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ここのところの毎日、、。 立花隆さんの臨死に関する本はおもしろかったです。 ただ立花さんは断定しませんでしたが、やっぱり生は一度限りのものっていう気が 素直に淡々としてきました。 一度きりしかない生の、一度きりしかない瞬間。 いいときも悪いときも自然にながれ 一度だけ、、。 そして最後には圧倒的な美と恍惚と幸福な映像に包まれて死んでいけるとしたら、なんだか苦しいときも頑張って生きよう、と思いました。 あと2冊は映画になっているナイロビの蜂、とダヴィンチ。コード。 ナイロビ〜のほうは さすがにル・カレ。最後が甘くない。 ダヴィンチは、色々な知識、、たとえば左翼はなぜ左というか、とかいう知識が増えておもしろいですが内容は私はあまり好きではないです。ちょっと不潔な印象、、ル・カレとあえて比べると 本として下品な感じがしました。ただし たしかにおもしろい。また、キリストの解釈ー人間か神かーがいろいろでるのは極めて自然なことだと思うし、神については他の宗教、無宗教も含めてもっといろいろなことが話されてもよいと思うのですが、、しかしこれは宗教心が無い故か、、ウーン。。五味太郎さんの この頃思うこと、のなかにある<もし神がいたらそうとうへんなやつだと思う>の絵なんていいなあ、と思うけど、、でも実在しない神はやっぱり私の中にいて、神の恩寵、なんていう言葉を使用しているわけで。とすると私のいうこの主語の神は あなたとは違うのかも!! ライブ感想は、、勝井祐二さん、沼澤 尚さん、森 俊之さんのセッションがすばらしかったです。大人の男の骨太の音。 明日から6月です。 この頃大好きなシンガーソングライター ーONEー ヘミングウェイの’海流の中の島々’を読んだ。 ずーっと更新しなくてすみません。いろんな事があったこの1年。そして11月も忙しく過ぎています。 昨日の震度5の地震は怖かった。 春になると 死をいつもよりまじかに感じる。 桜が咲くせいだろうか。 来年は桜が見られるだろうか。 年をとると そう感じるようになった、という人がいる。 生きて再びあえるだろうか、もしかしたら今生の別れかもしれない、、 そう思いながら別れを告げること、、老いていくとはどんな気持ちのするものなのだろう。 だいぶ前になるが エレクトリックヴァイオリニストの太田恵資さんと勝井祐二さんにうかがった話。 お二人ともスタートは幼い頃からのクラシック。 でもともにクラシックヴァイオリンの世界では落ちこぼれだった。 しかし現在、幼い太田さんに”ヴァイオリンはやめて他の楽器をやれば?”といった熊本の恩師の第一の出世頭は太田さんで 今では恩師の自慢のたねであるという。 勝井さんの恩師は昨年なくなった。 ちょうど彼の率いるバンドがアルバムをだした時だった。 勝井さんはホームページの中に”このアルバムを表現の恩師に捧げます”と書いた。 だが実をいうと彼は恩師に最後まで自分がヴァイオリンで身をたてたことを報告に行けなかったのだといった。 アルバムをだす都度、送ろうか、と迷って結局最後までできなかった、と。 生きて生まれる人の縁の不思議。 評価してもらえた、もらえないにかかわらず、あの人と出会わなかったら今の自分はきっとないという確信。 一人の人間のささいで平凡な一生が、実は次の世代のなかに生きるという凄さ。 桜は毎年無言で咲く。 そして 散る。 誰かの胸に 今生の美しさを残して。 もし明日この世が終わるとしても 私は今日も樹を植える。 ”樹を植える男”の最後の台詞のように淡々と生き、死んでゆく沢山の人たちが、きっと明日を作るのだろう。本人さえ知らない場所で 魂は引き継がれてゆくのだ。 日本の春は 終わりと始まりの相関関係を思わせる この世であってこの世でないような 夢のような季節である。 ”初夢” このところU2の新譜にはまっている。 何かがふっきれたようなストレートなロック。 U2は以前 IRAとの関係を疑われたこともあるアイリッシュロックバンドだ。今回の歌詞は政治的ではないが あえてその想いを前面にださない大人の歌、という感じがする。 