子の腹を立てた声を聞いて、ゴウは再び足を止めると、深いため息をつき、諦めたように振り返った。
 案の定、女の子のとげのある言葉が浴びせられる。
「どうせまた、『仕事』って言うんだ。子供が大人の仕事に口出すな、って」
 図星だ。
 ゴウは、言いかけた言葉を慌てて飲みこむ。
「なんでもいいだろう?おまえには関係ないことだよ」
「何それ。いいじゃん、教えてくれても。ヤな感じ」
 女の子の頬がぷっくりふくれる。
 ゴウは疲れたように肩を落とした。何かヤバくなりそうだ。……それは分かる。
「あ、そうだ!まだごはん残ってるよ!夕ごはん食べてけば?まだ食べてないでしょ?」
「……」
 やっぱり。
 事態はゴウの予想した通りに運ばれている。
「お母さーん、護が来たよ。ごはん余ってたよね?」
 しばらくして、玄関の戸がカラカラ鳴ると、四十あたりの女性が姿を現した。
「あら、護くん。外は寒いでしょう?
 散らかってるけど、どうぞ」
 女の顔に、人懐こい笑みが浮かぶ。
 ゴウは腹を据えた。
「失礼します」
 長身の体をかがめて敷居をまたぐと、紅いはんてんを着た少女が、裸足のままぺたぺたと駆けてきて、ゴウを指差し、声をあげた。
「あー!また汚い!」
 ゴウは、再度肩をガクリと落とした。
「あのね、いくら俺でも清潔にしてるよ」
「だめ!やだ!まずはお風呂に入らなきゃ、部屋に上がっちゃだめだからねっ!!」
「こら、裕美!
 …まあ、お風呂もわいてるから、お風呂、先にどう?」
 裕美の母親は、娘をたしなめると、ゴウに向き直してやんわりと言った。ゴウもそれに笑い返す。
「はい。お言葉に甘えて、そうさせていただきます」
「その服も洗濯するからねっ!」
「……おまえね……」
 母親のたしなめにめげずに裕美がそう言うと、ゴウは長いため息をついた。

