《日露戦争と拓殖大学》


◎近代日本とともに歩んだ歴史

 今年は大東亜戦争降伏60年という無念な屈辱の年である。しかし、また一方では、日露戦争の勝利から100年という輝かしい記念すべき年でもある。
 西暦を使用するのは不本意だが、世界史を語る上でやむを得ない事と不承不承ながらも使用して行きたい。20世紀の世界史を語る上で、日露戦争と大東亜戦争は大きな意義がある。両者ともにアジアが舞台であり、日本が主役の一方を務めている。
 日露戦争は、大航海時代以降、有色人種が白色人種の侵略を食い止めた唯一の例である。また、大東亜戦争は、白色人種の植民地支配に終止符を打った偉業である。日露戦争は我が国の勝利であったが、大東亜戦争は我が国の敗戦で終った。これは、まぎれもない事実だが、だからといって、大東亜戦争の意義は些かも揺るがない。
 日露戦争は20世紀の奇蹟でもある。それと同じく大東亜戦争は20世紀の悲劇ではあったが、同時に20世紀の義挙でもあった。僕らは先人が戦ったこの2つの戦争を誇りと思い、後世まで伝えて行かなければならない責務がある。
 僕の母校である拓殖大学は、近代日本の歴史とともに歩んで来た学校といえる。『拓殖大学六十年史』(昭和35年11月3日発行)の序で、当時の総長(第10代)である矢部貞治が「この六十年史は、本学の建学精神の独自性に鑑み、単に本学の栄枯盛衰の歴史であるのみではなく、同時に明治、大正、昭和にかけての、日本国家の有為変転の歴史でもある」と記しているが、まさしく我が国の近代史と拓殖大学の歴史は、表裏不可分の関係にあった。特に日露戦争から大東亜戦争にかけての激動の時代では、全く同じ歩みであったと言っても過言ではない。
 拓殖大学では 明治天皇の御誕生日である11月3日を創立記念日としている。また、明治45年(西暦1912年)4月23日に学校が恩賜金拝受の恩命に浴した栄誉を記念して、4月23日を恩賜記念日と定めた。


◎台湾協会と桂太郎

 拓殖大学は、明治33年(西暦1900年)に台湾協会学校として創立された。19世紀最後の年に、20世紀に向けての使命を帯びて誕生した学校である。
 明治28年(西暦1895年)、日清戦争の勝利によって、我が国は台湾を領有する事になった。台湾総督には、海軍の樺山資紀、陸軍の桂太郎、乃木希典、児玉源太郎など、我が国が誇る将軍たちが任命された。総督は単なる行政長官ではないし、また単なる駐留軍司令官ではない。行政と軍事の長である。その大役を果たせるだけの人物を配したのである。
 桂は台湾総督の任にあったのは短かったが、台湾協会の結成に際して、会頭への就任を請われ、受諾した。明治31年、第3次伊藤内閣の陸軍大臣(当時は陸軍中将、後に大将)であり、子爵(後に公爵)であった。
 当時の台湾では、官民を問わず質の悪い日本人が横行しており、桂の後任総督であった乃木も児玉も頭を悩ませていた。桂も当然、その事を痛感していた。そこで、会頭となった桂は、台湾協会の使命として、台湾に赴く日本人を養成する事を考えた。つまりは学校の設立である。こうして誕生したのが、台湾協会学校、現在の拓殖大学である。
 学校の校長には、協会の会頭である桂自らが就任した。陸軍大臣として、内閣総理大臣として、多忙な桂だったが、学生の教育には熱心であった。日露戦争という国家民族の重大時でも校長を務めていた。桂が校長を辞するのは、明治から大正と聖代が変わり、内大臣兼侍従長として宮中に入る時である。
 日露戦争の後、桂と西園寺公望が交替して宰相をつとめる桂園時代が続くが、宰相を退任していた時に欧州に視察に出かけた。かつての敵国ロシアで 明治天皇崩御の悲報を拝した桂は急遽帰国し、側近として 大正天皇の輔弼の任についた。さらに3度組閣の大命を受けるが、志半ばに退陣、そして無念の死を遂げた。大正2年(西暦1913年)10月10日、従一位大勲位公爵として蒙去。享年67歳。
 拓殖大学の学生は、この時を『三国史』と重ねた。先帝の遺命により新帝を輔弼しつつも志半ばに倒れた諸葛孔明の姿に、桂を見たのである。その後、学生は校庭を五丈原、校舎を臥龍窟と呼び、土井晩翠の『星落秋風五丈原』を愛唱している。
 第2代校長の小松原英太郎は、桂の遺訓を整理して、校訓とした。その遺訓は次の通りである。


桂公遺訓

一、忠愛の精神は本校の生命なり
一、国家観念に基きて身を立て道を行ふべし
一、大国民の態度品位を理想とすべし
一、智徳の研修は真剣になすべし
一、誠意忠実に職責を重んずべし
一、服従を守り規律節制を重んずべし
一、身体を鍛練すべし


◎ニコポン宰相と戦時宰相

 桂太郎は、弘化4年(西暦1847年)に長州藩士の子として生まれた。世代的には吉田松陰は勿論、高杉晋作や久坂玄瑞、さらに伊藤博文や山県有朋たちよりも後輩となる。年齢の違いはあっても、乃木希典や児玉源太郎と同じ世代になる。明治維新世代ではなく、日露戦争世代ともいえる世代である。しかし、桂は終生尊敬していた叔父の中谷正亮を介して、松陰没後の門人であったともいえる。中谷は文久2年に亡くなったが、少年期の桂に多大な影響を与えた。中谷の墓は、世田谷の松陰神社にあり、桂の墓も隣接の地に建立された。
 明治維新の後、陸軍に入った桂はドイツに留学し、帰国後は陸軍の中枢を歩んで行く。第3師団長や台湾総督などを歴任した後、第3次伊藤内閣に陸軍大臣として入閣し、大隈(第1次)・山県(第2次)・伊藤(第4次)と留任して、明治34年に内閣総理大臣となった。
 桂内閣は若手で構成された為、「次官内閣」とか「二流内閣」とか笑う者もいた。しかし、その顔ぶれを見ると、外務大臣に小村寿太郎、陸軍大臣に寺内正毅、海軍大臣に山本権兵衛、そして内閣の要ともいえる内務大臣には児玉源太郎…と、ロシア対策に直面した当時、最も力を発揮出来る精鋭で固められている。
 桂はニコニコしながら肩をポンと叩いて親しく話しかける事から、ニコポン宰相と呼ばれている。たとえ政敵であろうと、である。この温厚な性格が日露戦争という祖国の危機的な状況では大きなプラスとなった。
 このニコポンが、我が国の近代における戦時宰相として最大の功績を桂に与えたともいえる。大本営と現地軍、陸軍と海軍など、いろいろな対立があっても、桂はニコポンで調整に辣腕を振るった。
 満州軍総司令部を巡る参謀本部や陸軍省と児玉との確執についても、桂はニコポンで仲裁に入った。古川薫の小説『山河ありき/明治の武人宰相桂太郎の生涯』には、陸軍内部のゴタゴタに文官である内閣総理大臣が介入する事には問題があると渋る桂に対して、山県が「ニコポンの腕をふるってくれんか。介入ではなく仲裁と思えばよい」と依頼する場面がある。小説の一場面だが、同じような事実があったのだろう。陸軍大将の資格ではなく、内閣総理大臣としての仲裁については、後世の陸軍軍人が「総理大臣の介入」と批判しているそうだが、桂や山県のような大局的な判断が出来ず、国家の危機的状況を理解出来ない軍人が増えた事が、大東亜戦争の敗北を招いたのだろう。
 とは言っても、近頃流行の司馬某の歴史観みたいに「明治は良い!」「昭和は駄目!」という愚劣な考えは断じて肯定出来ないし、肯定すべきではない。「我が国」を「この国」と呼ぶような愚劣な歴史観は絶対に間違っているからである。


◎興亜思想揺籃の地

 拓殖大学の茗荷谷校舎(現在は文京キャンパス)は、文京区にある。正式な地名とは別に「紅葉ケ丘」と呼ばれている。
 拓殖大学には拓大文化ともいうべき独特なものがある。その1つが『拓殖大学歌集』である。その「序文」を読めば、「此処興亜思想揺籃の地 紅葉ケ丘に籠れる健児二千 時に国を憂ひ亜細亜を想はば…」とある。また、そこには学生が好んで使う「熱血武侠の紅陵健児」とある。紅葉ケ丘に学ぶ学生をこのように称している。
 『歌集』には「校歌」「応援歌」「学生歌」だけではなく、「蒙古放浪歌」「馬賊の歌」「狼の歌」「満州哀歌」…と支那や満州などに関連する歌が多い。代表的な演舞である 「勝チマス踊リ」では「興亜の雄図」を歌ってから、乱舞乱動として「キツトカチマス カタセマス」と叫び、歌いながら踊るのである。
 興亜の理想が拓殖大学の理念として、学生たちに堅持されたのは、単なる学問によるものだけではなく、『歌集』に代表される魂の鍛練によるものが大きかった。そして、その根本は、日露戦争以来、国家民族の為に挺身して行った幾多の先輩たちの姿に支えられて来たのである。
 戦後に不二歌道会の相談役をつとめた大川周明は、戦前には教授をつとめていた。大川は名著『復興亜細亜の諸問題』の「序」において「十年以前、出家隠遁さへし兼ねまじかりし専念求道の一学徒、今は即ち拓殖大学に植民史を講じ植民政策を講じ、東洋事情を講じつつ、武侠の魂を抱いて紅葉ケ岡の学堂に知識を練る青年と共に、復興アジアを生命とする一戦士となつた」と述べている。大川の門下生からは、理事長や学友会長(同窓会の会長)など、幾多の俊英を輩出し、戦後の拓殖大学を支えた。
 大川をはじめ安岡正篤、満川亀太郎という先達を拓殖大学の教授に招いたのは、第3代学長(校長から改称)の後藤親平である。日露戦争の勝利により、帝国の版図が拡大された事に伴い、台湾協会が東洋協会へと改組され、学校も台湾協会専門学校→東洋協会専門学校→東洋協会植民専門学校→拓殖大学と発展した。後藤は、桂の要請により台湾総督府に赴任し、民政長官などをつとめるなど、拓殖大学に近い人物であった。桂が校祖として仰がれ、後藤は中興の祖として称えられている。


◎拓殖招魂社の英霊

 明治37年(西暦1904年)、日露戦争が始まり、卒業生および在学生96名が陸海軍の通訳として従軍した。当時の学生の正確な数は資料不足の為不明だが、1学年100名前後であった。明治35年(西暦1902年)9月の始業式当時の学生数は「七月及第の一年生八十一名、二年生六十三名で、今回の新入生百十一名を合せて二百七十一名」と記録にはある。なお、明治36年(西暦1903年)7月に行われた第1回の卒業生は45名である。
 明治37年4月には、台湾協会学校は台湾協会専門学校となり、発展しつつあった。そのような活気あふれる時期に、御国の御為に御役に立てるのは、男子の本懐であった。当時の事情について、幹事の門田正経(後に幹事長)が後日、「急に開戦せられたことであつて、此戦争の土俵場である所の支那語の通訳に当たる所の人が、極めて乏しかつた。陸軍省は之を外国語学校に求め、其他予て清語に通ずる者を求めたけれども、尚ほ足らなかつたのみならず、本校に於ても時こそ来れ、直接に国家事業に貢献するのは此時であらうと思つたのであります」と説明している。
 戦争前の緊迫した時代、台湾総督の児玉源太郎、民政長官の後藤親平らが学校を訪れ、生徒たちに講義(訓話)を行っている。これらの訓話が、後に戦地に赴く青年たちに多大な影響を与えた事であろう。
 戦地に赴いた青年のうち在学中に従軍し遂に帰校卒業しなかった者も多数いる。また、多数の方々が国難に殉じられた。日露戦争では19名の殉国者がおられたと聞くが、『拓殖大学八十年史』(昭和55年11月3日発行)に「従軍死亡者行賞」として氏名が記載されているのは、次の5名である。

 脇光三
 石沢喜二郎
 田伏勇平治
 寺田一
 山本春治

 脇を始めとする日露戦争から大東亜戦争までの戦歿者、また、建学の理念に殉じた先輩を祭る拓殖招魂社が、昭和7年に学生たちの募金よって建立された。戦後撤去される屈辱があったが、昭和55年に八王子キャンパスに再建され、今日に至っている。合祀されている英霊は329柱である。今日でも4月23日の恩賜記念日には春季例祭が、11月3日の創立記念日には秋季例祭が挙行されている。


◎烈士脇光三

 脇光三は拓殖大学の1期生である。もちろん当時は拓殖大学ではなく、台湾協会学校であった。脇は教育者として名高い浅岡一の三男として東京で生まれ、脇家に養子に入った。浅岡は福島の二本松藩の出で、師範学校や女学校などの教授や校長をつとめた。長野師範学校の女子部での教え子が、後に「東洋のマタハリ」と称された河原操子であり、脇が彼女に辞世を託している。
 なお、脇の伝記については、不二歌道会の参与である田中正明先生が『落つる夕陽よしばらくとまれ/烈士脇光三伝』を拓殖大学から刊行されている。また、脇家は彦根藩である事から、戦前には彦根市からも『烈士脇光三伝』を出されている。田中先生の郷里である長野県は、脇の実父が教育者として多大な足跡を残した地である。
 明治13年(西暦1880年)に生まれた脇は、実父や養父の転勤に伴い、全国各地に学んだ。杉浦重剛の日本中学を卒業した後、脇は医師を目指して第二高等学校に進んだ。大陸熱にとりつかれたと実父が嘆いていた脇は軍人志望であったが、体格検査の結果あきらめざるを得ず、軍医となって大陸を目指した。そのような時に台湾協会学校が設立された事を知った脇は、二高を中退して、仙台から東京に出て、台湾協会学校に入学した。先に述べた児玉の講義に感動した脇は明治35年(西暦1902年)、念願であった大陸への雄飛を実現した。
 日露開戦後、ロシア軍背後の交通・通信線を破壊する使命を帯びた特別任務班が編成され、当然の事のように脇は参加した。この構想は、参謀次長時代の児玉によるものであった。脇は、横川省三を班長とする第一班に属し、沖禎介、松崎保一、中山忠熊、田村一三とともに、東清鉄道を爆破する為に支那から満州へ向かった。
 明治37年(西暦1904年)4月12日、鉄橋爆破を目前にして、横川と沖はロシア軍によって逮捕された。脇らは再度集結する際、土民の襲撃により殺されたと伝えられている。彼らの任務は失敗に終ったが、再度の攻撃を恐れたロシア軍がかなりの勢力を鉄道警備に回さなければならなくなり、敵の戦力を削ぐという目的は達成する事が出来た。横川らはハルピンで銃殺されたが、その堂々とした姿勢は、世界に対して武士道を示すものであった。
 明治41年(西暦1908年)、東京の護国寺に「報国六烈士碑」が建立されたのを始め、大正10年(西暦1921年)にはハルピンに「志士之碑」など国の内外に、彼らを顕彰する碑が建てられた。昭和6年(西暦1931年)には拓殖大学内に「烈士脇光三碑」が建立された。この碑は文京キャンパスにあったが、現在は八王子キャンパスに移転された。碑の後には、乃木希典の縁と伝えられている水師営のナツメの種から生まれた木が植えられている。
 平成16年4月23日、拓殖招魂社春季例祭に合わせ、「烈士脇光三碑」前において、八王子子安神社の神職の奉仕により、脇光三先輩百年祭が厳粛に執り行われた。大学からは役員・教員・職員、学生、卒業生ら多数が参列した。
 脇がカラチンにおいて、河原操子に託した辞世は次の通りである。


烈士辞世

一朝宣戦   除百年憂
吾党有士   死賛皇献
興安西峙   松華東流
侠骨可埋   此山河頭


(『不二』平成17年12月号から転載いたしました)


《独立自尊の気合》


◎風雲児の詩

内憂外患迫吾州
正是存亡危急秋
唯為邦君為家国
焦心砕骨又何愁

内憂外患吾州に迫る
正にこれ存亡危急の秋
唯邦君の為家国の為
焦心砕骨又なんぞ愁へん

 これは幕末の風雲児であり、明治維新の立役者の一人である長州の志士、高杉晋作先生の「題焦心録後」と題する漢詩である。高杉先生についての説明は必要あるまい。
 現在の我が国の状況を日清戦争前や日露戦争前に例える人がいる。国際情勢を見ると、確かにその通りと言える。しかし、我が国の国内情勢は全く違っていると言って良い。英明なる 天子様を仰いでいる事だけは不変だが、輔弼する政府や政治家が全く愚劣な存在に堕落しているからだ。
 日清戦争や日露戦争の時には、伊藤博文公爵のような大政治家がいた。伊藤公爵は、吉田松陰先生や高杉先生らの大英傑に比較すると、かなり劣る人物かも知れない。しかし、我が国の憲政史上における政治家として見る時、最大最高の政治家である事は否定出来ない。また当時は、伊藤公爵ほどではないせよ、現在では望むべくもない政治家たちも多数いたし、軍人たちもいた。その点においては、現在の危機は日清戦争や日露戦争の時よりも深刻な事態と言えよう。
 政府構成員に内政や外交の能力も気概も欠如している現在の状況は、徳川末期すなわち幕末の状況と同じであろう。自民党と公明党との野合による無能・無策・無恥の政権は、家慶・家定・家茂・慶喜と続く徳川将軍にも劣る政権である。
 今、必要なのは、高杉先生のように過激で無謀な行動であろう。暴挙愚挙とも非難される行動、別の言い方では猪突猛進の軽挙妄動なのかも知れない。無能・無策・無恥な政権を倒す為には、無謀・無茶・無理・無私な行動しかない。エゲレス公使館を焼き討ちする行動である。


◎内閣総理大臣の「私的」な「訪問」

 10月17日、日本国内閣総理大臣の小泉純一郎が、「私人」とした資格で、「私的」である事を強調して、靖国神社を「訪問」した。これは「参拝」と呼ぶ事はおろか、「表敬」の名にも値しない「訪問」に過ぎない。しかも、この訪問ですら、わざわざ「私的」だの「私人」だのを強調しているのだから、まさに喜劇と呼ぶしかない。
 10月17日は神嘗祭の日であり、靖国神社の秋季例大祭の清祓である。この日の午前を秋季例大祭と評価して良いのか、どうかは分からぬが、小泉の行為は断じて評価されるものではあるまい。卑劣で姑息なこの男の性格を見事に表している出来事である。
 9月30日に大阪高等裁判所で出された所謂「違憲判決」で腰が引けてしまった小泉は、「私的」を強調するあまり、過去4回の方法とは異なったやり方で、靖国神社を「訪問」した。
 礼服ではなく、普通の背広で靖国神社に来た小泉は、昇殿せず、拝殿の前でペコリ、ポケットから賽銭を出して投げ、手を合わせて、またペコリである。一礼合掌一礼とする報道もあったが、あれでは「礼」ではあるまい。「ペコリ」である。いや、あれでは「ペコ」の程度と言えよう。小学生が先生にあんな挨拶をしたら、僕の子供時代ならば怒られたものだ。小学生の挨拶以下の態度である。
 さらに情けない事に、小泉は、今まで「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳だけはしていたが、今回はそれすらも行わず、さっさと帰ってしまった。希代の国賊である中曽根某という男も酷かったが、小泉も同罪である。
 中曽根という男は「お払いを受けず、二拝二拍手一拝せず、一礼するだけならば、憲法に違反しない公式参拝である」などと、デタラメかつゴマカシの屁理屈をつけて、靖国神社への「参拝」を「訪問」にすり替えた国賊である。
 その元凶を辿れば、三木武夫となる。この馬鹿者は、わざわざ「私的参拝」と広言して、靖国神社に参拝した国賊である。三木以前の総理大臣は、春や秋の例大祭に正式参拝して来た。日本国の総理大臣が靖国神社に参拝するのに「公的」も「私的」もない。あるとすれば「正式」な参拝だけである。しかし、三木は、わざと問題を起こすかのように8月15日に「私的」と広言して参拝したのだ。まるで、靖国神社への参拝が政治問題になる事を仕組むかのように。
 今更言っても仕方ないが、もし小泉が公約通り、8月15日に参拝していたら、どうなっていただろう。おそらく中共も韓国も、今のように抗議はして来なかったのでなかろうか。支那や朝鮮という国?民族?は、強く出て来るものには弱い連中である。こちらが強く出ていたならば、「靖国神社」は下劣な外交カードから解放されていたはずだ。その意味でも、小泉の弱腰は大きな禍根を残す事になってしまった。
 これは愚問になるが、もし小泉が8月15日に「自由民主党総裁小泉純一郎」と記帳して、神道の作法によって昇殿参拝したら、どうなるのだろう。自民党総裁選挙の公約(約束?)なのだから、問題はないはずだ。これならば、憲法違反を問う裁判も成り立たないと思う。


