■ 十年目の秋 (前編)
野村先生があの壮絶な自栽を遂げてから十年の月日が流れた。しかし私の中ではまだ何も終わっていない。
知っている方もいるだろうが私は野村先生が亡くなる五ヶ月前に故伊丹十三監督作品『ミンボウの女』の中で国旗『日の丸』が無雑作に右翼らしきトラックに括り付けられ恐喝の小道具的に使われていたことに対し抗議し獄中に居た。
今でこそサッカー人気も手伝って『日の丸』は当たり前の様にあちらこちらに掲げられているが当時は、『日の丸』イコール右翼暴力団というイメージがあり我が子が『日の丸』を掲げ様ものならば大概の親は眉を顰め我が子の将来を憂いた。私の裁判では戦後初めて裁判官が『日の丸』を“国旗”と言い及んだとして左の陣営が騒いだりしたとか。その様な状況の中、一部の民族派が東宝に抗議、私の直接行動となったのである。当時のことは、まだ記憶が新しかった頃にこと細かく、出掛けに乗って行ったバスの時刻までノートに記してある。遥か昔であり昨日の様でもある。
野村先生が亡くなった十月二十日、私は東京拘置所の既決房に居た。拘置所では昼のニュースが夜、夜のニュースは次の日の午前中にテープで流される。ラジオが流されている時間帯であればリアルタイムでニュースを知る事も出来たのだが、偶然か拘置所側の意図かは分からないが二十一日の朝、二十六歳に満たなかった私は再分類の為、一時、川越少年刑務所に移監となり準備やら移動やらで二十日のニュースを聞く時間が無かった。
野村先生が亡くなったことを知ったのは川越に着いてからになる。
川越では先ず領置品の検査が行われ、その時の担当官が私の持っていた野村先生の著書を手にし「あァ あの死んだ人か」と呟いた。私は立場と場所を忘れ「あんたねぇ冗談でも言っていい事と悪い事があるでしょ」と怒鳴ってしまった。本来であれば許される態度ではないのだが状況を察したのか担当官は「いや本当なんだよ」と私を宥めにかかった。少し冷静さを取り戻した私は「誰かと勘違いしてるんじゃないんですか?」と尋ねてみた。すると担当官は「いやっ昨日、自殺したんだよ」と指で作ったピストルを自分の腹に突き当て私を哀れむ様な目をして見た。私は理解した様なしない様な・・・
しばらく途方に暮れた。
次の日からは分類検査の為の面接や性格判断テストなどが始まったが私は未だ新聞も読んではおらず野村先生の自決が本当であるのか半信半疑、それどころではない。週間SPA!で連載されていた鈴木邦男さんの『夕刻のコペルニクス』を読んでいた方は知っているだろうが私の計画の中では出頭する交番から落ちる刑務所まで決まっている。行き先は水戸の少刑、今更分類検査など関係がない。その日の面接は野村先生の自決が本当なのか?という私の質問で殆んど終わった。
夜、新しい塒で瞑想に耽っていると一日遅れの新聞が運ばれて来た。その新聞の一面には、一時的に声を失われた皇后様の記事の横に野村先生の自決の記事が載っていた。私は貪る様に社会面の記事を読み漸く野村先生の死が事実である事を受け入れた。次の瞬間、今まで堪えていた涙が一気に溢れ出てきた。
俺はこれからどうすればいいんだ・・・
吹き荒ぶ 風舞う木の葉 吾のよう
次回に続く
■ 死について
先日、都内某所で行われたあの悪名高き世界謀略会議に参加した時、沢口党首の演説(夜桜お七)の中で♪いつまでたっても来ぬ人と死んだ人とは同じこと ♪というくだりがあった。私はいつもの如くベロンベロンに酔っていたのだが密かに心の中で「そうそう、そうだよねぇ〜」と呟いていた。以前、私も似たような感覚を抱いたことがあるからです。
平成六年、私は獄中に居ました。私のような右見て左、所謂しょんべん刑が刑務所を語ろうなどとは甚だ思わないのですが、自称運動家を名乗っている私の原点であり基礎ともなった時期の思い出として外すことは出来ない貴重な時間であります。
「獄中日記から」
俺は今、生きているのだろうか?確かに此処(刑務所)で存在はしている。しかし社会との接触が絶たれているこの状況というのは世間から見れば死んだ人間と同じ様なものなのでは?・・・
死というものは全てが終わる“無”になるということだと思う。だから私には「あの世」という感覚がない。私は25という年齢の割には多くの友人、知人を亡くしている。そうとは思いながらもその都度「それでは余りにも虚し過ぎる」と感じていた。しかしそれは残された側の願望であって死んでしまえばやはりそれまでなのかも知れない。だが人の殆どが生物の第一の目的である子孫を残すという大事な仕事を成して去るのだから(私は成していない)人の存在そのものが無である訳がない。そして自らの生を全うした者は残された者、此れからの世代に“心の肥やし”となって何時までも人々の心に残るのだと思う。それは枯れ葉が土に溶け新たな木々の栄養となる様に・・・人もまたそんな自然の法則の中で生きているのかも知れない。要は生を全うするということが最高の死なのだと思う。
