■ 十年目の秋 (後編)

 野村先生が亡くなってから一週間、私の中で様々な葛藤があった。相変わらず分類の為の面接が続いたが困ったことに人の顔を見ると涙が込み上げてくる。独居だったからよかったものの、何も事情を知らぬ同囚達は、さぞ不思議に思ったに違いない。

 ある日、父と母が面会に来てくれた。両親にしてみれば、さぞ迷惑なことをしてくれたバカ息子であるはずなのに今では普段の様に暖かく微笑み掛けてくれる。とても有難かった。
 「大宮の正田社長と一緒に野村先生のお通夜に行って来たよ」母が当時の状況を説明してくれる。「野村先生の事務所にもご挨拶に行ったんだけど、皆さんとても親切にしてくれたよ」少し体の不自由な母を気遣って事務所に居た誰かが母にやさしくしてくれたらしい。尋ねたことはないのだが、おそらく現リソルジメント編集長の古澤さんの事だと思う。
 久しぶりの面会、涙が止まらなかった。
 
 舎房に戻った私は、取りあえず読書に没頭した。何時までも泣いてばかりはいられない。野村先生の死によって死ぬまで民族運動をやってゆく決意を新たにした私には、学ばなければならないことが余りにも多すぎた。

 平成七年一月二十一日、私は水戸の少年刑務所を出所した。大勢の先輩方に迎えられ少々戸惑ったがとても有難かった。その中には両親、妹の姿もある。私の主義主張は別としてまず詫びた。「あとで帰るから・・・」わざわざ埼玉からバカ息子、バカ兄貴を迎えに来てくれた両親、妹には申し訳なかった。しかし、この場の状況、私の性格を理解していてくれる両親、妹は「分かっているよ」と微笑んでその場を去っていった。
 中台会長(当時、大悲会会長)が「おまえ何処か行きたい所あるか?」と訊ねてきたので「先生のお墓に連れていって頂けますか」と答えた。
 道中、バスの中では先生が自決した当時のニュースや先生のメッセージテープが流されている。
 先生の晩年を共にし目の前で逝かれてしまった古澤さんは、まだ獄中に在り、かぞえられる程しか先生にお会いしたことのない私などには及ばない想いをしているに違いない。様々な想いが交差する。一年半、整理して来たつもりの気持ちが一気に崩れ涙が溢れて止まらなかった。

 新横浜の駅前で出迎えて下さっている諸先生、諸先輩方に御挨拶をし先生の眠る伊勢原のお墓へ皇嵐社のバーニングに乗せて頂いて向かった。

 お墓は、前日が月命日ということもあり、とてもきれいにされていた。私は先生のお墓に手を合わせ、これから一生を懸けて民族運動に邁進してゆくことを改めて誓った。

 この十年、野村先生の死から内山、古澤両先輩による「朝日新聞東京本社襲撃事件」、志村、山田両同志が不戦決議に対し抗議した「国会、社会党(現社民)同時ゲリラ事件」、板垣先輩による昨今の経済不振に拍車をかける事となってしまうビッグバン政策に反対した「東京証券取引所襲撃事件」。皆それぞれ野村先生への想いを胸の中に闘っている。

 果たして今の私が野村先生に恥じない生き方をしているかと言えば、胸を張って「はい」とは言えないが、何時までもこのままでいるつもりはない。
 あの日、誓った想いは今も未だ変わり薄れてはいないのだから。

 今年もまた群青忌の季節がやって来る・・・

                       合掌



■ 十年目の秋 (前編)

 
 野村先生があの壮絶な自栽を遂げてから十年の月日が流れた。しかし私の中ではまだ何も終わっていない。

 知っている方もいるだろうが私は野村先生が亡くなる五ヶ月前に故伊丹十三監督作品『ミンボウの女』の中で国旗『日の丸』が無雑作に右翼らしきトラックに括り付けられ恐喝の小道具的に使われていたことに対し抗議し獄中に居た。
 今でこそサッカー人気も手伝って『日の丸』は当たり前の様にあちらこちらに掲げられているが当時は、『日の丸』イコール右翼暴力団というイメージがあり我が子が『日の丸』を掲げ様ものならば大概の親は眉を顰め我が子の将来を憂いた。私の裁判では戦後初めて裁判官が『日の丸』を“国旗”と言い及んだとして左の陣営が騒いだりしたとか。その様な状況の中、一部の民族派が東宝に抗議、私の直接行動となったのである。当時のことは、まだ記憶が新しかった頃にこと細かく、出掛けに乗って行ったバスの時刻までノートに記してある。遥か昔であり昨日の様でもある。
  