◎敵は「中国」という悪魔

 現在、我が国を取り巻く国際情勢は、かなり厳しい事態にある。特に東アジアにおいては、中共をはじめ韓国、北朝鮮、台湾を不当に占領している「中華民国」政権など、敵ばかりと言っても差し支へはないだろう。しかし、韓国や北朝鮮のごときは、どんなに敵対して来ようが、所詮は雑魚みたいな国であるから、とうてい我が国の敵国になれるだけの力はない。
 台湾を不当に占領している「中華民国」政権も、支那人から台湾人に頭目が代わり、少しずつは良くなる兆しはある。しかし、中華思想に汚染された後遺症により、いまだ我が国の敵もどきみたいな言動を繰り広げている。とは言っても、韓国や朝鮮とは違い、台湾人による台湾人の国を建設する事を目指している良識的な台湾人も多々いる事は確かである。彼らによって台湾国が建国されれば、我が国との友好関係が実現する可能性は大である。一日も早く「中華民国」政権という支那人の国が消滅し、台湾人の国すなわち台湾国が建国される事を熱望する。
 こう考えると、我が国にとって最大の脅威、最大の敵国は、現在の支那すなわち「中華人民共和国」しかない。敵国としてのアメリカやロシアを指摘する声もあるが、直面する敵国は中共である事に異論はないはずだ。
 中共に限らず、支那という国は、自らを中国などと称して、己のみが文明国であると奢り、他の国々を野蛮なる後進国であると侮り、朝貢と冊封から成り立つ尊大なる世界秩序を構築して来た。他の国々を東夷・西戎・南蛮・北狄とする中華思想なる妄想は、滑稽以外の何者でもないのだが、当人たちは「中国」だとか「中国人」だとか真面目に信じているようだ。
 しかし、支那の歴史を見ると、清・元・金など異民族によって、「中国」「中華」を名乗る漢民族が支配されて来たのが真実である。支那の歴史は喜劇なのだか、悲劇なのだか、分からない。だが、支那の人民にとっては悲劇の連続だった事は間違いない。そして、その悲劇は現在も続いている。
 不幸な事だが、我が国は地理的に支那とは隣国である。好むと好まざるとにかかわらず、我が国の歴史において、支那の占める存在は大きい。支那大陸と朝鮮半島の動向によって、我が国の進路は動かざるを得ないのは、長い歴史を見れば、明らかな事実である。それは、現在も変わりはない。
 昭和47年9月29日の「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」により、我が国と中共との国交が樹立されてから、すでに30年以上の年月が過ぎた。しかし、パンダの来日ぐらいしか、我が国にとっては国交樹立の成果はないだろう。パンダ1匹が何兆円と笑われる通りである。
 中共は、我が国から莫大な経済援助を受けて、国力を成長させているにもかかわらず、反日的かつ侮日的な言動を繰り返して来た。靖国神社に対する冒涜をはじめとして、歴史教科書への介入、尖閣諸島への侵犯、東シナ海の我が国領海における海底資源の盗掘、我が国の領土である沖ノ鳥島の存在の否定、支那各地における反日侮日の暴動など。どれもこれも、我が国に対する主権侵害や内政干渉であり、断じて許せるものではない。
 僕が学生時代、今から20年以上も前の話だが、中共海軍は我が国の海上保安庁に毛の生えた程度であり、海上自衛隊に太刀打ち出来ない…と言われていた。だが、現在の中共海軍はどうだ。中共海軍を強化したのは、我が国の経済援助である。10月12日には、中共は2度目の有人ロケット「神舟六号」の打ち上げに成功した。核兵器を保有し、有人ロケットを飛ばす先進国(?)に経済援助は必要ない。我が国民の税金で、我が国を侵略しようとしている国の軍事力を強化するとは、売国的かつ亡国的利敵行為である。
 愚かなのは政治家や官僚だけではない。金の為には国すら売ろうとする経済人も同罪である。新聞報道によると日本経済団体云々とかいう団体の会長を務める自動車屋の親方が、9月の末に中共に行き、共産党の首領と極秘会談をして来たという。鉄鋼屋や電器屋などの親方衆も同行したらしいが、このような輩どもは、いったい何を考えているのか。中共は、我が国にとって明確かつ危険な敵国であり、我が国の独立と安全にとって、重大な脅威である。経済援助や経済交流など敵国の経済を成長させる行為は、断じて行うべきではない。売国奴とは、コヤツラの為にある言葉である。
 今、我が国にとって必要な政策は、対中共の戦争準備を整える事である。侵略国家を隣国とする我が国にとって、戦争を好まなくとも、独立と安全を守る為には不可欠な事だと覚悟しなければならない。そして、侵略者と戦う前には、国内に巣くう売国奴どもを駆除しなければならない。


◎共闘から連帯へ

 右翼民族派と呼ばれている青年たちによる超党派の集まりに「青年維新共闘会議」という運動体がある。協議体や連合体ではなく、もともとは親睦会である。その青年維新共闘会議を中核として、一日共闘の運営母体としての委員会を設け、今まで各種の運動を行って来た。
 中共に対抗する為、インド支持を打ち出し、インドの核実験を支持する運動を行った事もある。この時は、インド大使館に激励に赴いた代表団が、大使をはじめ武官や参事官と面会をしている。また、北朝鮮のミサイルを糾弾する為、朝鮮総連の本部に出向き、代表数名が総連に告訴されるという快挙(?)を行った。この時、総連の代弁者になったのは社民党の幹部であり、奴らに同調したのが、当時の政府高官であつた野中広務(官房長官)と鈴木宗男(官房副長官)である。
 僕らの戦いを政治闘争として、思想戦争として考える場合、必ずしも統一戦線司令部が必要とは思わない。統一組織による統一運動は強いように見えるが、案外と脆いものがある。攻撃する時ならば、その効力はあるだろうが、攻撃された時には簡単に崩壊してしまう危険性があるからだ。極端に言えば、統一された運動も、統一された組織も必要ない。共通の認識があれば、運動も組織もバラバラでも構わない。その為には、情報の共有が必要なだけである。
 このような考えに基づく一日共闘の一つとして、「9・29反中共デー」がある。今年も、9月29日に「日中国交断絶」「打倒中国共産党」「まもれ!尖閣諸島」「中華覇権主義排撃」を訴える第4回9・29反中共デー東京大会が開催され、全国各地から200名の同志が参加した。
 当初は東京だけでの開催だったが、第3回の昨年は関東(東京)と関西(大阪)での同時開催となり、第4回となる今年は関東が東京大会と神奈川大会となり、関西大会と合わて3カ所同時開催となった。東京大会では野外集会と徒歩行進。神奈川大会では野外集会と車輛行進。そして、関西大会では野外集会と大阪の中共総領事館前における連続抗議が展開された。
 これは分裂ではなく拡大であり、統合から連合への発展と言える。「中央での共闘」から「全国での連帯」へ進化したのである。これこそ「情報の共有」による「認識の共通」に基づく運動の成果と確信する。
 この日の状況を見ると、参加者は右翼民族派の団体関係者だけではなかった。女性も多数参加しており、また子供を連れての参加者もいた。そして、日本人だけではなく、アジア人の姿も見る事が出来た。台湾独立派のメールマガジン『台湾の声』が再三にわたつて案内してくれたので、台湾人の参加者も多数いたようである。その為、外国語(台湾語か中国語かは不明)のプラカードが、いくつもあった。さらに解散地では、中国共産党の圧制に反対する支那人たちが、彼らの機関紙などを配付していた。
 9・29反中共デー闘争は、小なりと言えども、中共という「反日」「中華」「共産」の三悪国家との思想戦争である!と、僕は自負している。蟷螂の斧である事は承知の上で、「継続は力なり」を信じて、毎年これを開催して来た。
 僕は尊皇攘夷の立場から祖国日本を守る為、反中共デー闘争に参加している。参加している人たちには、台湾独立や台湾正名を支持する人、チベツト解放を支持する人、東トルキスタン解放を支持する人、中国民主化運動を支持する人など、いろいろな立場の人がいる。凶悪強大な悪魔である中共と戦う為、勝つ為には大同団結が必要だ。
 「小異を捨てて大同につく」という言葉がある。だが、我々は小異どころか大異すら乗り越えて団結している。「大異を超えて大同につく」、いや、「大異を超えて正義に立つ」の心意気である。


◎国を守る為には

 アメリカとの同盟を最重視して、アメリカのアフガニスタン侵略やイラク侵略を正当化する保守陣営の人が多い。北朝鮮のミサイルを恐れるあまりの情けない選択だが、戦後体制に汚染されているオエライセンセイサマだから、保身の為にはやむを得ない醜態なのだろう。
 だが、僕らは違う。北朝鮮のミサイルごとき日本刀で一刀両断にしてやる!という気合を持つべきである。本誌(『不二』のこと)平成17年7月号で、上田三三生先生が書かれた「北海道の巨人室崎清平翁」に紹介されていた「もしも原爆が落ちて来たなら、この手で受けとめてやる」という気合があれば、北朝鮮のミサイルごとき恐れる必要は微塵もない。
 国を守るのは、核ミサイルでも化学兵器でもなければ、戦闘機や軍艦や戦車でも、大砲でも機関銃でもない。国を守るんだ!という国民の強い意志である。勇武なる軍隊と、軍隊を支える忠良なる国民が、国を守るのだ。また、逆に国を滅ぼすのも、侵略者などの敵ではなく、国民の堕落腐敗した心である。国を守るのも、滅ぼすのも、強くするのも、弱くするのも、全て国民の精神によるものと言える。大帝国の清国やロシアが、我が国に敗北したのが、良い例である。兵器だけでは、国は守れない。ましてや、金の力は無力にも等しい。我が国民も早く気がつくべきなのである。
 僕は戦闘的維新者を目指す一人として、室崎清平先生のような猛烈な気合を見習い、例え素手でも原爆を受け止められるような武夫となりたい。


× × × × ×


 中村武彦先生が9月30日に亡くなられました。享年94歳(満92歳)。法名は「思國院剛毅日武居士」。墓所は池上の本門寺。葬儀は親族や門下生ら近親者のみにて執り行われました。
 数年前、中村先生から頂いた葉書に「八方塞りの世の中、どう突破するか、若い力を試して下さい。情勢は作るもの、生命を賭けて作るものと思います」とあります。この葉書は、僕の座右に常に掲げてあり、先生の不滅の闘魂を学んで来ました。
 中村先生の遺烈を守り継ぎ御国の御為に戦ふ事をお誓ひ申し上げ、先生の御霊に対して謹んで哀悼の誠を捧げます。


(『不二』平成17年11月号から転載いたしました)


《―資料―第四回9・29反中共デー東京大会》

[資料1]

第四回9・29反中共デー東京大会のご案内

 昭和四十七年九月二十九日、我が国は中共との国交を樹立しました。その日から三十年以上の年月が過ぎました。しかし、我が国と中共との国交が正常かつ友好的であった事はありません。靖国神社に対する冒涜、歴史教科書への介入、尖閣諸島への侵犯…、さらに東シナ海の我が国領海における海底資源の盗掘、我が国の領土である沖ノ鳥島の存在の否定、支那各地における反日侮日暴動…など、我が国に対する中共による主権侵害や内政干渉が繰り返えされています。さらに中共は、我が国からODAや円借款など多額の経済援助を受けながら、軍備を増強し、我が国をはじめ周辺諸国に軍事的脅威を与えています。「反日」「共産」「中華」の三悪国家である中共は、我が国にとって明確かつ危険な敵国です。しかし、我が国政府は、中共への売国的屈辱外交を止めようとはしません。
 我々は民間在野の有志として、この祖国の危機を坐視する事は、断じて出来ません。平成十四年九月二十九日、所謂「日中国交正常化」三十年の秋、我々は中共との国交断絶を勝ち取る為、第一回9・29反中共デーを開催いたしました。第四回の今年は例年とは異なり、東京大会と神奈川大会に分かれて開催いたします。これは分裂ではなく拡大であり、統合から連合への発展といえます。すなわち「中央での共闘」から「全国での連帯」です。「9・29反中共デー」の旗の下、「打倒中国共産党」「日中国交断絶」「中華覇権主義排撃」「まもれ!尖閣諸島」を声高らかに叫び、勝利を目指して、同志同憂各位が共に起ち上がり、共に闘う事を熱望いたします。

    記

日時  九月二十九日(木) (雨天決行)
     午前十一時 集会 開始
     正午    行進 出発

場所  三河台公園
     東京都港区六本木四―二―二十七(六本木通/俳優座の横)

合意事項  超党派の運動のため、次の行為はご遠慮下さい。
      @会旗の掲揚 A車輛での参加 B隊服の着用

  平成十七年九月

   9・29反中共デー東京大会共闘委員会

[資料2]  当日の配付資料より

共闘委員(九月二十九日現在/新仮名五十音順)

 秋山一成  荒岩宏奨  石田和久  遠藤雅三  大口富美幸
 大熊雄次  小曽戸清裕 鹿島政晴  片山清一  加藤順一
 鎌田泰弘  河原博史  工藤正也  清水利行  志村 馨
 白坂孝行  鈴木信行  竹内恒夫  徳竹尉匡  内藤芳弘
 中野順二  長谷勇二  針谷大輔  平野裕一  福田和久
 福田邦宏  舟川 孝  丸川 仁  三澤浩一  水谷浩樹
 皆川義隆  森 浩二  森川照男  山岡孝治  山口一夫
 山田一成  吉田誠司  渡邉淳司

  事務局  三澤浩一(兼任)  近藤勝博  中川幸右基

式次第
                        司会  水谷浩樹
 蹶起集会(三河台公園)
  国民儀礼  国歌斉唱            指揮  竹内恒夫
        皇居遥拝
        靖国神社の英霊および先覚烈士の御霊に対する黙祷
        聖寿万歳            先導  板倉 尉
  9・29反中共デー宣言               荒岩宏奨
  共闘委員会挨拶                   三澤浩一
  神奈川大会からの連帯声明          代読  平野裕一
  関西大会からの連帯声明           代読  片山清一
  決議の採択                     大熊雄次
  行進上の注意                    舟川 孝
  シュプレヒコール                  清水利行
 徒歩行進
 総括集会(広尾公園)
  総括                        鹿島政晴
  シュプレヒコール                  清水利行

行進の順路

 三河台公園を出発〜(六本木通)〜西麻布の交差点を左折〜(外苑西通)〜天現寺の交差点を右折〜広尾公園にて総括集会の後に解散

シュプレヒコール

 日中国交を断絶せよ!        日中国交を断絶せよ!

 共産主義を打倒するぞ!       共産主義を打倒するぞ!

 中華覇権主義と闘うぞ!       中華覇権主義と闘うぞ!

 尖閣諸島を守れ!          尖閣諸島を守れ!

 沖の鳥島を守れ!          沖の鳥島を守れ!

 北京オリンピックをボイコットせよ! 北京オリンピックをボイコットせよ!

 中共の主権侵害を許さないぞ!    中共の主権侵害を許さないぞ!

 中共の内政干渉を許すな!      中共の内政干渉を許すな!

 日中!               断交!

 中共!               粉砕!

[資料3]

9・29反中共デー宣言

日出ずる處の天子 書を日没する處の天子に致す つつがなきや
 この雄大かつ天晴なる言葉は、
推古天皇
が隋の煬帝に贈りたまえる国書の一節である。聖徳太子の作とも伝えられているこの国書には、大帝国・隋に対する我が国の独立自尊の志が燃え上がっている。中華思想に凝り固まった支那は、自らを中国と称し、己のみが文明国であり、他の国々を野蛮なる後進国と侮り、朝貢と冊封の世界秩序を構築して来た。東夷・西戎・南蛮・北狄の言葉が示す通りだ。このような時代の中で、東夷と侮られていた我が国は、堂々と支那に対等なる外交を宣言したのだ。その結果、幾度かの不幸な一時はあったにせよ、我が国と支那は友好的な関係を保ち得て来た。
 しかし、現在の我が国と中共の関係はどうか。昭和四十七年九月二十九日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」が、田中角栄内閣により北京において発表された。また、昭和五十三年八月十二日には「日本国と中華人民共和国との平和友好条約」が、福田赳夫内閣により北京において署名された。今日までの年月を振り返り、我が国と中共との関係が正常であったと言えるだろうか。友好的な関係だったとは、決して言えまい。平成四年十月二十三日、日中国交正常化二十年の記念として
天皇陛下
が中共へ行幸遊ばされた。我々は民間在野の有志として、この宮沢喜一内閣による悪謀を阻止する為、闘った。だが、我々の力が及ばず、中共行幸は断行されてしまった。誠に痛恨の極みである。日中友好の総仕上げと喧伝された中共行幸だったが、その後の日中関係はどうだ。靖国神社、歴史教科書、尖閣諸島、北朝鮮亡命者を巡る我が国総領事館への侵入など、中共による主権侵害や内政干渉が繰り返えされている。さらに中共は、我が国からODAや円借款など多くの経済援助を受けながら、軍備を増強している。軍事覇権国家・中共は、我が国の独立と安全にとって、重大な脅威である。その中共に対して、売国的政策を繰り返す我が国政府および外務省は、まさしく亡国の徒である。
 支那革命を支援した頭山満先生の道統を受け継ぐ我々は、支那に対して憎悪も敵愾心もなく、真の友好を望む者である。だが、共産主義国家である中共との友好は断じて拒否する。何故ならば、共産主義国家との平和や友好は夢幻であり、断じて存在しないからだ。真の日中友好とは、中国共産党による恐怖政治から支那人民が解放され、新しい国家が誕生した後にのみ可能なのだ。
 九月二十九日は日中国交正常化を祝う日ではない。中共との国交断絶を願い、闘いを誓う日だ。平成十四年九月二十九日、我々は大亜細亜主義の理念の下、「反・中国共産党」「反・中華人民共和国」を旗印に、中共との国交断絶を勝ち取る為、多くの同志とともに第一回「反中共デー」闘争を実行した。
 我々は正義の名において、勝利を目指して起ち上がり、力の限り闘う事を宣言する。

  平成十五年九月二十九日

   9・29反中共デー

※この宣言は第二回「反中共デー」において採択された本運動の趣旨である

[資料4]

決議

 本年は日露戦争勝利百年の記念すべき年であり、また日清戦争勝利百十年の記念すべき年である。しかし、同時に大東亜戦争降伏六十年という無念なる年でもある。大東亜戦争の敗北の結果、我が国では二六六五年という輝かしい歴史が否定されている。我が国が支那を侵略したという自虐的歴史観により、我が国の政府も、国会も、国民も、自らの歴史を冒涜している。中華思想に毒された満洲民族の国家である清国の専制。東洋の裏切り者であり、鬼畜米英の走狗である蒋介石ひきいる国民党による悪政。赤い悪魔である毛沢東ひきいる共産党による圧政。清国も、中華民国も、中華人民共和国も、独裁国家であり、侵略国家である。暴戻支那と戦う事は、アジアの盟主たる我が国の使命であった。
 昭和四十七年九月二十九日、我が国は中共との国交を樹立し、三十年以上の年月が過ぎた。しかし、我が国と中共との国交が正常かつ友好的であった事はない。靖国神社に対する冒涜、歴史教科書への介入、尖閣諸島への侵犯、東シナ海の我が国領海における海底資源の盗掘、我が国の領土である沖ノ鳥島の存在の否定、支那各地における反日侮日暴動…など。我が国に対する中共による主権侵害や内政干渉が繰り返えされている。さらに中共は、我が国からODAや円借款など多額の経済援助を受けながら、軍備を増強し、我が国をはじめ周辺諸国に軍事的脅威を与えている。核兵器を保有し、有人ロケットを飛ばす国に経済援助は必要ない。「反日」「共産」「中華」の三悪国家である中共は、我が国にとって明確かつ危険な敵国である。しかし、我が国政府は、中共への売国的屈辱外交を止めようとはしない。売国的かつ亡国的な利敵行為は改められるどころか、悪化している。
 我々は民間在野の有志として、この祖国の危機を坐視する事は断じて出来ない。九月二十九日は日中国交正常化を祝う日ではない。中共との国交断絶を願い、闘いを誓う日である。9・29反中共デーの旗の下、我々は「打倒中国共産党」「日中国交断絶」「中華覇権主義排撃」「まもれ!尖閣諸島」を目指して、起ち上がった。
 我々は、日本国政府の代表である内閣総理大臣に対して、次の事項を要求する。
一、中華人民共和国との国交を断絶する事
一、前項の実現まで、我が国の主権と安全を守る為、次の十一点を速やかに実行する事
 @内閣総理大臣は靖国神社に正々堂々と正式かつ公式に参拝する事
 A国立戦歿者追悼施設建設の計画中止を国の内外に宣言する事
 B尖閣諸島の防衛に全力を尽くす事
 C沖ノ鳥島の防衛に全力を尽くす事
 D東シナ海において盗掘されている海底資源の防衛に全力を尽くす事
 E教科書検定における「近隣諸国条項」を撤廃する事
 F中共へのODAや円借款など全ての経済援助を中止する事
 G所謂チャイナ・スクールをはじめとする売国的外交官を追放する事
 H凶悪犯罪の元凶である不良「中国」人を追放する事
 I北京オリンピックをボイコットするよう日本オリンピック委員会に指導する事
 J中華人民共和国の国民に対する査証の免除を取りやめる事
 我々は、正義武断の名において、勝利の日まで闘う事を宣言し、決議する。

  平成十七年九月二十九日

   第四回9・29反中共デー東京大会


《―資料―人権擁護法案を阻止する共闘委員会》

[資料1]

人権擁護法案に反対いたします(署名用紙)

 人民ノ権利ヲ固守スベシ―近代日本民族主義運動の源流である玄洋社の憲則の一節です。尊皇・愛国・民権は、玄洋社の三大理念です。私達の先人たちは、この理念の下、外にアジア解放運動、内に国家革新運動を展開いたしました。権利を守る為には、義務を果たさなければなりません。私達も先人の道統を継承して、国民の義務を果たし、権利を守り、我が国の平和と繁栄に尽力しております。現在、人権擁護の美名にかくれて人権を侵害する「人権擁護法案」を制定しようという動きがあります。この「人権擁護法案」は、左翼革命的階級闘争史観に基づく反日亡国法案です。私達は我が国の国体を護持し、独立・主権・領土を防衛し、歴史・伝統・文化を守護する為にも、また、我が国民の集会・結社・表現の自由を守り、生命・自由・幸福追求の権利を尊重する為にも、「人権擁護法案」の制定に断固として反対し、「人権擁護法案」の廃案を強く要求いたします。

  平成十七年 月 日

   人権擁護法案を阻止する共闘委員会

[資料2]

勝利宣言

 八月八日、「八・八政変」が勃発し、内閣総理大臣が衆議院を解散した。
 この政変によって、政府・与党が推進していた「人権擁護法案」、野党である民主党が提出していた「人権侵害による被害の救済及び予防等に関する法律案」の成立という最悪の事態は回避する事ができた。
 七月二十五日、自民党が「人権擁護法案」の今国会への提出を断念し、役員会で正式に表明した。また、これを公明党が了承した。さらに八月八日、八月一日に民主党が提出していた「人権侵害による被害の救済及び予防等に関する法律案」は廃案となった。
 この成果の直接の要因が、郵政民営化法案を巡る騒動にある事は否定できない。法務副大臣が罷免され、不在となった為、国会の法務委員会が開催できず、「人権擁護法案」等を審議する事すら不可能となった。この事実は事実として、謙虚に受け止めるべきであろう。
 しかし、「人権擁護法案」を阻止した真実の力は、国会の混乱ではない。「人権擁護法案」を阻止した重大な要因は、我々「人権擁護法案」に反対する国民の力である。政府・与党による「人権擁護法案」の国会への提出が遅れた為、結果として提出を断念する事になった。これは、我々「人権擁護法案」に反対する良識ある国民の声によるものであった事を確信する。
 我々は民族派青年有志として大同団結し、党派を超えて、人権擁護法案を阻止する共闘委員会を結成した。そして、「人権擁護法案」を葬り去る為、東奔西走かつ獅子奮迅の運動を継続して来た。政府、国会、与党、野党、議員、さらには創価学会、部落解放同盟…等への抗議や糾弾の活動。これらの活動は、人権擁護法案を阻止する共闘委員会としての統一的かつ全体的な活動だけではなく、各団体や各個人による日常的な活動も頻繁に行われ続けて来た。この地道な活動が、大きな成果を勝ち取った要因である。今回の闘いを総括する時、我々は、我々の力によって勝利した事を確認し、評価すべきである。
 我々は勝利した。しかし、この勝利は永遠の勝利ではない。次の闘いへの新しい一歩に過ぎない。九月十一日に投票される衆議院総選挙の結果によって、新しく誕生する政権は、「人権擁護法案」をはじめとする「反日法案」すなわち「反国家法案」「反民族法案」の成立を企てて来る。我々は今回の勝利を糧として、新しい、激しい、厳しい闘いに挑まなければならない。
 今年は日露戦争大勝利百周年の輝かしい年である。我が国が世界に誇る英雄である東郷平八郎元帥が、明治三十八年十二月二十二日の連合艦隊解散に際して述べられた「連合艦隊解散の辞」の結びにある次の言葉を以て、我々の勝利宣言の結びとする。