先日 高村薫さんの”リヴィエラを撃て”を読んだ。 そして小説でなく現実に今日もそういう運命をもって生まれ来る子供がいる。 結成25年目のU2が根底に持ち続ける想い。 今回の曲は その多くが父または母に捧げられている。 人間の生命と運命、それを見つめながら彼らは歌う。 この頃 とても気になっていることがあります。 ”BGMはオフコースの’言葉にできない’” CHEERS! NO.2 故郷がない気がする。 私にとって最も好きな空港はカイロ空港。 この前 友人と帝国ホテルで落ち合い 食事をすることにした。 突然、逢わなくては、お礼を言わなくては、と思う人の記憶が思考の海に紛れ込んできた。CALLINGされた、気がした。 その人は後ろにあるフランス料理店”レ・セゾン”のソムリエとウェイターを兼ねる男性だった。 彼と出会ったのはもう5年くらい前。 オークラ派と帝国派。 彼は帝国ホテルらしい、ある種すっと距離感のある、けれども暖かい思いやりに満ちた人だった。 去年7月、私は大切な友人をフレンチで接待したい、と思った。 ”そのときのお礼がまだだったわ、、” その日は不思議な日だった。 私たちはしゃべりすぎ、気付いたら最後の客で、周りでは清掃が始まっていた。椅子を立ったそのとき、彼が椅子を引き、出口までエスコートしてくれた。 ”おめでとう、ですよね。またぜひお会いしましょう” 昨夜 故アイルトン・セナの特集番組をみた。 絶頂期に、同じチームにいながら口もきかないほど敵視したライバルのプロスト。けれど 引退したあと解説者として報道ブースにいた彼にセナはマイクを通じて語りかけた。「君がいなくて寂しいよ」。 ライバルだからこその絆。 同時期やはりF1に日本人初のドライバーとして乗った中嶋 悟。彼もまた一時期セナのチームメイトだった。「セナはとても優しかった」そして こう続けた「でもそれは僕が決してライバルになりえないとわかっていたからかな」。 ギリギリの所で生きる仕事。その世界で命を張った人間の言葉だ、と感じた。 PICK2HANDの新曲のプロモーションビデオを見た。 2年前、出会った頃、彼らは戸惑いをまとっていた。本当に この音楽という雲のようにつかみどころのない世界で生き抜くのか、否か、、。息つまるような真摯な問い。 そして今ここにあるのは色々な想いを乗り越えた末の覚悟と決意。青く彩られた映像と音。
5月12日、彼らが「命をかけて作った」と背水の陣を敷く中で決断し、造り上げたCDが発売される。 生きる世界を選び生き抜いていくことは 簡単ではない。荒波に飛び込んでいく息を飲む瞬間。かつてセナが、プロストが、そして自分の力を認識しながらも挑戦しつづけた中嶋がみせた世界。 私はただ祈ることしかできない。チアース、、前途が光に満ちていることを願って旅立つ若者達に今宵`乾杯´。
友人のイギリス人から、密教について質問を受けていた。 私は 日光のいろは坂の元である涅槃教の文句が好きだったが”色は匂えど散りぬるを、、浅き夢みし酔いもせず”とはうーん、そういうことか、、と納得。 宗教というものの奥の深さを知った気がした。 このところ立原正秋を少し読んだのだが、立原も渡辺淳一も読むと妙な気になる。 密教の深い教えはわからない。僧侶のほとんどが男性のなかで、その教えはどんなものなのだろう、、。 ただ涅槃経の”浅き夢みし、酔いもせず”は恋愛を抜けた後の女性にもよくわかる気がする。 若い頃 私の理想の男性はキリストと立原の小説の禁欲的な青年”冬の旅”の主人公であった。 しかし 現実にそんな男性はいないだろう。 現在の私は、夏目漱石の小説”それから”のラストさながらの心境である。 去年、突然 住んでいるマンションのオーナーが死去された。 このマンションも最初から債権物件だったらしく、管財人の弁護士から突然競売にかける旨宣告された。 債権者はみずほ銀行。 土地ー建物が担保の不良債権は、借家人がいるため容易に売却できないー競売にしてもトラブルが多く高く売れないーとのことで、つい先ごろ、”落札後は強制退去できる”よう法律が銀行寄りに改正されたらしい。もし いすわれば、裁判所の執行官と警官に強制的に退去させられ、銀行は”迷惑を受けた”から不良債権分を損金に計上する事ができるようになるという。