 野村先生が亡くなった十月二十日、私は東京拘置所の既決房に居た。拘置所では昼のニュースが夜、夜のニュースは次の日の午前中にテープで流される。ラジオが流されている時間帯であればリアルタイムでニュースを知る事も出来たのだが、偶然か拘置所側の意図かは分からないが二十一日の朝、二十六歳に満たなかった私は再分類の為、一時、川越少年刑務所に移監となり準備やら移動やらで二十日のニュースを聞く時間が無かった。
 野村先生が亡くなったことを知ったのは川越に着いてからになる。
   
 川越では先ず領置品の検査が行われ、その時の担当官が私の持っていた野村先生の著書を手にし「あァ あの死んだ人か」と呟いた。私は立場と場所を忘れ「あんたねぇ冗談でも言っていい事と悪い事があるでしょ」と怒鳴ってしまった。本来であれば許される態度ではないのだが状況を察したのか担当官は「いや本当なんだよ」と私を宥めにかかった。少し冷静さを取り戻した私は「誰かと勘違いしてるんじゃないんですか?」と尋ねてみた。すると担当官は「いやっ昨日、自殺したんだよ」と指で作ったピストルを自分の腹に突き当て私を哀れむ様な目をして見た。私は理解した様なしない様な・・・ しばらく途方に暮れた。

 次の日からは分類検査の為の面接や性格判断テストなどが始まったが私は未だ新聞も読んではおらず野村先生の自決が本当であるのか半信半疑、それどころではない。週間SPA!で連載されていた鈴木邦男さんの『夕刻のコペルニクス』を読んでいた方は知っているだろうが私の計画の中では出頭する交番から落ちる刑務所まで決まっている。行き先は水戸の少刑、今更分類検査など関係がない。その日の面接は野村先生の自決が本当なのか?という私の質問で殆んど終わった。
   
 夜、新しい塒で瞑想に耽っていると一日遅れの新聞が運ばれて来た。その新聞の一面には、一時的に声を失われた皇后様の記事の横に野村先生の自決の記事が載っていた。私は貪る様に社会面の記事を読み漸く野村先生の死が事実である事を受け入れた。次の瞬間、今まで堪えていた涙が一気に溢れ出てきた。
 俺はこれからどうすればいいんだ・・・


吹き荒ぶ 風舞う木の葉 吾のよう
                         

                           次回に続く


■ 死について

 

 先日、都内某所で行われたあの悪名高き世界謀略会議に参加した時、沢口党首の演説(夜桜お七)の中で♪いつまでたっても来ぬ人と死んだ人とは同じこと  ♪というくだりがあった。私はいつもの如くベロンベロンに酔っていたのだが密かに心の中で「そうそう、そうだよねぇ〜」と呟いていた。以前、私も似たような感覚を抱いたことがあるからです。

 平成六年、私は獄中に居ました。私のような右見て左、所謂しょんべん刑が刑務所を語ろうなどとは甚だ思わないのですが、自称運動家を名乗っている私の原点であり基礎ともなった時期の思い出として外すことは出来ない貴重な時間であります。

 

「獄中日記から」

俺は今、生きているのだろうか?確かに此処(刑務所)で存在はしている。しかし社会との接触が絶たれているこの状況というのは世間から見れば死んだ人間と同じ様なものなのでは?・・・

 死というものは全てが終わる“無”になるということだと思う。だから私には「あの世」という感覚がない。私は25という年齢の割には多くの友人、知人を亡くしている。そうとは思いながらもその都度「それでは余りにも虚し過ぎる」と感じていた。しかしそれは残された側の願望であって死んでしまえばやはりそれまでなのかも知れない。だが人の殆どが生物の第一の目的である子孫を残すという大事な仕事を成して去るのだから(私は成していない)人の存在そのものが無である訳がない。そして自らの生を全うした者は残された者、此れからの世代に“心の肥やし”となって何時までも人々の心に残るのだと思う。それは枯れ葉が土に溶け新たな木々の栄養となる様に・・・人もまたそんな自然の法則の中で生きているのかも知れない。要は生を全うするということが最高の死なのだと思う。