 勝って兜の緒を締めよ

  平成十七年八月十六日

   人権擁護法案を阻止する共闘委員会

[資料3]

地に潜む龍となる

 「八・八政変」による所謂「郵政」解散の結果、衆議院総選挙ではコイズミ自民党が歴史的大勝利を収めた。連立与党の公明党も、野党第一党の民主党も、議席を減らす結果となった。保守政党と呼ばれている自民党が勝利を収めたが、我々は歓迎すべき事とは評価できない。米ソ冷戦下の反共最優先の時代ならば、我々は自民党の勝利を歓迎したであろう。しかし、現在の自民党が勝利した事は、歓迎すべき事ではない。
 もちろん、自民党が唱える保守なるものが、昔も今も、ポツダム保守である事は明らかであり、我々も認識している。奴隷的平和と物質的繁栄のみを求める戦後体制を維持する事に専念して来たのが、自民党政治の本質である。それを承知の上、我々は、ソ連に代表される共産主義なる悪魔思想と戦う為、日米安保の屈辱に耐え、自民党の金権腐敗に耐え、激烈なる闘争に挺身して来た。白い悪魔と手を結び、赤い悪魔と戦ったのである。
 十二年前、自民党が野党に転落し、非自民八党派によるホソカワ野合政権が誕生した。その後、非自民、社自さ、自民、自自、自公自、自公保…を経て、現在の自民党と公明党の連立政権となった。自民党が圧勝した今日、自民党は公明党との連立を解消して、単独政権を目指すべきなのである。だが、選挙協力を受けた自民党には、その気概もなく、実力もない。また、参議院での現状を見れば、不可能な話だ。現在の実情は、コイズミという首相を冠にしてはいるが、公明党が巨大な権力を握る政権なのである。与党の大勝利により、政治は政府の思うがままとなった。すなわち、自民党を操る公明党の背後に控える淫宗邪教である創価学会の政治権力が増大したのである。これは、祖国にとって危機的な重大事と言える。この祖国の大事に際して、我々は何をすべきか。
 我々は民族派青年有志として、党派を超え、大同団結し、「人権擁護法案を阻止する共闘委員会」を結成した。そして、「人権擁護法案」を葬り去る為、東奔西走かつ獅子奮迅の闘争を展開し、先の国会では全面的な勝利を得た。九月二十日、我々は東京都内において全体会議を開催し、総選挙の結果を総括した上、今後の闘争方針を徹底的に討議した。これからの政治の動向には、人権擁護法案だけではなく、憲法をはじめ教育基本法、夫婦別姓法案、永住外国人地方参政権付与法案、そして皇室典範の問題など、多くの問題が待ち受けている。我々は、これを戦後体制の再強化と危惧する。さらに、祖国に対する危機は、内憂だけではない。支那や朝鮮らの外患もある。これからの闘争は、より激烈なものとなる事を覚悟しなければならない。
 このような重大な時局に際して、我々は敢えて地に潜む決断を下した。「人権擁護法案を阻止する共闘委員会」の全機能を代表委員である六人の同志に委ね、六同志の呼び掛けがある時まで、表面的な行動、全体的な活動を控える事としたのである。これは解散でもなく、停止でもない。暗黒の地下に姿を隠すのは、目は凝らし、耳は澄ませ、牙を磨き、爪を研ぐ、為である。
 我々は、地に潜む龍となる。高杉晋作先生の歌『題焦心録後』―「内憂外患迫吾州 正是存亡危急秋 唯為邦君為家国 焦心砕骨又何愁」を胸に秘め、いつの日か、再び、天に昇り、雲を呼び、風を吹かせ、雨を降らせ、電を走らせる日まで。

  平成十七年九月二十日

   人権擁護法案を阻止する共闘委員会


《60年目の秋を迎えて》


◎8・8政変とビリケン解散

 8月8日、郵政民営化法案が参議院で否決され、内閣総理大臣は衆議院を解散した。8・8政変の勃発である。郵政民営化法案は衆議院では可決されていたのだから、参議院の否決云々を理由とする衆議院の解散という暴挙には、国会議員ばかりではなく、多くの国民も驚いた。
 というよりも、この解散は明確な「日本国憲法」違反である。所謂「日本国憲法」と呼ばれている我が国の最高法規なるものの正統性や内容についての是非は、ここでは述べない。一応、ともかくも、現在の政治では有効とされている法律なのだから…。
 昭和22年5月3日に「日本国憲法」が施行されてから最初の解散は、翌23年12月23日に行われた「なれあい解散」である (投票は翌年1月23日)。昭電疑獄によって退陣した芦田内閣の後を受けて成立した第2次吉田内閣が、安定政権を目指して解散したものだ。現在では、衆議院の解散は「総理大臣の専権事項」と呼ばれているが、この当時は「日本国憲法」第7条(天皇の国事行為)のみでは解散できず、第69条(衆議院の内閣不信任)によらなければならないと解釈されていた。そこで、GHQの斡旋の下、与党と野党が話し合い、野党が内閣不信任案を提出し、それを可決して、「日本国憲法」第69条に基づき、内閣が衆議院を解散したのだ。
 当時は占領下にあった為、憲法の解釈が違っていたという事らしいが、国会といふ国権の最高機関の一院である衆議院の解散という重大事項について、こんないい加減な解釈改憲が罷り通るのは、国家として異常な形態である。これは誰が見ても憲法違反である事は明白である自衛隊の存在と共通するものがある。ともかく第7条による解散は、本来の 「日本国憲法」の解釈からすれば、違反なのだ。ちなみに衆議院の解散が「総理大臣の専権事項」というのも思い上がった考えである。正しくは「天皇の国事行為」である。この総理大臣の思い上がりは、第7条解散に起因するものだろう。
 「国民に信を問う」という美名に隠れて、自己に有利な時期に第7条解散を繰り返して来たのが、自民党の体質だが、参議院での否決を理由にして、また単なる一法案を巡っての解散は、戦後日本の間抜けな政治でも聞いた事はない。小泉内閣は、平成のビリケン内閣といえよう。ビリケンとは、大正期の長州藩閥かつ陸軍閥の寺内正毅につけられた愛称(?)だ。寺内の頭の形と憲政を無視する政治姿勢から、アメリカの頭が尖った人形ビリケンと非立憲をしゃれたものである。小泉の頭の形は分からぬが、奇妙な髪形をしている。彼を平成のビリケンと呼んでも良いだろう。
 ついでに、今度の解散は「ビリケン解散」と名付けたいものである。


◎8月15日の風景

 8月15日。8・8政変から1週間後、今年も「日本で一番長い日」が来た。暑い、熱い、夏の一日だ。この日も、靖国神社に内閣総理大臣の姿はなかった。内閣総理大臣である小泉純一郎が、自由民主党の総裁選挙において、「絶対に8月15日に靖国神社を参拝する」と公約してから、5度目の8月15日である。自民党は一応は保守政党であり、政権を担当している与党だ。その党首選挙における公約が、何度も実行できる機会がありながら、今だに実行しないという事は、はじめから実行する気なぞないという事である。
 識者が指摘しているように、小泉の靖国神社参拝は、善良な保守の人々を取り込む為だけの見せかけだけの姿勢なのだ。もし、見せかけではないとしても、せいぜいが相撲を見て「感動した!」と土俵で叫んだのと同じ程度の思い入れなのだろう。この人物の言動からは、「誠」とか「情」という字が感じられない。ある意味では、あの中曽根康弘と同じ冷酷で卑劣な臭いしか感じ取れない。
 総理大臣がそうだから、仕方がないのだろうか。口先だけの英霊顕彰を唱えるのは、国会議員も同じだ。この日、同じように不逞の輩も多数、靖国神社に参拝した。自民党や民主党の国会議員どもである。政治家はおろか政治屋とも呼べない連中、せいぜいが議会屋か選挙屋だ。ひどいのになると、利権屋である。
 参拝に来た国会議員の車は外苑の駐車場ではなく、内苑の駐車場に駐めている。議員が参拝している間、これらの車はエンジンをかけたままであった。今、環境問題になっているアイドリングしたままなのである。秘書なり、運転手なりが暑いならば、車から出て、日陰で休めば良い。というよりも、議員のおまけとしてでも参拝しようという気持ちがないのか。中には、運転席の窓をワザワザ開けて、煙草を投げ捨てる輩もいた。
 この様子を見ていたのが、大日本愛国党青年隊の総隊長である舟川孝大兄だった。彼と僕とは青年維新共闘会議や9・29反中共デー共闘委員会などで、共に闘っている同志である。彼は配下の隊員に命じて、1台づつ注意して回らせた。ここで、何とも情けない状況が起こった。注意した隊員は若い優男であり、背広にネクタイという行動右翼らしくなかった。すると、運転席の窓を叩いて注意しても、見て見ぬフリ、聞いて聞かぬフリである。そこへ伝令として、もう一人の若者が駆け寄った。その彼の手には「愛国党」という名が見える旗が握られていた。すると、各車とも慌ててエンジンを切る始末である。
 おとなしく、丁寧に、良識に訴えるようにしても聞かないが、右翼関係者と分かると、右へ習いの体たらくである。秘書なのか、運転手なのかは分からぬが、一応は国会議員の事務者の人間であろう。それが、この程度の連中である。何とも情けない限りである。


◎戦後60年という時代

 8・8政変に先立つ8月2日、衆議院は戦後六十年決議(国連創設及びわが国の終戦・被爆六十年に当たり、更なる国際平和の構築への貢献を誓約する決議)を可決した。今から10年前、所謂「戦後」50年の平成5年に国内で反対運動がまき起こった戦争謝罪決議の時とは違い、正直なところ「或る日、突然」という決議だった。衆議院議長の河野洋平の暗躍によるものである。
 謝罪決議、不戦決議と騒がれた戦後五十年決議(歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議)の可決も衆議院のみで、しかも当時の野党である新進党は欠席という惨状だった。今回の戦後六十年決議は初めから衆議院のみという予定だったのだろうから、これを国会決議と呼んで良いものか、どうか。しかし、良識派と思われている保守系議員たちすら、この決議に反対していない現況を考えると、背筋が凍る思いである。一応、欠席したらしいが、堂々と反対した議員は果たして何人いたのだろう。
 毒にも薬にもならぬ戦後六十年決議なぞ、どうでも良いかも知れぬが、深刻なのは8月15日に出された総理大臣談話、所謂「小泉談話」である。これは10年前に出された所謂「村山談話」と同じく、祖国の歴史を冒涜するものだ。今年はポツダム宣言受諾60年、嫌な言ひ方だが、我が国が連合国に降伏して60年である。今年こそは、総理大臣が公約を守って8月15日に靖国神社を参拝するのではないか…と、期待する人は多かった。また同時に、10年前と同じように総理大臣談話を出すのではないか…と、危惧する人も同じように多かった。8月15日、期待は裏切られ、危惧は的中した。
 戦後60年の、この惨状。果たして何と見るべきか。昭和45年11月25日の「楯の會義挙」にて蹶起、自決された三島由紀夫烈士は『文化防衛論』の中で、戦後日本の奴隷的平和と経済的繁栄を「近松も西鶴も芭蕉もいない昭和元禄」と嘆いている。しかし、元禄には赤穂義挙があった。大石内蔵助率いる赤穂義士たちがいた。それと同じように、昭和元禄には、三島由紀夫がいて、彼が率いる楯の会があり、楯之會義挙があった。内蔵助はいた昭和元禄である。
 この「昭和元禄」という言葉は、佐藤栄作内閣の時代、大蔵大臣をつとめた福田赳夫による造語である。昭和40年代という経済成長を謳歌していた時代の言葉なのだ。その 「昭和元禄」から40年近く経過した平成の現在は、平成「化政」すなわち平成「文化文政」というところだろう。
 文化と文政は江戸時代後期の元号であり、文化は119代 光格天皇、120代 仁孝天皇の聖代、文政は 仁孝天皇の聖代である。徳川幕府11代将軍である家斉の治世、西暦でいえば1804年から1830年になる。テレビの時代劇でいえば、「大岡越前」の後で、「遠山の金さん」の前の時代である。この時代は学問や文化が花開き、「化政文化」と呼ばれている。文化的には非常に高い時代であったが、政治は腐敗し、社会は退廃していた時代でもある。
 三島由紀夫烈士が生きいれば、宣長も篤胤もいない平成「化政」と嘆くのだろうか。ならば、我々は今をどう生きるべきなのか。


◎28聖紀へ向けて

 今年は平成17年だが、世間一般では2005年という西暦の方がもてはやされている。2005年とあるのは、まだ良い。ひどいのになると、05年である。これでは一体何だか分からぬが、世間ではそうではないらしい。これで通じてしまうのだから、嘆かわしい限りだ。我が国の正しい暦では、今年は2665年である。皇紀2665年。これを西暦と同じように100年という時間で区切れば、27世紀となる。学生時代からの同志である小田内陽太大兄たちが以前から提唱していた用語を拝借すれば、27聖紀なのである。
 西暦でいうところの「20世紀」は「共産主義」と「核」という2匹の悪魔に怯えた時代とも言える。北朝鮮を巡る6カ国協議を見るまでもなく、核兵器の問題は重要かつ危険な問題である。原子爆弾などの核兵器が誕生してから、世界の歴史と人類の命運は、この悪魔の発明に左右されている。
 しかし、この核兵器が大きな力を誇るのは、果たして後何年だろう。兵器としての核も、資源としての核も、「22世紀」には、時代遅れの文明となっているだろう。いや、そんな長い時間はかからないだろう。「22世紀」までは、まだ95年もある。おそらく今「世紀」の中頃には無意味な物となるはすだ。
 人類の文明の速度は早い。例えば、飛行機を見れば良い。ライト兄弟が、人類として初めて動力による飛行に成功したのは西暦1903年12月17日である。100年と少ししか時間は経過していない。あの時に飛んだ距離は、僅かなものである。しかし、現在では人類は宇宙に飛び立っているどころか、月旅行のチケツトまで高額とはいえ販売しているのである。
 この科学や技術の進歩の速度を考えれば、核や原子力に資源を頼る時代は、そんなに長くは続かない。では、次の資源は何か。全くの素人考えだが、太陽と風の時代が来るのではないか。太陽熱発電や風力発電である。太陽と風 天照大御神様と須佐之男命様である。神国日本が、神の力と科学技術の力によって、資源を自給自足はおろか輸出できるようになるのは、荒唐無稽な夢物語ではあるまい。
 27聖紀のほとんどは、戦後の60年である。この聖紀は戦争、占領、隷属という国家にとっても、民族にとっても、悲しい時代といえる。しかし、次の聖紀、28聖紀には必ず日本の時代が来る。その時を迎える為にも、今を真剣に戦い続けなければならない。残り時間は35年しかないのだから。


◎最古かつ最強の戦略物資

 我が国は、最古かつ最強の戦略物資に恵まれている。それは「水」だ。人類が「人間」として社会を構成した時から、最強であつた、という事はすなわち最古でもある戦略物資は「水」である。現在の飽食の我が国では実感が沸かなくなっているが、人類の戦争は有史以来、いや、獣であった時から、食糧を争ってのものだ。人間らしくなってからは、食糧が生産できる土地を巡っての戦いだ。では、食糧が生産できる土地とは、何か。別の言い方をすれば、水を確保する為の戦いである。水は全てに優先される物質である。その水は、我が国は恵まれている。
 現在、四国の方では水不足が深刻だが、それも外国に比べれば、何の心配もない。また、地球上の各地が砂漠化している中、我が国ではその心配も少ない。農政の失敗や国土の乱開発などもあるが、今ならば、まだ取り返しもつく。水を守る為には森や田を守らなければならない。それは食糧を守る事になる。逆に言えば、食糧を守る為、森や田を守れば、水は守れるのだ。
 経済的に余裕のある日本人が、日本の米を食し、日本の木材を使えば、それは日本の水を守る事になる。また、同時に発展途上国の為にもなるはずだ。減反などという食糧が生産できる豊かな土地を荒れ地に変えるという愚かな行為は、人類の歴史にはない事だ。食糧の生産こそが、人類の進歩の目的だったからだ。戦後の我が国は、史上最も愚かで恐ろしい政策を行って来た。
 米が生産できるならば、できるだけ生産すれば良い。もちろん、米だけでは食糧安保は守れないが、主食だけでも確保すべきである。余ったならば、それを貧困と飢餓に喘ぐ国々への援助に使えば良い。地球上で足りないのは、金ではない。喰い物だ。米をドンドン作り、余らせ、それを海外への援助に使うべきである。支那をはじめとする反日国家に対する経済援助に使う金があるならば、それらの方が比較できぬ程、有効な手段である。
 米を作る為には、水が必要である。しかし、森を育て、田を耕す事によって、水は川だけではなく、土の中にも蓄えられている。食糧も強力な戦略物資だが、水はさらに強力である。世界有数の海洋国家である日本は、また同時に世界有数の森林国家でもある。そして、水資源国家でもある。科学や技術が進化しても、水の問題を解決できる日は、まだまだ来ないだろう。しかし、海の神、山の神、川の神、森の神、山川草木の全てを神が宿る神々の国である日本は、水に恵まれている。
 この神の恵みである水は、地球において最も強力な力となる。石油を輸入している我が国が、いつの日か、水を輸出する時代が来る。その時は、そう遠くない。その日が来るまで、水を守って行かなければならない。


◎聖戦の剣を

 まもなく9月11日が来る。総選挙の投票日という下らぬ輩に関する日ではない。アメリカ中枢同時多発攻撃の記念日である。
 イスラムの戦士ウサーマ・ビン・ラーデン率いるジハードの義勇軍アルカーイダが、侵略と腐敗の権化であるアメリカに対して、史上初めて本土攻撃を成功させた日だ。もし、ウサーマ・ビン・ラーデンという人物が、アメリカが謀略の為にでっち上げた架空の人物でないならば、彼は第2次世界大戦後における最大の英雄的偉人である。
 ソ連のアフガニスタン侵略に際して、ウサーマ・ビン・ラーデンはイスラム教徒として、共産主義によるイスラム教の冒涜と蹂躙に憤激し、ソ連と戦う為にアフガニスタンに赴いた。共産主義の悪魔に勝つ為ならば、資本主義の悪魔とも手を結び、ソ連と戦った。そして、湾岸戦争に際しては、イスラムの聖地があるサウジ・アラビアにアメリカ軍が駐留する事に憤激して、今度はかつては手を結んだ資本主義の悪魔アメリカに戦いを挑んだのである。
 ウサーマ・ビン・ラーデンの信仰する宗教を別にすれば、僕は彼の信念・行動・生き様…と、全てに対して賛同すると共に、尊敬と羨望の念を抱く。現在、彼はアメリカに対してジハードを挑んでいる。60年前、僕らの先輩たちも、アメリカに対して聖戦を挑んだ。神の下、悪魔と戦ったのである。
 大東亜戦争を戦った偉大な祖国と勇敢な父祖たちを侵略者と辱める戦後日本を断じて許す事はできない。日本と呼ぶ事すら腹立たしい国の様だが、僕らの祖国は日本しかない。例えYPジャパンと堕落していようとも、必ず、必ず、祖国を再興してみせる。強力な外国と戦う為には、邪悪なる国内の敵を倒さなければならない。侵略者と戦う為に、売国奴を殲滅しなければならない。
 国家主義者や保守主義者は、共産主義者以上に用心すべき敵である。僕は保守ではない。反動や守旧ではない。ウサーマ・ビン・ラーデンやアルカーイダを一方的にテロリストと攻撃する第2次世界大戦後の世界秩序、すなわちヤルタ・ポツダム体制に隷属している日本を復古する事を志してゐる。これは維新であり、別の見方をすれば、祖国の独立運動である。
 祖国を再興する為にも、聖戦の剣を振るう時が来たのだ。60年目の秋、今こそ戦いの日が来たのである。


(『不二』平成17年9月号から転載いたしました)


 

《第4回9・29反中共デー東京大会のご案内》


 昭和47年9月29日、我が国は中共との国交を樹立しました。その日から30年以上の年月が過ぎました。しかし、我が国と中共との国交が正常かつ友好的であった事はありません。靖国神社に対する冒涜、歴史教科書への介入、尖閣諸島への侵犯…、さらに東シナ海の我が国領海における海底資源の盗掘、我が国の領土である沖ノ鳥島の存在の否定、支那各地における反日侮日暴動…など、我が国に対する中共による主権侵害や内政干渉が繰り返えされています。さらに中共は、我が国からODAや円借款など多額の経済援助を受けながら、軍備を増強し、我が国をはじめ周辺諸国に軍事的脅威を与えています。「反日」「共産」「中華」の三悪国家である中共は、我が国にとって明確かつ危険な敵国です。しかし、我が国政府は、中共への売国的屈辱外交を止めようとはしません。
 我々は民間在野の有志として、この祖国の危機を坐視する事は、断じて出来ません。平成14年9月29日、所謂「日中国交正常化」30年の秋、我々は中共との国交断絶を勝ち取る為、第1回9・29反中共デーを開催いたしました。第4回の今年は例年とは異なり、東京大会と神奈川大会に分かれて開催いたします。これは分裂ではなく拡大であり、統合から連合への発展といえます。すなわち「中央での共闘」から「全国での連帯」です。「9・29反中共デー」の旗の下、「打倒中国共産党」「日中国交断絶」「中華覇権主義排撃」「まもれ!尖閣諸島」を声高らかに叫び、勝利を目指して、同志同憂各位が共に起ち上がり、共に闘う事を熱望いたします。(案内状より)


     記

[日時]    9月29日(木) (雨天決行)
          午前11時  集会  開始
          正午     行進 出発

[場所]    三河台公園
        東京都港区六本木4―2―27(六本木通/俳優座の横)