銀行にはお得、借家人には、一切の権利がない、というなんともやりきれない悪法なのだ。 で、今、大騒ぎになっていて、でも 子供が受験中で動く事もできない状況のなか悪戦苦闘中(涙)。 このマンションの大家さんだった故人はとてもいい人で、輸入していたワインを季節ごとに送ってくださり、お礼をいうと”借りていただいているのですから、当然です”という腰の低い方だった。多分 最後は心労から亡くなられたのだと推測される。。 それにしても 信用して貸し付けた自分の非を すべて他に転化させる銀行の姿勢と、銀行を守るために 店子の権利を剥奪する法律を作った政治には怒りを禁じえない。 日本の政治は やはり企業のために存在しているという現実を突きつけられ唖然としている。 BELIEVE&LOVE あけまして おめでとうございます。 DANNY!さん、お返事を ありがとうございました。 それは 祈りのような、願いのような、とても大切な人間としての根本で、 私がよく 自分は異質かも!?、と思うシチュエーションの一つに、この”信じることと裏切ることの感覚の違い”というのがあります。 個人的には ここに在ること、いつか死ぬこと、そして 自分のバックボーンとしては 理想を信じている。自分の、理想。 さきほど 身近な人は信じているわけではない、といったのは、もちろん 言い争ったり、討論して認識する部分はあるけれども多分私はそこに赦し、を忍び込ませる。どんなに異質でも あきらめたり、もういいや、ができないとき、、裏切れないとおもい関係を持続させようとしてしまう相手は ”愛している”のだと思います。自分の勝手では断ち切れないもの。縁。 でも 私にとって”愛”は 断ちたくても断てない、裏切られてもなおその相手の何かを信じつつ”けてしまうとき、それはもはやその人を”信じている”−だから00してほしい、期待に応えよ!、といえないものになってしまう。。 信じる、のは あくまでも 自分で量って自分に決定権があるもの。 ただ 私個人としては 英語の”believe in”はの日本語の”愛”に近い気がしています。反対に”fall in love”が好き、”trust” が”信じる”に。 私にも”信じる”というと思い出す歌があります。 理想も信頼も 今は泥にまみれ、信じているのか、裏切られたのか、それとも逆なのか それさえわからない。でも 君をあの頃絶対的に、演じながらも信じていたし、絆を今も信じている。 ともあれ、私も信じるためのお互いの壺をおとさぬように支える努力、信頼のための討論、そして 赦し交わる縁深き人との愛、自分の理想や夢を信じ、実現証明して現実化し、その概念から現実になった信頼、愛、汚れて重くともcarry onしていく一年としたいと思います。ただ 討論しようとすると得てして否定している、とか 裏切り、と捉えられがちなのが 難しい。相手をしりたかったりしなければ 私もめんどくさいことは避けたい性質なのですが、、。
道元は 弟子なぞいらない、といいました。 ヒトラー、麻原、その他現代の神、カリスマは演出、演技性が必要。 ”人は天涯孤独な存在で、だから人を愛するとか、信じるなんて本来は蛮行、、それでもそんな素晴らしい瞬間ー非現実の一瞬をもつことができたなら、それが生きた、といえる瞬間なのかもしれない”というようなことを ある作家の方が述べておられました。その”瞬間”がまぎれもなく存在したことの確かさ、それが自分にしか起こらなかったことの素晴らしさ、、。確かに信じられるじぶんだけのと刻、相手といた、という時間があったまぎれもない事実。一瞬だけかもしれないけれど、真実があったと自分が信じる思い出。 信じる、というのはあくまで能動的、自分の個人的な行為。 それが 概念で、いかようにも自分の勝手に解釈できる都合よいものであっても、信じたなら最終責任を取るのは自分で、相手や概念には全く責任はない、のではないでしょうか。 人は自分を信じたい、もちろん人を信じたいと願う、、また 裏切らない概念を信じてみる、、。 やはりそれは”祈り”なのでしょうね、、。 