 人にはそれぞれ寿命というものがある。惜しくも若くして命を落とす人、老衰するまで生きる人。病などで死を宣告される人もいるが死とは予測が出来るものではない。だから今その瞬間をしっかりと生きていなければ生を全うすることは難しい。刹那主義といえば如何にも楽観的だが、その瞬間の次には新しい瞬間があるわけで、いってみれば“永遠の刹那主義”であれたならば此れに勝る幸せな人生はないだろう。

 

幾度も刹那重ねて永遠と知る

 

我慢は必要である。しかし今日が明日のための犠牲であっては詰まらない、明日のための今日で在りたい。

 生きた証を残すということは意外と簡単なことなのかも知れない。例えば私が今、此処で消えてしまったとしても生きた証は残るだろう。しかし“心の肥やし”になることは難しい。それは生はおろか死に対しても意味を持たせることでダラダラ生きた人、今の私などに出来る訳がない。

 人は「嫌だ、嫌だ」と言っても病気になる時は病気になる。「嫌だ、嫌だ」と言ってもその人の寿命が来れば死ぬ時は死んでしまう。その時、ジタバタせずに堂々としていられたら・・・ 私は切にそう願う。

                       平成六年 冬  獄中にて

 

何せ9年も前のものなので浅墓で幼い。しかしあれから毎日、死というものについて考えるようになった。(決して死にたいという事ではない)だけどある面、昔の自分に負けているなぁ〜。

 子供の頃、よく観ていた『宇宙戦艦ヤマト』。艦長の沖田十三が臨終間じか医者の佐渡酒蔵に言う、「以前、死んだら魂は何処に行くのだろうか?そう尋ねたがやっと解ったよ」。「わしは奴、古代の中に行くよ」。

去年の暮れ、父が他界した。親不孝な息子だったが最後は家族皆で看取ることが出来た。息を引き取る瞬間、私の中に新たな感覚が芽生えた。そして父は肥やしとなった。

                               合掌

地に落つる枯れ葉もものの始まりと

下天と云へど魂残る

平成15523                                                                                                                                                                                                                                     

                                                                                                



皆さん、こんにちは。このページが更新されている頃には、もう桜も散っているでしょうか?新しい生活環境にまだ慣れずに駆けずり回る人、少々慣れて一足早く五月病ぎみの人。いろいろあるでしょうが、ちょっと一休み。暫しお付き合いの程を。

 

 いゃー勇気がありますねぇー。誰って『Risorgimento!』編集長の古澤さん。9年前の4・1朝日新聞東京本社人質篭城事件の檄文、このweb上で久しぶりに読ませて頂きました。当時は水戸の少刑でシコシコお勉強、世間の反響というのはイマイチ分からなかったのですが外にいた関係者の方は大変だったでしょうネ。あれはどう見たって右翼に対する檄文だもの。でも共感するなぁ「右翼は思想だ」、「右翼は生き方だ」。             

古澤さんの檄文には「街宣車から降りよう」とも書いてありますが以前、知人の不当解雇撤回を求めて運動をしたとき(最悪の事態を招いたが・・・)最初は宣伝カーに垂れ幕貼ってスポット、停止街宣やったんです。ある程度の反応はあったものの暫くすると限界を感じました。使った車はどう見ても何処かの労組って感じで私、決して巻き舌では訴えたりはしません。でも何処か右翼っぽいのかなぁ・・・。

ある日やり方を変えてみたんです。ビラ配りの許可を取って駅への連絡路に陣取りハンドマイクで呼びかけ署名を集めました。今までとはまったく違った感触です。沢山の方の理解と署名が頂けました。今まで関わってきた運動の中で唯一白い目で見られなかったという感じ。訴えていた内容、声のトーンは全く同じなのですがやっぱり何処かが違うんですねぇ。でも私は運動で宣伝カーを使う事って有効だと思っています。右翼って思想であって生き方なんだから決して『悪』じゃない。宣伝カーだって。問題は見やすいか見にくいか(醜い?)ということなんじゃないでしょうか。

