<阿部 勉さん 七回忌>

本日、10月11日は故阿部勉さんの祥月命日で、七回忌にあたります。

先日、私のかねてよりの希望により、先輩A氏のお世話で阿部さんの墓参が叶いました。

阿部氏の故郷角館では「酒を呑むことが一番の供養」と皆さん口を揃え、一晩中呑み明かしました。

先輩A氏はもとより、同行の作家Y氏、ライターのM氏と無頼揃いで気炎を上げるも、阿部さんの同級生、地元の
ご友人らの酒豪ぶりには実際驚嘆いたしました。

そして東京での阿部さん像とはまた異なる人物像を知り、改めて実に多くの人々に、それも男女を問わず愛され
ていたことを思い知らされました。

「泰然自若」
阿部勉先輩を偲び合掌いたします。

(奥が写真家千葉克介氏、手前が伊沢栄子さん。共に角館高校の同級生です。)


<追悼 見沢知廉>

9月7日、見沢知廉が死んだ。

自殺しちゃった。

調子が悪いのははなから分かっているし、
悪いは悪いなりに自身を鼓舞し、
少々大げさともとれる宣伝を飽くなく続けていることも、
僕は、どちらかといえば期待とともに好意的に受け止めていた。

君は俺との短い付き合いの中で、
いつもマシンガンのように言葉を叩きつけ、
今、思うと理解を求めていたんですね。

「ごめん」と謝りはしないけど、
ちゃんと向かい合わず、不服そうな君の顔が目に浮かび、
今は合掌するのみです。

たまたま中高の同窓であることが分かったとき、
昔、敵対してた「現国」のK
先生が、
新日本文学賞を受賞したのを手放しで喜んでくれたと言って、
子供に戻って得意げに笑っていましたね。

もうちょっと僕は君の理屈に付き合うべきたった。
そして君に理解ある後輩をサポートすべきだった。

今はただ、ゆっくり、ほんとにゆっくり休んでください。

以前預かった、君の未発表の原稿は、近くこの場で掲載しますからね。

さようなら、見沢知廉。

ゆっくり休んでね、高橋哲央君!

合掌


 野村秋介大人命生誕七十年祭のご案内

 拝啓 厳冬の候 益々ご清祥の事とお慶び申し上げます。
 さて、本年は野村秋介大人命生誕七十年という節目にあたり、この度生誕を記念し、群青祭と名付け、群馬県鎮座、総本宮雷電神社にて祭儀を執行致す事と相成りました。(斎主 加藤登美・群青の会)
 
 「わが生の 須臾なる命 如何にせむ」 秋介

 一昨年の大人祥月命日に、同神社敷地内に右記の句碑を建立いたしました。
 この句碑を通じ、関係者のみならず、広く一般の参詣者にも大人の疾風怒濤の如き生き様、愛情深い浪漫の心をお伝えしております。

 皆様方には公私共にご多忙の折、また遠路につき誠に恐縮ではございますが、左記の通りご案内申し上げます。
                                      敬具 
   平成十七年一月吉日  
                             群青の会代表 正田暢鍵
各位


          記
        
 一、 日 時  平成十七年二月十四日(月)午前十時三十分
 一、 場 所  雷電神社(群馬県邑楽郡板倉町板倉二三二八の一)詳細地図有ります
              電話  〇二七六―八二―〇〇〇七
 一、 参加費  五千円(直会費を含む)参加費は当日受付させていただきます




         事務局 群青の会 大熊
             



10月19日

<群青忌>によせて

先日、一水会フォーラムにおいて、映画監督の松林宗恵氏とお会いする機会に恵まれ、
そこでご縁を感じるお話をいただきました。

氏は戦後の日本映画界で、なくてはならないヒットメーカーの監督であり、
森繁久弥主演の「社長シリーズ」など主に喜劇映画で知られますが、
監督作品のべ70本(70本!)のうち丁度半分が文芸作品や戦争映画であることは、
よほどのファンでなければ知らないことでしょう。
その戦争映画のコンセプトは全て「無常観」と言い切る監督の代表作に「連合艦隊」があります。
この作品のエンディングは、特攻隊で出撃する青年が、今まさに沈まんとしている
父の乗艦する戦艦大和の最後を見届け、少しでも親より命を長らえ、
孝行する心を持って特攻を完遂するというものです。
一方、残された家族は悲しみに打ちひしがれるのですが、時の経過とともに日常の生活に戻っていく、
いわく云い難い、正に「無常観」を訴えるシーンで谷村新司の「群青」が流れます。

この「群青」は野村先生がお好きでよく歌われており、その歌声は残されていますし、
「遺書」となった著書のタイトルが「さらば群青」であることをみても、
毎年ご命日の追悼集会を「群青忌」と銘打つのはごく自然なことといえます。

今回、その「群青」の生みの親が実は松林監督であることを知ったのです。

「群青」は最初に歌ありきとばかり思い込んでいた私ですが、実はそうではなく、
映画制作の過程で松林監督が自ら谷村新司さんを指名し出来上がった曲であり、
当初の人選では、松山千春やさだまさしといった候補もあったものの、
当時谷村さんの「昴」が大変お気に入りだった氏が、周りの声を押さえ依頼したのです。

「戦争映画の曲は作れない」
谷村さんはプロデューサーの依頼をこう拒み続けたそうです。
そこで最後の話し合いと称して、監督が彼を東宝本社の社長室に呼び出し、
シナリオを前に件の「無常観」を滔々と展開し、漸く承諾させたのだそうです。
松林監督がいらっしゃらなければ「群青」は生まれてなかったのです。