 ぴちょーん。
 風呂場の天井から落ちてきた雫が、湯船の湯に波紋を広げた。
 冷えきった身体が、指の先からじわじわと温まっていく。身体の中を血液がかけめぐっていった。
 久しぶりの、ゆっくりとした休息。
 ここに来ると、いつもそうだ。人の言う化け物と戦い疲れた身体は、自ずから癒しを求めている。
 霊樹の結界のためだろうか?ゴウは思う。
 それというのも、普段のゴウは、疲れの癒し方を知らない。重い体を引きずり、仕事をこなす。何をしたら疲れが取れるのか、分からないし、知るための努力をしていない。自然、はっきり知覚しながら、目を背け、そのままにしてしまう。
 ところが、ここでは当たり前のように疲れが癒えていく。それが何故か、ゴウには全く分からなかった。
 ある種投げやりになっている渇いた心と裏腹に、いつのまにか、身体はいつもこの場所を求めていた。ゴウ自身が自制しなければならないほど。
「ここに、着替え置いとくわね」
「はい、すみません」
 曇りガラス戸の向こうに、裕美の母、茜であろう影が写り、ゆっくりと薄れ、廊下に続く木戸の閉まる音が聞こえた。
 裕美の家には、霊樹とコンタクトを取るために度々訪れる。それも、ここに来るのは、鬼や式と戦った後なので、汚れていることが多い。それに加えて、ゴウ自身あまり身なりや格好を気にしないことが、さらに拍車をかけていた。
 先刻の裕美の言葉はこのことからによる。
 確かに、その汚れは物理的に見えるものも多かったが、相手が化け物である手前、普通の人間に見えないものであることも多かったが。敏感な裕美は、それを全て・・・拾ってしまっていた。
 そういうこともあって、いつのまにか裕美の家にはゴウの服が用意されるようになっていた。
 思った通り、衣服かごの上には、以前着たことのある青のパジャマと下着が重ねられていた。
 ゴウは、洗い立ての髪に、棚から出した真新しいタオルを被せて、ほかほかと温まった身体に、衣服を身に付けていった。最後に、綿の入った丹前に腕を通すと、ガラリと木戸を開ける。
 目の前を通り抜けようとした裕美が、足を止めてゴウを見上げた。先刻までゴウが着ていた服が綺麗に洗われ、かごに入ったそれを両腕に抱えている。
「あ。出てきた、出てきた。
 ごはんの用意、できてるよ」
「ああ、分かった」
 何気ない言葉を交わした後、裕美の目は、ゴウの右手のリストバンドに釘付けになった。
 そして、ボソリとい言う。
「それ、洗ってない」
「これはいいんだよ」
 濡れきったリストバンドは、既に冷たくなっている。かなり年季の入ったリストバンドを指でなぞり、首を傾げると、裕美は不満そうな顔をゴウに向けた。
 裕美の眼差しを受けて、決して綺麗ではないリストバンドに目を落とすと、ゴウは口をつぐむ。
(大丈夫だろうか…。
 ……ここは、霊樹の結界の中だ。大丈夫なはずだが…)
 ゴウは、ゴク、と喉を鳴らすと、今では利き腕になっている左手で、裕美の白い指をどけた。そのまま、ゆっくりとリストバンドをずらし始める。
 リストバンドが指を通り抜けようとしたとき、ゴウの身体の中を、エネルギーの激流が渦巻いた。人一人には大きすぎる力が、血管を通ってめちゃくちゃに流れているような気分。その流れに逆らえず、ぐらぐらと身体を揺さぶられるようなめまいがゴウを襲った。
 ゴウの眉間にしわが寄る。風呂あがりの火照りが嘘のように、背中を冷や汗がかけおりた。
 ふとすると、飲まれそうになる激流に必死に耐え、苦痛の表情を押し隠すと、左手の指にリストバンドを引っ掛けた。
「ほら…」
 ゴウは、裕美の掌にリストバンドを乗せかけた。
 裕美は、投げられた物を受け取るように、軽く手を伸ばした。…が、その顔が、驚愕に凍る。
「!!」
 背後を突かれたように、その黒い物体は思いの外ずっしりと重かった。…しかも、重力の半分以上はゴウの指にかかっているであろうに……である。
 ゴウは、裕美の顔を確認すると、素早くリストバンドを腕にはめ、裕美に気づかれないように、安堵の溜め息をついた。
「…それ……」
「分かったろう?洗える代物じゃないんだよ」
「……でも…」
 裕美は、頭の中が真っ白になってしまったのか、引きつった顔のまま押し黙った。何を言えばいいのか、分からなくなったに違いない。やがて、リストバンドからゴウの顔に目を移すと、弱々しい声を絞り出す。
「…大丈夫なの…?」
 ゴウは、少しだけ目を見開いた。
 裕美の目は潤み、胸の奥からくるものを必死にがまんしているのか、口を引き結び、一生懸命にゴウを見上げている。
 ゴウは忘れていた。重いからといって、洗えないと納得するほど裕美は子供ではなく、かといって、この尋常ならざるものを受け入れられる程、裕美は大人ではないのだ。
 健気な目の前の少女は、まだ中学一年生である。
 ゴウは、裕美を見つめ返すと、人々を魅せて止まない笑みを浮かべた。右手を使い、裕美の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「大丈夫に決まってるだろう?俺の右手の力が左手よりかなりあって、これを着けてないとバランスが取れないんだ。心配することなんてない」
「………」
 複雑な表情のまま口を開こうとしない裕美の目の前に、屈んで顔を近づけると、裕美の頭に手を乗せたまま囁いた。
「俺の言うことを信じないのか?俺が大丈夫と言ったときは、いつも大丈夫だったろう?」
 裕美は、ゴウから目を逸らすと、俯きつつ、コクリと頷いた。
 ゴウは悟った。
 この少女は、理屈ではなく感覚で、ゴウの抱えているものをいつのまにか見てしまっているのだ。あまりにも曖昧な感覚ではあるが…。
 しかし、今は無視するしかない。
「分かったなら、洗濯物干してくれな。俺はメシを食う。茜さんのメシは絶品だからな」
 そしてゴウは、裕美の肩をポンと叩き、ニッと笑った。普段は滅多に見せない、飾り気のない笑み。
 裕美は、それを見てやっと、安心したように笑みをこぼす。
「うん。今日はね、筑前煮だよ!」
 再びかごを抱え上げると、とてとてと軽やかな足取りで二階へと上がってゆく。
 ゴウは、その後ろ姿が二階に消えるまで、しばらくの間見送った。