人にはそれぞれ寿命というものがある。惜しくも若くして命を落とす人、老衰するまで生きる人。病などで死を宣告される人もいるが死とは予測が出来るものではない。だから今その瞬間をしっかりと生きていなければ生を全うすることは難しい。刹那主義といえば如何にも楽観的だが、その瞬間の次には新しい瞬間があるわけで、いってみれば“永遠の刹那主義”であれたならば此れに勝る幸せな人生はないだろう。
幾度も刹那重ねて永遠と知る
我慢は必要である。しかし今日が明日のための犠牲であっては詰まらない、明日のための今日で在りたい。
生きた証を残すということは意外と簡単なことなのかも知れない。例えば私が今、此処で消えてしまったとしても生きた証は残るだろう。しかし“心の肥やし”になることは難しい。それは生はおろか死に対しても意味を持たせることでダラダラ生きた人、今の私などに出来る訳がない。
人は「嫌だ、嫌だ」と言っても病気になる時は病気になる。「嫌だ、嫌だ」と言ってもその人の寿命が来れば死ぬ時は死んでしまう。その時、ジタバタせずに堂々としていられたら・・・ 私は切にそう願う。
平成六年 冬 獄中にて
何せ9年も前のものなので浅墓で幼い。しかしあれから毎日、死というものについて考えるようになった。(決して死にたいという事ではない)だけどある面、昔の自分に負けているなぁ〜。
子供の頃、よく観ていた『宇宙戦艦ヤマト』。艦長の沖田十三が臨終間じか医者の佐渡酒蔵に言う、「以前、死んだら魂は何処に行くのだろうか?そう尋ねたがやっと解ったよ」。「わしは奴、古代の中に行くよ」。
去年の暮れ、父が他界した。親不孝な息子だったが最後は家族皆で看取ることが出来た。息を引き取る瞬間、私の中に新たな感覚が芽生えた。そして父は肥やしとなった。
合掌
地に落つる枯れ葉もものの始まりと
下天と云へど魂残る
平成15年5月23日
皆さん、こんにちは。このページが更新されている頃には、もう桜も散っているでしょうか?新しい生活環境にまだ慣れずに駆けずり回る人、少々慣れて一足早く五月病ぎみの人。いろいろあるでしょうが、ちょっと一休み。暫しお付き合いの程を。
いゃー勇気がありますねぇー。誰って『Risorgimento!』編集長の古澤さん。9年前の4・1朝日新聞東京本社人質篭城事件の檄文、このweb上で久しぶりに読ませて頂きました。当時は水戸の少刑でシコシコお勉強、世間の反響というのはイマイチ分からなかったのですが外にいた関係者の方は大変だったでしょうネ。あれはどう見たって右翼に対する檄文だもの。でも共感するなぁ「右翼は思想だ」、「右翼は生き方だ」。
古澤さんの檄文には「街宣車から降りよう」とも書いてありますが以前、知人の不当解雇撤回を求めて運動をしたとき(最悪の事態を招いたが・・・)最初は宣伝カーに垂れ幕貼ってスポット、停止街宣やったんです。ある程度の反応はあったものの暫くすると限界を感じました。使った車はどう見ても何処かの労組って感じで私、決して巻き舌では訴えたりはしません。でも何処か右翼っぽいのかなぁ・・・。
ある日やり方を変えてみたんです。ビラ配りの許可を取って駅への連絡路に陣取りハンドマイクで呼びかけ署名を集めました。今までとはまったく違った感触です。沢山の方の理解と署名が頂けました。今まで関わってきた運動の中で唯一白い目で見られなかったという感じ。訴えていた内容、声のトーンは全く同じなのですがやっぱり何処かが違うんですねぇ。でも私は運動で宣伝カーを使う事って有効だと思っています。右翼って思想であって生き方なんだから決して『悪』じゃない。宣伝カーだって。問題は見やすいか見にくいか(醜い?)ということなんじゃないでしょうか。
文章って残るから怖い。相手を選ばず不特定多数に訴えかける宣伝カーの上に立っての演説も怖い。誰だって恥はかきたくない。その為に勉強もする。喋る為の勉強?なんか本末転倒のような気もするけどいいんじゃない。自分なりに消化していけば何時か自分の思想になるんだから。でなけりゃ役者の台詞と同じだけど・・・
イースターを目前にイラク戦争も終わりに近づいておりますが、今回驚いたのは反戦を訴えアメリカ大使館前に駆けつけた日本人の多いこと。他国とは規模が全然違いますがそれでも多い日は1200人、その中に未見の同志がいること願いまして結びに致します。
合掌
平成15年4月12日