その後、レコーディングに立ち会った松林監督は出来上がったテープを自宅に持ち帰り、
その曲の素晴らしさに感動し、止まらぬ涙の中で、一気にラストシーンのコンテを書き上げたそうです。


「あの歌は<海ゆかば>と並ぶ名曲です」と仰っていた監督、
ご案内した今回の群青忌に是非とも足をお運び下さるとよいのだが・・・。


吉野家で朝食を  完結編

午後になり、バイトの女の子たちが揃い、マコちゃんに音頭をとってもらって大声出しのリハーサルをする。
しかし大方の子は恥ずかしがって上手くいかない。なかにはこんな仕事は出来ない、聞いてないとケツを捲る子も出てくるが、それは初めから織り込み済みで、完全にダメな子以外はうるさく言わずに残しておき、翌日の本番を迎えさせる。
いざ、オープンすると序々に慣れていき、客が自分たちの声にリアルに反応するのが分かるようになり、売り上げがあがるのを肌で感じられるようになると面白くなってきて、仕舞いには他の子に負けまいと競い合ってしまうようになるものなのだ。
マコちゃん自身も初めてのことで大変だが、事前に含んでおいたので、むしろ和気藹々とナニワ娘のギャグを散りばめながら皆を上手くまとめて貰った。

そして夕方には箱詰めされた大量の商品が届き、準備はすべて整った。
俺は志水を連れ、ほぼ設営が終わった200を超える各ブースを見て回った。会場のほぼセンターにはイベント用の舞台があり、連日歌手やお笑いタレントによるショウが催され、その模様は地元テレビ局で放映されることになっている。
「おっ、ものまねの○○○○が来るんだ、これをタダで見れるんだったらヒマなやつは来ますよね」
そういう志水に俺は教えてやった。
「タダほど高いものは無いっていうだろ。俺たち業者から気がついたら余計なものを買わされ、ここでまた1杯700円の冷凍ラーメンを食わされるはめになるんだ」
ラーメンだけではない。舞台のまわりに配置された模擬店は何もかもすべてが異常に高い値段をつけている。ところが客の心理とは分からんもので、列をなして買い求めたりするものなのだ。
「テキヤの世界と一緒でんな」
志水は納得したようにうなずきながら言った。急に関西弁になったのはなにか感じるところがあったのだろう。
「客は喜んでいるんだからちゃんと商売は成立しているんだよ、それでいいんだ」

今回のフェアは4日間開催で、金曜初日、月曜最終日というスケジュールなのだが、金曜日が祝日のため、初日から多数の来客が見込め、われわれは緊張の度を更に上げながら、いよいよフェア初日の幕が上がった。

午前10時のオープンと同時に多数の客がなだれ込んでくる。
会場には特別に順路はないので、しばらくは客が散らばるが、30分もすると通路が混雑してくる。
マコちゃんに用意してもらったユーロビートのカセットテープを最大音量でかけ、戦闘は開始された。
そして目論見どおりすぐに客はつきはじめ、売り上げは順調に伸びていった。
こういった現場ではトラブルはつきものなのだが、その都度、志水は気配を察知し処理に飛び回る。少々やることは荒っぽいが、状況を見るその冷静さは抜群だ。 
マコちゃんにリードされ、女子バイト軍団も慣れるにつれてどんどんヒートアップしていき、ヒステリックに声
を張り上げている。
(此処は勝負あったな・・・勝った!)
お昼を回る頃、まだまだ先は長いのだが、すでに俺はそう確信した。
あとの課題は、これから生じる、他の出展者の妬み、やっかみを巧くかわしていくこと。派手に一人勝ちしている様子は、日を追うごとに広まっていく。気を抜くと思わぬ落とし穴が待っていたりするものだ。誹謗・中傷・クレーム・窃盗なんでもあり得るから恐ろしい。これだけはいくら防御策を練り、実行しても完全にはいかない。できるだけの手を打っておく。

午後5時、初日のフェアは終了した。
バイトの子たちに大入り袋を配る。中身は2000円。これでまた頑張ってくれるはずだ。
全員で後片付けと明日の準備をするなか、俺は旧知の出展者のブースを回り、味方につける主要な人間数人に声をかけ、晩飯に誘う。
「おっ、いいねえ。また何か企んでるんだろうけど、いいですよ、ゴチになります」
こんな調子で約束を取り付け、一旦、宿舎にしているビジネスホテルに戻った。

結局、この日の売り上げは120万。ブレザーも売れているので、シャツのみだと250枚ほど捌けた勘定にな
る。上出来である。
これで今回無事に終了すれば1000枚、五分の一消化のめどが立った。
狭いシングルルームの俺のベッドの上で、数え終わった札をまとめながら志水が言った。
「それにしても凄いもんですねえ、あっという間に一日が終わっちまった」
「だんだん慣れてくるよ。けど、うまくいくときばかりじゃないからな」
俺は志水に釘を刺した。
「分かってますよ、兄貴には最終日に詳しく報告しますか」
「そのほうがいいな・・・。じゃあ、接待にでかけるとしようか!」
「いや、ちょっと待ってください。実は俺、今、禁酒してるんですよ。兄貴に言われて・・・」
「えっ?」
「行ったら呑まないわけにはいかないじゃないすか、地元の、九州の人もいるんでしょ。勧められたら断れませんよ」
「そりゃそうだ。でも何で?」
「いやあ、隠すつもりじゃないんですけど、ホント分からないんです。ついこのあいだ、えらい機嫌の悪いとき
があって、(こら、志水、おまえは酒入ると酒乱になる。自分でわかっとらんやろ、ボケ。今日から禁酒せい)
って。・・・勿論、酒乱じゃないっすよ、俺」
苦笑いしながら、志水は言い、困惑したような顔を見せた。
「そうか・・・、じゃあしょうがねえな。うん、わかった」
ちょっと腑に落ちない話だったが、Kと志水との話だ、俺が首を突っ込む筋合いではない。
「兄貴は疲れてるんですよ、ずっと。なんでも一人でやっちゃうから。しょうがないっすけどね」
志水はまだ何か言いたそうだったが、ため息を一つつくと自分の部屋に戻っていった。
そして俺は、気になりながらもホテルを出てネオンの街へと向かった。