[合意事項]  超党派の運動のため、次の行為はご遠慮下さい。
        @会旗の掲揚
        A車輛での参加
        B隊服の着用

   平成17年9月

     9・29反中共デー東京大会共闘委員会
        事務局 電話/FAX 03―3918―9524


《人民の権利を固守すべし》


◎玄洋社の理念

 一、皇室を敬戴す可し
 一、本国を愛重す可し
 一、人民の権利を固守す可し

 これは玄洋社の憲則である。これを読めば分かるように、尊皇・愛国・民権は玄洋社の理念と言える。玄洋社については、本誌の読者には説明する必要はないだろう。西郷党の道統を受け継ぐ維新運動の源流である。
 玄洋社の憲則に「人民」という言葉があるのを意外に思う人もいるかも知らない。後世、この人民という言葉が左翼革命的な色彩を強めて行った際、憲則の修正を進言した者がいたらしい。しかし、頭山満先生(立雲翁)は人民のままで良いと述べられたと、何かの書物で読んだ。人民という言葉を左翼に取られてしまった今日、人民という言葉を毛嫌いする人も多いはずだ。だが、今こそ、僕らは、この人民という言葉を左翼から取り返すべき時なのかも知れない。
 国家と人民が対立しているかのような階級闘争史観が、戦後というよりも、文明開化以後、我が国にも蔓延している。しかし、玄洋社の理念は全く正反対に歴史を認識しているのだ。立雲翁の孫である頭山統一氏の『筑前玄洋社』の受け売りになるが、玄洋社の憲則に「人民の権利を固守す可し」とある意味に注目したい。当時の自由民権の政治結社が多数ある中で「固守」すなわち「守る」と宣言しているのは、玄洋社だけだったのではないか。人民の権利を「拡張」「伸達」などの実現を目指すのが、普通の政治結社の主張であろう。
 「拡張」や「伸達」という言葉ならば、人民の権利は、我が国では不十分なものであり、また「獲得」や「奪取」ならば存在しない事になる。しかし、玄洋社の主張は「固守」である。これは人民の権利という思想が、文明開化によって西欧から輸入されたものではなく、我が国古来から存在している思想であるとの認識である。「公民」の思想である「おほみたから」という事である。
 我が国は、外国のように君と民とが対立する国ではなく、君民一致の国体である。玄洋社の理念にあるように、天皇・国家・人民は一体のものであり、対立したり、分離したり出来るものではない。


◎「人権」なる言葉

 人権という言葉が、はたして我が国語、すなわち日本語にあった言葉なのだろうか。もちろん文明開化以降、西欧の新しい思想や学問などが入って来た際、新しく作られた言葉はたくさんある。いや、日本語というよりも、人類の言語に「人権」などという言葉、考えはあったのだろうか。
 そんなものはなかったはずだ。せいぜいが2〜300年前だろう。この言葉が歴史の表舞台に躍り出てて、時代を動かすようになったのが、西暦1776年(安永5年)7月4日のアメリカの『独立宣言』である。そして、西暦1789年(寛政元年)8月26日に出されたフランス革命による『人および市民の権利の宣言』である。この二つの宣言に共通しているのは、絶対主義君主に対する抵抗である。アメリカ独立はイギリス国王に対する、フランス革命はフランス国王に対する、言わば内乱、反抗である。当時の国王の権利、王権が神が与えられたものとする王権神授説に対抗する意味で、人権という思想が誕生したのだ。
 この人権は、神が生まれながらにして人間に与えてくれたものだという。当然の事ながら、アメリカの独立宣言には「創造主」という言葉がある。アメリカがキリスト教に基づく国家である事は、現在でも大統領が就任する際に『バイブル』に宣誓する事からでも分かる。だが、これだけ人権について述べているアメリカだが、先住民族をインディアンとして蔑視した上で虐殺し、独立の後も100近くもの間、黒人奴隷制度を維持してゐた。いったい誰の為の人権なのか、この事を見れば分かるだろう。
 フランスにしても然りである。フランス革命の後も、アジアやアフリカの植民地を支配し、多くの有色人種を抑圧して来た。大東亜戦争がなければ、いまだフランスは大植民地帝国として、有色人種を支配しているはずである。
 アメリカやフランス、というよりも、西欧が唱える人権とは、いったい何なのか。簡単に言えば、白人のキリスト教徒が創造主イコール神から与えられた権利であり、これは神に選ばれた君主といえども侵害する事は出来ないという事なのである。人権は、神によって授けられたという点では、王権と全く対等であり、対等な権利だからこそ、互いに対立してしまうのである。
 我が国は、どうか。我が国の君主は、神に選ばれた君主ではない。神そのものである。現人神であられる天皇が治らしめす我が国においては、神から与えられる王権などというものは存在しないし、それに対立する人権などというものも存在しない。
 我が国にあるのは、天皇の公民であるとの自覚に基づく「民権」なのである。


◎国家と「人権」

 フランスもアメリカも強大な力があるからこそ、人権だ!自由だ!権利だ!と叫ぶ事が出来るのである。フランス人もアメリカ人も、馬鹿ではないから、その事はよく理解している。ところが、世界で一番馬鹿な国民が、その事を理解出来ないで騒いでいる。奴隷的平和と物質的繁栄にウツツを抜かして堕落出来るだけ堕落してしまったYPジャパン、すなわち戦後日本の国民である。
 人権も自由も権利も、国家があればこそのものである。国家がない民族、国家が弱い国民には、人権も自由も権利もない。強い国家が存在して、秩序が保たれているからこそ、人権も自由も権利も保障されるのである。これはもっと大切な人間としての尊厳も生命も同じである。もちろん北朝鮮みたいに国家が異常な場合も当てはまるが…。
 国家と人権との関係については、ナチスドイツの下でのユダヤ人を見れば良い。ヒトラーとの戦いを恐れ、妥協と屈伏により平和を求めた結果を見てみると、その結果が分かるだろう。第二次世界対戦は、ユダヤ人を助けようとして起った戦争ではない。世界中の唯一国もユダヤ人を助けようとはしなかった。自らの運命は自らの力によって切り開かねばならないのだ。その事を忘れたユダヤ人はナチスの虐殺を許してしまったのである。
 ユダヤ人の国家であるイスラエルは現在、世界で一番の好戦国家に見える。しかし、それは尊い犠牲によって学んだ賢明な判断である。強い国家がなければ、人権どころか、人命すら守る事は出来ない。僕らも、このユダヤ人の悲劇から学ぶべきなのである。


平成の「治安維持法」

 6月28日現在、東京では都議会議員選挙が展開されている。一地方自治体の選挙だが、首都という事もあり、その結果は政局にも大きく連動する。多くの良識ある国民に反対されている所謂「人権擁護法案」は、この都議選の直後に国会に上程されると聞く。
 人権擁護法…、名前だけを聞くと、いかにも素晴らしい法律のように感じてしまう。しかし、逆に考えると、いかにもウサン臭い名前の法律である。内容については、すでに耳にしているだろうが、この法律は人権擁護の美名にかくれた人権侵害法である。戦前の治安維持法と同じく、国民弾圧法であり、極めて危険な法律なのである。
 この法案で異常なのは、人権を擁護する法律と言いながら、その擁護すべき人権についての定義が述べられていないのである。その代わりに人権侵害については曖昧ながらも述べられている。守るべきものが定義されずに、侵害の事例が述べられるという点では、日本国憲法下における自衛隊と同じようなものである。曖昧な、だからこそ危険なものと危惧されている。
 治安維持法というと、左翼の連中は、いかにも国家が左翼を弾圧した法律のごとく叫ぶ。しかし、その実態としては、維新陣営こそ最も弾圧されたのである。特に東絛憲兵政府の下では、刑事犯ではない左翼はことごとく東絛の軍門に降り、大政翼賛の流れに迎合していた。維新陣営の精鋭のみが、東絛と対抗していたのであり、治安維持法は維新陣営弾圧に使われていた。
 そもそも、この治安維持法ほど、不敬極まりない法律はない。三島由紀夫が指摘していたように、この法律は「国体」と「私有財産制度」を同列に扱っている。三島が憤慨する通り、この一点からして、治安維持法という法律は永久に断罪されるべきである。
 治安維持という事は、国家において、最も重要な政府の役目の一つである。現在でもそうだろうが、治安の維持に反対するものはいないはずだ。しかし、治安維持の名を隠れた思想警察の強化ならば、同意する人はおるまい。治安の維持には警察の強化だけではなく、教育の正常化、経済の安定など、国内の政治だけではなく、外交や軍事など、諸々の要件が絡んでいる。政府が、それらの努力を怠り、警察力を以て、国民を抑圧する事は断じて許されない。
 人権擁護法案が治安維持法と同じだと言われる所以は、美名に隠れた国民弾圧法であるからだ。人権擁護という誰もが賛成するような名称でありながら、その実態は国民の活動を封殺する法律だからである。所謂「日本国憲法」なるものすら認めている集会・結社・表現の自由を制限する事が目的である。
 僕は、我が国の国体を護持し、独立・主権・領土・領海を防衛し、歴史・伝統・文化を守護する為にも、また我が同胞の生命・自由・幸福追求の権利を尊重する為にも、平成の治安維持法「人権擁護法案」には反対する。


◎国賊古賀誠の暗躍

 所謂「人権擁護法案」を制定しようとしている勢力は、部落解放同盟、朝鮮総連、そして創価学会である。見事なぐらいに反日勢力が結集しているものだと感心してしまう。別の言い方をすれば、売国奴、侵略者、淫宗邪教の狂信者…である。これだけならば、また何時もの事かなぁ…と、まぁ理解出来なくもない。しかし、この人権擁護法案の影には、保守と呼ばれる政治家の暗躍が大きく存在している。古賀誠である。人権擁護法案を推進している与党の有力政治家の中心が、元自民党幹事長の古賀誠なのだ。現在、古賀は日本遺族会の会長をつとめる一方、靖国神社の崇敬者総代をつとめている。この男が、野中某の後を継いで、今日では政界最大の国賊となっている。
 日本遺族会は、戦歿者の遺族によって組織されている全国規模の代組織である。また、自民党を支える有力な集票組織でもある。言い換えれば、戦後の保守勢力の支柱とも呼べる。さらに、靖国神社を守る有力な組織であるはずだ。しかし、遺族会の姿を見ると、はたして真正保守の組織なのかと疑問を持たざるを得ない。
 古賀以前の会長についても、先代は軍医の未亡人という老婆、先々代は中共の秘密工作員との不倫疑惑(?)を追求された元首相の橋本龍太郎である。そして現在の古賀と続く。遺族会は部落解放同盟と同じく、反日利権組織と化しているのだろうか。
 遺族会の問題はさておき、古賀自身の言動は断じて許されるべきものではない。現首相の小泉純一郎の靖国神社への参拝について、中共や韓国に配慮すべきであると再三に渡って発言している。遺族会の会合でも発言したが、さすがに遺族会にも良識のある人物が残っていたらしく、公式な見解とはならなかった。しかし、遺族会の会長の発言である事には変わりはなく、重大な背信行為である。
 自民党の人権云々調査会だかの会長として古賀は、法務部会長を無視し、政務調査会長に圧力をかけて、人権擁護法案を今国会に提出しようと企んでいる。その強引な手法は、侵略者や売国奴と取引をする圧制者そのものである。僕らは総力を結集して、国賊古賀誠を政界から葬らなければならない。


◎敵視と蔑視

 平成14年の所謂「日中国交正常化四十周年」に抗議する為に開催して以来、毎年9月29日には、民族派青年有志により超党派で9・29反中共デーを行っている。昨年の事だが、取材に来たテレビ局と、研究の為に拙宅を訪れた大学生たちと話す機会があつた。僕の主張を聞いて、彼らは「中国と戦争をする事を主張しているんですか?」と質問して来た。僕は「中共との戦争は辞さない」旨を当然ながら述べた。
 僕は、彼らに問い質してみた。僕は「中国人」と名乗る中華思想に毒された支那人を敵視し、中共との戦争を主張しているが、支那人に対して差別的な言を述べたか…と。これに対して、彼らは、僕が述べるのは敵対発言ばかりだが、差別発言はない事を認めた。
 敵対国家や敵対民族を敵視して、やむをえない場合は戦争をするのは当然である。これは特定の民族や人種を蔑視して、差別したり、奴隷にしたりする事とは違う。
 ロシアの文学にかぶれているのかも知れないが、我々の多くは「戦争」と「平和」という分け方をして、どのような戦争でも戦争は全て「悪」であり、平和はどのような平和であっても「善」であるという考え方になっている。これは大きな間違いである。平和の美名の下、差別、圧制、虐殺が幾度も繰り返されて来た。戦争を恐れる余り、戦わずして屈伏して、侵略され、奴隷のごとく扱われて来た国家民族も数知れない。
 今、我が国の周辺には、我が国を異常なまでに敵視している支那(中国すなわち中華人民共和国と中華民国亡命政府)と朝鮮(大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国)がある。支那を膺懲せよ!朝鮮を征伐せよ!と主戦論を唱える事は、当然の事である。ナチスの唱えた人種優越論や劣等論などに基づく民族浄化論とは、別次元の正論なのである。
 玄洋社の志士は尊皇・愛国・民権の理念の下、国の内には第二維新運動すなわち国家革新運動、国の外にはアジア解放運動に挺身した。立雲翁に代表されるように、興亜の志士たちには人種や民族の差別はなかった。支那人も朝鮮人もインド人も、志士たちの前では同じアジアの同胞である。
 しかし、国家としては違う。中華思想に毒された清国(支那人ではなく満洲人が支配した国だが…)と戦い、南下政策という侵略を行うロシアとも戦った。支那人や満洲人、ロシア人と戦争を行ったが、そこに差別があった訳ではない。これは玄洋社の志士たちだけではなく、多くの日本人もそうであった。その典型が日露戦争の軍神である廣瀬武夫である。ロシアを愛した廣瀬は、最も勇敢にロシアと戦った明治の武人だ。僕たちは、偉大な先祖たちの精神を守って行かなければならない。


◎命を懸けて守るべきものとは

 我々が命を懸けて守るべきものとは何か。それは日本である。三島由紀夫の言葉を借りれば、我々の愛する歴史と伝統の国、日本である。では、その日本とは何か。三島は石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」(『尚武のこころ』)の中で、「三種の神器」と述べている。これは別の言い方をすれば、国体となる。ここで間違えてはいけないのは、天皇制ではない。誤解を恐れず言えば、国体は護持すべきもの、天皇制は打倒すべきものである。治安維持法にあるがごときの私有財産制度と並列されるような制度としての天皇制なる近代資本主義社会の産物である唯物主義的立憲君主制度を以て、国体というのではない。
 国体を守るとは、玄洋社の理念である「皇室を敬戴」し、「本国を愛重」し、「人民の権利を固守」する事である。これは「神(天皇)」を敬い、「神の国(日本)」を愛し、「神の民(日本人)」としての責務を果たす事と言える。尊皇・愛国・民権、全て敬神に基づく道である。
 三島由紀夫の弟子である楯の会学生長の森田必勝が愛したという徳富蘇峰の歌「俺の恋人誰かと思ふ神のつくりた日本国」の通り、日本国は天皇を中心とする神々の国である。この国を守る事が、我々の責務である。その為にも「人民の権利」を「固守」しなければならない。民権擁護の戦い、護民運動に挺身すべき時なのである。これは急務である。


 × × × × ×


 玄洋社の理念は尊皇・愛国・民権であると述べて来たが、この言い方で果たして正しいのか、どうか。この拙稿を終わるに当たり、迷いが沸いた。尊皇・愛国・民権ではなく、尊皇・愛国・護民なのではないか、と。言い方の問題に過ぎないのでは、との意見もあるだろうが、言葉は重要である。ご教示を乞う次第である。


(『不二』平成17年7月号から転載しました)


〔追記〕

 『Risorgimento!祖国再興』編集長の恩師である野村秋介烈士は遺著『さらば群青』の中にある「五つの敵」―日本を切に愛する若き民族派諸君の為に―において、玄洋社の理念を「自由」「民権」「尊皇」としているが、これは明らかな間違いである。これは、野村烈士の誤解によるものなのか、または曲解によるものなのか。それとも、山頭火と同じく自由奔放に俳句を愛した野村烈士特有の解釈によるものなのか。それは分からない。しかし、誰かがキチンと指摘しておかなければならない。玄洋社の理念は「自由」「民権」「尊皇」ではない!玄洋社の理念は「尊皇」「愛国」「民権」(護民)である!と。


《ヤルタ・ポツダム体制の延命を許すな》


◎黄金週間を過ごすにあたって

 4月29日の「みどりの日」から5月5日の「こどもの日」まで続く黄金週間という大型の連休は、戦後の日本を象徴しているものの一つだろう。
 昭和天皇のお誕生日であった4月29日は、昭和の御代では戦前は「天長節」、戦後は「天皇誕生日」と呼ばれていた。平成の御代になって「みどりの日」となったが、この日を「昭和の日」と改める為の国民運動が起こり、現在の国会で祝日法の改正が行われようとしている。4月5日には衆議院の本会議を通過したので、本来ならばこの稿の筆を進めている時には参議院でも可決され、正式に決まっているはずだった。しかし、郵政民営化や衆議院の補欠選挙などが絡み、まだ成立していない。とは言っても、自民党が補選で2勝したこともあり、連休明けに国会が再開しても政局にはならず、何とか今国会で「昭和の日」は成立するだろう。これによって、来年の4月29日はこの日としては最後の「みどりの日」となり、再来年からは「昭和の日」になるはずである。
 なお、一言付け加えると、それに伴って5月4日の「国民の休日」が「みどりの日」に改められる。もっとも、これはどうでも良い話だが…。
 5月3日は「憲法記念日」である。本来ならば「国恥無念日」とも呼びたい唾棄すべき日だ。アメリカという国の陰湿さは、この日の制定にも大きく関わっている。陸軍記念日である3月10日に東京大空襲を行ったり(昭和20年)、東宮殿下のお誕生日すなわち将来の天長節である12月23日に東絛英機大将ら七士を処刑したり(昭和23年)と、我が国にとって大切な日にわざと悍ましい行為を実行して来た。この憲法記念日も同じである。占領基本法とも日本弱体化法とも呼ばれる所謂「日本国憲法」だが、これが公布された日は11月3日(昭和21年)である。 明治天皇のお誕生日であるこの日に、アメリカは占領憲法が公布されるように仕組んだのだ。日本国憲法公布の記念日である11月3日が「文化の日」、日本国憲法の施行記念日である5月3日(昭和22年)が「憲法記念日」なのである。
 アメリカの陰湿な占領政策、戦後日本の欺瞞、これらを象徴しているのが、黄金週間であると言っても過言ではあるまい。ただ漫然と時を過ごすのではなく、考えながら連休を過ごしたいと思う。


◎最大最悪の「反日侮日国家」

 例年に比べて遅かった桜の季節も過ぎ、黄金週間を前にして、日差しが眩しい季節となり、花や草には虫の姿を見るようになった。すると、虫が蠢くように、支那大陸や朝鮮半島で反日侮日の暴動や妄言が沸き上がって来た。
 核兵器の開発に血眼になり、我が国に向けてミサイルを発射した北朝鮮は、横田めぐみ嬢をはじめとする数多くの同胞を拉致したまま、拉致被害者の祖国への帰還はおろか、拉致犯罪への謝罪や真相の究明を実行しようともしない。それに対して、我が国政府は「対話と圧力」との戯言を繰り返すのみで、何ら実効ある対応を執ろうとはしない。経済制裁と呼ぶにも値しない経済交流の制限すら出来ない弱腰外交では、北朝鮮のような犯罪国家になめられるだけである。アメリカのブッシュ政権を見習う訳ではないが、あのような犯罪国家には、武力による制裁しか通用しないのではないか。政治家や評論家ならば「経済制裁」云々を言うのもよいだろうが、我々は「朝鮮征伐」を主張し、我が国民に対して北朝鮮との戦争を呼び掛けるべきである。
 無法者国家北朝鮮に対する弱腰ぶりを侮られたのか、近頃の中共や韓国の対日政策は悪辣極まりない様相を呈している。北朝鮮とは異なり、我が国と国交を開き、条約を結んでいる中共や韓国だが、その反日侮日の言動は北朝鮮以上と言ってもよいだろう。
 かつては「反共」という旗印の下、同盟国の装いも見えた韓国だったが、現在の左翼政権は露骨なまでに「反日」の旗印を鮮明にしている。もちろん、かつての軍部による独裁政権も本質的には「反日」であったが、互いにアメリカの半植民地に過ぎぬ身の上、そんな主張など出来る訳がない。また、奇跡的な経済成長を成し遂げた我が国から、少しでも経済援助を貰おうという魂胆もあったから、国内はともかく国外に向けては「反日」の旗印を出すことはなかった。その為、お人好しの日本は、韓国を同盟国、友好国と勘違いしてしまった。我が国の神聖なる領土である竹島が、韓国によって不当占拠され続けているのにも関わらずにである。
 中共に関しては何も言う言葉はないだろう。昨今の反日侮日暴動を見ていると、あまりの醜態に怒りを通り越して、笑い、さらには哀れみさえ感じてしまう。「中華人民共和国」という毛沢東なる「皇帝」が建国した「血筋」ではなく「共産主義」による「世襲」が行われて来た特異な「中華帝国」が、まもなく崩壊しようとしているのである。その崩壊の断末魔の叫びが、今回の反日侮日暴動となってあらわれたのだろう。
 北京五輪の前か後かは分からぬが、中共が崩壊するのは時間の問題である。中共は「反日」「共産」「中華」の3悪思想に凝り固まった悪魔国家であり、我が国の明確な敵国である。したがって、中共の崩壊は慶事ではある。しかし、それを単純に喜ぶ訳にはいかない。中共の後に、どんな支那国家が出来るのだろうか。「共産」が消えても、「反日」と「中華」が残り、より好戦的な国家が樹立されれば、我が国にとっての脅威は減るどころか、増えるだけになってしまう。
 このように中共、韓国、北朝鮮という反日侮日国家が、我が国の周辺を取り巻いている。これは我が国にとって重大な脅威である。しかし、これらの国々の脅威は、我が国を滅ぼすまでの力はなく、また、こやつらの反日侮日暴動なぞ笑止千万の出来事である。今、我が国を滅ぼそうとしている最大の脅威は、中共、韓国、北朝鮮などという自国も満足に統治出来ず、まもなく亡国となるような愚かな国々ではない。また、我が国の隣国にはアメリカやロシアという強大な侵略主義国家もいるが、これらでもない。
 我が国を滅ぼそうとしている最大の脅威は、日本自身である。世界最大最悪の反日侮日国家は、悲しいながら日本なのである。中共や韓国で続発する反日侮日暴動と、我が国内で進行している反日侮日陰謀では、その影響は比較にならない。侵略者は憎むべき敵である。しかし、売国奴は、より憎むべき敵なのである。


