Weekly Report


Last Week

2001/08/05)関屋記念、野平祐二

新潟のマイルの難しさが現れたレースだった。外回りコースを利用する為、逃げ馬が長い直線を意識してか、ペースが速くならないようである。久々のクリスザブレイヴのペースも決して速くはなかったが、好調のマグナーテンが追いかけたが、他馬は動けずじまいだった。しかし、前走で逃げ切りを経験しているマグナーテンの反応も良く、後続を振り切った。JC2着のマジックナイトを母に持つ良血がようやく開花したようである。岡部がスティンガーではなく、この馬を選んだとすれば、この先のGT路線への期待も広がる。スティンガーは久々と57キロが応えたか。やや仕掛けが遅れたとも言えるが、32秒台で上がってきたのであれば仕方のないところか。復活したエイシンプレストンもしかりで、新潟外回りの難しさなのであろう。

野平祐二さんが亡くなった。あの祐ちゃんが。私が競馬を好きになったのも、彼の騎乗振りにあこがれたからと言っても過言ではない。初めてテレビで見た有馬記念。スピードシンボリが2頭の菊花賞馬のアカネテンリュウとダテテンリュウの猛追を凌ぎ切ったレース。スピードシンボリと共に海外を渡り歩き、あのキングジョージでも5着に粘った。その両者のプライドが、国内のナンバー1達を寄せ付けなかった。当時の年齢で8歳ということでも凄いのだが。必死に追うように見えた彼であったが、心の内ではこんな馬達にシンボリが負けるはずがないというプライドに満ちたすばらしいレースだった。その後、単身でフランスに乗り込んだのも、彼が先駆者として現在の若手ジョッキーへの道を開いたと言える。そして常々彼が言っていたのが、ジョッキーはスターであり、かっこ良く勝たなければいけないと。だから、勝ったゴール前では必ずポーズを作っている。モンキー乗りを定着させたのも彼だった。

騎手として私に夢を与えてくれたのは、やはりスガノホマレに騎乗していた時であろう。初騎乗の日本短波賞で、府中の四角最後方からの差し切り勝ち。度肝を抜かれた。東京新聞杯での長手綱での逃げ切りもびっくりした。なにしろ追い込み馬になったと思ったから。相手やペースによって自在に馬を操る様は、騎手の力の重要さを教えてくれた。そして、そのスガノホマレで再び逃げ切った京王杯AHは圧巻だった。1800m1:46:5という当時では信じられないようなレコード。この時の興奮は忘れられない。

そして調教師としての彼の功績は、シンボリルドルフがすべてだったと言える程に、偉大なものであった。この一頭を育てただけで十分ではなかろうか。確かに、ルドルフの調教に対して、和田オーナーとの意見の食い違いもあったようである。しかし、海外で通用する強い馬作りを目指し、妥協を許さない。岡部が開眼し、藤沢師が育った。そのことだけを考えても凄いではないか。年頭のJRA賞の表彰にも現れず心配していたが、こんなに早く逝ってしまうとは。残念でならない。我々は彼の功績を忘れることなく、世界に通用する馬作りに励まなければならないだろう。

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