飛鳥杏華の気まぐれモノローグ

<2003年>

9月30日(火)

 世の中、何が起こるかわからない。前夜まで何事もなく生活していた人が、翌朝、突然重病に倒れることもある…。そんなことが身近に起こるなんて、普段は思いもしない…。前夜までは、本当に何事もなかったのだから…。

 9月24日〜9月27日、また1つ年を食ってしまった。まあ、今さら年の1つや2つ、大した差にはならないが、30を過ぎてからこっち、あまり増えるのはうれしいものではない。もっとも、その誕生日を祝ってくれる人がいれば、話は別なのだろうけれど…。(今年は一刻会の継続申込が遅れて、バースデーカードもらうの断念したから、余計に淋しいな…。涙)

 土曜日の昼から原稿の下描きに入る。夕方までに1作目の下描き2ページとフォローの文章原稿の原文を書き上げ、夜に2作目の下描きに入ったが、結構背景が細かいので、1ページ目の途中までで切り上げて床に就いた。まあ、翌日も時間はあるし、次週からペン入れに入れるだろう…と、思ったのだが…。(汗)

 9月28日、9時前に起き出して朝食をとりに1階に下りる。母は茶の間のいつもの場所に座っていた。が、いきなり妙なことを言い出す。「もう、そんな時間?」と…。そんな時間って、日曜日なのに…。平日と勘違いしているのだろうか? それにしても、もう9時だ…。平日だとしたら、私も完全に遅刻なわけで…。

 もうすぐ9時だと伝えると、「仕事を休むときは、8時までに会社に連絡しないといけないのに…。」と言い出す。「日曜日じゃないか。」と言うと、日曜日は出勤だと言い張る。母はビル清掃のパートをしていて、確かにこの春までは日曜日が出勤、水曜日が休日という勤務体系だった。が、春から清掃会社の契約先が変わり、日曜、祝日は休日になっていたのである。だからこそ、録画しておいた「高橋留美子劇場」を、日曜日の朝、一緒に見ていたというのに…。

 そのやりとりは何度も何度も繰り返された。そのたびに「今日は何曜日?」と聞く。さっきから何度も日曜日だと言っているのに、また聞く…。まさか、ボケちまった…? いや、しかし、前夜まで何ともなかったのに、たった一夜でボケてしまうなんてことがありうるのだろうか? このとき、私の思考はどうしても「痴呆症」の範囲から抜け出ることができなかった。

 とりあえず、近所に住んでいる妹と叔母に電話して、母の様子がおかしいことを告げる。妹と叔母が駆けつけるまでに病院に行くことを想定して着替え、出かけられる準備は整えておいたが、この段階で救急車を呼ぼうという発想は出てこなかった。何しろ、母は茶の間に座って普通に話をしているのだから…。表情は若干うつろだったが、私と話が噛み合わないことに困惑しているともとれたし、別にろれつが回らないといったこともなかったし…。病院に連れていくにしても、タクシーで充分と思えたのだ。

 妹が来てからもしばらくは、同じように日曜日が出勤でないことを諭すことに終始してしまった。「そんなに言うなら、会社に電話してみれば?」と、電話の子機を手渡したのだが、電話番号が思い出せない…。というか、#を3回も押したりして、明らかに普通じゃない…。あらためて電話番号を問いただしても、なぜか買物メモやらカレンダーやらを見てばかりだ…。

 と、突然立ち上がったかと思うと、フラフラと台所に入って行き、流しに向かって食べたものを戻し始めた。そして、「頭が痛い」と…。ここに至って初めて「ボケ」どころの話ではないことに気づき、救急車を呼ぶ! 台所に入って気づいたのだが、洗濯物はカゴごとひっくり返って散乱しているし、いつも日曜日の朝はコーヒーなのに、コーヒーカップにはなみなみと牛乳が注がれているし、さらに(後で妹から聞いた話では)トイレでは洗浄剤のフタが全部開けたままになっているし…と、私が起きてくるまでにも様々な奇行をしていたのだ。

 いったいいつから…? いずれにしても、発病から相当時間が経過しているのは確かだ。それなのに、愚かにもつまらない問答に終始して、いたずらに時間を浪費してしまった…。妹に留守を頼み、出発に間に合った叔母とともに救急車に同乗して病院へと向かう。が、ここでもまた無駄な時間をかけてしまう。まずは、救急隊が検索したいちばん近い設備の整った大学病院がX線機器の故障でCTスキャンが使えないというアクシデント。そこで、とりあえず近くてCT検査のできる脳神経外科のある病院へということになった…。