◎変法自強の蠢き

 現在、戦後の政治を見直そうという動きがある。皇室典範、教育基本法、安全保障に関連する法律など。特に憲法改正の動きは、かつてなかったものである。教育や防衛など国の根幹に関わる問題をないがしろにして来た戦後政治だが、現在は大きく変わろうとしているかに見える。自民党や公明党の与党のみならず、民主党という野党までもが憲法改正を唱えている。いや、時代の流れに便乗するかのように社民党や共産党も何か言っているのかも知れない。が、この2党には国会での影響力なぞ消滅しているのだから、特に気に止める必要もあるまい。
 かつては改憲派と護憲派に分かれていた国会だが、現在は改憲、論憲、創憲、それにもしかすると旧態依然とした護憲があるのだろう。衆議院でも参議院でも憲法調査会とやらが報告書だかを提出した。また各政党でも憲法草案を起草しはじめている。派閥や政治家個人でも私案を発表するものもいる。マスコミやシンクタンク、さらに学者など民間でも私案を出している。本屋に行けば、憲法関係の本は山ほどある。
 しかし、それらの殆どは「日本国憲法」を基礎にしているものに過ぎない。「日本国憲法」という言い方が適切でないとするならば、戦後体制すなわちヤルタ・ポツダム体制に基づくものである。現在ある憲法案は、ヤルタ・ポツダム体制を打倒しようというのではなく、ヤルタ・ポツダム体制の再生と強化を目論むものに過ぎないのだ。これらの改憲運動は、言わば「変法自強」運動である。「日本国憲法」を守るという点においては、改憲派などは広い意味での護憲派と言える。
 ヤルタ・ポツダム体制の打倒を叫ぶ民族派団体の中には「民族的自主憲法の制定」を主張する勢力もある。しかし、これにも与する訳にはいかない。僕らが主張すべきは、帝国憲法復元改正である。占領憲法の破棄―帝国憲法の復元―改正こそ、僕らの目指すものである。僕らは日本国憲法を改めるのでもなく、自主憲法を定めるのでもない。憲法を正すのだ。自主憲法制定運動を制憲派とするならば、僕らは正憲派である。
 紀元節復活、元号法制化、「昭和の日」改名など、民間の有志から声が上がり、日本を日本の真姿に戻そうという運動が、戦後いくたびも繰り返されて来た。先人たちの血の滲むような努力による勝利は、誠に貴く、大いに称賛されるべきである。しかし、にも関わらず、我が国の実情は悪化するばかりである。維新の志に基づき、成功を収めたはずの運動が、老獪なる政治家によって、ヤルタ・ポツダム体制の延命を図る変法自強に悪用されてしまったのだ。
 維新運動と変法自強運動は不倶戴天であり、本来は共闘なぞありえない。維新派にとって、守旧派や反動派以上に警戒すべき敵は、変法自強派なのである。


◎領土問題を考える

 ヤルタ・ポツダム体制の象徴の1つとして領土の問題がある。
 大東亜戦争末期、ソ連の侵略により奪われた北方領土。サンフランシスコ講和条約により、南樺太と千島列島は放棄させられ、今日では北海道に付属する4島だけを政府は返還を要求している。だが、南樺太と千島列島を割譲するような条約なぞ何処にも存在していない。ソ連の悪逆非道な侵略を考えれば、我が国は南樺太と千島列島の返還も含めて要求すべきである。…と、強がってみても、我が国政府の無能外交の結果、いまだ北方領土はロシアに奪われたままになっている。
 我が国が抱えている領土問題は、政府公認(?)の北方領土だけではなく、竹島もある。去る3月16日、島根県議会は、竹島が島根県に編入された2月22日(明治38年)を「竹島の日」とする条例を可決した。これに抗議と称して、韓国が反日の妄動を繰り広げた。そのおかげもあり、我が国の関心も竹島に集まるようになった。
 ロシアに奪われた北方領土、韓国に不当占拠されている竹島。そして、中共に侵犯されつづけている尖閣諸島や沖ノ鳥島。また、東シナ海の領海では、海底資源が盗掘されている。戦いを挑んででも守らなければならない国家の主権が蹂躙されているのに、我が国政府だけではなく、国民ですら怒りをあらわそうとはしない。
 我々日本人は、領土という意識に欠けているという意見がある。その理由として、島国だから…という意見もある。しかし、この考えはいかがなものか。「日本は島国である」という言葉は、現在ある自虐的な言葉の1つである。日本は海洋国である。島国という見方からすると、我が国は極東の小国となる。しかし、海洋国という見方をすると、我が国は太平洋の大国となる。領土は少ないかも知れないが、領海を合わせると世界有数の大国なのである。海洋国家、海洋民族としての日本の存在を忘れるべきではない。
 では、何故、我が国は領土を守ろうという意識が欠けているのか。これは欠けているのではなく、欠けているように見えるだけではないのか。
 「一所懸命」という言葉がある。1つの所を命を懸けて守る!という昔の武士の考え方だ。日本人ほど土地に固執し、土地の為に命を懸けて戦う民族はいない。ただし、その土地とは「米」が生産出来る土地のことである。大名などの領地を見ると、その価値は面積ではなく、米の生産量にある。神代の昔から米は神聖な存在だった。日本人にとって米が生産出来てこそ土地であり、米が生産出来ない土地は土地ではない。すなわち命を懸けて守る価値などないのであろう。
 日本人の土地に対する執着とは、米に対する信仰にある。米が生産出来ない領土に対する無関心さは、誠に遺憾ながら理解出来る。が、民族固有の領土は、米と同じく神聖な存在である。日本人の意識を覚醒して、領土を死守し、失地を奪還しなければならない。


◎大きな眼と長い眼

 ベトナム戦争の頃だと思うが、政界の黒幕とも呼ばれた右翼の大物が、共産主義の脅威から我が国を守る為、韓国との連帯を強く推進した。その過程で、竹島の問題があった時、日韓の同盟の妨げになる島なぞ爆破してしまえと言ったという。国際共産主義の脅威が深刻であった当時から考えれば、この案は奇想天外だが、一考するだけの価値はあった。北方領土や尖閣諸島と違い、我が国と韓国が同盟国であるならば、戦略的にも、経済的にも問題はない。ただし、ここでは国家の主権という1番大事な問題が考えられていない。
 また、今日の日本において、最も邪悪な存在である創価学会イコール公明党だが、この創価学会や公明党を評価する時代もあった。共産主義に流れ込むはずだった若者たちが創価学会へ、社会党や共産党に投票するはずだった有権者が公明党へ流れ込んだ。だから、日本には共産主義革命が起こらなかったのだ。…といふ話である。
 韓国を反共の同盟国と評価することも、創価学会や公明党を反共の防波堤と評価することも、反共という点においては正解である。大きな眼で見れば、韓国も、創価学会も公明党も、敵ではなく、味方だったのであろう。しかし、それは反共という1点のみにおいてである。日本という点、最も大切な点から見れば、この考えは誤っていたことが明白である。
 イラク戦争に我が国が参戦する際、大義云々が言われた。「テロとの戦い」という大義が声高に叫ばれた。アメリカ中枢に対する同時多発攻撃、所謂「9・11」以降、「テロとの戦い」という大義の下、アメリカに追従して、我が国政府は、好き勝手に行動している。保守主義者や国家主義者も、そんな政府を支持している。かつて「共産主義との戦い」という大義の下で犯した過ちを繰り返そうというのか。
 国際情勢を見る時、歴史を見るような長い眼で見ることも必要だろう。しかし、その長い眼とは、いったいどのくらいの長さで見るつもりなのか。10年なのか、100年なのか、はたまた1000年になるのか。国際関係を歴史的に見れば、自国と他国しかありえない。他国とは、「今は敵国ではない国」と「今は敵国である国」しかない。「同盟国」とか「友好国」とか「中立国」とか、いろいろな呼び方があっても、結論的には2つしかない。また、国内政治を見る時はどうだろうか。
 長い眼で見ると、ある時は味方、ある時は敵と判別しにくくなる。そのため、長い眼で見ると言うのは、何もしない言い訳になりやすい。僕らには大きい眼も長い眼も必要はない。逆に今、必要なのは、小さい眼で短い眼で見ることである。


◎戦うべき敵

 今、時代は僕らの方向に風が吹いているような錯覚がある。しかし、それは違う。吹いている風は維新の風ではなく、変法自強の風である。皇室論、憲法論、国防論、国家論、教育論、いったいどこに正しい日本の姿があるのか。現在、国防なき政治論、愛国なき国防論、尊皇なき愛国論、そして敬神なき尊皇論が横行している。僕らはこれらを唱える保守主義者や国家主義者どもと戦わなければならない。敵は共産主義者だけではない。唯物主義や共和主義の本性を隠した仮面をかぶったヤツラである。
 憲法、皇室典範、教育基本法など、保守の動きが活発だが、これらの動きは全て変法自強運動に過ぎない。ヤルタ協定とポツダム宣言に基づくYPジヤパンの延命工作である。断じて、この延命工作を許してならない。とは言っても、巨大な敵に比べれば、僕らは無力な存在である。だが、命ある限り決して戦いを放棄してはならない。かつての革命青年の言葉に「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることは辞さないが、力尽さずして挫けることは拒否する」とあるが、僕はこの言葉が好きである。敵に対して戦いを挑み、何度敗北をしようとも、断じて降参はしない。
 まもなく5月5日「こどもの日」、端午の節句だが、僕は屈原にはならない。何があろうとも、汨羅の淵に身を投じてなるものか。「正成一人」の士気を胸に燃やして、1人になっても最後まで戦い続ける覚悟である。


(『不二』平成17年5月号から転載いたしました)


《御訪韓の奸謀と戦う》

◎新年早々の「御訪韓」報道

 本誌先月号(『不二』平成17年2月号)の編輯後記において、編輯長が指摘しているように、新年早々から御訪韓を実現しようと企む盲動が見え隠れしてゐる。そこで、編輯長の指摘と重なる点が多々あるが、御訪韓に反対する弁を述べたい。
 なお、ここでは「御訪韓」という言い方をする。 天皇陛下であらせられるならば「韓国行幸」、皇太子殿下であらせられるならば「韓国行啓」が正しい日本語である事は承知している。しかし、我が国政府や韓国政府などが策謀しているのは、まず韓国行幸を計画するが、それが駄目ならば韓国行啓を!という無礼極まりないものである。そこで、「韓国行幸」「韓国行啓」を併せて、「御訪韓」という文言を使用する。
 先月号でも述べられていた事だが、今年1月に報じられた動きを再確認する。1月1日の日本経済新聞が一面で「皇太子ご夫妻の訪韓検討」と掲げ、「国交正常化四十周年/政府今秋以降で調整」と報じた。今年が、我が国と韓国との国交樹立40年という事もあり、「日韓友情年2005」だというのである。そこで、皇太子殿下御訪韓を成功させる事によって、 天皇陛下御訪韓の実現につなげたいと、政府が企んでいる。というのも、 天皇陛下御訪韓については、さすがに政府ですら慎重な意見が支配的である。そこで、まず皇太子殿下御訪韓を成功させてから、という事らしい。
 さて、この記事の中で問題なのは「訪韓については 天皇陛下ご自身も強い意欲を示されているとされる」という事が掲載されている点だ。これは、御訪中の時でも使われたやり方である。良識ある国民の御訪中反対の声を押える為、当時の政府は「御訪中は 天皇陛下のご希望である」云々との話を流した前歴がある。今回もその手段を用いようというのだ。
 皇太子殿下御訪韓の記事は日経新聞だけの事にとどまり、これは日経の特ダネなのか、誤報なのか、その真相は不明である。しかし、観測気球であった事は、これもまた否定出来ない。
 そして、1月13日の韓国大統領の発言である。これは日経以外でも…というよりも産経・朝日・読売・毎日をはじめとする全ての新聞が、当日の夕刊もしくは翌日の朝刊で報じていたはずなので、ご覧になった読者も多いだろう。
 1月13日、韓国大統領の盧武鉉が年頭の記者会見において 天皇陛下御訪韓について「既に韓国政府として招請している」「いつでも最高の礼を尽くして歓迎する準備が出来ている」などと述べた。当日の夜、我が国の首相は「まだ聞いていないが、そういう段階ではない」と慎重な姿勢を見せた。
 しかし、政府の表向きの発言を信用する訳にはいかない。御訪中を阻止出来なかった失敗を繰り返してはならないからである。


◎韓国は反日国家である

 今年は我が国と韓国が国交を樹立してから40年という事もあり、先程述べたように日韓友情年とかいう年らしい。
 我が国と韓国とが国交を樹立したのは、昭和40年の事である。6月22日に「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(日韓基本条約)が東京で署名され、12月11日に国会で承認、同月18日に批准書が交換、公布、同日に効力が発生した。当時の我が国の首相は佐藤栄作、韓国の大統領は朴正熙であった。
 韓国の初代大統領である李承晩は親米反共だったが、同時に強烈な反日であった。その李承晩が打倒された後、韓国内は混乱したが、陸軍の朴正熙が権力を掌握する事により国内は安定し、以後の韓国は「漢江の奇跡」と称賛される発展の道を歩む事になった。朴正熙は韓国史上最大の政治家であり、勇気ある愛国者であった。朴正熙も本質的には反日だったし、反日政策は継続されていた。しかし、頑迷固陋な李承晩とは異なり、朴正熙は反日よりも反共を優先させた。共産主義の脅威から韓国を守る為、我が国との国交を樹立する事を決断した。この決断は、韓国にとっても、当時のアジアにとっても、歴史的英断と評価されるべきである。もちろん、この背後には東アジアの防共ラインを強化する事を望むアメリカの力が働いた事は否定出来ない。
 現在、民族派や保守派の陣営で、親韓派と呼ばれる勢力は皆無であろう。しかし、以前は違っていた。民族派や保守派はイコールと言っても良い位、ほとんどが親韓派となっていたのではないか。中華民国を含めて、日華韓は運命共同体とか、反共三国同盟とか、今になって考えれば、笑ってしまう。中華民国も韓国も反共ではあったが、親日ではない。反日である。反共反日。反共を反日よりも優先させただけに過ぎないのである。
 我が国の領土である尖閣諸島の領有を宣言して来たのは蒋介石の中華民国である。韓国は朴正熙時代ですら、国交を樹立した後も、李承晩が侵略した竹島を返還する事はなかった。韓国が反日国家である事は、普通に考えれば簡単に分かる。親日の台湾を反日の中華民国亡命政府が占領している「中華民国」という複雑さに比べれば、単純な事である。
 朴正熙が暗殺された後、軍部の傀儡として崔圭夏が大統領になったが、すぐに陸軍の全斗煥が大統領となった。その後は同じ陸軍の盧泰愚、以後は政党政治家の金永三、金大中、現在の盧武鉉と続いているが、我が国と韓国との関係は悪くなる一方である。韓国は、李氏朝鮮と同じく、自らを反省する事が出来ない愚劣な国家に戻ってしまったのだ。
 僕の記憶違いでなければ、全斗煥以降の大統領は、全斗煥を含めて全員が来日しているはずだ。韓国は、ここ歴代の大統領、すなわち国家元首が来日を果たしているのである。これが、我が国の国家元首の韓国訪問を招請する一つの根拠となっている。外交上の儀礼からすれば、当然の話なのだろう。
 昭和59年に全斗煥が来日した際にも、公式だか非公式だか知らぬが、御訪韓の招請は行なわれているだろう。平成4年に盧泰愚が来日した際には、当時の首相である宮沢喜一に御訪韓を招請してる事が明らかになっている。これは公式な招請と考えて良いだろう。
 好き嫌いは別にして、我が国と韓国は隣国である。その隣国同士で、一方の国家元首だけが訪問しているという不自然さは、確かに異常な事である。だが、この不自然な関係こそが、我が国と韓国との異常な国交を物語っているのではないだろうか。首相の靖国神社参拝をはじめ竹島、歴史教科書、参政権…など、韓国が我が国の主権を侵害し、内政に干渉しているのが、今日の日韓関係である。また、現在の左翼政権に至っては、「反日法」と呼んだ方が相応しい法律を成立させようとしている。地理的にも歴史的にも近いとされているが、我が国と韓国との関係は敵対こそすれ、友好的なものは何一つない。


◎韓ブームという観測気球

 昨年から、ヨン様だとか、韓国四天王だとか、所謂「韓流」とやらがブームである。ソウル五輪の前後にも韓国ブームとやらがあったように記憶しているが、今回も凄い人気のようである。もっとも、このブームの火付け役として、在日韓国人が動員されたとも噂されており、どこまでが本物なのかも分からない。しかし、ブームなどに付和雷同しやすい我が国民の性から、いつのまにか本物のブームに成長してしまったのかも分からない怖さが、現実にある。
 昨年の春の出来事だが、『メモリー』騒動なるものがあった。承知されていない方が多々おられるだろうから、簡単に説明したい。僕は『Risorgimento!祖国再興』(主宰は野村秋介烈士の門下生である古澤俊一氏)というホームページに「山椒雑記」なる短文を連載している。そこで「不敬ドラマ『メモリー』(仮)」と題して述べたものがあるので、それを引用する。

 《我が国の皇族(女性)と韓国の庶民(男性)との恋愛物語という不敬な内容。言わば『ローマの休日』のパクリ?である。来年は日韓国交正常化40年ということだが、その記念ドラマとして、TBSと韓国のGM企画・トウソン企画との共同で制作される。撮影は9月頃から始まり、放映は11月の予定という。3月15日に韓国で報道され、我が国にも広まった。しかし、3月17日、TBSは総務局広報部の名で、企画の検討については認めながら、その内容については否定した。だが、今後の動向には厳重な監視が必要である。》(平成16年4月25日)

 韓国で人気俳優が記者会見して発表したものが、当日のうちに我が国に上陸したのである。しかも、配役までもが発表されている。主役は我が国の人気女優の竹内結子、韓国四天王とか呼ばれている1人である張東健となっていた。張東健のフアンが、この情報を持ち込んだのか、瞬時に我が国内のホームページに掲載されたようだ。そして、この話がその日のうちに全国の民族派に伝わったのだから、今の社会は恐ろしい。
 全国の民族派からの怒濤のような抗議に恐れをなしたのか、TBSは2日後には弁明を発表している。この騒動は韓国の俳優の勇み足だったのか、それとも我が国内の動向を探る為の示し合わせた観測気球だったのか、それは不明である。しかし、一つだけ言える事がある。それは、観測気球には、過剰かつ過敏に、そして過激に反応すべきである!という事だ。


◎不忠の大罪

 我々が、というよりも、少なくとも僕自身が痛感している事だが、昭和から平成に御代代わりした時に成人であった者、少なくとも志を抱いていた者には大きな罪がある。僕自身の無能無力から犯した罪である。
 それは、占領憲法についてだ。現在、大日本帝国憲法は帝国憲法もしくは明治憲法と呼ばれている。これに対して、日本国憲法は占領憲法または亡国憲法と呼ばれている。一般の人は、憲法または現行憲法になるのだろうか。また、1946年憲法と呼ぶ人もいる。アメリカのジョージ・ランボーン・ウエスト博士の言葉を借りれば、これは「憲法」と日本語で呼ぶ価値はなく、「コンスティテューション」と呼ぶべきなのかも知らない。
 しかし、この日本国憲法は将来、昭和憲法と呼ばれる事は間違いないだろう。現在、審議されている中で誕生する憲法は改悪になるか改正になるか(おそらく改悪になるだろうが)分からぬが、平成憲法と呼ばれる事にならう。将来の一般的な呼び方として、明治憲法・昭和憲法・平成憲法となるのは、まず間違いない。我が国の歴史上かつてない程の栄光と屈辱が刻まれた「昭和」という光輝ある名称をこの憲法の冠とする不忠は、まぎれもなく臣下として大罪である。
 しかし、御訪中を阻止出来なかった事は、昭和憲法以上の不忠の大罪と言える。御訪中は、我が国の歴史上最も許しがたい屈辱の一つである。我が国が「中華人民共和国」と名乗る邪悪なる国家と国交を樹立したのは、昭和47年の事である。我が国の首相は田中角栄、中共の首相は周恩来、そして共産党主席として毛沢東がいた。ある意味では、この時から中共による 天皇陛下御訪中の工作は始まっていたのであろう。歴史の表面に出ている第1回目の招請は昭和53年、当時の副首相である◆小平が来日した際に行なわれている。平成4年の御訪中実現の14年前の話である。
 御訪中に関連する事項については、編輯長も紹介していた『検証と総括・天皇陛下ご訪中問題』(平成4年/展転社)を見ると、詳細に分かる。御訪中は、まさしく朝貢の復活とも言える国史の汚点である。もう一度、御訪中の総括をして、敗北は敗北として直視した後、新しい闘争に挺身しなければならない。その為にも、このブックレットを読み直すべきであろう。
 「昭和の憲法」と「平成の御訪中」と、後世の同胞は、僕らの罪を非難するだろう。また、そういう時代が来なければならない。無能無力から犯してしまった不忠の大罪を僕らは痛感し、御訪韓阻止に立ち向かわなければならない。


◎草莽の武夫として

 御訪韓に反対する一番大きな理由は、先月号の編輯後記で述べられている通り、御安全に関する危惧があるからである。
 竹島の侵略、首相の靖国神社への参拝に対する非難、歴史教科書への介入、数え上げればキリがない程、韓国の悪行はある。まともな国であるならば、韓国に宣戦布告しているはすだ。しかし、戦後日本は正常な独立主権国家ではない。大西郷の言葉を借りれば「国の凌辱せらるるに当りては縱令国を以て斃るるとも正道を踏み義を尽すは政府の本務なり」の気概なき戦後日本政府は、「唯目前の苟安を謀るのみにして戦の一字を恐れ政府の本務を堕」している「商法支配所」なのである。それも悲しい事にアメリカの植民地的なYPジヤパンの、である。
 主権侵害や内政干渉は、国家の存立に関わる問題であり、断じて許せない。有志のみならず、一般の国民でも、そうなのではないか。この点から、御訪韓に反対する国家主義者や保守主義者は多いはずだ。しかし、これらの問題が解決すれば、御訪韓は良いのか。それは違う。御安全の問題がある。この重大事は、次元が全く別だ。御安全に関する懸念が少しでもある以上は、御訪韓は断じて実現させてはならない。
 御訪韓を阻止する為ならば、是非を論ずるべきではない。出来るか!出来ないか!ではなく、やるのか!やらないのか!だけしかない。僕は国家主義者でも保守主義者でもない。忠良なる皇国の一臣民として、是非もなく、成否もなく、善悪もなく、ただ御訪韓阻止闘争に挺身するのみである。。
 禁門の変に際して、真木和泉守が「その迹は足利高氏にして心情は楠木正成」と語ったと伝えられている。御訪韓阻止闘争がまさしく同じである。草莽の武夫であらうとも、 「志」楠木正成「行」足利高氏の信念で、力の限り戦う覚悟である。

(『不二』平成17年3月号より転載いたしました)


