GAMERA1999

 庵野秀明氏が総監督を務め、そのある意味過激な内容が本編公開前に公になって物議を醸した話題のビデオ、"GAMERA1999"を見た。"ガメラ3"のクランクイン前あたり、脚本が上がるか上がらないかってあたりから記録をはじめ、撮影が完了し、編集を残すのみとなったあたりまでの、映画製作者、とりわけ"樋口組"といわれる特撮スタッフたちの中に入り込み、映画を作り上げていく作業に密着したドキュメントで、"記録映画"として見たときに、やや気恥ずかしくなるような"実験的"手法に彩られてはいるけれども、それなりに完成度は高いと思う。平成の「ガメラ」を知ってないとどうにもならない、一種のテクニカルタームに満ちあふれていて、コレ一本ではとうてい成立しえないものではあるけれども、でも"記録映画"として見るならば、この記録を撮った人々はテクニック的には一級品のものであると思う。カメラマン、ものスゴい運動量だったろうなこれ。しかし、だ。(^^;)

 和月伸宏氏が「るろうに剣心」の何巻目かのコミックスのフリートーク・スペースで、劇場版"エヴァ"を見たときの感想として、"製作者が登場人物を全く愛していない事がわかって不愉快だった"みたいなことを書いていたけれども、この、"作品を愛さない"ってのが庵野秀明という人のクリエイティビティに関する方法論であるような気はしますな。その事自体は個性なんで別にどうこういう気はないんだけれども、なにかこう、ドキュメントの中の事実が、ドキュメンタリーを作る人によって微妙に偏向させられているような気がしてしかたがないのだな。

 こう、あれですよ、邪推ですよ、オレの(^^;)。んで前置きしておいて言わせていただくと、庵野氏(と摩砂雪氏)って、ある意味"戦友"でもある樋口氏には多大なるシンパシィ感じつつ、脚本の伊藤氏には限りないケーベツを、監督の金子氏には限りない嫌悪感をいだいている、あるいはいだいているのだよ、と受け取れる絵づくりを作為的に行っているように見えてしかたがないのだな。

かっこいい樋口さんあやふやな金子さん 彼らが樋口氏を撮るときは、ロングに引いて、孤独っぽさを強調するショットとか、撮影中の積極的な科白部分のリピートなどで、冗談をとばしつつも現場の仕事ぶりには迷いのない、クリエイティビティにあふれた人物なんだ、って感じが画面から見えるように、金子監督を撮るときには、不明瞭な言葉で、やけに広角レンズの効いた画面で、ネガティブな科白のリピートの強調などで、あからさまに見る人に対して"金子監督ってだめだめちゃんな人なんやな"ってな風に思考を誘導しようとしているように感じられてしかたがないのだった。ちなみに伊藤氏は風景の中の点景としてしか撮ってないっすね(^^;)

 邪推っちゃ邪推なんだろうけれども、記録を撮る側の匙加減一つで、見る側が感じ取る物事のウエートみたいなものってのは大きく変わってしまうように思います。たぶんものを作っている現場っていうのは、その作業の間って程度の差はあってもこの手の不平不満って出てくるものだと思うんですよ。ストレス溜まりまくってるときに、ストレスを発散するためには絶対必要な事だし、その槍玉に自分の仕事を上げようとは思わないんだから、誰か他の人を批判する傾向は絶対出てくると思うのね。で、それって結構些細な事なんとちゃうのん、ってワタシなんかは思うんである。それをことさら増幅する意味が果たしてあったんでありましょうか。

 試みとして非常におもしろいドキュメントだと思うんですが、これをこう作ることにどういう意義があるんでありましょうか。結局日本ではエンタティンメント映画、とりわけサブカルチャーに足を突っ込んだ映画に対しては、それをサポートするものがあまりに少なく、常にクリエイターはギリギリの状況下で、ストレスをかかえながら仕事をしているんだ、ってメッセージを伝えたいってことなんでしょうか。それならそれで庵野秀明という人物にそのメッセージを送り出す役割を託したのは決定的な誤りだったと思うのですけどね。

 たぶん「ガメラ3」はその完成度の高さにも関らず、興行的には大成功とはいかないと思います。その時にもしかしたらその事に対する(A級ではないにせよ)B級戦犯として庵野氏の名前がオレ的に出てきそうな気がするんですけどね。結局和月氏の"愛がない"って感じ方が結構説得力のあるコメントとして頭に残っちゃうんだよなァ(^^;)………。

1999/4/22

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