飛鳥杏華の気まぐれモノローグ

<2004年>

1月27日(火)

 年明け早々、転院のための検査…。しかし、なかなか転院OKの連絡が来ない。転院までの間、母の気持ちが萎えないようにがんばろうと、毎日仕事帰りに病院に行っていた私に疲労がずんずん積もってくる…。そして、いよいよ転院の日を迎えたが…。(汗)

 12月31日〜1月2日、冬コミが終わって帰宅。例年なら、のんびりと正月を迎えるのだが、今年は正月という感覚がない。一応、年越しそば用にカップのそばを買ったが、結局食べずに寝てしまい、年を越してしまった。元旦も朝食はパン…。物心ついてからというもの、元旦に母の雑煮を食べられないのは、考えてみたら今年が初めてかもしれない。せめて、栗きんとんだけは用意してみたが…。

 元日といっても、普段の休日と変わらない。夕方には母のところへ行き、食事と歯磨きの介助をする。ところがこの日、母は食事を1口も食べようとはしなかった。これまでも波があって、看護師や叔母からは全部食べるときもあるという話を聞いていたが、私が介助したときはあまり食べていなかった。が、それでも全然食べないということはなかったので、ショックが大きかった。

 食べたくない…。しかたないのかもしれないけれど、それでは体が回復しない。それなのに、先日から始めた内緒の立つ練習はしたがる…。そんなピラピラの筋肉で立つなんて無理だよ。食べなきゃ、筋肉が戻らないじゃないか…。食べないんじゃ、立つ練習なんて、怖くてさせられないよ…。感情が高ぶって、つい涙が出てしまった。そんな私を見て、母はつらそうに目を閉じ、しばらくじっとしていたが、やがてスプーンを手にすると、2口だけおかゆを口へ運んだ。私も、それを見て、「食べてくれて、ありがとう。」と声をかけた。

 その場はそれでおさまったかに思えたのだが、翌日、病院に行くと妹と母が二人して泣いていた。突然、母が(筆談で)「今は、いつ死ねるか考えてる。」と言い出したからだ。「死ぬなんて考えないでよ。」と妹が泣いてしまい、母も泣いてしまった…。前日の私の涙を見て、子供たちに苦労をかけてる、これ以上苦労をかけたくないという思いが強くなってしまったのだろうか。後悔した…。つい感情を高ぶらせて泣いてしまった自分の弱さがなさけなくなった。我々にとって、最大の危機だったかもしれない。だが、このできごとが、1つの転機となった。

 1月3日〜1月4日、あらためて気を引き締める。私や妹が弱気を見せてはいけない。無理強いはしないで、じっくり構える。夕食が食べられなくても、朝、昼に食べてればOKじゃないかと割り切る。別に明確にそう決めたわけでもなかったが、自然とそういう姿勢になってきた。母の方も、それからは徐々に食が進むようになってきた。立つ練習も、最初は抱きかかえるようにないと立っている状態を保持できなかったのが、手を引いた状態でも保持できるようになってきた。そして、いよいよ転院のための検査の日を迎える。

 1月5日、転院先の病院に行き、判定のための検査、診察を受ける。妹と叔母の都合がつかなかったため、私が1人で付き添った。特に大変だったのが、行き帰りのタクシーの乗り降り。まだ、自力で座った状態を保持できないので、倒れないように支えながら乗り降りさせなければならない。行きは、現在の病院の看護師が手伝ってくれたから助かったのだが、帰りは手伝いがなく、乗せる際にバランスを崩して、危うく頭から車の床に落ちそうになった。紙一重で何とか私の手が間に合ってくれたが…。(マジで危なかった…。汗)

 過去に経験がないから、転院のためにこんなに診察だの検査だのが大変だとは思わなかった。母も疲れたと思うが、私もぐったりだった…。しかし、この転院に乗り気の母は、とても積極的な姿勢で臨んでいた。特に驚いたのが、発声だ。もう声は出るはずと主治医から言われてるのだが、これまでは咳き込むとき以外、なぜか自発的に声を出そうとはせず、筆談に頼っていた。それが、診察の医師に年齢を問われたとき、声を出して答えたのである。

 そして、どのくらい立てるかということで、医師に手を引かれて立ち上がった。そこまでは、私との練習の成果だったが、そのまま2、3歩、よたよたと歩いたのだ。できる! 歩けるようになる! 転院に際しての主治医の情報提供書には、車イス生活がゴールかと思うと書かれていて、正直なところショックを受けていたのだが、そんなことはないだろうと思い、医師に内緒で立たせる練習をさせてきたのである。それまで漠然としたものだったその思いが、このとき確信に近いものに変わった。ここに転院して、本格的にリハビリをすれば…。