その後、仕事は最終日まで順調に事は進み、さほど大きなトラブルもなく、初陣を飾ることができた。
売り上げもほぼ予算を達成でき、今後の展開のめども立った。
片付けもそこそこに、携帯で大阪のKに今回の報告をする。と、意外な言葉が返ってきた。
「ご苦労さんでした。ホンマ助かりました。ユウさん、ちょっと事情がおまして、今回の件これで終いにして欲
しいんですわ」
「えっ?」
俺は突然のことで驚くよりほかはない。
「すんまへん。2〜3日ゆっくりしてきてくれはったらええです」
俺はKの勝手な言い分に腹が立った。
「Kさん、事情があるんならちゃんと説明して欲しいね。せっかくだけど遊んで帰る気にはなんないから、明日
の晩会いましょう」
「そうですな・・・ほなそうしましょか」
(あまりにも勝手すぎる!この先のスケジュールも組んでるし、金だって既に払い込んでいる。いや、金のことよりナメられていることが悔しい。どんな事情があるか、それは分からんが、いきなりこれではめちゃくちゃだ)
予定を変更し、ホテルを一泊キャンセルして一人徹夜で車を飛ばすこととなった。
途中、サービスエリアで休みながら、電話で共通の友人にKの様子を探ってみた。
「ああ、Kな。ヤバイらしいで。エライもんでキップが出よるいう話が出とるわ」
俺はピンときた。
「御禁制品?」
「そうや、シャブいじってたらしいで」
「そうなの・・・」
<御禁制品>とは勿論「組」にとってのである。
Kの組のように、(シャブはご法度)を掲げている組織は意外と多い。かといってそんなに綺麗ごとがまかり通
っているとも思えないのも事実なのだが・・・。
「明日会って話をきいてみるわ」
「おお、せやな。ひょっとしたらハメられたんかもわからんでえ。あいつ自身はようやりよらんはずやしなあ」
俺は一瞬、志水に聞いてみようかと思ったが、今更意味が無いと思い返し、再び車を走らせた。

(シャブでのシノギが表に出たら、やっぱり破門だろうな。志水はどうなるんだろう?ミナミの店は?梢ちゃん
は?)
明け方の高速道を、眠気も感じずひたすら走りながらKの行く末を思った。

大阪の自宅にようやく帰り着いたのは午後2時を回ったところだった。
ソファーに横になるとそのまま泥のように寝てしまい、気がつくと部屋は真っ暗で、時計は七時を指していた。
睡眠を取って落ち着いてみると、案外大したことではない、間違いかもしれないと、少々楽観的な気分になった。
とりあえず汗まみれの身体をなんとかしようと銭湯に向かっていると、Kから携帯に連絡が入り、その風呂屋で
落ち合うことになった。
今では珍しくもないが、銭湯なのにサウナや個人のロッカーがあるという、当時お気に入りのスポットは仲間内では有名で、Kも勿論知っていた。
一足先に汗を流し、小さな庭の縁台で涼んでいること30分、遅れてKが風呂から上がってきた。
「お待たせしてすんません。今回はほんまにえらいご迷惑をお掛けしました」
パンツ一丁のKの身体は普段のイメージとは違い、がっちりとして逞しかった。
「うん、なにか訳がありそうだし、聞かせてくださいな」
縁台に並んで座り、缶ビールを開けた。
「ユウさん、突然でっけど、前から聞こう思てたんです。<右翼>てなんでっか?」
ホントに突然の問いかけで戸惑った。
「まわりに一杯いるじゃない。今更どうしたの?」
「おりますな。思想運動でっしゃろ。そら日本という国を愛し、天皇陛下を敬うことぐらいはわかりまっせ。せ
やけどそれはわしも同じですやん。どこが違うんでっか?」
「Kさん、俺みたいなものが口幅ったいけど、右翼人って自覚してる人は皆一匹狼なんですよ。たとえ組織にいるとしても原則は一人一党といって、自分で判断し、自分で行動する。そして目的を完遂し、責任は一人で負う。カッコいいこと言っているようだけど、実際そういう先人が少なからずいますよ。愛すべき全てのものに感謝し、死守する思いが普通のひとより過剰で強いんでしょうね」
「そんな究極の話をされてもワシにはわかりまへん。綺麗事過ぎまっせ。どんなことでも何かしよ思たら、邪魔が入ったり、嘘つかれたりして揉めたりしますやろ。経験して少しずつ賢なって、漸く己一人が食っていける場所を見つけるのがほんまの始まりちがいますの?その上で思想やらなんやら言えるんちゃいますか?理屈と思いだけやったら苦労しまへんで。」
(それはその通りだ)俺はそう思った。
「でもねKさん、男として信義をまっとうするということはどんな世界も一緒ですよ。いや、女性でも同じです
。棲む世界で表現の差こそあれ、大事なのは自分自身に誠実な生き方が出来るかどうかでしょう?」
「ユウさん、教えてあげますわ。極道の世界はちがいまっせ。本音だけではよう生きてかれまへんて」
(これを言いたかったんだな)俺は理解した。
「元々喧嘩しか取り柄のないモンが今は喧嘩も出来ないんでっせ。わしらみたいのが他と揉めますやろ、即、上からストップがかかりますわ。喧嘩で評価されへんのやったら、そらやっぱりシノギで頑張るしかおまへんわな」
Kはビールを一気に飲み干した。
「詳しくは言えまへんけど、そのシノギもままならんことになりましたんや。・・・ユウさん電話で怒ってはり
ましたなあ、分っかり易い人やな思いましたで。ワシやったら五月蝿いこと云わんとデカイ貸しにしときますわ
。こうして会うたら仕舞いですやろ」
ここまで聞いて、俺は思わず苦笑いしてしまった。(俺もあんたもどっちもどっちさ、あんまり利口じゃない)
満月が綺麗な晩だった。
二本目のビールはちょっと苦く、もうこの場の雰囲気には合わないと思い、河岸を変えることにした。

