飛鳥杏華の気まぐれモノローグ

<1999年>

8月10日(火)

 ついにその時はやってきた。前日までは、このままコミケに突入できればなどと友人と話していたのに、あまりにも突然だった…。来るときは一気に来るのではないかと予測していないでもなかったが…。

 4日、「犬夜叉」だが、犬夜叉と鋼牙の闘いがはじまった。お互い柄が悪いと指摘する弥勒…。ラストの柱の文句や犬と狼という関係から見ても、この2人を似た者同士として描こうとしている感じが読み取れる。

 すっかり人間らしく性格が丸くなってきた犬夜叉に対して、鋼牙は初期の犬夜叉を思わせるものがある。犬夜叉は鋼牙相手に風の傷を試そうとするが、一瞬、危険を感じとった鋼牙に逃げられた。逃げた鋼牙は、かごめに四魂の玉のありかを見極める力があることを知り、かごめをさらおうと考える…。

 次回は、鋼牙のかごめ誘拐計画が実行されることになるのだろう。多分、そうなると一旦は誘拐が成功し、犬夜叉がかごめを救いにいくことになるだろう。そこまでは何となく予想できるが、問題はその先だ…。

 そのまましばらく、かごめは鋼牙と行動をともにすることになるのか、それともすぐに救出されるかで展開が変わってくる。前回までだったら、後者しか予想しなかっただろう。が、鋼牙が犬夜叉と似た者として描かれてきたことで状況が変わってきたように思ったのだ。

 かごめを「玉発見器」と言っていた初期の犬夜叉の雰囲気が鋼牙からは何となく感じられる。その頃のパターンでしばらく旅が続くかもしれないなとふと思ったのだ。ここで、鋼牙がかごめに惚れたりすると犬夜叉にライバルができることになる。そっちの路線にいってしまうのを嫌う人もいるだろうが、私は別にかまわないと思う。

 そっちの路線にもっていくならば、鋼牙にもう少し感情移入できるような設定が欲しいところだが、この先どう展開していくだろう? 夏休み進行で、1週休みというところがつらいが…。

 さて、この日も休暇で休んだ。水曜日は当分休暇を取り続けることにしたのだ。ここのところ、休日は昼から夕方まで外出し、あとは自宅で待機という生活だ。自宅にいる時間に原稿を書くものの、あまり進まない。新刊断念の理由説明はそこそこ進んでいくのだが…。

 5日、平日は18時に仕事を切り上げて、途中で夕食をとり、目的地に向かう。そして、20時に帰宅の途につくという生活だ。夕食は、もっぱら近所の中華料理店なので、このところちょっと太ってしまった。恐怖の大王降臨以来、2〜3キロは増えている。

 ただ、目的地近くには他にいい店がないので、ついそこになってしまうのだ。そこそこ安くて量が多いので太って当然なのだが、味もいいので残したくなくてつい…。(汗) もうしばらくは、しかたないだろう。(しばらくって、どのくらいかわからんが…。汗)

 6日、状況はまだ変わらない。ここまでくると、本当にお盆の時期が危険なのか疑わしく思えてきてしまう。これはもしかしたらこのままお盆過ぎまでいくんじゃないだろうか? そうなれば、夏コミに参加できる…。

 だんだんとコミケ参加について楽観的な気持ちになってくると、逆にコピー本を仕上げねばというプレッシャーが増してくる。どっちにしても、お盆は忙しくなりそうだ…。(汗)

 7日、夕方近くから若干状況が変化したかなと感じられる部分もあったが、誤差の範囲と言えなくもない。恐怖の大王は、依然としてその巨大な鎌を振り下ろす気配はないように見えた。あと1週間…。何とかこのまま持ってくれるといろいろな面でうれしいのだが…。(笑)

 8日、午前中から14時過ぎにかけて、ちょっと状況の悪化が見られたが、その後はまた安定した…。この状況の悪化は、今回は一時的なものだったようだが、そのうち恒常化するのだろう。あと1週間…。非常に微妙かもしれない。(汗)

 しかし、気持ちとしてはあまり暗い方向に考えたくはなかった。大丈夫、このままいくさ…。コミケにも行けるんだと自分に言い聞かせた。夜、名古屋の友人から電話がかかってきたときもも、このままならコミケに行けそうだと話した。行けたらコピー本を持参する予定だとも…。(笑)

 9日、通常どおり出勤した。と、昼過ぎに1回目の電話が職場に入る。いよいよ状況は悪化してきているらしい。やはり、コミケ当日あたりが危ないかもしれないと指を折って数えてみる…。昼休みには、ようやく新刊断念の理由説明文が書き上がったところだったが、この文章も日の目を見ることはないかもしれないと半ば覚悟を決めた。

 2回目の電話が入ったのは、15時50分頃だった。すぐに来いとの呼び出しだ。いよいよ来るべき時が来たらしい…。しかし、まさかこの日のうちとは…。来るときは一気に来るかもしれないとは思ったが、想像以上の急展開だった。

 仕事を早退し、地下鉄を乗り継いで現場に向かう。タクシーという選択肢もあったが、渋滞や事故の危険性もあるし、より確実な地下鉄を選んだのだ。それで間に合わなければ、それはそれで運命だと割り切って…。

 不思議なものだ。いつになく乗り継ぎがスムーズに進み、16時半には現場(病院)に到着した。いつもなら強く吹き込んでくる地下鉄出口の階段の風も、いつになく弱く感じられた。病室に向かう途中で、すでに到着していた妹とすれ違う。その表情を見るかぎり、まだのようだったので少しホッとした。