ダニーさんが 信じたい、と思う気持ちを、願いをもっていること、、素晴らしいことだと思います。 また岸田秀氏は、人は自我を支えるために自覚しなくとも必ず何かを信じているとも、、。そして それを手放すのは死よりも恐ろしい心の基盤で、そこを突かれたとき人は逆上して死んでもいいから戦おうとする。なんせ本能の壊れた人という種の最大のよりどころだから。ゆえに人はみな狂信的本質をもつ、のでしょうか。 人間は どんなに魑魅魍魎でもその底に祈りをもつ、、。 サン・テグジュペリの言葉ー”神などいなくてもかまわない。しかし 神を信じることは、人に神性を与える” かなり厳密論となりましたが、神との契約語を口にする時、人は罪を考え慎重になる、という西欧言語哲学行動論を日本語でやるとどうなるのかも含めて、2004年は考え続けてみたい、と思っています。八百万の神を持った日本文化のなか、かつては(古代ー平安くらいまで)信じる、愛するなどがどんな言葉で表されていたのか。(その後は武士文化に以降して、近代的な日本語と大和の感性が入り乱れ、交わって、現代につながるような気がするので。信じる、は日本においては武士の文化、もちろんその中心の天皇を敬う文化と大きくつながっているのだと思います。では、額田王、の時代とかはどうだったのか、、知りたいです。言葉のかぐわしい時代、源氏物語とかも、、。それが今の日本人とどうつながっているのか。この一つの言葉をもとに解明していきたいのです) ただ 私は 日本語が好きで、美しい、と思っています。
"まぼろしの世界”
中には 革命のリビアを逃れた王子もいた。 ”祈り。 そして 死を 想えーメメント・モり(Latin)” 知人が セクハラ容疑で逮捕された。 そのような感じから 遠い人だったので、耳を疑う。 遠い、というのは、皮膚感覚として そういうタイプではない気がした。 どうしてそうなったのか、、経路や 二人の間ー訴えた女性と彼との間の関係ーがわからないから、真偽はわからないけれど、、。 人間関係は 複雑で、目にみえたり 事実だけでは、二人の”本当”を、断定することはできない。 真実は その二人にしか分かり得ないだろうし、極論でいえば、二人にさえわからないのだろう。それぞれ個々には、想いがあり、それぞれのその瞬間の真実や嘘があっただろう。そして 人は最も言わねばいけなかったことを しばしば口に出せずに終わる。 また 人は色々な面を持つ。とてつもなく恐ろしい衝動をどこかに隠している。 その同じ人が、誰かの一生を支えるほどすばらしい面をあわせもっていたりする。 素敵な恋愛映画を見た後、ふと 考える。 この二人が現実にいて、この蜜のような瞬間の向こうに絶え間ない日常があったらどうなるのかな、と。エンドマークでは終わらないのが実人生。そのなかの一瞬のドラマティック。 思うに恋と人生は似ている。 想像上の素晴らしさと現実に生きるときの大変さ。すれ違う想い。相手にみる幻想と幻滅と それでも賭け、しかし 次の瞬間タメイキをつく。 ”一生自分の人生に恋をし続けたい”といったフランスの往年の大女優。あきらめずに 夢をみつつ”けていく意思に圧倒される。 反対にまた 水のようにながされるまま、というのも 悪くない。 ヤヌシュ・コルチャックーナチスドイツに殺された稀代の教育者。 彼が 人生の最後につぶやく。 ”ああ、人生ははかない夢のようだ、、”。 偉大な人生を生きた人間の、その言葉の重み。 はかない夢のような人生で、人と人が出会う。 偶然か必然か。 であった事を恨むこともあるし、それでもなお それは自分にしか起こりえなかったスペシャル、と涙をふりきることもある。さまざまな 夢のかたち。 たくさんの電話がかかってきた。 みな 友人の逮捕には 同情的だった。かといって 訴えた人の真実もまたあると思う。 ときたま考える。 人とは何だろう。人間はどうして わかりあえないのだろう、と。 そして 気付く。 自分のことさえわからない。 明日は みえない。 ときたま思いしらされる。 言葉の無力さというやつを。 人間と人生と言葉と感情、そして本能や理性のカオス、&時間!その不思議なコラボレーション、、アドリブの多さ。 小説家・宮本 輝氏が芥川賞の夜に届いた電報について書いていた。 