Kはバーの好きな男で、キタからミナミからバーばかりを転々とし、行く先々でその店の自慢の一品を2〜3杯づつ空けた。
カクテルをはじめ、酒の知識が桁外れに豊富なのは意外だった。
何軒目かで訪れた店は、古い思い出のあるところだと言った。
「酒自体が何年もかけて大事に造られるもんですやろ。おまけに更に旨く呑ませようとレシピが有り、人がおますわけですな。こんな贅沢なことありまへんで」
(ははあ、なるほどな。志水が怒られたのはK流の酒の呑みかたを理解しようとしなかったからだな、きっと。
普段は放っておいても、機嫌が悪かったら説明しないで怒り出すような男なのかもしれないな)
「結局、こないしてゆっくり酒を語れる連れがおらんかったいうのも、失敗の原因のひとつやろな」
目の前の大きな水槽では2匹の鮫が右に左に飽くことなく泳いでいる。
「酒の呑み方は此処で昔の兄貴に教わったんですわ。酒だけやなくいろいろうるさい人で、Yシャツの選び方なんか神経質でしたなあ。あんまりおりまへんで、そこまで凝る極道は・・・」
確かにそうだ。車、スーツ、靴に時計・貴金属はステータスになるので詳しい人は多いだろう。しかしシャツの糸番手まで気にするとは相当の洒落者だったのだろう。
Kは思い出すように、いつまでも水槽を見つめていたが、やがて俺のほうに向き直り、静かに口を開いた。
「これからどうなるか分かりまへんが、しばらく会うたりすることは出来まへんやろ。ユウさん、お元気で。右
翼の話持ち出して、えらいすまへんでした」
「なにか俺で出来ることがあったらやらせてもらいますよ」
Kは顔だけ笑いながら言った。
「なんにもおまへん。関わったらあきまへんで」

これがKとの別れとなった。

白々と夜が明け、ひとり家へ帰る道すがら、吉野家に入り、ビールと朝定食を頼む。
夜勤で仕事を終えた人、出勤前のサラリーマンらに混じって溶け込める自分がいる。
ビールをあおりながら別れたばかりのKの事を思ったら、急に涙が溢れ出た。
入れ替わる客で忙しい店内で、酔っ払った中年男はいつまでも椅子から立てずに泣いていた。


その後のことは訳有って詳しくは書けない。
Kは何故か多額の借金を背負いながら懲役に行き、その後音信は無い。
志水は今でも現役で、東京に来るとたまに顔を出す。
ちょっとは偉くなったらしい。



             <了>


 
吉野家で朝食を
          1992年(平成4年)


Kとは共通の友人を通じて知り合った。
Kは大阪、ミナミの一角で輸入品のディスカンウントショップを開いているが、それは表向きの商売で、実際は各種のパチもん(コピー商品)を大量に扱い、結構なシノギをしていた。
午前中、店舗裏の倉庫は入荷してくる荷物で一旦満杯になるが、夕方には全国の注文主のもとに殆どの品は配送され空になる。
日曜・祭日以外は毎日こういった状態で、もう2年近くも続いている。
ほとんどの品は某国からの輸入品なのだが、実は製造は別の国で行っており、手の込んだ方法でルートを確立させている。
さっすが極道!紹介が遅れましたがこのK氏、立派な青年やくざで御年三十、俺より若干年下だが貫禄でははるかに上回っている。
人心掌握術、気配りにも長けていて、例えばこの莫大な量の配送を、普通だったら大手の会社に任せコストを下げるところを、わざわざ高くつく系列の企業舎弟に委託し、内外からの危険から巧みに身を守っている。
当然金回りもよく、親分の覚えめでたく順風満帆・・・といいたいところなのだが、実は一つだけ気になることがあった。
Kが嫁の梢ちゃんにやらせている喫茶店「アトム」のことだ。ここはオープンして3年、カウンターとテーブル席合わせて20席ほどのこじんまりした店ながら、何とか採算が取れるようになった矢先、「あそこはポン中(シャブ中毒者)の溜まり場やでえ」との風評が立ち、それがまた悲しいことに事実なので、ここのところ何かと気を使うことが多くなっていたのである。