 隅田川、荒川を隔てた隣の区の病院まで約10分…。すぐにCT検査を行った結果、脳に出血が見られるとのこと…。恐らく、くも膜下出血だろうと…。しかし、その病院では処置ができず、救急救命センターのある大学病院に移送されることに…。しかも、移送開始まで(移送先の病院探しも含めて)30分ほどかかってしまう。こんなことなら、最初から救急救命センターのある病院を指定しておけば…。家を出たときの母の容態がまだよかったことが、かえってあだとなって判断を誤ってしまった。(汗)

 結局、叔母の家の近くにある大学病院へと移送され、まずは再度CT検査を行う。検査前、医師の質問に答えている母の声が聞こえたから、このときはまだ意識がしっかりしていた。しかし、やがて検査室から「うわーっ、これはひどい出血だ!」という声が聞こえてくる。まもなく呼ばれ、医師の説明を受けるが、この病院に運ばれるまでに死んでいてもおかしくなかったほどのひどい出血だという…。まさか、さっきまで医師の質問に答えていた母が、そこまでの重症だったとは…。

 さらに悪いことに、出血が多く、広がりすぎているために、このときのCT検査の映像ではどこの血管が破裂したのかが特定できなかった。それがわからないと手術ができないので、血管に造影剤を投与して血管撮影をしなければならないのだが、その検査が危険を伴うと言う。いわゆるカテーテル検査というやつだが、おなかから血管の中を脳まで管を伸ばして造影剤を投与する。だが、どこの血管が破れたのかわからない状態で行うため、この検査が血管の再破裂を招いてしまう危険性があるわけだ。

 様々な悪い要素の中で唯一幸運だったのが、病院に運ばれたとき、出血が止まっていたことだった。通常、脳の出血はよほど高い圧がかからないと止まらないということなのだが、母の場合、食べ物を戻したときに一時的に血圧が急上昇したか何かで、運よく出血が止まっていた。しかし、いつまた破裂するかわからない。それを防ぐために手術をするわけだが、その前に再破裂してしまったら、もう命はない…。しかし、任せるしかなかった。わずかでも可能性があるのなら、やるだけやってもらうしかない…。

 とりあえず、そこまでの病状と医師の説明を電話で妹に伝え、移送の際に一旦家に戻っていた叔母と一緒に病院に来るように言った。万が一のことがあれば、検査前に顔を見ておかなければ…。20分ほどで到着した妹は泣いていた。「まさかそんなにひどいなんて…。もっと早く救急車呼んでれば…。」と、つまらない問答で時間を浪費してしまったことをしきりに悔やんでいた。検査前にとりあえず顔を見たが、すでに目を開けられる状態ではなくなっていた。つい、1時間前までは話していたというのに…。

 検査は40分ほどかかったが、無事終わった。その結果、右の頚動脈から伸びた血管の先の動脈瘤が破裂したものと判明した。翌日9時から、その動脈瘤をクリッピングして再破裂を防ぐ手術をする。が、あくまで手術は再破裂を防ぐだけのもので、すでに出血した血液はどうしようもないと言う。確かにデリケートな部分だから、まさか水洗いするわけにもいくまいというのは、素人でも容易に想像できるが、その血液が今後大きな問題になると言うのである。

 くも膜というのは、蜘蛛の巣状の薄い膜で、これに血液がこびりついて固まることで、脳で生成された髄液が体の方に流れるのを塞いでしまう。行き場を失った髄液は、当然、頭にたまってしまい、脳が水を吸って膨張する水頭症を引き起こしてしまう。また、この血液の赤血球が分解されると活性酸素が発生し、これが脳の血管を収縮させる悪さをするそうで、それによって脳梗塞が起きてくる危険性がある。その活性酸素の発生量は、当然、出血の量に比例するわけで…。(汗) そして、脳梗塞が全脳に及べば当然、脳死ということに…。

 まずは検査時の危険を乗り切ったが、この先のことを考えると、とても楽観はできなかった。ある程度覚悟をしておかねばならない。あきらめるわけではない。あくまで、最後まで希望は捨てないが、油断もしないように…。そして万が一、最悪の事態が訪れても自分自身を保てるように…。