 目の前に、白い湯気をたゆらせる料理が並んでいる。空腹の胃を誘うようなにおいは、遠慮なしに部屋の中を漂っていた。
 この前でおあずけをくらうのは、酷、この上ない。
 ゴウは、こたつの布団をめくり、座布団にあぐらをかいた。正面には、いつも通りの席を陣取っている裕美の祖父、一郎が、人の良さそうな笑みを浮かべている。その両隣には、茜と、茜の夫、朗がゆっくりとくつろいでいた。
「護くん、まずは一杯」
「あ、どうも」
 朗が、嬉しそうに銚子を傾けた。一郎の猪口にもなみなみと注ぎ、自分のものも、日本酒でいっぱいにする。あたたかい酒が、ほのかな湯気をあげた。
「いやあ、護くんが来ると、いっぱい飲めて幸せだよ」
 朗がそう言ってはははと笑うと、三人は「乾杯」と杯を交わして、くい、と一口飲んだ。
 ゴウの腹の中を、カアッと熱い刺激が下りていく。舌には、まろやかですっきりとした余韻が残る。
 裕美の家では、舌が肥えているのか、不味い酒は買わない。通と言えばいいのか、すっきりとした、しかし味わい深い辛口の酒がいつ訪ねても振舞われる。その酒の値段は、物の価値というものに無頓着なゴウには測れなかったが。
「寒くなると、やっぱりこたつとこれだねぇ」
 朗が、心底嬉しそうに顔をほころばせた。
 一郎が、温かい銚子を持ちゴウに勧めると、ゴウは杯を空にして、同意した。
「おかわり、まだあるから、いっぱい食べてね」
「はい、遠慮なくいただきます」
「あーっ!また飲んでる!」
 勢い良く障子が開くと、裕美の高い声が響いた。少女の咎めるような表情は、その思いと裏腹に、愛らしい。
「今日は護くんが来たから、仕方なく飲んでるんだよ」
 朗は、おどけた調子でにやにや笑うと、杯の酒を一気に飲み干した。
 朗の気持ち良さそうな紅い顔は、全く「仕方ない」ようには見えない。
「そーやっていい気になって飲むんだから。おじいちゃんも、血圧上がっても知らないよっ?」
「…裕美、飲むか?」
 一郎は、手にした銚子を指差して、目を細めた。
「飲むっ!」
「裕美、あんた宿題まだでしょう?やめときなさい」
「ちぇー」
 茜にぴしゃりとたしなめられるた裕美は、残念そうにそう言うと、茜とゴウの間にもぐり込んだ
 「飲む」といっても、一、二滴を舐める程度だ。飲酒には程遠い。酒の味などに関心はないが、大人の飲み物に口をつけるということを、裕美はいたく気に入っていた。背伸びと言ってしまえばそれまでだが、一人っ子の裕美にとって、それは大人に囲まれた生活を楽しむための裕美なりの知恵だった。
 ゴウは箸を持つと、煮物の里芋を口に入れた。程よく味の染みた、ほくほくの里芋が口いっぱいに広がる。
「茜さん、美味いですよ」
「あら、どんどん食べてね」
 茜は、まんざらでもなさそうに笑って、茶を口にした。
 ゴウは茜の料理が好きだ。料亭のような気取った味ではないが、郷土料理のような素朴な味の中にも奥深さを感じる。実際、思いのほか箸がすすんだ。
「やーい、食いしん坊ー」
 裕美がにやにやと笑う。
 和やかな団らんは、暖かい灯に守られてしばらく続いた。

 次の朝、ゴウはいつになくさわやかに目を覚ました。
 部屋の中は、障子を通してさしこんでくるやわらかい陽光で、既に明るくなっていた。壁に掛けられた時計に首を向けると、張りは十一時をとうに過ぎている。
 昨日の風呂と同じように、ここで休むといつもこうだ。全てのことを忘れて、深く眠ってしまう。実際、ゴウの身体は、空気のように軽くなっていた。
 普段帰るべきの処の、新宿のマンションではそうはいかない。
 ゴウの仕事は夜のことが多いので、明け方に眠りにつくのが常である。が、眠ると言っても、安らかな寝息をたてることはない。
 眠りながらも、周囲に意識をとばし、異変があるとすぐさま行動できるような、極浅い眠り。体の緊張が解けることはない。言ってみれば、「眠る」よりも、「体を横たえる」の方が正しいかもしれない。
 そんな眠りは、ゴウの身体を癒すはずもなく、泥のような重みを慢性的に溜め込んでいく。
 それが、ここに来ると、自分の意識が無視されて、肉体が勝手に癒されていく。ゴウは、それもこれも霊樹がすぐそばにあるためだと考えていた。いわば、聖域のようなものである、と。
 ゴウは。枕元にそっと置かれていた乾きたての服に着替えると、布団を押し入れにしまい込み、障子を開けた。
「あら、起きたのね。おはよう」
「おはようございます」
 客間に面した広い庭を掃除していた茜が、竹ぼうきを持った手を休めてにこやかに微笑む。
 思った通り、外は雲ひとつない青空が広がり、まぶしいほどの光が辺りを満たしていた。その陽射しを受けて、丁寧に世話をされた庭は、赤や黄色に染まった葉を輝かせている。
「ぐっすり眠っていたみたいだから。起こさなかったわよ?」
「あ、すみません」
(すぐそばに服を置かれても、俺は気付かなかったのか……)
 ぼんやりと思う。
 これはいよいよ聖域の、霊樹の影響だ。ゴウは、戸惑いを覚える自らに言い聞かすよう、そう思う。
 古い家は、しんと静まり返っている。朗も裕美も、それぞれ会社や学校に出かけてしまっているようだ。言われてみれば、今日は平日である。
「ちょっと、御神木の方に行って来ます」
「はい。朝食はどうする?」
「こんな時間なんで、ご遠慮します。すみません」
「分かったわ」
 茜は、再び手を動かし始めた。それを見、くるりと踵を返すと、ゴウは黒光りする木の廊下を早足で歩いた。


to be continued


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