今回はそんな最中の話だ。

或る時、Kは五千枚という大量のシルクシャツと百数十着のカシミヤブレザーを抱え込んでしまった。ブランドものだけを手がけているはずなのに何故そうなったかは定かでないが、思うように捌けず四苦八苦した挙句、俺にお鉢が回ってきたのだ。
早速、大量の在庫が保管されている南港の倉庫に案内され商品を見ることとなった。
あらかたサンプルを見るとK は待ちかねたように訊いた。
「どないです?」
「ズバリ云って想像してたよりはるかにいいですね」
実際、その品が無地で、カラー・サイズとも豊富なのが心強く、内心ちょっとホッとした。
「方法はおまかせしますから、捌いてほしいんですわ。なんとかなりまへんか」
「Kさん、右から左で全て換金するのは難しいかもしれないが、小売でもかまいませんか?」
「それやと時間がかかりますやろ」
「分かりませんが、上手くいけば3〜4ヶ月」
「上手くいくんでっか?」
「今まで自分が経験してきた方法でやらせてもらえるなら、この商品に限っては自信がありますよ」
「ほんまでっか。・・・ユウさん、是非頼んます!」

俺は早速計画を立て、準備を始めた。
計画はこうだ。
販売展開は現金商売が出来る物販催事、それも規模の大きな輸入品のフェアを中心に狙う。
一般にはあまり知られていないが、輸入品のフェアは1985年(昭和60年)、当時の中曽根康弘首相の肝煎で「円高差益還元」をスローガンに全国規模で大々的に始まったもので、政府系輸入促進団体、通産省が全国の商工会議所や百貨店に呼びかけて次々と大規模イベントを打ち出した。
開始当初はものめずらしさ、話題性にたけ、大変な集客力があり、地方の開催でも大手の広告代理店が乗り込んで仕切るほどだったが、2〜3年すると案外簡単に飽きられはじめ、また国内の経済状況もバブルで大きく変貌していき、その後どんどん尻つぼみになり、大手百貨店は採算がとれず企画を見合わせるようになり、開催さえすれば必ず儲かる地方の小規模広告代理店だけがやっきとなって出展・参加企業を募るようになっていった。
そうなると当然のことながら、参加企業の質も落ちていき、予定した会場ブースを埋めるため煩雑な出展契約や規約が大幅に緩和されるようになり、事実上殆ど誰でもが出展料さえ払えば参加できるようになっていった。
そんな経緯の後、今となってまたもや緩やかながら円高気運が高まってきた。所謂第2次円高時期の到来である。
そしてほとんど死に体と化していた輸入品のフェアが息を吹き返していった。
幸い、俺は以前さんざん出展参加していたので主要な代理店とのコネが有り、成功する方法も熟知していたので、片っ端から開催スケジュールを調べ、売り場を確保していった。
成功=即売会での大きな売り上げをあげるためには、経験上、独自のノウハウがある。
まずは商品。他の出展者と競合しない物が大原則。割安感を出すため二重価格にし、その上で高級感を出す。
今回の場合は、「ピュアシルク100%」を強調する宣伝用のボードを黒のアクリルで製作し、イタリア語から適当に探したブランド名と男女外国人モデル(勿論知り合いのイケメン不良ガイジンに着させただけ)をあしらったポスターと、現場でバイトに大量に撒かせる同じデザインのチラシを作る。シャツを商品とするときは、通常、透明のポリエチレン袋に入れるだけなのだが、今回は木目調の化粧箱にひとつひとつ入れ、駄目押しする。
そして売り場作りと販売方法。売り場は他の出展者を圧倒するほどのブース面積を確保する。その大部分を宣伝ボードとポスターで埋め尽くす。ライティングは過剰なほどいい。アルバイトは行く先々で若い女の子ばかりを最低5名手配する。(これはどこでも主催者が手数料稼ぎで難なく用意してくれるので手間要らずで済む)彼女たちは開催の前日から雇い、商品搬入や売り場設営している中で、徹底的にセールスノウハウを叩き込む。もっともそう難しいものではなく、全員で決められたワードを元気に叫ばせるだけである。ここでは通常の接客用語は一切要らない。極端に言うと「いらっしゃいませ」も「ありがとうございます」さえもだ。何故なら「いらっしゃいませ」を言わなくてもすでに客は集まっているし(そうでなければ既に失敗)、キャンペンガールよろしく宣伝集客に専念してもらうので金銭のやりとりは必要ない。今回の場合で具体的に言うと、「イタリーブランド直輸入品でーす!」「定価*****円が本日****円でご提供でーす!」「本日分限定***着のみでーす!」「ピュアシルク100%の高級シャツでーす!」「おみやげ、プレゼントに最適でーす」といったワードをお揃いのユニホーム(当然商品のシルクシャツ)を着て、値段だけが大きく記されたスチレンボードを各々が持ち、アトランダムに叫んでもらうのだ。この方法だと、よくあるハンガーに商品を掛けてディスプレイしただけのものとは雲泥の差を説得力として持ち、着頃感も分かるというわけで衝動買いを誘発できるのである。客は男女ともサイズ別に並べられた棚に向かい、好みのカラーを選んで2箇所設置したレジに並ぶのだ。レジといってもレジスターは実は置かない。レジをいちいち打っているようでは忙しいとはいえないのだ。つり銭は1着につきちょうど100円玉1個ですむように値段設定してあり、領収書も着数ごとに予めたくさん用意しておく。売上金の札はダンボール箱に放り投げていくのである。
ホントにそんなことがあるのかと疑われそうだが、過去何度も体験していることなのだ。
具体的に言おう。今回のシルクシャツは定価¥23000をつけ、¥3900で販売する。
同じくカシミヤのブレザーは定価¥58000をつけ、¥10000ジャストで販売し割安感を出す。
商品の特徴やクオリティは大判の宣伝ポスターに針小棒大に表現しており、半信半疑な顔つきの人が覗き込むという寸法。
バイトの子には着心地のよさと「地元の人間」であることを機会あるごとに客にアピールさせ安心させる。
これらが<独自の成功ノウハウ>の中身である。