素晴らしい、と思った。 ”人間をみる目、いよいよ深く冷たく そして温かからんことをー” 筑摩書房の元編集部長の言葉。 ふかく、つめたく、あたたかく、、。 それは 明日がどうであれ、今、を みつめつくそう、という冷静とともに、人間への”愛”という分けわかんない言葉の奥底の何か、馬鹿にできないな、に、か、が示されているように 私には聞こえた。 友人の人生が ここで断罪されないことを願う。 事実は事実として、しかし、それだけが彼ではないと、彼を知る私は思う。 そして 何よりも ひとくぎりついたら もう一度初心に返って 人生に恋をしてほしい。あなたのこれまでの長くて真摯な人生を知っていて、その手を必要としている人は たくさんまだいるよ。私は冷たく、温かく、君を待つだろう。 私たちは誰でも 生きていれば、訴えられなくとも、きっと被害者であり、何より、加害者なのだ。 ”食らわずには生きてゆけない。 メシを 野菜を 肉を 空気を 光を 水を 親を きょうだいを 師を 金もこころも 食わずには生きてこれなかった。 ふくれた腹をかかえ 口をぬぐえば 台所に散らばっている にんじんのしっぽ 鳥の骨 父のはらわた 四十の日暮れ 私の目にはじめてあふれる獣の涙。” 石垣 りんさんの 詩。 すべてが ここにある。 "祈りと死 PART2" 公開質問状: などという 生意気なことを ”様々な人を対象にしたHP"ということなので あえてやってみたいのです。 そして これは 大変なタブーの問題です。 パンドラの箱をあけてはいけないのかもしれません。 でもあえて 臨んでみたいのです。 このHPを読んでおられる方の中には 右翼、と思想上称されて,カテゴライズされてしまうー好まざるともーという方が 多くおいでだと思います。 私は 現在、これといった思想、宗教をもっていません。 だから 何かを信じることのできる方がうらやましくもあり、また不思議でもあります。 もし 天皇、および天皇制を信じている方で差し支えの無い方、何故自分は信じ、そうなったきっかけは何か、教えていただけると ありがたいです。 反対に 左翼の方には マルクスレーニン主義を。 平和を信じるかた、宗教を信じるかたの 思いと根拠を。 またそれ以外でも 何かを信じて生きる糧にしているかたの 気持ちと理論を。 その人だけの 熱い言葉で、気持ちの根本を知りたい。 自己欺瞞のない 言葉を聞きたい。 私は 何を信じているのか。よく考えると わからない。 多分、今の自分の感覚、感じている事、この瞬間のみのリアリティ。 過去も未来もないここ?? ハンニバル、という映画でも有名になった小説があります。 その中の主人公、人食いで、エレガントで、聡明な学者ハンニバル・レクター。 彼が信じているものがあるとしたら、多分 混沌ーカオスだ、という言葉があります。 いいかえれば 何も信じてなどいない、ということ。 マザー・テレサは偉大だと思うし、尊敬しています。他の人には容易にできないことを成された。 でも、、彼女の行いに感嘆はしても その言葉には どこか 信じるものの傲慢さを感じてしまうのです。祈りなさい、、。でも 私はキリストに祈れない。キリストは私の理想の男性像。でも あくまで 神ではない、私のなかでは。どちらかというと エロティシズムを感じてしまう(すみません!!個人の感覚です)。 では 私は 何に祈るのか。 偉大なるものは 何か。 それは 自分の感じている 何かわからない 真理にむかって。 でもきっと それは 私だけの宇宙にある善悪基準、ルール、のようなものだ。 討たれるほどの 光の向こうにあるもの。それは 確かに 私のなかにある。 だが きっと カオス。 オスカー・ワイルドのいう”汚れの無い真理は存在しない。単純な真理もまた”というような感覚。 昨日、ある方に 自分のとても大切にしてきたものについて 文章を書かせていただいた。 そのとき 過去の”それ”が無意識の果てに沈みながらも 自分の今を強烈なパワーで彩っているのだなあ、と思った。 それを 流してきたのに、それは いぜん 根底で 強く 生き続てきていた。 ある ロックバンドの 残してくれた物の大きさ。 