 とりあえず、この日は検査までで終わりで、帰ることになったが、このあと髪の毛を剃るということで、麻酔がきいててまだ意識はなかったが、剃る前に一度面会しておくことにした。「まあ、どうせ剃っても毛なんてすぐに伸びてくるし…。」などと妹や叔母と話していると、「いやー、そこまで行かないんじゃ…。」と医師がぼそっと…。思わず、3人固まってしまう…。(おいおい、ブラックギャグの漫画じゃないんだから…。汗)

 それはまだしも、母のベッドのところに「A(Rh+)」という札が下がっていた。母の血液型はO(Rh+)なのに…。指摘すると、前の患者のままになってたと言ってすぐにはずしたが…、任せてもホントに大丈夫なんだろーか?(大汗)

 帰宅後、一刻会の会長や「豪華犬乱3」で委託販売をするつもりで本を預かった同人仲間など、ごくわずかな人たちだけに事情を知らせるメールを送った。私事ではあるが、私が当分動けなくなることで直接迷惑が及ぶ人々には、事情を伝えないわけにもいかないから…。だが、あまり周囲に心配をかけたくなかったし、水臭いと言われるかもしれないけれど、状況もかなり流動的だし、他の友人、知人たちには、ある程度目鼻がついてからあらためて話をすることにした。

 9月29日、妹と待ち合わせ、8時30分過ぎに病院に到着し、手術前の母と面会した。すでにスキンヘッドになっていた母の顔は、どことなく亡くなった父に似ているように見えた。普段は信心深くない私だが、こういうことがあるとやはり神仏やご先祖様などを拝んだりする。前夜、そしてこの日の出がけにも仏壇に線香をあげ、亡くなった父に「まだ連れて行かないで欲しい。力になってあげてくれ。」と祈ってきた。そんなこともあって、なんとなく「父が乗り移って母を守ってくれているのかな?」というプラス思考が働いた…。

 妹とともにこれから手術に向かう母を励ます。目は開けられないし、しゃべることもできない状態だったが、意識はしっかりあるようだった。医師がそろそろ手術室に向かうことを告げると、母は眉間にしわを寄せ、とても不安そうな表情を見せた。その表情が何とも印象的で、逆に私と妹の心に余裕を与えてくれた。「大丈夫だから…。」と何度も励ますことで、私と妹の気持ちも自然とよい結果を信じる方へと向かうことができたからだ。

 手術は予定どおり9時から始まった。昼過ぎにはパートを終えた叔母も来てくれた。脳の手術だ…。長丁場になることは最初から予測していた。最低でも5〜6時間はかかるだろう。むしろ、早く呼ばれる方が怖い…。だから、比較的平常心を保ったまま待つことができた。最悪の事態を一瞬たりとも想像しなかったかというと、そういうわけでもない。むしろ、そういう状況が頭をかすめることはしばしばあった。が、それを覚悟した上で、それよりも少しでもいい結果が出たら「よかった」と思えるじゃないかという気持ちで臨んでいた。

 この手術自体にも結構危険はあった。まず、問題の動脈瘤に到達する前に再破裂してしまえば、命はない…。また、動脈瘤は血管の分かれ目の股の部分にできることが多いそうなのだが、これが血管の側面に大きくかかっていると、その正常な血管を犠牲にしなければならなくなる可能性がある。犠牲にすれば、その先の脳には血液が行かなくなり、確実に脳梗塞となる。最悪、右脳全体が脳梗塞となる可能性も…。そうなると、左半身不随…。それだけで済めばいいが…というレベルになる。

 それに、脳の手術というのはそれ自体、少なからず脳をいじめることになる。非常にデリケートな部分に手を入れるわけだ。まるっきり影響がないということはなかろう。これまでどおりの生活に戻れる保証はどこにもない。むしろ、戻れないことを前提に考えなければならないだろう。それでもなぜか気持ちに余裕があった。車イスを押しながら、春の公園で日向ぼっこさせているようなほのぼのとしたシーンがまぶたの裏に浮かんでくる…。本当に、何の根拠も確信もないのだが…。(微笑)

 予想したとおり、6時間後の15時に母は集中治療室に戻り、30分後に呼ばれて説明を受けた。手術はうまくいき、これで再破裂の心配はないだろうとのことだった。しかし、動脈瘤が思ったよりも大きかったため、クリッピングに万全を期するため、太い血管を2分ほど遮断したと言う。それがどれほどの影響を及ぼす危険性があるのかわからないので何とも言えないが、とりあえず手術での最悪の事態は避けられた。が、問題はこれからだ…。