俺はKにあてがわれた舎弟、志水を現場のリーダーとすべく、準備段階から手伝わせノウハウを叩き込んだ。
志水は北海道出身の25歳、元ホストだがやわな感じはしない。機転も利くのでのちに随分助けられることになる。
突貫作業で仕上げてもらった各種の作り物も揃い、9月の声を聞くと同時に九州を皮切りとした催事めぐりの旅が始まった。
志水は彼女のマコちゃんを連れ、2tトラックで大阪を出発、フェリーで合流し、3人で会場のあるN 市へ向かう。
いくら慣れている仕事とはいえ、初日がオープンするまでは不安は残る。俺は船の中ではまんじりともせず朝を迎えた。

会場であるN市総合スポーツセンター到着は午前11時。予定通りだ。トラックから什器や備品を積み下ろし、売り場を設営しながら商品の到着を待つ。
会場に入るや、そのだたっ広さに初めての二人は目を丸くして驚いていた。
「一周200メートル位あるんじゃないすか?」
感心した様子の志水が云った。
「あるかもな。このくらいのキャパがないと一日2万人も集客できないんだよ」
「はあ、なるほどねえ。こりゃすげーや」
「此処は大丈夫だ、きっと売れるぞ」
自分自身にも言い聞かせるつもりで俺は断言した。

(続く)




4月17日

今回はちょっと趣向を変えて、7年前の、とある出来事を書いてみます。

        
<徹(トオル)ちゃんの憂鬱> 平成8年某月某日

午後一時、徹ちゃんの事務所へ行く。事務所といっても、弟さんの経営する板金工場の二階にある、十坪ほどの部屋だ。来客用の応接セットと隅に自分のデスクセット。一応極道らしく、壁にはメタル製の代紋と本家親分の和服姿のフルショット写真が飾ってある。お昼時ここへ来ると決まってそうするように、今日も頃合を見計らって俺の好物の(と勝手に思い込んでいる)ヤキメシ(チャーハン)の出前を取っていてくれている。
「で、何なの急用って?」
こういう呼び出しの時はろくでもないことが多い人なのだ。
「ま、食べながら話そか」
徹ちゃんは,ここのところあまりうまくいっていないシノギのこと、近日中に審判の出る自分の控訴審の希望的観測(現在保釈中の身)などを独特の甲高い声で長々と語る。食事を終え、一服済ませても、一向に本題に入らない。
「俺、仕事に戻らなきゃなんないからさあ、肝心の話を聞かせてよ」
「おっ、せやな。忘れとった」
”なにが忘れとっただよ、とっとと話せよオッサン!”実は徹ちゃん、自分より一回りも年上の五十歳。関西の某広域任侠組織の三次団体にあたる組の舎弟頭である。かつては抗争でいい仕事をしたこともあるのだが、長い懲役から戻ってからこのかた不遇な時代が続き、運の悪さも手伝って苦労している。抜群の人の良さが出世の妨げになっているのは明らかだが、外見とのギャップがなんともいとおしい。知り合って1年、年下で生意気なこの俺をどこがいいのか気に入って、「おもろいヒトやでえ」とあっちこっちに連れまわす。そんな人である。
「実はな、ワシの一番上の娘がおってな、今年30の出戻りなんやが・・・もっとも子供の時分から前の嫁はんのところで育っておったんで、出戻りいうてもワシが困るわけやないんやけどな」
徹ちゃんは上着の内ポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
「その娘が、涼子いうんやが、さっき突然現れよってこれを置いてったんや」
「金?」
銀行名が印刷されている封筒には少し膨らみがある。三十とみた。
「そうなんや。5〜6年前になるかなあ、結婚の報告でちょっと会おて、その前は十何年も顔見てへん子やで」
「いいじゃない、貰っておけば。お父さん困ってると思って気を使ったんでしょ、いい娘さんじゃない
。またシノギが良くなったら倍にして返してあげたらいいんだから」
「うん・・・せやけどワシ自分の子供から銭貰たん初めてやし、ショックやなー」
聞くと、涼子さんは看護婦(今は看護士か)をしていて、結婚中も仕事を続けていたので、今では病院内でもベテランの部類に入るらしい。同居しているお母さんとおばあちゃんにも月々幾ばくかのおこずかいを渡しているという、とても目の前にいる鬼瓦のような男の実子とは思えないほど良い娘さんであるようだ。
「うん、それで?」
「今晩、一緒に飯しよいうて・・・。ええよとは言うたものの、照れくさいいうか、ちょっと困っとる。なに話してええかわからんしやな・・・で、ユウさんに一緒に来て欲しいわけや」
「ああ、そういうことね。でも俺行かない方がいいと思うよ」
「アカン、アカン。一緒に行ってアレが何考えとるのか探ってほしいわけや」
「それは徹ちゃん、あんたの仕事だよ」
とはいったものの、言い出したら聞かないこの男のこと、すでに内心は諦めはじめていた。
「まあええがな。ほな、晩6時に迎えにいくさかい、頼んまっせ」