そして先日、私はJAZZを 勉強しているのだが、その先生が タメイキをついてしみじみいった。”あなたは、ロックの人だ、、。”。 ちょっと余興に その先生が好きなツェッペリンの曲をセッションしたとき。 ”体のなかにあるリズムがね、完全にロックの世界観”だと。 不思議な気がした。 自分ではJAZZもよく分かる、と思っていたから。 そう告げると”わかる、というのは自分のなかにまだない、ということだよ。 自分になってくれたものは 容易にわからない”いう。 ロックを聴くとき、涙がでることがある。何故か分からない。 昨日 セツナブルースターを下北沢シェルターで観たとき、聴いたとき。 つたない演奏、でもむき出しの優しさ。懸命に何かを求める眼差しの3ピース。 目の前で ベースの島田君が 汗をぬぐう。それは 汗、それとも涙か、、。 その姿に 現代のキリストが瞬時乗り移り、私は祈る。何かにむかって。 この3人と出会えた感謝、この瞬間に。でも キリストが明日を信じるな、といったように 私は怯え それゆえ よりいっそう強く心のなかでひざまずき 味わうのだ。この 極上の、バサラなひと時を。 ー 春はとく 過ぎ行く。せめて 今宵一夜を、、ーと詩ったロレンツィオのように。 私は その瞬間みつける。 死を まぎれもなく信じている自分の心を。 有限が 無限を祈らせるものである事を。 私は知りたい。 あなたは なぜ 何を 信じるのか、。 タブーと知りながら、問いかけてみたい。 おことわり:電報文はカタカナで書かれていたものを 私の独断で置き換えさせていただきました。また 抜粋です。 アルカイダからだと断定はできないが、”日本がイラクへの自衛隊派遣を決めたら 首都圏を攻撃する”、という声明がでている。 政治についての意見は 人それぞれなので 極めて個人的な感想を述べたい。
”テロに屈しない”と小泉首相はいうが 一説によれば イスラム過激派は核のようなものを所有している可能性があるらしい。
貧者の核、といわれる生物兵器ももっているかもしれない。
日本が原爆の被害国であり、サリンがまかれた国であるとすれば、広告効果は他国よりあるだろう。また オウム事件でわかるようにこの国の警戒態勢はおそまつである。
イギリスではブッシュの訪問に ロンドン市長がクレームをつけた。
”ブッシュは 人類を皆殺しにするつもりか”と彼はいった。
また 欧米系のジャーナリストは小泉に”小さな援助の自衛隊をだして、国民の大きな命をリスクにさらすのか?”と問うた。
今回のイラクへのアメリカの攻撃は なぜはじまったのか。
よく考えて欲しい。
9.11は あまりにも悲惨だ。
しかし この戦いはーほとんどの戦いやけんかの例にもれずー利己主義と自己愛と、誤解から産まれた。
だからこそ キリストは報復を認めなかったのではないか?
果てしないロンドを巻き起こさない為には 許すことが必要な場合が多い。
文化の違いと、宗教の違い、言葉の違い、、それらを乗り越えるには忍耐と理解する心がいる。
同じ民族同士、同郷でさえ、結婚すれば お互いの違いに驚くのだ。
まして 異民族である。
テロに屈しない、という言葉は 壁をつくるだけではないのか。
話し合うより 暴力に訴えるのは簡単だ。
特に強い側にとってはめんどくさくないだろう。
しかしその考えは そこに生きて幸せを願う人間を虫のように殺す事を肯定する。ごきぶりや ありのように 殺虫剤をかけるのだ。いらないもの、うっとうしいものとして。ナチスとかわらない。彼らもまた 正義を掲げた。
日本の誇る哲学者の一人に 井筒 俊彦先生がいる。
小泉首相は彼が訳した”コーラン”を読んだことがあるだろうか。
理解しあうためにはもちろん、敵対するならなおさら、相手をしるべきだろう。
あのテロリストたちは イスラム教の原理主義者たちなのだから。
”敗者もなく 勝者もなく”(曽野 綾子著)
”砂の文明、石の文明、泥の文明”(松本 健一)
の二冊もよい文献だと思う。
そして つまらなく ばからしい今の政治状況。
しかし 監視していくことをあきらめたとき、私たちの現実は 9.11のような非現実といれかわる。
政治は 遠いものでなく、すぐそばにあるブラックホールだ。
