飛鳥杏華の気まぐれモノローグ

<1999年>

7月20日(火)

 ついに友菱SS100入稿の日がやってきた。しかし、それは同時に飛鳥杏華にとって1つの大きな区切りの日でもあった。そして、飛鳥鳳凰堂の新刊は…? 

 14日、「犬夜叉」だが、風の傷をよみとった犬夜叉の鉄砕牙の一振りによって殺生丸は吹き飛ばされた。が、犬夜叉が鉄砕牙を振り切らなかったことと、天生牙の力によって殺生丸は一命をとりとめる。

 その殺生丸に近づく謎の少女…。これは恐らく、殺生丸が天生牙の使い手として目覚めるための伏線であろう。この少女が殺生丸に天生牙を使わせることになるに違いない。

 しかし、そんなに早くそういう方向に進んでしまっていいのだろうか? 何か解決を急いでいるように思えて不安になってくる。とりあえず今は、あまり深読みをしている余裕がない。あとの展開を見て、じっくりと考えることにしよう。

 さて、朝は1992年と1993年の年表用データを収集した。帰宅後はランキングのデータ収集だ。候補を絞ったことで、大分進みが早くなった。しかも、翌日は念には念を入れて休暇をとったので、深夜作業ができた。結局、朝までに65号まで進んだ。

 15日、朝一番で1994年と1995年の年表用データを収集したあと、ランキングのデータ収集を続けた。73号からは月刊化されて1号あたりのページ数が減ったおかげで、大分カウントが楽になった。こうしてデータ収集自体は夕方には終わった。

 ところが問題はここからだった。肝心の集計作業である。これが想像以上にきつかった。これは1人でやるべきではない。2人で読み合わせた方が絶対に効率がいい作業だ。

 そうはいっても、いないものはしかたがない。結局、この日のうちに集計を完了することはできなかった。うーむ、かなり計算外だった…。(汗)

 16日、朝の年表データ収集は、1996年と1997年分まで進んだ。帰宅後は集計作業の続きだが、結局これで徹夜になってしまった。まったくもって大誤算だ。

 17日、本来は自分の漫画メインの予定だった日だが、こう遅れては翌日の編集に間に合わない。何とか平日がんばることで埋め合わせることにして、この日も友菱SS100の作業を続けた。

 朝、最後の年表データ、1998年と1999年分を収集し、手間のかかりそうな年表の作成から手をつけた。ところが、午前11時頃になって1本の電話が入る。それは、飛鳥杏華のこの夏の運命を決定づける電話となった。

 電話による呼び出しを受けて2時間ほどの外出を余儀なくされた。それ自体はそれほどのロスでもなかったのだが、その外出先で待っていたのは、飛鳥杏華にとって恐怖の大王の降臨に匹敵するほどのことであった。

 非常にプライベートなことなので、ここではその正体を伏せさせてもらうが、いずれは語るときがくるだろう。それによって飛鳥は、入稿締め切りとは別にもう1つのタイムリミットと闘わなければならなくなってしまったのである。

 帰宅後、年表作成を続けたが、精神的動揺も激しく、作業ペースは著しく低下した。その段階で会長にメールを送り、夏休みをとってある19日に作業を持ち越す可能性もあることを告げ、了解を求めた。

 18日、結局年表は13時半までかかってようやく完成した。その他の原稿は残念ながら作成することができなかった。あとはノートパソコンを持っていき、カット等の執筆者名をその場で打ち出して貼ってもらうという自転車操業に臨むこととなった。

 編集会場へは2時間の遅刻。到着してからは、ひたすらできてない部分を補うことに終始した。出来上がっているページだけでもノンブル(ページ番号)を貼り、人数をかけてやらなければならない作業をできるかぎり進めた。

 これで、あとは何とか自分でできる範囲の宿題を残すのみとなった。しかし、それでも若干不安が残るので、編集メンバーのうち2人に19日、自宅まで手伝いに来て欲しいと頼んでおいた。

 2人が来る前に段取りを整えて置こうと思い、帰宅後ただちにパソコンを立ち上げた。ところが、どうも目がいってしまっていて、焦点が定まらない。ちょっと目を休めようとベッドに横たわったのが失敗だった。そのまま、翌朝8時まで寝てしまったのである。(汗)

 19日、8時に目が覚め、寝てしまったことに気づいてあわてて作業に入った。まずは、友菱なんでもランキングの作成。続いてあとがきとスタッフ一覧の出力だ。後者は前日、編集会場でレイアウトまで済んでいたので助かった。さらに、やはり編集会場でレイアウトを済ませていたペンネーム新旧対応表を出力し、何とか手伝いが来るまでに少しは格好がついた。

 11時頃からバラバラの到着ではあったが、手伝いの2人を加えて作業は途中まで順調に進んでいった。ところが、目次の作成でつまづいてしまった。ギチギチに詰まっていては見にくいので、ある程度コーナーの切れ目ごとに行を空けていったところ、予定の3ページに収まらなくなってしまったのだ。(汗)

 しかも、3桁のページ番号がくっついてしまって非常に見にくい。悩んでいるうちにとうとう21時になり、もうこれ以上2人を拘束するわけにもいかなくなって、一旦作業を打ち上げた。

 近所のファミレスで食事をとりながら対応策を検討し、一応の目安をつけて帰宅して、早速目次の完成を急いだ。それからも若干悩んだ部分があったが、目次は午前2時過ぎには完成した。

 続いて奥付を作成し、自分のために空けてあった編集後記を書いて奥付をその下に貼り込んだ。これが終わったのが午前3時過ぎだった。さらに、貼り込み忘れたカットの執筆者名を打ち出し、貼り込む作業などを行った。

 午前4時過ぎからは、通し番号を上端に書き込みながら最終確認に入った。途中、何箇所かミスが見つかって直したり、気に入らないところを貼り直したりしたため、確認作業が全部終わったのは8時過ぎだった。

 20日、すべての作業を終えて朝食をとり、あとは出発の時を待つだけとなった。こうなると、妙に間が持たなくて困る。とりあえず、12時までわずかでも睡眠をとった。そして12時半、会長との待ち合わせ場所へと向かった。

 14時、JR日野駅で会長と落ち合うと、早速近所の喫茶店で原稿の内容を確認してもらった。30分ほどで確認は終わり、1発でOKが出た。あとはもう、印刷所へ向かうだけだ。しかし、そこで最後の仕事が残っている。表紙の紙と印刷色の選択だ。

 会長の車で日野から東福生のPOPLSへ。道路が混んでいたこともあって、到着したのは15時半頃であった。それから入稿手続きを済ませ、表紙の紙と印刷色の選択に入ったが、印刷所側の方でよさそうな組合せを選んでくれた。

 こうして16時、友菱SS100に関するすべての仕事が完了した。そしてまたそれは、飛鳥杏華にとって一刻会の第一線からの引退の瞬間でもあった。これはもう4月から心に決めていたことだ。決して本意ではないが、そうせざるをえない状況になってしまったのである。それは、17日の恐怖の大王降臨と関係のあることである。

 だが、第一線を退くといっても、スタッフを降りるだけだ。やめるわけではないし、原稿を描かなくなるわけでもない。しかし、それでも飛鳥にとっては涙が出るほど淋しいことだった。

 一方、残る自分の本の完成とコミケへの参加は恐怖の大王降臨のために無理となってしまった。これはもう割り切るしかない。問題は、飛鳥鳳凰堂のブースを代わりに面倒みてくれる人をいかにして見つけるかだ。これからも別の意味で大変な日々が続きそうである。(汗)

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