こんなわけで妙な父娘の晩餐に付き合わされるはめとなった。

その夜・・・
宗右衛門町のしゃぶしゃぶ屋の個室で会った徹ちゃんの娘、涼子さんは、身長170センチでスタイルが良く、顔も確実に美人の部類に入る、なかなかの女性だった。徹ちゃんはといえば、最初のうちこそ落ち着かない様子だったが、酒が進むにしたがい何時ものようによく笑い、よく喋る明るいオヤジになっていた。やっぱり俺は邪魔だったかなと思い始めたときだった。涼子さんが自分自身に語るように静かに口を開いた。
「小学校5年のとき、お父ちゃんと別れてから子供心にめっちゃ怨んでた。もう大嫌いやった。一生会いたない思てた。」
「せやろな」
「でもな、おとうちゃんの悪い話が出るたびに、おばあちゃんだけはいっつもかばってはった。親子やからなあ思ても、おかあちゃんのこと考えると絶対理解できへんかった」
「ほうか・・・」
「・・・死ぬほど貧乏やった・・・」
涼子さんは俺の目も気にせず肩を震わせ低く嗚咽した。
・・・三十路女の細い腕が哀しかった。
「すまんかったな」
徹ちゃんも目を真っ赤に腫らしている。
「今更云うてもしょうもない話やけど、一遍ちゃんと云うときたかったわ・・・。けどお父ちゃん、あたしも
年取ったんかなー、離婚してうちに戻ってから急にお父ちゃんのこと気になりだした。今はおかあちゃんもお
ばあちゃんもそこそこ楽しみももっとるようやしな・・・。けどどないもできへんやん、こんなんしてお父ちゃんと会うてるのおかあちゃん知ったら卒倒しはるわ、きっと」
「せやなあ」
「まあお父ちゃんもちょっとは変わったようやし・・・けどアホの病気だけは一生治らんやろけどな」
アホ・・・か。確かに俺も徹ちゃんもアホだな。行き当たりばったりで生きてきて、我儘のし放題。自分の事しか考えず、気がついたら家族を無くして、しかも年々後悔の念が増していくなんて・・・。
「なあ、お父ちゃん・・・、カタギになってくれへん?」
涼子さんの突然の申し出だった。徹ちゃんはちょっと驚いた様子をみせたが、はっきりと断言した。
「アホいうな。無理な話や」
「いろいろ噂は入ってんねんで。上の人らはお父ちゃんのこと厄介に思てはるそやない。はっきり言うたら
お荷物扱いされてるねやで」
「何も知らんと、ええかげんにせえよ。ワシはちゃんと仕事をして貢献しとる。おまえが首突っ込む話や
ない。これ以上ごちゃごちゃ言うたら許さへんど」
「なに言うてんの。いい歳して人脅かして、またおつとめですかあ?難儀なことやねえ。」
「おまえには分からん訳があんねや!」
高い、大きな声で怒鳴った。だが実際今回の事件は、全く個人的でろくでもない恐喝未遂事件で、そのことは当人自身がよく承知していることだった。だから・・・痛いところを突かれた!・・・。
「大きな声出さんといて!恥ずかしいわ」
「帰れ!お前のその思い上がった態度はお前のかあちゃんそっくりや。だいだいこんな銭やら持って来よっ
て、親を何や思とんのや!」
徹ちゃんは、本当は嬉しくて持っていたはずの封筒を涼子さんにつき返した。俺は、といえば上手い言葉も挟めず、全くの役立たず。徹ちゃんをたしなめる気には不思議となれず、かといって、涼子さんに徹ちゃんの立場を説明し、理解してもらえる自信もなかった。
「・・・あかんわ」
そう云うと、涼子さんは立ち上がり部屋を出た。

「ユウさん、すまんがちょっと追いかけて、アレに渡してくれへんか」
徹ちゃんは小さな紙袋を出した。それは趣味が一緒の我々には見覚えのある店のもので、一目で中身が想像できた。俺は飛び出し、店を出たすぐのところで彼女に追いつき、手渡した。
「こんなことになっちゃったけど、お父さんがわざわざ用意してきたんだから受け取ってあげてよ」
「ありがとう・・・。父に伝えて下さい」
「何だと思う?」
「知ってはるんですか?」
「いや、でもだいたいわかる。いいものだよきっと・・・ちょっとごめん」
俺は涼子さんの左手を取り、腕に着けていた某ファッションブランドのドレスウォッチをはずした。
「こっちのほうが似合うと思うよ」
おせっかいだが、俺は袋の中身を開けるよう促した。
「・・・ウワッ!なんですかこれ?」

ロレックス・オイスターパペチュアル・Ref.6516レディース/K18ピンクゴールド・‘60年代製・>

「お父さん、時計については一家言持ってるんだよ、知らなかったでしょ」
「全然・・・」
「選ぶのに相当苦労したと思うけど、それも楽しかったと思うよ」
「・・・そうですか・・・。」
 


暫くして・・・徹ちゃんの裁判は控訴棄却となり刑が確定、収監された。あれ以来徹ちゃんとは顔を合わせていない。あの親子はどうなったんだろう。時々は会ってるんだろうか。父から贈られたロレックスをつけて・・・。