《才媛と亡霊》

◎戦後の平和と繁栄

 我が国で長らく信じられていた幻想の中に「政治は三流だが経済は一流」とか「政治家が駄目でも優秀な官僚がいるから大丈夫」というものがあった。今、この言葉を信ずるほど愚かな人はいないだろうが、以前には結構多くの人が信じていた。
 この幻想の根底に流れているのは、唯物主義とも相通じる拝金主義の思想である。吉田茂式の経済優先政策による害毒とも呼んでも良い。国家の大本である国防と教育をないがしろにして来た戦後日本の歩み方を見れば、その実態が浮かび上がって来る。
 戦後日本は、戦前の日本が武士国家であったことに比べて、町人国家もしくは商人国家と卑下されている。はたして、そうだろうか。戦前の我が国は、たしかに武士国家であった。これは軍人という軍事専門職の官僚が支配した国家という意味ではない。武人であり、哲人でもある武士という存在が最も尊敬されていた国家である!という意味である。しかし、その意味で考えれば、戦後日本は町人国家でも商人国家でもない。そんな呼び方は、町人や商人に失礼な話である。
 町人の大多数を占めていたのは職人であり、彼らの技術は優れていたものばかりである。また、商人にしても、決して利益追及の輩ではなかった。戦後日本は町人国家でも商人国家でもなく、良く言えば芸人国家、悪く言えば金貸し国家である。現在は、将来の夢を陸軍大将よりもタレント(芸能人やプロスポーツ選手など興行の出演者)と答える子が多い社会である。もちろんこれは全てではないだろうし、昨今は大工さんを志望する子供も多いとも聞いた。しかし、夢=金という構図は、正確に戦後日本を表すものの一つだろう。金こそ正義という社会である。
 また、経済や産業に目を向けると、銀行優位の構造は揺るぎない。たしかに、自動車産業など製造業も好調のようだが、日本資本主義の支配者は、相変らず銀行すなわち高級な金貸しである。というよりも、金儲け優先という金貸し的な体質は、製造業も含め全ての企業を汚染している。これは、経済同友会の前職や現職の代表幹事である製造業者が、支那での金儲けに目が眩んで、総理大臣の靖国神社参拝に文句をつける様を見れば、あきらかなことである。
 昔、ある経済評論家の不敬言動を糾弾する闘争を行なった際、ある雑誌記者が話していた言葉を思い出した。今の日本には財界人なんかいませんよ、いるのは企業家ばかりですから…と。なるほど、たしかに近頃では財界人という呼び方は、あまり聞かない。格好をつけて経済人とかいうらしいが、経団連をはじめとする所謂経済団体の首脳を見ると、 「経世済民」という言葉には、無縁な人物ばかりである。「財界総理」と呼ばれる人物が率いる我が国最大の自動車企業は、支那へ進出するらしいが、数年後には大損失を被って、撤退するのか、倒産するのか、我が国を支える企業の一つだけに憂慮される。
 さて、冒頭に述べた妄想と同じゆうな妄言の一つに「戦後の平和と繁栄」という言葉がある。我が陣営に近い人でも、ついつい使ってしまう言葉だ。しかし、よく考えてもらいたい。「平和」とは、アメリカに隷従し、支那や朝鮮に謝罪を繰り返す状態のことであり、良くって属国、悪ければ植民地の平和、言わば奴隷の平和に過ぎない。「繁栄」とは、文化も精神も荒廃した経済のみ物質のみの繁栄に過ぎない。
 奴隷の平和と物質のみの繁栄。悲しいことだが、これが戦後日本の本質なのである。


◎財務省は亡国官庁

 売国官庁、亡国官庁と言えば、明治の御代から外務省の専売特許のような別名であった。しかし、昨今の動向を見ると、財務省がとって変わらうとしている。もちろん、これは財務省と名称変更してからではなく、本質的には大蔵省と呼ばれた時代からである。外務省の国賊ぶりが突出していたため、大蔵省の国賊ぶりが目立たなかっただけである。言わば売国の外務省、亡国の大蔵省というところであろう。
 今日大きな問題になっている皇室の問題でも、ある意味では大蔵省が元凶と言える。敗戦占領時の11宮家の臣籍降下(昭和22年)も、その前年の昭和21年の皇室及び皇族に対する課税などの不届きな措置が大きな要因の一つである。GHQの指令とも言われているが、アメリカの圧力を口実にしてアレコレと工作するのは、戦後の官僚の特性でもある。
 また、記憶に新しいところでは 天皇陛下の御即位に際しての相続税の課税がある。近頃マスコミを騒がしている皇室の問題でも、新しい宮家云々について、財政的な見地から、皇族を制限しようとする動きがあるという。皇室典範の改正について検討を始める前に、財政云々からの制限が流れるのは、財務省による観測気球なのだろう。もちろん、まだマスコミ報道の段階に過ぎないが、今までの大蔵省=財務省の不敬体質からすれば、注意して行かなければならないことである。
 財務省の亡国体質は、不敬体質だけに止どまらない。国家の独立と主権を守ることにも極めて鈍感である。いや、鈍感というよりも悪質というべきであろう。一例としては、平成17年度予算において、財務省原案では、経済産業省が要求した三次元物理(資源)探査船(海洋資源調査船)の建造費が認められなかったのである。結果としては、大臣による復活折衝によって認められたが、支那による我が国領海への侵犯が繰り返されている現在、海洋資源調査船の建造は急務である。財務省は、領土や領海が侵犯されている危機的状況をどう考えてゐるのか。
 この建造予算復活は、大臣に花を持たすための茶番劇だろうが、国家の危機とも言える重大事まで、こんな駆け引きごっこに使うとは、不届き千万である。


◎財務省の才媛

 今回の予算編成では、1人の財務官僚が注目された。昨春、財務省切ってのエリート集団である僅か数名しかいない主計官に初めて女性が就任し、今回の予算では防衛庁の担当として辣腕を振るったというのである。テレビや新聞などでも紹介されていたが、才色兼備の女性らしい。今回の予算編成について、雑誌にも寄稿している。「財務省担当主計官からの警鐘」とし、「自衛隊にも構造改革が必要だ」との題名である。「改革なくして成長なし」を旗印にする総理大臣に呼応した言い方なのだろうが、この女性は道路工事なんかと国家の防衛を同じ次元で考えているのだろうか。
 先の海洋資源調査船の一件でも分かるように、霞ヶ関の脳天気な体質からすれば、冷戦構造が崩壊した!バンザイ!平和だ!というところなのだろう。かつては東西の話し合いでまだ何とかなったような事態でも、今日では殺し合いにまでなることが多い。また、我が国の周辺には北朝鮮という犯罪国家がある。いや、北朝鮮なぞ小さい問題である。我が国の隣には支那という世界最大最凶の侵略国家があるのだ。所謂「日中友好」の幻想に取り憑かれた霞ヶ関の住人には、まったく理解出来ないことなのだろうか。
 美人主計官をテレビでも見たが、公務多忙で深夜まで働き、化粧も出来ず、寝不足になることを自慢気にしていた。深夜まで仕事をしてタクシーで帰ることが出来る身分、空調の利いた部屋で仮眠を取ることが出来る環境。この女性が、軍隊の基礎である兵力を4万人も削減する原案を作成した。たしかに1日3〜4時間しか眠らず、予算作成に励む勤務は大変だろう。机上では1日の睡眠時間はきちんと確保されている自衛隊よりも激務とも見える。しかし、安全が確保されているどころか、空調すら利く部屋での仮眠は、いつ爆破や砲撃をされるか分からないイラクの戦地で「ゆっくり」と寝るよりは快適だろう。
 イラクの戦地を持ち出すまでもない。寒さや暑さの中、あちらこちらの現地で過ごすことに比べれば、天国と地獄ではないのか。テレビで見た限りだが、彼女らの苦労より、中小企業の経営者の方が大変なように写る。国を背負うストレスは理解出来ない!と怒られそうだが、国家民族を真に背負っている官僚がはたして存在するのだろうか。
 かつてパンツをはいていない女給が接客する店で接待で遊んでいた官僚がいたが、あれは何処の人間だったのだろう。同じ頃だったが、主計官や主税局の高官を努めた官僚が脱税を指摘された。その際の言い訳が、税の仕組みが複雑で分からなかった!と。官僚の中にもユーモアが分かる人がいて、安心したことがある。少しブラック・ジョークが強いとは思うのだが…。
 美人主計官が雑誌に投稿している中で、自衛隊の将校についてはかなり厳しい批判をしている。「シビリアン・コントロール」の危機とも述べている。彼女は政治家などにも 「防衛予算にも無駄を許さない『納税者の視点』が大事」と説得して回ったという。社会民主党の辻元某の時でも分かるように、YP保守の政治家は、女性の働きかけには、すこぶる弱い。左翼や暴力団の隠れ蓑になっている訳の分からぬ団体に法人格を与える法律などは、その結果でもある。
 美人主計官は、自分の立場による見解を雑誌に発表した。これを見ると、正しいのは彼女で、悪いのは陸上自衛隊の将校である。しかし、これは一方的な見方に過ぎないはずだ。もし、彼女と同じように、陸上自衛隊の将校が自分の主張を雑誌に発表したら、いったいどうなるのだろうか。あらためて言うまでもない結果が待っているはずだ。


◎貧乏神の亡霊

 彼女の寄稿で一番気になるのは「個人的な話で恐縮だが」と、福田赳夫の話を持ち出していることである。若い読者には馴染みがないだろうが、この人物は総理大臣をつとめた大蔵官僚出身の自民党政治家である。現在の総理大臣(小泉純一郎)は、この人物の秘書をつとめており、言わば弟子にあたる。また、国立戦歿者追悼施設を建設しようと動いた前官房長官(福田康夫)は、この人物の息子である。この元総理は、彼女の結婚式の主賓をつとめたという。当然、現総理とも彼女は懇意にしているのだろう。というよりも、その点を強調したいのであろう。
 「政党政治が崩壊し軍国主義に向かって坂道を転げ落ちていくなかで、結局、財政が最後の砦になってしまった…」と、元総理は主計官僚の任務の重さについて、彼女に語ったという。この冗談にも、思わず笑ってしまった。この元総理に、そのような立派な信念や覚悟があったのだろうか。まったく信じられない話である。
 まず、財政の点から見ても、福田赳夫の罪は大きい。産経新聞によると、平成17年度予算案は一般会計82兆円のうち新規国債発行は34兆円を占めるという。国債発行残高は538八兆円もあり、税収の約12年分に相当するのだ。赤字国債を初めて発行したのは、東京オリンピック後の不況に突入した昭和40年であり、時の佐藤内閣の大蔵大臣は、この元総理である。赤字国債はインフレを誘発するので財政法で原則禁止されているそうだが、元総理は後に得意技となる特例とやらを使い、赤字国債を発行した。さらに10年後の三木内閣の副総理兼経済企画庁長官として、また自らの内閣でも赤字国債を発行している。
 元総理は、今日の借金財政の基礎を築いた張本人である。国防予算は削減するが、自民党の飼い主である土建屋を潤すための道路工事には無制限に借金をしてでも金を使う政治家。自らの保身のためには、借金財政の行き着く先が分かっていながら、無制限に予算を作成する官僚。その無能無策無恥のツケが、今日の犯罪的な借金財政である。そして、その元凶が、現総理が師と仰ぎ、美人主計官が称える元総理なのである。
 福田赳夫の罪は、このような財政的犯罪だけではない。さらに大きな罪悪を犯している。我が国の歴史上における最大の汚点の一つに、日本赤軍に対する無条件降伏がある。昭和52年、日本赤軍はパリ発東京行きの日本航空機をハイジヤックし、ダッカ空港に強制着陸させた。当時の福田内閣は、日本赤軍に全面かつ完全に屈伏し、彼らの要求を飲んだ。連合赤軍や東アジア反日武装戦線のメンバーなどを釈放した上、600万ドルの身の代金を支払ったのである。釈放された中には政治犯だけではなく、刑事犯も含まれていたのだから、言葉を失う。総理大臣だった福田は「人命は地球よりも重い」などと迷言を吐き、超法規的措置だと言い訳を述べた。
 この事件は、どんなに言い訳をしようと、日本国政府が日本赤軍に無条件降伏したことに他ならない。後にペルーの日本大使公邸がゲリラに占拠され、現地の特殊部隊が突入する際、日系のペルー大統領は我が国政府には相談しなかったという。「相談したら、日本政府がかわいそうだから」という理由である。また、先頃のイラクにおける人質事件でも、我が国は身の代金を支払ったんではないか?という疑惑がある。それもこれも、全てこの屈伏があるからだ。我が国の歴史上最大の国辱とも言える大事件なのである。
 加賀百万石の始祖である前田利家について、聞いた話がある。利家は信長や秀吉とは違い、金銭を惜しんで、優秀な兵を集めず、蓄財に励んだ。ある時、出陣しようにも兵が足らず窮地に陥った。その時、普段から兵を養うことを説いていた妻の松は、金を利家に差し出し(投げ付け)「貴殿が一番信頼しているものだから、これを持って戦に行きなさい」と怒った。この窮地を脱した利家は以後、聡明な松の助言を聞き、金を惜しむことなく、優秀な兵を養い、百万石の大名になった。…という話である。国を支えるのは、金ではなく、人ということだ。
 銭勘定を優先すれば、安全に金をかけるよりも、身の代金を払った方が良い…などと考える輩がいる。安全対策のため20年間に年額1兆円かければ20兆円になるが、普段まったく金をかけなければ有事の際に10兆円の身の代金を支払っても10兆円の得ではないか…、こんな考えは国を滅ぼす。銭勘定しか出来ない官公庁は、征伐すべき国賊である。

(『不二』平成17年2月号より転載いたしました)


《憂国の義挙と連帯する民族派青年集会》

「山椒雑記」でも紹介しているが、「連帯と孤立」でも「憂国の義挙と連帯する民族派青年集会」について紹介する。

× × × × × × × × × ×

憂国の義挙と連帯する民族派青年集会の御案内


謹啓
 梅香芳しく桜風待ち遠しい季節となりましたが、御尊台各位におかせられましては益々御隆盛の段、大慶至極に存じ上げます。
 さて、文明の衝突とも称される終わる事なき悪夢のような戦乱が、地球を破壊しようとしている今日。人類の愚かな所業に対する「天の怒りか地の声か」とも思える地震・津波・洪水など天変地異が続発し、世界を恐怖と絶望のどん底に陥れております。そのような中、我が国では内憂外患が襲い、亡国の危機にあります。明治の御代から脱亜入欧を目指して欧化政策を推進する亡国政府と軟弱屈伏外交しか出来ない売国外務省により、我が国は国史最大の危機に直面していながら、何一つ自力で解決する事が出来ません。奴隷的平和と物質的繁栄を与えられたヤルタ・ポツダム体制の下、戦後日本政府はYPジャパン商法支配所と堕落し、廟堂の顕官には国を憂うる誠も社稷を思う心もありません。
 しかし、この国家民族の危機的状況の中、草莽の志士による憂国の義挙は、平成16年に大きく爆発いたしました。中共や北朝鮮に対する売国外交への我が同胞の怒りが、正義武断の一撃となり、世を震撼させたのです。4月23日、在大阪の中共総領事館に対する中釜信行同志の義挙。9月30日、国会に対する長谷川光良同志の義挙。11月1日、売国ゼネコン大成建設に対する木川智同志の義挙。
 一人の男の行動に対して、是非も、成否も、大小も、功罪も、語るべきでも論ずるべきでもありません。明治の御代、欧米列強に隷属する売国外交を粉砕したのは、玄洋社の志士である来島恒喜烈士の放った一発の爆裂弾です。来島烈士の葬儀で、頭山満翁が述べた「天下の諤々、君が一撃にしかず」との一言こそ、行動者に贈るべき言葉なのです。国を憂い、アジアを想い、肉体言語による血潮の雄叫びを挙げた熱血武侠純情多感な大和健男児に対して、我々は尊敬と感謝の念を明らかにし、その行動の全てを絶対かつ熱烈に支持し、連帯の志を宣言いたします。
 以上の理由から、刎頸の同志相集い相語り「憂国の義挙と連帯する民族派青年集会」を左記の要領にて開催いたす事となりました。時節柄、公私ともに御多忙と拝察いたしますが、我々の真情を御理解いただき、御来臨の栄を賜りますれば、幸甚に存じ上げます。本来であれば参上拝眉の上御案内申し上げるべきではございますが、日頃の御交誼により、粗状にての御挨拶となります事を御海容いただきたく御願い申し上げます。末尾となりましたが、御尊台各位の益々の御盛栄を御祈念申し上げます。
                                     敬白
     平成17年3月吉日
                 憂国の義挙と連帯する民族派青年集会実行委員会
                             代表   五十嵐博臣
                                  河原博史
                                  福田邦宏
御尊台各位

     記

日時

  平成17年4月17日(日)午後2時〜4時(午後1時30分開場)

会場

  千代田区公会堂 8階 大ホール

   東京都千代田区九段南1−6−17
    ※専用駐車場はありませんので公共交通機関をご利用下さい
    ※最寄駅は地下鉄九段下駅(東西線、半蔵門線、都営新宿線)
    ※九段会館の並びです

会場分担金

  500円(学生無料)


憂国の義挙と連帯する民族派青年集会実行委員会

  青木慎一  秋山一成  荒岩宏奨  五十嵐博臣 石田和久
  市村 悟  伊藤 満  岩井繁勝  内田春雄  遠藤雅三
  小川和彦  尾崎健吾  小曽戸清裕 鹿島政晴  片山清一
  加藤順一  加藤勇次  河原博史  菊池慶雄  北原五郎
  草壁 悟  工藤惟史  工藤正也  小針政人  坂田秀道
  坂田昌巳  酒奇健一  清水常二  清水利行  志村 馨
  白川広久  白坂孝行  菅野政明  鈴木武司  鈴木達也
  武石勝士  竹内恒夫  槌田一幸  土井政紀  徳竹尉匡
  豊川洋海  中尾秀一  永尾隆幸  中野順二  仲程通也
  長谷勇二  花田 譲  針谷大輔  平河内進  平野裕一
  平山芳仁  檜山和義  福田和久  福田邦宏  藤巻 強
  舟川 孝  水谷浩樹  皆川義隆  森 浩二  森川照男
  山岡孝治  山口一夫  山口秀明  山田一成  吉田茂正
  吉田誠司  吉田 徹  吉田正則  渡邉淳司

  事務局   猶存社 気付 (担当・鹿島政晴)
        東京都中央区銀座8−11−9 中銀ビル501号室
        電話 03−3571−2213

× × × × × × × × × ×

   声明


 「天の怒りか地の声か」なのか。「文明の衝突」による戦乱を繰り返す愚かなる人類への警告とも言える天変地異が、地球を襲い、人類を恐怖と絶望の闇に閉じ込めている。民族や宗教の対立を調和し、地球を破壊から、人類を滅亡から救済する使命を帯びているのが、文明発祥の地アジアの盟主である神国たる我が日本である。
 しかし、支那大陸や朝鮮半島では、反日侮日の嵐が吹き荒れている。核兵器を開発し、我が国にミサイルを向けた上、多くの同胞を拉致している犯罪国家の北朝鮮は言うに及ばず、我が国と国交を樹立し、条約を結んでいる中共や韓国も、また同じく反日国家の本性を曝け出し、敵意を剥き出しにしている。
 この国家的民族的危機においてすら、アメリカの半植民地として奴隷的平和と物質的繁栄を与えられたヤルタ・ポツダム体制の下、YPジャパン商法支配所と堕落した「戦後日本」政府には、アジアの盟主たる気概はない。そして、利権と保身に終始する廟堂の顕官には国を憂うる誠もなく、社稷を思う心もない。
 だが、草莽の志士は違う。平成16年、中共や北朝鮮に対する売国外交への我が同胞の怒りが、正義武断の一撃となった。4月23日、在大阪の中共総領事館に対する中釜信行同志の義挙。9月30日、国会に対する長谷川光良同志の義挙。11月1日、売国ゼネコン大成建設に対する木川智同志の義挙。
 敬神尊皇の理念の下、内に討奸、外に攘夷を行なう事が、維新である。3名の同志の行動は、皇国臣民の龜鑑であり、維新の先駆けである。我々も後に続き、スサノヲノミコトの末裔として、ヤマタノヲロチのごとき売国奴や侵略者とは戦う覚悟である。
 国を憂い、アジアを想い、肉体言語による血潮の雄叫びを挙げた熱血武侠純情多感な大和健男児に対して、我々は尊敬と感謝の念を明らかにするとともに、その行動の全てを絶対かつ熱烈に支持し、連帯し、共闘し、そして勝利することを誓い、ここに宣言する。

     平成17年4月17日
                      憂国の義挙と連帯する民族派青年集会



《尊敬と感謝そして憧憬》

◎日本国民の誇り

 自衛隊はソ連軍が攻めて来た時、勝てるのだろうか?…。学生時代、仲間たちと話し合った。「198X」という言葉が流行し、西暦198X年には極東ソ連軍が北海道に攻めて来るという事が、真面目に考えられていた。自衛隊だけではソ連軍に勝てない!とか、アメリカ軍は極東よりも中東を重視している!とか、ソ連に占領されるぐらいならばアメリカは日本を廃墟と化すはずだ!とか、青臭い書生論で侃々諤々喧々囂々の日々だった。
 海外の大使館に勤務した経験がある先輩が、我々の議論を聞いて、「やはり自衛隊はたいしたものだ」と一言。日本人は反戦かつ反軍の左翼を含めて、誰一人、敵軍が攻めて来た時に自衛隊が逃げ出すとは思っていない、敵軍に勝てるか負けるかは別にして戦う事を信じている、これは自衛隊に対する国民の信頼の表れである、との事だった。
 たしかに、自衛隊の能力について、その議論は別れるだろう。しかし、自衛隊が戦わず逃げ出すと考えている国民は皆無である。我々日本人にとっては、その事の重要性が全く分かっていないのである。外国の軍隊を見て来た人から言わせると、国家や国民を守る為に戦う軍隊は、世界でも少ないという。悔しいが、アメリカやヨーロッパの軍隊はしっかりしている。しかし、アジアやアフリカ、または南米の軍隊はどうだろうか。
 これらの軍隊は国防軍ではない。その任務は国家防衛ではなく、国内鎮圧(?)に過ぎない。そして、その国内鎮圧軍は戦争になった際には国家や国民を防衛するのではなく、国民から略奪した上、敵軍から逃走する盗賊集団に早変わりするのである。その典型とも言えるのが、支那の軍隊である。
 自衛隊には建軍の本義はない。アメリカの補完として、警察の予備として、憲法に認められない存在として誕生した。自衛隊がアメリカやロシアを相手にして戦い、勝つ事は難しいだろう。しかし、自衛隊が勝てるか負けるかという議論はあっても、自衛隊が戦うか逃げるかという議論はない。ましてや、自衛隊が我が国民を殺戮したり略奪したりするなどという妄想を抱く輩はいない。それは、強いか弱いかを別にして、自衛隊を信じているからである。自衛隊を非難する人ですら、そうなのである。
 信じられる自衛隊、いや、信頼出来る軍隊を保有している事は、国民として幸福な事である。そのような自衛隊は、僕たち日本国民の誇りなのだ。自衛隊を論ずる時、僕たち国民は、この事を忘れてはならない。


