『一刻館擬人論』より抜粋

一刻館と時計坂

 『めぞん一刻』の最終話において、時計の針も動きださなければ、五代と響子も結局、一刻館に居ついてしまった。これは明らかに前述した時計のモチーフ(*1)の常道から外れるものである。しかし、これをもって「時計のモチーフ」の存在をただちに否定しうるものではない。一刻館における時間の静止は、確かに認められるのである。

 とすれば、そこには、大塚氏(*2)のとった「空間論」からのアプローチだけでは語り尽くせない何かがあったと考えるしかなかろう。その「何か」を探るため、私は、今一度、他方面からアプローチしてみた。

 一刻館というネーミングは、もちろんあの時計に由来するものである。あの時計は、やはり、一刻館の象徴であるはずである。それは、「時計坂」という町名から考えてもわかる。

 時計坂という町名は、まず間違いなく、一刻館の時計にちなんでつけられたものであろう。一刻館が建てられた当時(糸井重里氏は、「めぞん一刻論序説」(*3)の中で、知人の建築家の推定から、一刻館が建てられたのは、昭和30年代初期だという説をとっているが、私は、この町名とのかねあいから、大正期から昭和初期という説をとりたい。)、長い坂の上にある一刻館は、非常に目立つ存在であったに違いない。当時としては、時計台と西洋館風のポーチがあるというだけでも充分にハイカラであったろう。そして、当然あの時計も動いており、一刻館の鐘の音が周辺の地域社会に時を告げていたであろう。言いかえれば、周辺住民は、一刻館の鐘の音によって時刻を知り、一刻館の時計とともに日々過ごしてきたわけである。一刻館の時計と鐘は、この地域社会の象徴であり、人々の生活の一部になっていたに違いない。それゆえ、この地域社会に「時計坂」という名前がついたのであろう。

 しかし、今は、その町のシンボルであった時計も壊れて、一刻館はその存在意義を失ってしまった。一刻館は時計があってこそ一刻館なのであって、それが失われた今は、ただ名前だけの存在に過ぎなくなっているのである。

 こうした私の考察から、昭和63年2月、私の友人の某文学者は「一刻館は、過去に滅びた古代王朝の遺跡である。」という論を構築した。しかし、私はその友人が取り上げた一刻館の存在意義そのものよりも、むしろ、一刻館が時計という自分にとって最も大事なものを、かけがえのないものを失ってしまったという事実に着目したのである。崩壊寸前の一刻館のあの姿は、夫・惣一郎というかけがえのないものを失い、今にも倒れそうな響子の姿そのものではないかと…。


<註>

*1「時計のモチーフ」

 一刻館の壊れて止まった時計が、物語上、同じようなことの繰り返しで、なかなか進展がないというモラトリアム空間を暗に示すモチーフとして描かれていたという考えで、直前では、押井守監督の『うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー』の例なども紹介している。

*2「大塚氏」

 元・編集者で民俗学者の大塚英志氏のこと。この考察では、氏の著書「[まんが]の構造」(弓立社)での『めぞん一刻』における時間の静止に触れた部分を取り上げている。

*3「めぞん一刻論序説」

 コピーライターの糸井重里氏が、『めぞん一刻』100話を記念してビッグコミック・スピリッツ誌上で展開した「めぞん一刻論」で、計4回に渡って掲載された。本考察ではそのうちの第一章の記述を取り上げている。

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