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  Chapter1 ゴウ
  1 日常
 闇の中。
 真っ白な光がふわりと浮かんだ。ぼんやりとした明かりが、周囲をおぼろげに照らす。
 一人の青年の手のひらに、拳大のの丸い光球がある。輪郭がはっきりとつかめないそれは、青年の手のひらに触れるか触れないかというところで、しかし完全に、宙に浮いていた。
「そろそろ眠る時間だ。俺はあまり面倒なことはしたくない」
 青年の前方で、赤い影が風にあおられた炎のように、ごおっと揺らめいた。
 暗闇に慣れた瞳は、青年に対峙する人型の赤い影を、闇の中に見て取れる。長身の青年よりさらに大きく、人型ではあるが、口や鼻があるわけではなく、炎のように揺らぎつづけ、一瞬たりとも同じ形ではいなかった。
 強烈な存在感。しかし、暗闇に塗りつけたように、実体感はなかった。
 人、ではなかった。
 強烈な存在感も、その赤い影から発せられる怒りからくるものだ。表情というものがなくても、息苦しくなるほどの怒りの感情が空気を満たし、針が突き刺ささるような感覚を肌が伝えてくる。
 青年は面倒臭そうに、バサバサにのびている髪をかいた。左の手のひらに浮いている光が、ぶわりとひとまわり大きくなる。
 赤い影は、一瞬たじろいたように沈黙したが、ごお、と周りの空気をうならせると、恐ろしく速い津波のように青年に覆い被さった。激しい怒りの思念が、赤い火花となって飛び散っていく。
 それに反応したのか、青年の切れ長の瞳は冷たくキラリと光った。
「言ったはずだ。手を焼かせるな、と……」
 赤い影にすっかり覆われても、青年は表情ひとつ動かさなかった。赤い影が焦り始めているのが周囲の空気で分かる。その行動は、青年にすさまじい痛みを与えているはずなのだ。
 青年は、つまらなそうに鼻を鳴らすと、赤い影に覆われたまま左手を突き出した。左の掌の白い光球が、急速に赤い影を吸い込んでいく。赤い影は、段々と吸収されていくその姿を、苦しそうに激しく歪めた。暗く低い叫びが、恨めしそうに響く。
「眠れ」
 冷ややかな言葉が、一言、青年の口からもれた。
 やがて、白い光球は全ての赤い影を食い尽くし、満足そうに歪んで、消えた。
 消える直前、弱い澱んだ光は、青年の端正な横顔を緩やかに照らし出した。異様に乾いた瞳が、長い前髪から覗いている。
 闇が再び落ちた。そして、辺りは元の静寂を取り戻す。
 見上げれば、最上階が見えないほどの高層ビルが、華やかな光を放っている。
―――――東京、新宿―――――
 これだけの繁栄を見せるまで、どれだけのものを捨ててきたのだろう。先刻の赤い影も、この都市に落とされたものだ。人の欲望が膨らめば膨らむほど、生まれてくる、憎しみ、怒り。
 溢れ出したそれらの意思は、純粋に害を成すものとして、形をとるまでに至っている。
 この都市は、次々とこの意思を吐き出している。まるで人々が吐く息のように、車が出す排気ガスのように。
 止まることは、……ない。
「今日も、星の見えないいい夜だ」
 青年の皮肉な笑みは、闇に溶けていった。

 彼の名は、神藤護。
 コードネームは、『ゴウ』である。


to be continued


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