◎国家元首と軍隊

 昭和64年1月7日 昭和天皇が崩御遊ばされ 今上陛下が践祚、翌8日から平成元年となつた。同年2月24日に大喪の礼が挙行され、翌平成2年11月12日に即位の礼が、同月23日に大甞祭が執り行なわれた。戦後、皇室との関係を遮断されていた自衛隊だが、この国家の重大事には参加する事が出来た。
 大喪の礼の当日、学生時代からの同志たちと皇居前で 先帝陛下の柩を乗せた轜車をお見送り申し上げた後、テレビだかビデオだかにて、大喪の礼を拝見した。その時に感激した事があった。自衛隊の存在である。大喪の礼に自衛隊が参加していたのだ。国家元首の国葬に国軍が参加するのは当然の事だが、戦後日本では感激してしまう事なのである。皇居から車列が出る時には、自衛隊による21発の弔砲が轟き、自衛隊が「捧げ銃」の姿勢でお見送りする。大喪の礼が行なわれる新宿御苑でも、自衛隊による弔砲、「捧げ銃」、「と列部隊」による敬礼などでお迎えした。武蔵野御陵でも、自衛隊が 先帝陛下をお迎えしている。この事を『アサヒグラフ』は 「自衛隊はこの日戦後の 昭和天皇に向かって初めて捧げ銃の姿勢をとった」と記している。大喪の礼が記録されたグラフ誌には、自衛隊の姿を見る事が出来る。最後の最後になって、自衛隊は皇軍としての任務に携わる事が出来たのである。
 これも当然の事ながら、即位の礼でも自衛隊は参加している。総理大臣の発声により聖寿万歳をした時、北の丸において自衛隊による21発の礼砲が轟いた。また「捧げ銃」の敬礼も行なわれている。『毎日グラフ』には「大喪に続き 自衛隊が皇室関連行事に2度目の参加 儀じょう兵が街頭を公然と行進する光景は見慣れぬだけにものものしい」とある。なお、大喪の礼にも、即位の礼にも、自衛隊の音楽隊が参加している事、また重要な御品の輸送も行なった事も述べておく。
 国家元首の下に軍隊が置かれるのは、国家として正常な姿である。しかし、戦後日本ではそれが許されず、異常な体制が続いている。昨今の憲法談義でも 天皇と軍隊の関係を論じられる事はない。イギリスにしろ、オランダにしろ、ベルギーにしろ、君主国では君主が軍隊の統帥権を掌握している。軍令や軍政は、内閣などが運用しているにせよ、全て君主すなわち国家元首の軍隊なのである。


◎陸軍中尉と悲劇の少女

 オットー・ハインリッヒ・フランクというドイツ帝国の陸軍軍人がいた。皇帝ウィルヘルム一世の下、宰相ビスマルクと参謀総長モルトケが築き上げたドイツ帝国の栄誉ある軍隊の将校である。ドイツの裕福な家庭に生まれた彼は、第一次世界大戦の勃発により、陸軍に入隊し、歩兵連隊に配属され、西部戦線で従軍した。大戦が終結すると、彼は陸軍中尉として除隊した。
 フランク中尉は、戦争の英雄ではない。ただ、或る少女の父親というだけである。世界で一番有名であろう少女の、である。少女の名前は、アンネリーゼ・マリー・フランクという。これでは誰だか分からない人が多いだろう。愛称であるアンネと呼べば、どうか。『アンネの日記』のアンネである。
 アンネは西暦1029年(昭和4年)ドイツで生まれた。ユダヤ系のドイツ人である。西暦1933年(昭和8年)、ヒトラーが政権を獲得した後、フランク一家はユダヤ人迫害から逃れる為、ドイツからオランダに移住した。西暦1940年(昭和十15)5月10日、ドイツはオランダに侵攻して、同14日にはオランダ軍を降伏させた。女王および政府はイギリスに逃れ、亡命政府を樹立した。その後、フランク一家はナチス占領下のオランダで生活していたが、姉に対してドイツ軍よりの出頭命令が出た事により、隠れ家に移り住む。西暦1942年(昭和17年)7月6日の事である。以後、運命の日―西暦1944年(昭和19年)8月4日まで、この隠れ家でフランク一家ら3世帯8名のユダヤ人が生活を共にした。
 西暦1944年(昭和19年)8月4日、ナチスの保安機関SD(親衛隊SSの秘密警察―国家保安本部)のカール・ジルバーバウアーに指揮されたオランダ警察が、アンネたちの隠れ家を急襲した。ユダヤ人が隠れているとの密告があったからだという。
 SD指揮官は、アンネたちに対して5分以内に準備を終らせるように命じた。そして、父親のオットーが荷物の整理をしている部屋に入り、古ぼけたトランクを目にした。その時、SD指揮官の態度が一変した。トランクはドイツ軍用のもので、そこには「オットー・フランク」の名前と「ドイツ予備軍中尉」という階級が記されていたのだ。
 戦後生き残ったオットーが、その時の様子を述べている。『アンネの日記 研究版』 (オランダ国立戦時資料研究所編・深町眞理子訳)から引用する。
 「とたんにジルバーバウアーの態度が一変しました。一瞬ですが、私の前で気をつけの姿勢をとろうとしたほどです。それから、どうしていままでこの事実を申告しなかったのか、と問いただしました。なぜなら、もし申告していれば、私はテレジエンシュタットの労働収容所送りになるだけですんだかもしれぬからです。彼はわれわれに急げと命令するのをやめ、われわれ一同にも、また部下たちにも、ゆっくりやれと申しわたしました。」(テレジエンシュタットとはチェコスロバキアにあった収容所。特権を持つユダヤ人の収容所として使用されていた。アウシュビィッツなどと比較すると、生存出来る確率は、かなり高かったという)
 この書には、ジルバーバウアーが、フランク中尉の軍隊での階級に感銘を受けたのだと解説している。SDはナチスの秘密警察組織の中でも、最も恐れられていた部隊である。その指揮官ですら、ドイツ帝国の軍人の前へ出ると、思わず直立不動で敬礼をしてしまいそうになったのだ。例えユダヤ人だあろうともである。軍人に対する敬意とは、こうなのである。ましてや、戦争に従軍した軍人に対しての敬意は、当然の事である。
 20年以上前になるだらうか、『ホロコースト』というテレビ・ドラマがあった。『ルーツ』などと同じ時期に製作された外国の連続ドラマだ。裕福なユダヤ人家庭と貧しいドイツ人家庭の物語である。ユダヤ人男性とドイツ人女性の結婚式から始まったと記憶する。ナチスが政権を奪取する前だろうが、ドイツ人の親戚にはナチス党員もいる。ユダヤ人たちがナチスに対する不安を口にしている時、一族の長らしき老人が「帝国陸軍の将軍は何をしている!邪悪なる連中を取り締まるべきだ!」と憤慨した。若者などは「お祖父さまは何時から軍国主義者になったのですか?」と驚いている。老人の目は、ナチス党員の胸にあるハーケンクロイツを睨んでいた。当時のユダヤ人の考えを表している場面だろう。
 ドイツ国民であるユダヤ人にとって、ドイツ陸軍とは、ナチスとは違い、正義を守る為の軍隊だったのであろう。その栄光と正義の軍隊が、ナチスによるシビリアン・コントロールの下、ユダヤ人虐殺を食い止める事も出来ず、破滅への戦争を突き進む事になる。
 アンネは戦争を悲しみ、平和な暮らしを願っていた。それは間違いない。しかし、平和とは、我が国の反戦平和運動を唱える輩のように、戦争や軍隊を否定さえすれば、簡単に得られるものではない。平和とは、戦って勝ち取るものである。彼女の日記には、戦況に一喜一憂する様子が記されている。戦う術を失ったユダヤ人を解放してくれるのは、戦争によるナチスの崩壊しかなかった。もし、ナチスと連合国との講和による世界の平和が訪れても、それはユダヤ人にとっては地獄でしかないのだ。
 アンネたちユダヤ人を悲劇に追いやったのは、戦争ではない。ナチスの政策によってである。別の言い方をすれば、独裁政治によってである。また、違う言い方をすれば、ユダヤ人が戦わず、ナチスとの対話と譲歩による平和的解決を目指したから、ユダヤ人は悲劇に追いやられたのだ。
 賢明なアンネは、邪悪なる専制を倒して、平和や自由を勝ち取るには、武力しかない事を理解していた。戦争に苦しめられながらも、戦争よりも悲惨な地獄を経験したアンネは、土井某女や松井某女とは全く異なる女性である。もし、アンネが生き延びていたら、イスラエルの建国に関わっていたら、「ユダヤのジャンヌ・ダルク」となったかも知れない。しかし、西暦1945年(昭和20年)3月頃、アンネはベルゲン・ベルゼン強制収容所で15年の生涯を終えた。
 アンネの悲劇を見ても分かるように、戦わずして屈伏する事は最も悲惨な結果を招く事になる。戦争よりも悲惨な例は世界の歴史を見れば、いくらでもある。革命や専制などだ。これらの悲劇を起こさない為にも、精強な軍隊は必要である。ナチスによる大虐殺の悲劇を経験したユダヤ人の国家イスラエルの過激とも言える軍国主義は、好き嫌いは別にして、理解出来る事である。


◎フォントロルイ卿の憧れ

 フォントロルイ卿セドリック・エロル。大英帝国の名門貴族ドリンコート伯爵ジョン・アーサー・モリヌクス・エロルの世継ぎである。とは言っても実在の人物ではない。『小公子』という物語の主人公の少年である。イギリス生まれで、後にアメリカに移住したフランセス・エリザ・ホジソン・バーネットという女性が書いた小説である。
 彼女が書いたもう一つの代表作には『小公女』という小説がある。両者に共通しているのは、主人公の子供が数奇な運命を辿り、最後には幸福になるという事の他に、父親の職業である。両者とも父親は大英帝国の陸軍大尉なのでだ。これは作者の好みなのか、当時の世相を反映しているものなのか。ちなみに『小公子』は西暦1885年(明治18年)から、『小公女』は西暦1887年(明治20年)から、児童雑誌『セント・ニコラス』に連載が開始された。同じ頃の児童文学には『フランダースの犬』『アルプスの少女ハイジ』『十五少年漂流記』などがある。
 『小公子』の主人公セドリックは、イギリス貴族の陸軍大尉と薄幸なアメリカ婦人の一人っ子として、アメリカで生まれた。伯父や父が亡くなったので、伯爵家を継ぐ為、イギリスに渡った。明るく、優しく、逞しい理想的な子供として、セドリックは描かれている。そして、勇気ある子供としても、である。
 この物語の中にあるセドリックの言動には、子供が軍人に抱く正直な気持ちが書かれている。これを見ると、軍人に対する男の子の正常かつ健全な気持ちが分かるのではないか。少し引用して見てみたい。なお、『小公子』の翻訳は明治時代の若松賤子のものが有名だが、ここでは敢えて戦後の岡上鈴江のものを引用する。戦争や軍隊を否定している戦後日本において翻訳されたものの方が、より効果的では?と考えたからである。
 伯爵家の顧問弁護士に対して
 「ぼくも戦で戦いたいな、ぼくのおとうさまは軍人だったの、とても勇敢だつたの―ジョージ・ワシントンくらい。もし、死んでいなかったら伯爵をさずけられたかもね、伯爵っていうものが勇ましいのは、ぼくうれしいな、いいことですもの。ぼくは、前はこわがりだったんです、暗いところでは。でも、独立戦争のときの兵隊さんや、ジョージ・ワシントンのことを考えているうちに、こわがりはなおってきたんですよ」
 伯爵に対して
 「ぼくはアメリカ人で生まれたんです。アメリカで生まれたらアメリカ人ですよ(略)もし、また戦争になったら、ぼくはアメリカ人でいなくちゃいけないって」
 この後、アメリカ嫌いの伯爵は苦笑ひをする。しかし、伯爵は、この小さな愛国者を喜んだ。「こんな立派なアメリカ人なら、おとなになったとき、立派なイギリス人になるかもしれないと思ったのだった」と。少年と呼ぶにはまだ幼い七歳のセドリックだが、独立の英雄や戦争を戦った兵隊に対する尊敬と感謝の念を抱く愛国者として描写されている。「大きくなったら何になりたい?」「陸軍大将!」。『小公子』に描かれているセドリックの軍人に対する憧れは、この問答と同じものである。
 なお、蛇足ながら一言。アメリカという国は、アメリカ国内で生まれた子供には、全てアメリカ国籍を与えている。両親が外国人であろうともだ。これが開かれた国だ!自由と民主主義の国だ!と賛美する者もいる。だから、日本も…となるのだろう。
 池上季実子という女優がゐる(たしか、この女性の話だったと記憶しているのだが?)。僕と同じ世代で、漫画『愛と誠』がテレビ・ドラマになった時のヒロイン役で有名になった。近頃は写真集を出したり、男優との再婚の噂などで、芸能ニュースで取り上げられているので、知っている人も多いだろう。歌舞伎の何代目かの坂東美津五郎の孫娘であり、アメリカ生まれの帰国子女でもある。彼女も、彼女の弟(兄?)も、日本とアメリカの二重国籍だった。彼女は今もだか知れないが、弟は20歳になる前に、アメリカ国籍を放棄 (離脱?)した。何故か。それは兵役の義務があるからである。
 アメリカという国は、アメリカで生まれた子は、誰でもアメリカ人にしてくれる。ただし、兵役の義務を課して、である。現在のアメリカは徴兵制ではなく、志願制になっている。しかし、永久に廃止された訳ではなく、運用上の問題である。国籍と兵役は、最も不可分の関係にある事を忘れてはならない。


◎軍隊に対する気持ち

 国民には祖国を防衛する義務がある。納税や勤労も大切な義務だが、兵役はそれら国民の義務の中でも特別なものである。兵役は国民、特に成人男子の神聖な責務である。だが、現在の我が国では、徴兵制は議論すらされる事もない。志願制の自衛隊によって、国家は守られている。その為、僕たちは軍隊に対する大切な気持ちを失い勝ちになっている。
 長々と取り留めもない駄文を綴って来たのは、軍隊に対する気持ちや感情を述べたい為である。自衛隊は、GHQと「日本国憲法」の間に誕生した私生児であろうとも、日本国の軍隊である。僕たち国民が自衛隊に対する気持ちは、軍隊に対する尊敬と感謝、そして、子供のような憧憬の気持ちしかない。

(『不二』平成17年1月号より転載いたしました)


《自衛隊の武運長久を祈る》

◎天変地異と内憂外患

 平成16年、この1年を振り返ると、地震、台風、噴火、そして観測史上の残る異常とも言える猛暑。まさしく天変地異とも言うべきものばかりだ。「天の怒りか地の声か」と、天神地祇に祈るのみであった。また、政治・外交・経済・教育・社会など、国の内を見ると、具体的には述べきれない程、混濁の様相を呈している。さらに、国の外からは相変わらず支那や朝鮮の反日侮日の主権侵害や内政干渉、アメリカへの隷属政策…。まさしく内憂外患そのものである。今年は、天変地異と内憂外患の1年と言ってもよい年だった。
 先の支那の原子力潜水艦の我が国領土侵犯の際には、海上警備行動が発令されるなど、今年は、国の内外での自衛隊の活躍が注目された1年であった。中でも、自衛隊がイラクへ派兵された事は、是非は別にして、特筆すべき事である。
 アメリカは、武装勢力を一掃する為と称して、イラクのフェルージャに無差別攻撃を仕掛けた。ブッシュが勝利宣言をしたり、サダム・フセインを拘束したりしたが、イスラム教徒の自爆攻撃などが続発して、アメリカは身動きがとれなくなっている。ベトナム戦争と同じ泥沼にズルズルとはまってしまった。また、ビンラディンをはじめとするアルカイーダの反撃には、打つ手がないというような有様である。
 「戦後日本」は独立主権国家というよりも、アメリカの半植民地であるYPジャパンに過ぎない。大西郷遺訓にあるように政府と呼ぶ価値すらない、単なる商法支配所に過ぎぬ小泉内閣である。宗主国であるアメリカの命令には従うしかないのだろう。小泉内閣は、イラク戦争の戦費を拠出するだけではなく、自衛隊をイラクへ派遣した。自衛隊の派遣延長を巡る話の中で、石油の権益云々と、政府だか与党だかで出たという。こんな戦争には大義などあるはずがない。国益という美名に隠れた経済権益、石油利権だけである。この戦争にあるのは大義ではなく、損得勘定という打算だけである。


◎建軍の本義なき五十周年

 今年(平成16年)は、自衛隊創立50周年である。しかし、これは何の50年なのか、あやふやなものである。まるで自衛隊の存在そのもののように、きちんとして機軸がある訳ではない。もちろん、それなりの根拠はあるのだが…。そこで、ここでは建軍の本義とか、自衛隊の意義とかについては述べず、自衛隊記念日について述べたい。その方が、逆に自衛隊の置かれた立場が理解しやすいかも知れないからである。
 自衛隊記念日という日がある。11月1日が、その日である。はたして、この日は何を根拠にして、自衛隊記念日としているのだろうか。それを述べる前に、自衛隊創立の歴史を簡単に振り返つてみたい。
 昭和20年8月15日、我が国はアメリカに敗北して、ポツダム宣言を受諾した。この日から、屈辱の対米隷属体制が始まったと言える。同25年6月25日、朝鮮戦争が勃発。7月8日、マツカーサーは警察予備隊の創設を指示(許可?)。アメリカ軍の統治下にあった我が国は当然の事ながら、指示に従い、8月10日に警察予備隊令を公布し施行した。サンフランシスコ講和条約が発効され、我が国がアメリカによる直接統治から間接統治に切り替った同27年、8月1日に保安庁が発足し、10月15日に保安隊が編成された。
 同28年12月5日から29年3月8日までの間、自由・改進・日本自由の保守3党による会合が20回近く開催され、防衛庁設置法と自衛隊法の成立を目指す事が合意された。3月9日、閣議決定。3月11日、国会提出。5月7日、衆議院通過。6月2日、参議院通過、上記2法が成立。6月9日、上記2法公布。7月1日、上記2法が施行され、これにより防衛庁および陸海空の3自衛隊が創立された。
 以上の歴史を見ても11月1日という日は、全く出て来ない。自衛隊記念日とは、いったい何の日なのだろう。防衛庁に電話で問い合わせた事があるので、説明したい。昭和30年、10月1日が防衛庁記念日として制定された。翌31年、防衛庁記念日を自衛隊記念日と名称変更。さらに33年、自衛隊記念日が10月1日から11月1日に移動された。その根拠を質問したが、分からないという。自衛隊の創立記念日は7月1日である。何故、この日ではなく、違う日なのか。僕が聞いた範囲から推測すると、7月1日は夏で暑いから10月1日とした、しかしその日は雨が多いので11月1日とした…。
 かつての陸軍記念日(3月10日)が日露戦争における奉天大会戦の戦勝記念日、海軍記念日(5月27日)が日本海海戦の戦勝記念日であった事とは違い、自衛隊記念日はその根拠が明確ではない。まさしく建軍の本義なき自衛隊の記念日らしい日と言える。アメリカ軍の補完、警察の予備として、「日本国憲法」の私生児として誕生した自衛隊は、誕生日すら祝う事が出来ない、悲しい存在なのである。
 とは言っても、 明治天皇から『軍人勅諭』を賜った1月4日を皇軍記念日とし正式に祝わなかった旧帝国陸海軍も感心したものではないか…。
 今年の11月、自衛隊創立50周年を記念する観閲式が行なわれた。また、記念祝賀の行事も開催された事だろう。しかし、これらの記念行事に 天皇陛下の御臨席を賜ったという話は聞いていない。国家と民族を防衛する自衛隊の記念行事に、である。同じ制服の公務員でも、これが警察や消防だったならば、どうだろうか。御臨席を仰いでいるはずである。
 例えば、競馬を見てみよう。今年は日本中央競馬会の50周年である。それを記念して、秋の天皇賞に 天皇陛下の御臨席を仰ごうとしていた。新潟の地震があり、中止となったが、博打の胴元ですら、50周年という重みがあるのだ。にもかかわらず、自衛隊に対する対応はどうか。
 もし、小泉流に言うならば、「憲法に違反しない」自衛隊が「平和」と「人道」の為イラクに行く事が「憲法に違反しない」というならば、イラク派遣部隊の隊旗が親授される事も、イラク派遣部隊の観兵式を皇居前広場で挙行し、行幸を仰ぐ事も、現行憲法上からも何の問題もないはずである。自衛隊創立50周年の観閲式に行幸を仰がない事の方が異常と言える。この異常な出来事を忘れてはならない。


◎自衛隊に栄誉を与えよ

 小泉内閣はイラク戦争に参戦し、自衛隊を派兵した。しかし、憲法を正して、自衛隊を軍隊とする事なく、である。ここ数年、小泉内閣は自衛隊の海外派遣を目論見、数々の姑息かつ卑劣な策を弄して来た。戦地に赴く自衛隊に対して、実に許しがたい無礼千万な対応と言える。すでに本誌において述べ来た事だが、もう一度振り返ってみたい。
 昨年、防衛庁は市谷の本庁敷地内に「メモリアルゾーン」(慰霊碑地区)を造成し、秋には披露式典を行なった。もちろん自衛隊殉職者慰霊碑はこれまでもあったが、前内閣の時代から整備が進められて来たのが、完成したものである。この式典には、当時の防衛庁長官をはじめ前総理大臣らが出席した。その後、この施設において、自衛隊の殉職隊員追悼式が行なわれ、総理大臣をはじめ防衛庁長官ら多数が参列した。
 気になるのは、どちらかの式典だったか失念したが、防衛庁長官が式辞の中で、この施設をアーリントン墓地に例えた事である。国防通で知られた長官ですら、この程度の見識であった。この施設は規模が小さく、追悼対象を自衛隊に限ってはいるが、政府が建設を策謀していた国立戦歿者追悼施設ではないのか!と、思わず疑ってしまう存在である。
 さらに、政府は「危険業務従事者叙勲」を制定した。自衛隊をはじめ警察や消防など現場で危険な業務に精励した人の勲章受賞を増やす事を目的として、栄典制度の改定により、春秋の叙勲とは別のものだ。この制度自体は悪くはないが、自衛隊員に対する勲章が、くだらない陣笠代議士などの政治家が旧勲一等を貰うのに比べて、極めて軽い勲章ばかりなのは、政府が国防の任務を軽視している証拠である。
 また、政府は、防衛庁の「賞恤金に関する訓令」を改正して、非戦闘地域?とはいえ危険な地域に派遣される自衛隊員に相応の処遇をするという。訓令に基づく弔慰金(賞恤金)、国家公務員災害補償法に基づく補償金、総理大臣からの特別褒賞金、特別手当(日当)と、経済的な面では待遇が改善されたようである。
 自衛隊殉職者に対する慰霊、勲章、経済的優遇。これらは当然の事である。しかし、小泉内閣が行なっている姑息かつ卑劣な方法は、待遇などの改善に過ぎず、自衛隊に栄誉を与えるものでない。現行憲法の中でも、ごまかしながら、自衛隊に栄誉を与える方法はいくらでもある。防衛庁を国防省に昇格させる事。統幕議長や陸海空の幕僚長を認証官とする事。防衛参事官制度など事務官による自衛隊支配を廃止する事。しかし、こんな事は本質とは何等関係ない事である。
 自衛隊に栄誉を与えるとは、自衛隊を正式な日本国軍隊とする事である。現行憲法がそれを許さないというならば、そんな憲法なぞ破棄すべきなのである。アメリカによる日本弱体化占領基本法である現行憲法を改正して、自衛力の保有を明記する…という議論があるが、それでは自衛隊は栄誉ある日本国軍隊になれない。
 天皇陛下を大元帥と仰ぐ日本国軍隊。このように明記される憲法に正すべきである。帝国憲法を復元改正して。


