相手への条件

相手への条件

 私はあなたを愛します。
 あなたの目も耳も口も手もいとおしい。
 あなたのすることは、なんでも許せます
 私は、あなたのどんな一面もいとおしい。
 あなたがいないだけで悲しくなるのです。
 あなたの声だけ聞いても心がはずみます。
 自筆の文字だけでも見ると心がはずみます。
 

 昔からのお見合いでは、仲人さんが言います「どんな人がいいの?」と、それに対して、背が高い人とか普通の人とか答えていたものです。
 実際に男女を会わせるにあたって、独身の男女がいるのでとりあえず会わせてみるという場合もあったでしょうが、複数の人を知っている場合では、とにかくどんな人がいいのかを知るために質問されることがありました。
 これは、何かの手掛かりを得たいからでしょう。
 
 昔は、男女ともに子供の頃からよく知っている近所のお見合いおばさんが、この人とこの人は会うと思う。という根拠で会わせたりもしました。
 結婚相談所となると、ランダムに男女を会わせるわけにもいかず、年収、学歴、身長、心理テストなどを相手選びの材料として膨大なデータを駆使してマッチングします。
 これは、これで結婚後の生活設計として重要な部分を含みます。また、出会った後に問題になるよりも、問題ができる前に除いておくには合理的なのです。

 でも、絶対的な条件というのは、個人によって違いますが、どれくらいあるのでしょうか。自分としてはどうでもよい条件でも、選別の対象になっていることもありますね。
 もっというと、条件というものは、そんなに大切なことなのでしょうか。
 相手が好きになると、条件というものはそんなに重要に思えないのですがいかがでしょうか。


人は商品ではないよ

客  「パソコンを探しているのですが。」
店員 「はい、メーカー指定とかありますか?」
客  「初心者で何にも分かりません。」
店員 「こちらのパソコンがよく売れていますよ。」
客  「値段はもっと安いのがいいです。インターネットとメールができて
    ワード、エクセルが使えればいいですから。」
店員 「ビデオ画像の編集とかしないなら、こちらのもので大丈夫ですよ。」


 まあ、この設例ならいいのですが、下の場合はどうでしようか

客  「すみません、こないだ買った犬返品します。」
店員 「えっ、何か犬に問題ありましたか?」
客  「ええ、私は賢くて言うことをよく聞き、家で鳴かない犬を頼んだんですよ、
    この犬は、バカ犬で言うこと聞かないし欠陥商品じゃないの。」
店員 「・・・・・・・・・。」


 下の設例は、テレビの某番組で流されたことがあるので知っている人もいるかもしれませんね。
 まあ、お金を出してサービスを受ける以上対価はちゃんとしたものを求めるのは当然としても、何でも管理生産された物と同じに考えられると困るのです。
 下の設例のように生き物を何と考えているのか疑問になる人もいますよね。結婚相談所でも、相手へのクレームとして、あたかも商品のように「なんでお金払っているのに、こんな商品を紹介するのか」という人がいますね。
 人間は商品ではないし、自分自身も会によって管理されているわけではないでしょうに。相手も自分とまつたく同じ会員さんであることを忘れてはいけませんね。
 
 それと、お互いに毎日変化していっているのです。自分の決めた相手への理想があって、それと違うと駄目となると、おそらく、相手は見つかりません。
 人は商品ではないのです。


ふたりでつくるもの

夫 「和子、俺会社辞めたよ。」
妻 「えっ!会社で何かあったの?」
夫 「いや、これからは陶芸家として身をたてることにしたんだ、賛成してくれるだろ。」
妻 「そんなこと聞いてないわよ。私はあなたがロバ産業の社員だから結婚したのよ。」
夫 「俺は、君もついてきてくれると思ったのに。」
妻 「ロバ産業の社員でないなら、もう結婚している意味はないので別れてください。」