 手術前の予見どおり、母の頭の中は血まみれだったそうである。前日にも受けた説明だが、あらためてこの血液による悪影響の恐ろしさについて念を押された。基本的には手術前よりよくなることはありえないと言う。確かに今回の手術は、血管の再破裂を防止しただけで、その他の治療をしたわけではないのだから、当然と言えば当然なのだが、なんか対応が冷たいような印象も覚えてしまう…。最近は医療ミスだの何だのいろいろあって、あまり期待を持たせるようなことを言ってしまうと、そのとおりにならなかったときに訴えられたりする危険性があるから、最悪の事態のことしか言わないのかもしれないが…。(汗)

 それはともかくとして、問題は早ければ3日後くらいから出はじめる可能性のある血管収縮の影響だ。翌日には麻酔がさめはじめるはずだが、血管の収縮による悪影響が出はじめるまでの3日間のうちに目が開かないと、最後まで目を開かないままということになるかもしれないと言う…。それだけは何とか避けたかった。母ももう71歳だし、こんなことにならなくとも、他界するのはそんなに遠い先のことではなかったかもしれない。しかし、こんな突然に、こんなかたちでいきなり…というのは悲しすぎる。せめて、もう1度言葉を交わしたかった。

 父のときはその時間が充分にあった。末期癌だとわかってから、一旦は退院もできたし、そのときが来るのを待つまでの時間が…。いつか死が訪れるにしても、思いもしなかった突然のことで…というのは、あまりにも喪失感が大きい。響子さんが惣一郎さんを突然失ったときの喪失感がどれほど大きかったか、こんなかたちで実感することになろうとは…。しかし、母の場合はまだ可能性がある…。その分、不安も長引くが、希望があるだけ遥かにマシだろう。

 この日ももうこれ以降は病院にいてもしかたがない。あとは任せるしかない…。翌日からも、集中治療室の面会時間は朝9時半からと夕方17時半からの15分間ずつと時間が限られている。とりあえず朝は叔母に頼んで出勤し、しばらくは夕方の面会時間に間に合うように1時間の休暇をもらうことにした。これから先、長い闘いが続くことになるか…。大変だろうけど、現状を考えると、ある程度長くなってもらわないと困る。今年の高橋留美子劇場が「ヘルプ」だったのが、妙に暗示的だったように思えてきてしまうが、まさかな…。(苦笑)

 部屋はまだほとんど日曜の朝のままの状態だ。いろいろバタバタしてたし、精神的にも片づける余裕がなかった。テーブルの上に無造作に置かれている母のために買ったプリンタが、異様に淋しげに見えた。もう、母はこのプリンタを使うことはないかもしれないな…。回復しても、パソコンの知識はきっと飛んでしまったろうし…。もう1度やり直せばいいには違いないけれど…。

 9月30日、通常どおり出勤し、上司に事情を説明する。当面、朝と夕方について、妹と叔母と3人で交替で休みをとって面会に行くことを了解してもらった。昼休みに妹から職場にメールが届いた。叔母からの報告によると、少しずつだが手足を動かしていて、目を開きそうな気配があると医師から告げられたということだった。思っていたよりもいい経過ではないか…。とりあえず、まずは目を開いてもらうことだ。これからまた大きな危険が迫ってくるわけだし、その前に(言葉を交わすのはまだ無理だろうが)何とか一目でも、自分たちのことを認識して欲しい。

 夕方、病院に行く。容態は、昼の報告どおりだった。目は開いていないが、声をかけると反応して手足を動かしているような感じだ。意識はあって、聞こえてはいるように思える。声をかけたり、軽く体をたたいたり、ゆすったりして刺激を与えるのは悪くないらしいので、それを繰り返す。この日は残念ながら目を開くことはなかったけれど、少し希望が見えてきた…。これから先のことを考えると、ほんとに目先のささやかなことでしかないけれど…。

 さてさて、そんなわけでファン活動や同人活動もしばらくは休止せざるをえまい。母のことももちろんだが、その前に自分自身の生活をしっかりせねばならない。いままで、生活面は母に任せ切りだったから…。ただの一人暮らしならば、多少いい加減でだらしなくとも、自分が困らなければいいのだろうが、それでは母に心配をかけてしまうと思うと、妙にまじめな気持ちになってしまう。まあ、どこまでその「まじめさ」が持つかわからないけれど…。(苦笑)

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