文章って残るから怖い。相手を選ばず不特定多数に訴えかける宣伝カーの上に立っての演説も怖い。誰だって恥はかきたくない。その為に勉強もする。喋る為の勉強?なんか本末転倒のような気もするけどいいんじゃない。自分なりに消化していけば何時か自分の思想になるんだから。でなけりゃ役者の台詞と同じだけど・・・

 

イースターを目前にイラク戦争も終わりに近づいておりますが、今回驚いたのは反戦を訴えアメリカ大使館前に駆けつけた日本人の多いこと。他国とは規模が全然違いますがそれでも多い日は1200人、その中に未見の同志がいること願いまして結びに致します。

   合掌

平成15412





皆さん、こんにちは。この度、先輩である古澤俊一氏の奨めもありweb上による連載を始めることとなりました。このページでは時局や風俗など、特にジャンルには拘らず毎回テーマを決めて私の意見を書き綴っていきたいと思いますが、文章(作文?)を世に排出するのは某機関誌で「浪漫を求めて」連載以来、実に六年ぶりとなります。前連載をご笑読頂いた方には私の実力がどれ程のものか察しがつくと思われます。どうぞお手柔らかに。

■ 超大国の欺瞞  

 超大国とは勿論アメリカのことです。皆さんも薄々感づいていることでしょうかアメリカという国は実にわがままというか勝手な国なのです。
 私はアメリカに四年前、イラクに三年前行ってきましたが、どちらにも善い人も居れば悪い人も居ます。勿論日本にも。イラクへの武力行使には勿論反対なのですが、だからと言ってどちらかの味方(何様だ!)という訳でもありません。
 最近のイラク報道で今まで散々アメリカンナイズされてきた若者達も反戦デモに出かけるようになり革労協は横田基地に手製のロケットランチャーを撃ち込み右翼は・・・煮え切らない日本政府とは裏腹に国民は怒っています。
 ブッシュをはじめネオ・コンサバ達は新たな「新世界」、「新秩序」なる大義名分を掲げ対イラク戦争後の世界を模索していますが、それが欺瞞であることに多くの日本人は気がついています。
 散々訴えてきましたがアメリカのご都合主義は昨日今日始まった訳ではありません。私達の国は近代からの歴史において嫌と言うほど経験してきました。
 今回手を組んでいるスペインと昔、フィリピンの取り合いで戦争(1898年)をしたアメリカはマニラ湾に停泊していたスペイン艦隊に対し奇襲攻撃を仕掛け、見事フィリピンを植民地としました。その時、アメリカの艦隊を率いていたデューイ提督は戦(いくさ)上手と称えられ英雄とまで賞賛されました。然るにアメリカは、時が流れて日本がハワイの真珠湾に奇襲攻撃(1941年)を行った際、日本を卑怯者呼ばわりしたのです。同じ行為でるにもかかわらず自分達が行えば正義、他人が行えば悪、これ程のご都合主義があったものでしょうか。若者諸君!今更「何故、アメリカは武器をもっているのにイラクが武器を持ってはいけないの?」などという疑問は通用しませんぞ!言葉も理屈も通じない者を相手にする時は、自分の意志をしっかりと持ちそれを貫くしかないのです。
 私は反米運動に関わってきましたが、それは反戦後日本でもありアメリカの妾であることを隠すかの如く(バレバレだったが)当たり障りのない国連中心主義を唱えてはみたものの結局アメリカに縋り着いていくしか道のない日本、負け犬の思想への運動であったのかも知れません。
 アメリカは今、中東にアメリカ型の民主主義を根付かせようとしています。民主主義がいけないだとか悪だとかは決して思ってはいません。しかし敗戦後アメリカに身をゆだね自らの意志を捨て国防、教育、経済、そして憲法、あらゆる面において行き詰まってしまった日本の現状を見れば、中東の国々に同じ思いをさせてはいけないと思うのは当然ではないでしょうか。
 ,,広く会議を興し万機公論に決すべし,,

 この国にはこの国で培ってきた文化、そして民主主義があります。若者諸君!そろそろ目覚めて下さい。
 今や世論をリードするワイドショーのキャスター、「国益」といったある面、都合のいいキーワードを巧みに使い、自らの主義主張を変貌させては鵺の如く今日も逞しく生き延びる政治家などに皆さんが騙されないことと、中東の平和を祈りまして結びに致します。

                           合掌

                              平成15年3月17日