 ときどきテレビ番組などで「私の条件は○○に似ていて、身長は○cm以上で、年収は何千万以上」ということを言う女性が出演して、男性のゲストなどから「それなら、おまえ何ができるんだ。」とか罵声を浴びせられるシーンがありますね。
 私は、そういうショーは見飽きてしまいましたが、なんだか製作側の「結婚しない女」への反感が見て取れそうです。マスコミは普通のことを放映すると面白くないので、そういうレアケースを放送するのでしょうね。
 実際にとんでもない希望をする人がいるかもしれませんが、それはその人の人生の問題なので、他人がとやかく言うことではありません。まあ頑張ってねというだけです。

 ただ、設例のように、男性は単にお金を供給するだけの存在と捉えている人がいる話はよく聴きます。
 また、妻は家事と子育てをするもので、何でも自分の思い通りになると思っている男性の話もよくききます。
 夫婦生活をしていて、妻は子供にはかかりっきりなのに、夫とは一切会話がないという話も聴きます。(まあ、これは別の問題なのですが・・・。)

 民法を持ち出すまでもなく、生活や財産の形成は夫婦で協力してゼロから作っていくものだと思います。最初から全部できあがったものに乗っかるというのでは、残りの人生何をするのでしょうか。
 それは、お金があれば生活は楽かもしれません、でもお金を得た後は何を目的に生きてゆくのでしょうか。
 条件で相手を選んで、生活のために結婚するなんて、実行するのはどうかと私は思います。結婚相談所のデータマッチングに毒されているというべきです。
 データを利用するのはいいのですが、データに支配されるのもどうかと思います。

 今は、男女同権の世の中ですし、男女ともに、生活のために無理に結婚する必要はなくなったのですから。


きれいになったね

人は外見で判断するものではないと言われます。もちろんこれは社会生活の上でお付き合いしたり、仕事を一緒にする場合には全くその通りなのです。
 ただ、男女関係の場合は、異性として魅かれるかそうでないかという部分が多く、外見だけでなく、性格までも好きなものは好き、嫌いなものは嫌いという動物的な面が多分に含まれるのです。

 結婚が就職とおなじように、生活基盤の場であるとするなら、有能で収入が多い男性とか、子育てと家事を有能にこなす教養ある女性を選ぶのもいいでしょう。
 しかし、女性は子育てと家事のために結婚するのではないし機械的に条件が合えばいいというものではありませんね。
 
 男女の仲は多分に動物的な面もあり、容姿、相手の体についても要求されます。また、異性へのアピールとして外見は重要な部分なのです。

 写真を見ても、「この人は疲れている」「この人は活き活きしている」そんなものは伝わるものなのです。
 外見の雰囲気でも、この人は難しそうだ、この人は頑固そうだ、この人はきつそうだ。この人はやさしそうだ、この人は頼りになりそうだ。
 そんな想像がつくわけです。
 もちろん、実際はどうなのか分からないです。だから想像なのですが、その想像は今まで自分が相対してきた人のデータをもとに形成されてきたものです。だから、全くの想像というわけでもないのです。
 自分の経験上今までマイナスになった人のデータと類似していると、やっぱりマイナスに捉えられるでしょう。これは一種の防御本能というものです。

 写真で容姿が悪いと思う人でも、会ってみると素敵な人だった経験はたくさんあります。外見は生まれつきだから仕方ないと言われますが、そうではありません。恋をすると外見に現れます。だれでもきれいになります。
 異性に好かれたいと思えば、服装から細かいところまで気を使うはずです。どうしたら、好かれるか研究するものです。髪型、服装、靴など気を使うものです。
 最初はうまくできないかもしれませんが、少しずつ試行錯誤でよくなります。

 それと、内容によって容姿も変わることがあります。たとえば、平社員だったときは、頼りなく風貌も貧相だったのに、課長になって責任ある立場になると、顔つきも変わってきてしっかりした頼りがいある外見に変化したりします。
 よくお見合いパーティで同じような容姿なのに、1人は人気があって、1人は地味で目立たないようにしていて勿体無いなと思うことがあるのです。
 モデルさんは、綺麗だからモデルになったのではなく、モデルになったから綺麗になったのです。人から見られているという意識で1日1日変わってゆくのです。
 
 人は外見だけで判断してはいけないけれど、外見も判断されるのです。特に男女の仲での好き嫌いは一般社会の対人関係と同じに考えるわけにはいかないのです。