 この日は、診察、検査のほかに、転院後の方針や目標について相談もした。まずは、歩けるようになること。特に母は自力でトイレに行きたいという希望が強いから、それが実現できるように…。それから、会話ができるようになること。この日の診察では少しだけしゃべったが、普段は全然話さない。筆談をしているが、字もうまく書けないので、何が言いたいのか理解するのが難しい。母が何をして欲しいのか、それがわかることが何よりも大切だ。そうした希望を伝えて帰り、あとは転院許可が出る日を待つことになったのだが…。(汗)

 1月6日〜1月15日、仕事が始まり、通常の生活に戻る。転院の連絡待ちの間、母のやる気が萎えないようにと思い、毎日夕食時に行って介助とひみつ練習をすることにした。その甲斐あって、手をはなしても30秒くらい立った状態を保持できるようになってきた。このときは、転院までそんなに時間がかかるとは思っていなかったので、充分がんばれると思ったのだ。が、なかなか連絡が来なかった…。(汗)

 1月16日〜1月20日、ようやく転院可能の連絡が来た。1月26日以降ということだった。準備の都合もあるから、それ以降でもよかったのだが、妹と叔母と相談した結果、結局、26日がいいということになった。母も早く転院したがっているし…。

 この間に、母の自立は1分以上までのびてきた。だんだん回復してきている。もう、元日のように1口も食べたくないなどということはなくなってきた。食事の内容も、細かく刻んではあるが、徐々に通常の固さに近づいてきた。まだ、よくこぼすが、スプーンの使い方も少しずつうまくなってくる。順調だ…。正月早々の危機が、うそのようだ。うん、きっと「うそ」だったんだね。(こらこら…。笑)

 1月21日〜25日、転院の日程も決まり、準備が始まる。不用なものは早めに持ち帰り、逆にもって行くものを整理する。というのも、今度の病院では療養型病棟に入るため、日中は普段着で生活することになるからだ。これまではパジャマがあればよかったが、それなりに選べるくらいの普段着を持っていってあげなくてはならない。女性の服を選ぶセンスは私にはないから、妹に来てもらって選んでもらう。結局、準備してるのは妹の方だけか…。(汗)

 実際、男はこういうときあまり役に立たない。せいぜい、当日の荷物運びくらいなものである。少しは気に病んでいるが、ただおろおろしてても邪魔なだけなので、そっちは任せて、私は私にしかできないことをすることにする。夕食時に行ってあげることと内緒の自立訓練だ。母を立たせるにはそれなりに力もいるし、妹や叔母では無理だ。それと、面会時間ぎりぎりまで、とにかく一緒にいてあげること…。自分の家庭を持っている妹や叔母には難しいから、そういうことをするようにがんばってみる。

 大したことではないが、入院していて何も楽しみのない生活では、家族と一緒にいる時間が大切だろうと思う。自分が入院していたら、家族なり、友達なり、誰か話し相手が欲しくなるだろう。入院中は当然、ネットなんてできないだろうし…。

 1月26日、いよいよ転院の日を迎えた。午前中に退院手続きを済ませ、昼前に叔父の車で大学病院を出る。母は、車に乗るまで付き添ってくれた看護師たちに手を振り、おじぎをして別れを告げた。晴れ晴れとした笑顔だった。それにしても、先日の検査の日もそうだったが、この日もいい天気だ。移動のときに雨が降らなくてよかった。母は晴れ女なのかな…?(笑)

 転院先に着いてから、またあらためて診察と検査があった。付き添いは妹に任せ、私は入院手続きをする。一通り済んで、病室に落ち着いたのは15時頃だった。やっと一息つくと、私は急激な睡魔と倦怠感に襲われる。この日までがんばり続けてきた疲れが、落ち着いたことで一気に出てきたようだった。妹に早く帰って休むように言われ、先に帰宅するが、夕方から発熱…。寝込んでしまった。(汗)

 1月27日、熱で仕事を休む。39度以上も出たのは久しぶりだ。関節が痛いから、インフルエンザだろう。流行ってるし…。緊張感が途切れると発病するというのは、よくあることだ。それはそれとして、熱が下がると今度は咳が出るだろう。うつすといけないから、しばらく面会は自粛することにした。結局、転院早々1週間、面会に行けないことになるのだが、まさか、このことが母の精神状態に影響を及ぼすことになろうとは、このときは思ってもみなかったのである。

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