                        <了>



 <3月19日>

巷間伝えられている情報では、アメリカがイラクに攻撃を開始するのは明朝とのこと。
いよいよホントに始まってしまうのか。
思えばちょうど一ヶ月前はバクダッドにいたんだよなー。
2月19日は・・・日記によると、朝9時半パレスチナホテルを出発。バスで国際会議場へ。
「NASYO」(THE INTERNATIONAL STUDENT AND YOUTH FORUM)の反戦会議が始まる。
キャパ1000人位の会場は、世界40ヶ国から参加した人々で満員で、客席中二階にはバース党の幹部が陣取り、二階席は地元イラク民が多数を占めている。
会議は開催者の挨拶から粛々と進み・・・とはいかなかった。
演壇に立ち、反戦メッセージを述べる各国の代表者の話の途中で、客席からバンバン賛同のシュプレヒコールが沸き、回りの人たちが更に
煽り、音頭を取るといった具合で2〜3分中断し、再開したと思ったらまた別の場所でコーランを読み上げる人が出てきて(これが結構長い)中断し、とこんな具合でどんどん時間は遅れ、大幅延長。こんな会議がまかり通るということに少なからぬカルチャーショックを受けた。
午後一時、ホテルに戻り昼食。
午後三時、バクダット市内の国連支所に向かい反戦デモ行進。あいにく時折小雨が交じる天候だが、参加者は意気軒昂。
日本では考えられないことだが、パトカーで誘導する警察官が身を乗り出して我々を応援するというなんとも和やかな雰囲気の中、これも
また少し時代が違えば有り得ない事だが、自分の隣に塩見孝也さん(元赤軍派議長)がいて、「いいねー、楽しいよなー」と子供のようににこにこしている。我が参加団のマドンナ、沢口知美嬢、和服で着飾った雨宮処凛さんはギャラリーからキャーキャーいわれて握手とサイン攻め。
国連支所前に着き、「NO WAR!」「NO!NO!USA!]「NO!NO!BUSH!]の大シュプレヒコール。いやー最高!
日本から持ってきた「SAVE CHILDREN!」のアピール文字入り日章旗は、いつもホテル前にいる靴磨きの少年に貸したところ、
これが大活躍。旗を掲げて走り回ってくれたおかげで認知度満点、大いに効果があった。
午後六時、一人でタクシーに乗ってみたくて外出。アルラシッドホテルへ。予想していた通り運ちゃんにふっかけられる。「テ、テンダラーだあ?」相場は2ドルと聞いていたが、外国人が一人でだと必ずぼったくられるとも聞いていた。すったもんだした挙句、間を取って5ドルで決着。現地四日目で、物価の安さにも少し慣れ、とってもケチな気分になっていたのだろう、凄く損した気分だ。
ともかく着いたのでホテルに入る。と、ナンダ、ナンダ!玄関の床に大きな絵が、”父ブッシュ”の絵が描かれているのだ!「これは・・・まさしく踏み絵だ!」。すっげーなあ、この徹底的な反米ぶり。改めて、襟を正して床を踏みつけ、中に入った。
午後七時、パレスチナホテル内の会議場で再び反戦会議。出席者7〜80名。
午後十一時、闇で買った大事なビールを、今日も大事に一本いただき、ご機嫌よく就寝。


うーん、こうしてみるともう随分昔のことのように感じるなあ。
いやいやこんなことをしている場合じゃーない。
最後っ屁を放ちにアメリカ大使館に行かなきゃ。
と、いうわけで、午後5時すぎに大使館前に着くと老若男女が5〜60人、思い思いの抗議アピール。
しばらく様子をみているも、どうもいまひとつ盛り上がりにかけるのはまだ時間が早いせいか。
一旦抜け出し、新宿へ。しかしここ新宿も東口・西口とも普段とそう変わりなく、緊迫感は感じられず。
再び大使館前に戻ってみると、オオッ増えてるぞ!100人は居るんじゃないか。
時は7時を過ぎてあたりはすっかり暗くなっているが、紙コップにローソクの手作りキャンドルを持つ人で溢れている。
若い人が多いのだが全体的にみんなおとなしい。おとなしすぎるぞっー。
ということで、スマップの曲なんかが流れている中、少々場違いなのは承知之助、ザップから紙切れ1枚とファイターズの応援用メガホン
を取り出し、おもむろに抗議文を読み上げた。終わると一斉に拍手喝采・・・のはずだったのだが。アレッ・・・?
肩を落として午後8時半帰宅。友人に報告のメールをし、「よしまたやってやる!」と強く心に誓ったのでした。


以下はその抗議文の全文。
<緊急抗議文>

今般の貴国の不当なるイラク国攻撃通告に対し、我々日本国民は断乎として反対の意思を持ち、即時撤回の要求を強く求めるものである。我々はサダム・フセイン及びイラク国家体制そのものを支持するわけではなく、今、正に始まらんとしている戦闘により、生命・財産を奪われることを余儀なくされているイラク民衆に連帯するものである。そして非道な行動を起こさんとする貴国、ブッシュ大統領に対し、その神をも恐れぬ殺戮行為に今一度静かに胸に手を当て、猛省を促すものである。9・11テロの犠牲者の、その無念を我がものと真摯に受け止めるのならば、今、正に自らが同じ悲劇を繰り返そうとしている愚に一刻も早く気づくべきである。ブッシュさん、日本国民をナメてもらっては困る。我々は、かつて貴国の原子爆弾投下により地獄を見せつけられ、人間の尊厳を破壊された同胞の恨みを、今でも決して忘れるものではない。このまま開戦ということになれば、貴君の独裁者ぶりは万人の認めるところとなり、必ずや天誅を受けることになろう。我々日本人は声を上げ、行動をもって、全ての民族の自決を尊重し、一国帝国主義と闘っていくものである。
       
                                     平成15年3月19日
                                      
                               イラク攻撃に反対する民族派有志会
                             
                                         米国大使館殿


プロフィール
昭和34年東京生まれ
16歳の時、翌年児玉邸特攻殉死する前野霜一郎と日活で邂逅。
この事件を当時唯一支持した故阿部勉氏との知遇を得、
その後昭和52年の経団連事件以降、野村秋介氏を信奉する。
在阪の民族派団体幹部を経て、現在群青の会副会長。
スカジャン屋の親爺でもある。
スカジャン親爺のお小言日記