正義の顔をした 悪魔が誰か、情報を集め、分析し、見極めていく意思をもたないと、我々は”テロに屈しない”という美句に押しつぶされるかもしれない。
キリスト教の新約聖書の黙示録には 二人の666−悪魔の兄弟が 世界を破滅に導く”と記されている。
それは 誰か。
許す心だけが その状況を救うのではないか。
キリスト教国の理性をぜひ小泉首相には促していただきたい。そして 日本は和を尊ぶ国でもあるのだ。水にながせる おおきな心を伝えてほしいものだ。
”火車” 今回のスタートは、アンケートとリンク。
先にあげたのは 宮部みゆきさんの小説名です。
文字通り、クレジットで買い物をしすぎて火車になってしまう女性の話。
そして 解説に”オウム真理教には 多重債務者がたくさんいた”とあった。
編集長の後記に、オウムの中川氏のことがのっている。
私も 知り合いがその仲間のひとりとして 刑務所にいる。
その人は かつて素敵な人だった。
まっすぐで、真摯で、優しかった。
彼の名をサリン事件や坂本弁護士一家殺害事件で聞くたびに、彼の胸ぐらをつかんで問い詰めたい気がした。
あんなひどいことをする彼を、悪魔だね、と友人がいった。私がその人と友達だったなんて彼女は知らない。
なにわ金融道のドラマで”金がからむと人は変わるで。だます、逃げる、、”という金融屋のせりふがある。
火車地獄のなかでは、人は自己防衛のために何でもできてしまうのだろうか。
そういえば オウム問題がとりざたされていたころ、”何故 人を殺してはいけないか”という論議が若者と作家や大人のなかでかわされた。
これは 究極の問いのひとつだろう。
私も ある若者に尋ねられた。
私は 昔、魚がさばけなかった。怖かった。とびでる内臓や血が。浮遊した魂も(笑)。−いや、これは案外大切な感覚なのかもしれない。魂への畏れ。
でも そのうち 慣れた、、。
もしかしたら、、慣れてしまったら、、自分や愛する者を守る、という大義名分があったらどうか。
ぜったいしない、とは言い切れない、と答えた。そのとき あのかつての虫も殺さない青年の面影を思った。人は 自分でもわからぬほど複雑だ。
火車のなかで 人の最後の決断をわけるものはなんなのか。
もうすぐ 2004年がやってくる。
かつて 日本人はみな1月1日をもって一つ年をとった。
死に一歩ちかずく日。
人生は修行である、とこの国ではいった。
親鸞、空海、道元、、いろいろな信仰があった。
煩悩をやきつくせ、、心頭滅却すれば、火もまた涼し。
かごめのうたが 路地から消えた。
人は常に苦や煩悩や死と隣り合わせで生きている。
だからこそ、今がいとしい。一期一会なのだ。
除夜の鐘の荘厳な響き、火の上を走る僧侶たちの映像。
生と死両方への祈りを 私たちはその夜、抱く。
昔人とかわらぬ何かが、この儀式にはある気がする。
12月に思う、、エモーショナルXよりいでるもの。
”酔う” ”ゲーデルの哲学、不完全性定理と神の存在論”(高橋昌一朗著、講談社現代新書)は酔えました。。
狂人と天才は紙一重、といいますが すごい。
質問:1いずれかの日にテストを行う。2どの日にテストを行うかは、当日にならないとわからない。
授業は月から金まで。
金曜の朝教授が”テストをする”という。
学生1がいう。”テストは不可能です。昨日までテストがなかったのだから、テストが今日行われるとわかる。これは2の論理に反します”教授いわく”でも君は今日、行われないと信じていた。だからこの理論は成立する。”それに対して、学生2,3が反論していくと、この議論は永遠に続く、、。
論理というものが 私達が日常考えているような生易しいのもでないことがわかる。
そしてこの時代、あたかも芸術におけるルネサンスのように 数理哲学や科学界に天才がでた。
アインシュタインの晩年の楽しみは このゲーテルとの散歩であったという。
音に酔う。
私は このところ ROVOの勝井祐二さんのバイオリンを聴くと、体中のDNAが音とともに入れ替わる気がする。
先日、新・仁義なき戦いのサントラに参加されたドラムの外山明さんとのデュオを聴いて、ROVOの2003,5・5日比谷野音のCDを聴いて、、この頃常に 二日酔い??