 病室に入るとベッドの脇に座っていた母が私の到着に気づき、やや安堵の表情を浮かべる。ベッドの上の父はすでに意識がなかった。白目をむいた状態で酸素マスクをつけ、ガラガラと痰をからませながら呼吸を続けている。ベッド脇の機器に映し出されている心電図の波形はまだ安定していたが、血圧はすでに80/30ほどに低下し、警報ブザーが鳴りっぱなしになっていた。

 このままの状態があと何時間続くのか? 今夜はかなり大変かもしれないという考えが頭をよぎる。覚悟はもうできていた。あとはその時を待つだけだ。もう言うまでもなかろうが、7月17日に降臨した恐怖の大王とは、父の余命1ヶ月以内の宣告だったのである。

 話は4月上旬に遡る…。私がまだ、キネ旬ムック「マンガ夜話」VOL.4の原稿執筆に追われいてた頃のことだ。突然、父が胃の不調を訴えて入院した。そして、同月21日手術することになる。医者はそのときまでハッキリと病名を言わなかったが、癌だとしても不調を訴えたのはつい最近だし、近年は早期癌なら手術で助かるからと家族も楽観視していた。

 ところが、予想に反して癌はかなり進行していた。普通の胃癌は一箇所にできて突出するので、自覚症状が出やすく早期発見できるのだが、父の場合はスキルス性癌という特殊なもので、広く浅く広がっていくため、かなり進行するまでほとんど自覚症状が出ないというたちの悪い奴だったのだ。(タレントの逸見政孝さんが、このタイプの癌だったらしい。)

 全摘出した胃袋の9割近くが癌に冒されていた事実を見せられては、助かると思う方がどうかしている。医者も必ず再発すると断言したし、その時点で父の死については覚悟を決めざるをえなかった。ただ、再発は最悪の場合3ヶ月だが、多分半年は大丈夫だろうというのが、そのときの医者の見解だった。

 半年先ならば、夏コミは何とかなるだろうと思った。一旦は回復して退院もできるだろうし、再入院までは普通にしていようと考えたのだ。だから、高橋先生のサイン会に徹夜したり、一刻会の全国集会にフル参加したりしたし、一刻会の「友菱SS100」と自分の新刊も予定どおり出すつもりで執筆と編集を進めていたのだ。

 しかし、7月に入って急に食べられなくなり、再入院…。腸閉塞との診断で、同月14日、腸のバイパス手術を行うに至った。が、開腹してみるとすでに癌が腹膜全体に転移していたのである。これは俗に、「癌性腹膜炎」と言われる状態だそうで、こうなったらもう通常は余命1ヶ月…。肺炎などの重い合併症を起こせば、すぐにでも危ない状況ということだった。それを知らされたのが7月17日だったのである。

 そうなっては、もう本の制作どころではない。完成目前だった「友菱SS100」だけは何とかすることにし、自分の本は断念することに決めた。いくら何でも、自分の親が死にかけてるのに漫画を描いているわけにはいかない。(プロなら話は別だが…。) これまで、好き勝手やってきて親不孝しっぱなしだった。いかに同人活動へのこだわりが強いとはいえ、これ以上の親不孝は人としてすべきではないと思ったのだ。

 結果として、宣告の日から入稿締め切り日までの容体はほとんど変化がなかったから、まったく原稿を描けない状況ではなかった。しかし、そこまでして本を出したら、かえって後悔することになったような気もする。原稿を描いてくれたゲスト作家や新刊に期待してコミケに来てくれる日とには申し訳ないことになってしまったが…。

 病室に到着して約1時間後の17時27分、とうとう意識は戻らぬまま、父は静かに息をひきとった…。そのときは母も妹も泣いたが、もう覚悟はしていたからすぐに関係各所への連絡など、てきぱきとやるべきことをこなしはじめた。ただ、覚悟はしていたものの、まさかこの日になるとは思っていなかったので、意思決定が二転三転することもあったが…。

 葬儀屋に遺体を自宅に運んでもらい、早速、通夜と告別式の日程と会場の相談となる。火葬場が混んでいるのと12日が友引にあたる関係で、早くても通夜が12日、告別式が13日とならざるをえなかった。ちょうどお盆休みの時期に重なってしまうが、夏場だし、そんなに遅らせるわけにもいかないから、それで決定した。

 これは偶然なのだろうが、そう決まったことでコミケ3日目の15日には会場に行けることになってしまった。本当なら行くべきではないだろうが、ブースのことを人に頼んでる状況なので、自分が行けるのなら行って、頼んだ人たちをフリーにしてあげるべきだと考えたのだ。母もそうしなさいと言ってくれた。まさか、私をコミケに行かせてくれるためにこの日に逝ったわけではなないだろうが…。

 10日、父の死から一夜明けた。が、前夜はあまりよく眠れなかった。別に父との思い出が頭を駆け巡ったわけではなかったのだが、暑くて妙に寝苦しかったし、これから先が大変だという気持ちで気が張ったままの状態だったからかもしれない。この日は、11時から旅支度と納棺の儀。午後は、通夜と告別式についての残りの相談や連絡がつかなかったところへの再連絡などに追われた。

 自宅にFAXがないので、葬儀会場の地図が必要になるたびにコンビニにFAXを送りに行くはめになった。また、告別式の出棺前の挨拶を長男である私がすることになるので、その文面も考えなければならなかった。もっとも、文章作りと人前で話すのは、ある程度場数をこなしてきたので、そんなに緊張はしていない。同人活動と一刻会の集会進行の経験がこんなところで活きることになろうとは…。(苦笑)

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