飲み会で一番よく覚えているのは 昔 横浜三渓園で行われた野村先生とのお花見。
桜が本当に美しく、花びらがときおり舞って 酒を染めた。
蜷川さんの笑顔が忘れられない。先生のうれしそうな声、、。
そして 沢木耕太郎さんとバーボンを飲んだ日。
”ストレート、ノーチェイサー、、僕の好きな作家がね、バーボンの向こうには麦畑が見えるといったんだ”
阿部勉さんも寄られた文壇バー詩歌句。
憧れの歌人、伊東聖子さんがやっていたお店。
今の私は ちょうどあの頃の聖子さんと同じくらいだ。
いつも純粋でストレートなアドバイスをくださった。厳しく優しいあの方は 今、幸福だろうか、、。そうであってほしい、とせつに思う。飲み過ぎそうになるとコーヒーをだまって置いてくれた。最後にみたのは 若い恋人の将来を慮って別れをつげる電話の後姿。私は そっと店を後にした。女、というものの凄さに酔わせてくれた人。
阿部さんは いつも さりげない優しさで酔わせてくださったっけ、、。
夜ー42にもうすぐなるのだから、その365倍くらいの数の経験。
そんななかで 私は何度くらい酔ったのだろうか。
言葉や思想、音に、夜桜や雨に 酒に、そして人や 特別な思いに。
ケの日のなかでも、思い出の引き出しをあけると、心は涙色やミラクルにそまり、ひとしれずハレとなる。
血液に 違う物質がまざり、私は再生するのだ。
酔った夜へのエモーショなるX 2003
"左翼は理論ーマルクスレーニン主義だが、右翼はエモーションだ” と野村先生は語られた。
先日行われた群青忌で上映されたビデオ。
そのなかで先生は,60年安保のリーダー唐牛健太郎氏へのシンパシーを述べられていた。
今から20年も昔、私は唐牛さんと飲み歩いた時期がある。
孤独で 優しい方だった。
うかつにも亡くなるまで、彼がそういう過去を背負っていることにきつ”かなかった。
”電話、こないな、、”と思っていた矢先、ふと見上げた車内刷り広告。”60年安保のリーダー唐牛健太郎死去”の文字。
もう一人の知人、藤本敏夫さん。
彼は 鈴木邦男氏の友人でもあった。
70年学生運動、三派系全学連のリーダーだ。
”運動で人生を変えた同志への責任がある。
僕は運動をこの国の農業に昇華する。日本人は農耕民族だ。しかし、今、この国の農業は死にかけている、、”
と語り、無農薬運動を推進した。
しかし 彼もまた 運動については 何も語らず、逝かれた。
日本人は理論そのものではなく 人に啓蒙され理論に向かう。欧米人とは基本になる自我形成の仕方が異なるためだ、と岸田秀氏は”幻想の未来”で述べる。
マルクスレーニン主義を根本におく左翼思想のなかで、お二人は何を感じられたのだろうか。
野村先生は語りつくそう、とされた。
わかってもらえなくとも 誠実に 精一杯語られた。
最後の肉体言語においても 命をかけて 訴えようとなさった。
示す事、語り合う事、違ってもいい、その差異を認めて自分も自己の限界を超越するのだ、と言った。
今 おめにかかる、あるいは再会を果たした野村先生のそばにいた方々はみな暖かく、思想が違ってもそれだけで相手を拒否しない。
それは根気と忍耐とおもいやりのいる作業だ。しかし 投げ出さない。逃げない。
その姿勢は 先生が生き様の中で日ごろから示していた優しさの色と同じだ。
せつない、という言葉は日本人独得の感情だといわれる。
今はもういない3人のリーダーの人生は いずれもエモーショナルでせつなく美しい。それぞれが きっと何かを、誰かを啓蒙し、自己を超越したのだろう。
思想はちがっても それぞれが、日本の将来の事を思って闘った。
この人たちがいて、後に残る者たちが何かを受け継ぎ 未来をつくるのだ。
日本人は素晴らしい。他国の人も文化もそれぞれにまた、、。
違う思想にぶつかった時、語りつくし、互いを知ることをおそれるな。そこから 始まるものもある。同じ匂いのものとは同志になれる、しかし 違うものとはよき勉強相手になれるだろう、、。
野村先生は稀にみる、 グローバルな目をもつ思想家だったと思う。
11月3日18時2分のエモーショナルX
エモーショナルXとは 深層心理の底から3つ目、、つまりAからZ間の Z少し手前です。素粒子前の原子? またXには、”名無し”、数学的には まとめて置き換えてシンボライズなどの意味が、、。
そして我がX JAPANも。
ピック2ハンド(P2H)には 2002の1月27日、Xのフィルムギグで出会いましたっけ、、。
出会いは最高の財産。
何かや誰かと出会い、何かを知り、何かが変わる。多分emotionalXあたりが。
表面の人の心は動き続ける。
でも XYZあたりは 心のDNAのような気がする。
人の匂いとか血の色は ここらできまっているような。
年をとって好きなものは、若かった時に好きだったものの香りをまとうらしい。
途中で興味から離れていても、、。
”蝶々の纏足”のラストは痛くてせつない。
一度はつながった友情が壊れ、もう取り戻せない時になって、相手にもまた心があったと知る哀しみ。
時のなかで 情感は再生するのか、ロンドのように戻るのか。
昔 感動した言葉。
”地球は丸い。二人の人間が歩き出せば必ずまた出会うだろう。”
夢の中で、思い出の中で、現実のなかで。
縁というのは 超現実的だ。
10.26.2003,14:12のエモーショナルX |
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