◎英雄を否定する「戦後日本」

 自衛隊は何故、ここまで日陰者扱いされて来たのか。それは、「戦後日本」では、英雄は否定されているからである。戦う事の気高さを忘れた「戦後日本」では英雄は否定され、英霊は冒涜されている。大東亜戦争の敗北の結果、我が国には「勇武」という言葉さえ、消え失せている。そんな不抜けた状態では、自衛隊が軽く扱われるのも、誠に悔しいが、当たり前の事だろう。
 イラクへ自衛隊を派遣する理由の一つとして、日米同盟の重要性を述べる人がいる。それは、まぁいいとして、非常に不快な事を述べる人が、保守と呼ばれる陣営に多い。北朝鮮という危険な国家を近隣にかかえる我が国としては、アメリカとの同盟がなければ国家の独立と安全が守れないという論理だ。あまりにも情けない理屈である。
 ミサイル相手に竹ヤリでは相手にはなるまい。しかし、彼らの理屈を聞いていると、自分の国を自分の力で守るという気概がないように感じられる。たとえ言論人であろうとも、祖国を愛するならば「正成一人」の気概を見せてもらいたいものである。
 さて、小泉内閣は参戦し、自衛隊を戦地に派兵するのに「戦争に行くんじゃない」という。イラク復興への人道的な支援とか、平和への貢献…などとごまかしているが、これはイラク戦争に参戦することを意味している。イラク復興と綺麗事でごまかしても、これはイラク占領である。現在もイラクでは占領という名の戦争が継続しているのだ。戦闘地域とか非戦闘地域とかと言葉をごまかしているが、イラクは戦争をしている地域、すなわち戦地であり戦場なのである。「武力行使はしない」とか「戦闘には参加しない」と言っても、占領に協力する事は、戦争に参加する事である。自衛隊は、いや、日本は戦争に参戦し、自衛隊は戦地に派兵されているのだ。
 総理大臣の妄言は、戦地に派兵される自衛隊に対する冒涜であり、自衛隊の戦闘意識や能力を制限し、自衛隊の安全を脅かすものである。戦地へ派兵される兵士に「死ぬな!殺すな!」とは無理な指示である。「死ぬな!」と願うのならば、「殺すな!」とは言うべきではない。「殺せ!」と命じるべきである。戦場で生き残るためには、一瞬のためらいなく敵を殺さなければならない。内閣総理大臣は自衛隊の最高指揮官として、「責任は全て自分が取る。諸官は任務を遂行せよ」と、何故言えない。くだらぬ百言はいらぬ。この一言だけでよいのだ。
 イラク戦争の是非やアメリカの好き嫌いを問わず、国民は自衛隊を完全かつ全面的に最後まで支持すべきである。大東亜戦争において、昭和維新を弾圧した東絛憲兵政府に不満があろうとも、ナチスドイツとの同盟に疑問があろうとも、我々の先輩たちは皇国臣民の責務として、皇軍の武運長久を祈った。今が、それと同じではないか。自衛隊は愚劣卑怯な「戦後日本」政府の代表として派遣されたのではない。日本国の代表として派兵されたのである。銃後の国民として、戦地に派兵された軍隊の武運を祈念するのは責務であり、心情である。
 天皇陛下の御稜威の下、勇武なる皇軍を支えるのは、忠良なる皇国臣民である。自衛隊の戦いを支えるのは、我々国民一人一人の力なのである。今、国民は声を大にして、自衛隊を応援すべき時なのだ。軍隊が戦地において敵軍を殲滅するのは、当然の理である。敵を倒した戦士は英雄である。古今東西、英雄を称賛しない国家民族はない。我々国民は、どんな惨事があろうとも、自衛隊を支持すべきである。自衛隊が後顧の憂いなく、敵と戦えるやうに。英雄として戦えるやうに。


◎天皇陛下の軍隊として

 現在の我が国は、古今東西の歴史に例を見ない程、自国の武人に対しての礼儀を弁えない下劣な醜悪な国家に成り下がっているのである。主権国家であるならば、独立国家であるならば、軍隊が存在するのは、当然の事である。我が国も憲法を正して、自衛隊に栄誉ある日本国軍隊の地位を与えるべきである。この事こそ、国防の基本なのだ。
 たしかに、自衛隊には建軍の本義はない。しかし、旧帝国陸海軍だって、出発当初は薩長の私兵だったではないか。藩閥政府の手先として、西郷党をはじめ第二維新を弾圧する為に、国内に向いた鎮台に過ぎなかったろう。だが、その私兵ですら、 天皇陛下を大元帥と仰ぐ事により、国軍となり、皇軍となって行ったのだ。アメリカの補完部隊、警察の予備隊として出発した自衛隊であっても、国軍となり、皇軍となる事は可能であるはずである。建軍の本義はなくとも、皇軍の大義を賜る事によって、自衛隊は皇軍となる事が出来ると信じたい。
 天皇陛下を大元帥と仰ぐ皇軍として、忠良なる臣民の歓呼の声に送られて、堂々と戦地へ派兵される皇軍の姿こそ、自衛隊のあるべき姿である。三島由紀夫が隊長を務めた「楯の會」の歌『起て!紅の若き獅子たち』にあるように「雄々しく」「凛々しく」「堂々」と。


× × × × ×


 「シビリアン・コントロール」について一言。


 自衛隊に栄誉を与えよ、強化せよ、軍隊として地位を与えよ…と言ふと、すぐ「シビリアン・コントロール」云々を言う人がいる。「シビリアン・コントロール」とは、軍事に対する政治の優位、すなわち政治による軍事の統制を言うのであり、文官による軍隊の支配ではない。本誌の読者には説明を要しない事柄なので、ここでは一つだけ疑問を投げたい。
 近現代の国家で最も「シビリアン・コントロール」が確立されていた国は何処か?答えはナチスドイツである。民主主義のルールによって独裁者に選ばれたヒトラーが、軍事の全ての権限を掌握していたのだ。ヒトラーは、スターリンや金正日とは違い、ドイツ国民の選挙によって選ばれたのだから、ナチスドイツの軍隊こそ、典型的な「シビリアン・コントロール」の軍隊と言える。
 なお、ナチスドイツは軍国主義国家ではない。その証明が、警察による軍隊の支配だろう。悪名高い親衛隊は軍隊ではなく、警察組織と見るのが妥当である。もちろん、武装親衛隊などの戦闘部隊があったが、あくまでもその本質は警察である。警察が軍隊を支配する図式、これはかつての防衛庁そのものである。現在は防衛官僚なるものがいるようだが、かつての防衛庁の中枢は旧内務省と大蔵署の出身者によって独占されていた。自衛隊を支配している防衛庁の内局の人事は、防衛庁では決められず、警察庁の人事に伴って行なわれていたという。
 ナチスドイツは極端な例だが、現在のアメリカも似たようなものだろう。ベトナム戦争を恐れ、親の力を悪用して兵役を逃れた疑いのある人物が、軍の最高司令官である大統領をつとめ、泥沼のような戦争を指揮している。「シビリアン・コントロール」が機能しているのに、である。


(『不二』平成16年12月号より転載いたしました)


《テディ・ベアーの怨念》

◎熊を愛したテディ

 テディ・ベアーという縫いぐるみ人形をご存じだろうか。可愛らしい熊の縫いぐるみ人形である。このテディ・ベアーのテディという名前は、熊を愛した一人の男の愛称から来ている。その男の名は、セオドア・ルーズベルト(Theodore・Roosevelt)。通称テディ(Teddy)と呼ばれていた。アメリカ合衆国の第26代大統領である。我が国との関係から述べるならば、日露戦争当時の大統領であり、我が国とロシアとの仲裁役をつとめた人物だ。この男が熊を愛していた為、いつしか熊の縫いぐるみ人形がテディ・ベアーと呼ばれるようになったのである。
 テディは西暦1858年(安政5年)、ニューヨークに生まれた。オランダ系の旧家の出身である。ハーバード大学を卒業した後、コロンビア大学でも学び、政治や歴史に興味を持ち、著作に専念した。共和党に入党し、ニューヨーク州の議員をつとめた。第25代大統領のW・マッキンレーの下で海軍次官補に任命されたが、米西戦争においては主戦論を唱え、開戦と同時に辞職して「Rough Riders」(ルーズベルト荒馬騎兵隊)という義勇軍を組織した。戦争での武勲を重ね、国民的英雄として帰還した後は、ニューヨーク州知事、副大統領をつとめた。そして西暦1901年(明治34年)、マッキンレー大統領が暗殺された為、42歳の若さで大統領となり、西暦1909年(明治42年)まで、その地位にあった。テディは連邦政府の権限拡大を唱え、海軍の強化に尽力している。
 内政面では、社会的経済的な問題については政府は公共の利益の為に積極的に関与すべきであるとし、「スクウェア・ディール」というスローガンを唱えた。労使紛争への介入や調停、食品や薬品工業の監督、鉄道運賃の規制、自然資源の保護などの政策を立法化した。「シャーマン反トラスト法(独占禁止法)」を発動し、独占企業を解散させるなど、社会改革を次々と実施した。
 外交面では「棍棒を手にしつつ穏やかに話す」という「棍棒外交」とも呼ばれる力の外交を行なった。パナマ運河建設の為には、パナマをコロンビアから独立させて、さらに条約によりパナマ運河地峡を獲得した。また、モンロー主義を拡大解釈して、ラテン・アメリカ諸国への内政干渉権の主張した。そして、太平洋地域での権益を図る為、日露戦争の和解を仲介したのである。
 『ノーベル賞名鑑』によると、日露戦争調停のポーツマス会議開催が、西暦1906年(明治39年)のノーベル平和賞の授賞対象になった。なお、非常に多くの著作を残しており、歴史・政治・紀行など雑誌寄稿論文も合わせると2000点以上になるという。また、書簡類はアメリカ国会図書館に収蔵されているものだけでも、15万通もあるという。アメリカの歴史に残る偉大な大統領の一人である。
 テディは熊を愛した。しかし、その愛し方は、我々日本人の愛し方と著しく異なるものであった。彼は愛する熊を狩猟の対象としていたのである。別の言い方をすれば、テディは熊狩りを愛していたのだ。テディからすれば、巨大で力強い熊は、逞しく美しく強い偉大な生き物なのだ。テディは、そんな熊を愛し、尊敬していたのである。だから、撃ち殺し、剥製にしたり、敷き物にしたりするのだ。それを「愛している」と言うのである。


◎柔道対レスリング

 日露戦争開戦と同時に、テディとはハーバード大学の同窓生である金子堅太郎が、伊藤博文の命を受けて、アメリカに和平の仲介を依頼する為、渡米した事は知られている。実際にテディと金子は親しく、テディが我が国の為に働きかけていた事も事実だろう。その際の話の一つだが、奉天大会戦の後、まだ日露戦争が終結しないと見たテディは、休暇を取って、熊狩りに出かけてしまった。バルチック艦隊との決戦の前という事もあり、熊をロシアに見立てて、「僕は熊打ちよりもロシアを打ちに行くのだ」「僕がたくさん熊を打ったならば、今度来るロゼストウェンスキーの艦隊は日本の艦隊のため打ち沈められる前兆だ」などと言い、出かけて行った。この狩りの時に捕った獲物の中で一番大きな熊の毛皮は、金子を通じて 明治天皇に献上された。この熊の皮は、御学問所の次の間に敷かれて愛用されたという。
 テディは武勇を尊ぶ性格であり、我が国の武士道に興味を抱いていた。そこで金子に武士道に関する書物を求めた。金子が贈ったのが、新渡戸稲造の『武士道』であったのは有名な話である。『武士道』に感銘を受けたテディは30部ほど取り寄せ、5人の子供に配り、また残りは閣僚や議員に配付したという。このようなテディが、我が国の武道にも興味を持つのは、当然の事であった。
 日露戦争の直前、講道館四天王の一人である山下義韶が婦人とともに、柔道普及の為にアメリカに赴いた。山下はワシントン社交界の花形と呼ばれた貴婦人の紹介により、ホワイトハウスに出入りするようになり、さらにテディ一家の柔道教師にもなった。
 海軍の高官をつとめた事があるテディは、柔道をアナポリスの海軍士官学校の正課とする為、山下にレスラーと闘う事を求めた。この勝負は山下が勝ち、柔道の武名は高まった。また同時に、柔道を推薦したテディの面目はおおいに保たれた。しかし、である。テディは複雑な心境に陥った。自分が愛し、自分が学び、自分が推薦した柔道だが、自分の国のレスリングが柔道に敗北した事が悔しいのである。
 山下の弟子とも言える柔道家に飯塚国三郎がいる。彼の子息である飯塚一陽の著書『柔道を創った男たち』によると、ルーズベルトは「柔道とレスリング」という手紙を息子に出している。この手紙を見ると、彼の柔道に対する思い、さらには日本に対する思いが見えて来る。同書にその手紙が掲載されているので、ここに引用する。
 〈昨日の午後、グラントと組討ちするため、山下教授にここに来てもらった。それは大変興味深いことであった。もちろん柔術と我がレスリングとはずいぶんちがっているので両者を簡単には比較できない。レスリングはテニスのようにだれにもわかるルールのスポーツであるのに対し、柔術は相手を殺したりかたわにするための習練である。試合の結果としては、グラントは自分の背中にとりついた山下をどうすればいいのか知らなかったし、この体勢では山下は完全に優勢であった。一分以内で山下はグラントを絞めようとし、二分以内にグラントの関節を取り、その腕をくじくことができることを示し、柔術マンがレスラーをあしらえることがはっきりした。だが、グラントは組討ちや投げ技で日本人と同等の技量があり、かつ強大な体力があるので、長くやっていれば日本人に勝ちうるのではないかと思える。
 私は柔術を少しやってみて、この国のレスラーやボクサーなら、体力が十分にまさっているという単純な理由で、日本人を殺すことができると確信する。日本人は身長や体重のわりにはよく訓練され、優秀ではあるが、力が強く大きく素早い相手に立ち向かうには、やはり小さすぎるのではないかと思える。〉(原文のまま)
 柔道を愛したテディは、柔道を学びながら、柔道を倒す方法を考えていたのである。熊を愛したテディが、熊を撃ち殺すのと同じように…。熊を愛したテディは、また同じように日本を愛した。美しい国日本を、強い国日本を。


◎テディとマハン

 テディは海軍の高官をつとめていた時代から、アルフレッド・セアー・マハンの大海軍主義を信奉していた。マハン、この男の思想は、現在でもアメリカの世界戦略の根底にある。マハンはアメリカ海軍の軍人であり、ニューポートにある海軍大学の校長をつとめた。「帝国主義者」を自任して、アメリカの海外侵略の扇動者としての役割を果たしている。現在のアメリカを支えている「力の哲学」の信奉者でもある。
 マハンの大海軍主義とは、言わばアメリカ式の富国強兵論である。我が国の富国強兵は、国を守る為には強い軍隊が必要であり、その軍隊を支える為には豊かな国を創らなければならない!という考え方である。別の言い方をすれば、国を独立を守る為の軍隊、軍隊を支える為の経済であり、防衛的な思想である。しかし、マハンは違う。国が豊かに繁栄する為には貿易が必要であり、その貿易の権益を守る為には強い海軍が必要である!という考えである。強い海軍こそが世界を支配する、世界の富を独占出来る!という思想である。すなわち攻撃的な思想と言える。
 かなり乱暴な解釈である事は自覚しているが、この解釈は大きく間違っていないと思う。このマハンの考えは、今でもアメリカに大きな影響を与えている。イラク侵略の暴挙を見れば、一目瞭然である。自国の繁栄の為、巨大な権益を得る為、強大な軍事力の行使を!と、そのものである。
 テディ以来アメリカは、太平洋へ積極的に向って行った。もちろん、それ以前にも、ハワイ併合などもあった。だが、テディ以降のアメリカは、その覇権を大西洋にではなく、太平洋に求める傾向が顕著になった。何故、太平洋なのか。それは、太平洋の彼方には何があるのか?を考えれば、簡単に答えは出て来る。
 テデイは西暦1905年6月17日に友人に宛てた手紙の中で〈アメリカの将来は、ヨーロツパと相対する大西洋上のアメリカの地位によつてに非ず、支那と相対する太平洋上の地位によつて定まるのだ〉と述べている。アメリカは支那での権益を得る為、太平洋への野望を強くして行ったのである。巨大な獲物である支那があるからこそ、アメリカは、大西洋ではなく、太平洋に覇権を求めたのである。
 そして、当時の支那を独占しようとしていたのが、ロシアであった。だから、こそ、アメリカは日露戦争において、我が国の味方とも思える行動を取ったのだ。これは、金子堅太郎がアメリカに滞在してゐる時、国務長官のジョン・ヘイは〈今度の日露の戦争は、日本がアメリカの為に戦つてゐると言つても良い〉と語っている事でも明白である。アメリカが我が国の為に動いたように見えるが、アメリカはアメリカ自身の為に動いたのである。この真実を見失ってはならない。
 今年(平成16年)は日露戦争開戦100周年という事もあり、日露戦争に関する書籍が多数出され、また雑誌なども特集を組んでいたりしている。その中には、テディを我が国の恩人と称えて、感謝しているものもある。たしかにテディは親日だったかも知れない。また、彼の行動は我が国にとって非常に有益だっただろう。しかし、テディやアメリカを無条件で称賛し感謝する愚は避けなければならない。
 テディを称賛し感謝する流れは、帰国した金子の言葉によるものが大きいだろう。テディの巨大さに魅了された金子は、テディに心酔し、〈大統領ルーズベルトがかくまで日本に対して尽くした事は、日本の歴史があらんかぎり我々日本国民として忘却する事は出来ぬと思ひます〉と語っている。これが、今日まで影響を与えているのであろう。
 ペリーを開国の恩人、マッカーサーを民主化の恩人と称えた愚かな人たちがいた。敗戦の後、國體が護持され、国土が分割されなかったのは蒋介石の以徳報恩のおかげだと盲信している愚か者もいる。たしかに、テディはこの外道どもと比べれば、善良な人物であろう。と言うよりも、こんな木端どもとは違い、世界の歴史を動かす巨人であった事は史実である。
 しかし、大東亜戦争の大きな原因の一つが、テディが遺した戦略にある事を忘れてはならない。


◎「オレンジ・プラン」

 アメリカが反日政策を進めるようになったのは、昭和に入ってからでも、テディの血縁であり、姪の夫でもあるフランクリン・D・ルーズベルトが第32代大統領になってからでもない。アメリカが真剣に日本を脅威と考えるようになったのは、日露戦争からである。
 明治天皇の御稜威の下、我が国は、世界最大最強の国ロシアを撃ち破った。大陸においては最強と謡われたロシア軍に大勝した陸軍。強大なバルチック艦隊を歴史的勝利で撃滅した海軍。無謀とも言える大戦争を継続出来た経済。また、これらを支えた国民。日本は、ペリーが来航した時のような極東の未開の小国ではない。アジア及び太平洋における強国となったのである。いや、白色人種を撃ち破った黄色人種の希望の星となったのだ。白人の国アメリカが脅威と感じるのは、当たり前と言えば当たり前の話である。
 だからこそ、親日派の大統領として「日露戦争の恩人」とも思われているテディの時代から、アメリカは日本を仮想敵国として、戦争計画を立案していたのである。有名な「オレンジ・プラン」が、それだ。アメリカが太平洋の彼方にある支那を目指した時、この二つの大陸の間に何が存在するのか。それは、日本である。日清戦争と日露戦争の勝利により、我が国は盤石の地位を確立した。この強国日本が、太平洋に存在している。日本を倒さなければ、太平洋の、さらには東亜の覇権を握る事は不可能なのである。
 日露戦争から大東亜戦争まで50年近くの時が流れ、テディことT・ルーズベルトから始まり、タフト、ウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバー、そしてF・D・ルーズベルトと、アメリカの大統領は交代し、政権は共和党と民主党との間を移り変って行った。しかし、アメリカの太平洋政策は一貫して進められて行ったのである。太平洋制覇、さらに東亜侵略を企むアメリカは、日本を敵視し、恐れた。日米対決に向って、アメリカは着々と日本への戦争準備を進めて行ったのである。
 我が不二歌道会の相談役をつとめられた大川周明博士が『米英東亜侵略史』で述べているように、我が国とアメリカが衝突する事は、アメリカの侵略政策がある限り、回避する事は出来ない事であった。このアメリカの侵略政策とは、テディの政策であり、後のアメリカ政府にも遺産として受け継がれて行ったものである。


◎野望から怨念へ

 アメリカという国の本質を考える時、西暦1492年のコロンブスによる「新大陸」の「発見」を見れば良く分かる。ムー大陸やアトランティス大陸が海に沈没したように、アメリカという「新大陸」は海の中から出て来たのだろうか。それをコロンブスが「発見」したのだろうか。そんな馬鹿な話はない。アメリカ大陸は「新大陸」ではなく、もとから存在した大陸ではないか。コロンブスが「発見」したのではなく、単に到着しただけではないか。
 スペインやポルトガル、後にはイギリスなどの侵略者が、アメリカに住んでいた善良な人々を獣を狩るように虐殺し、彼らの偉大な文明を滅ぼし、豊かな富を強奪し尽くしたのである。その侵略と虐殺と強奪によって建国された最大の国が、アメリカ合衆国である。アメリカが、イギリスから独立した時、13州であった。だが、現在は一番新しいハワイを含めて50州もある。独立当時のアメリカは、地図で見ると、現在とは比較にはならない程、小さい国である。この小さい国が軍事力と経済力により、他国の領土を簒奪し、現在のような巨大な国となったのだ。アメリカは侵略主義かつ膨張主義による人工的な国家である。アメリカは、侵略者によって作られた人工国家の傑作品なのである。
 「戦後日本」は独立主権国家として自立するよりも、アメリカの51番目の州を目指しているように思えてならない。日本国政府というよりも、YPジャパンの商法支配所と呼ぶ方が相応しい小泉内閣は、アメリカの世界制覇の走狗として、自衛隊をイラクへ派兵した。テディが愛した熊と同じように逞しく美しく強い日本は何処へ行ったのか。こずるい狐と化してしまっているのが、戦後日本の姿である。
 現在のブッシュなど足下にも及ばない偉大なる侵略者であるテディの目は太平洋、そして、支那へと向かっている。東亜を支配する事がテディの野望であつた。テディの野望は100年という歳月が過ぎ去った今日も、生き残っている。野望が怨念と変貌して…。
 テディの怨念に呪縛されている侵略者や売国奴が強大であろうとも、我々は戦い、勝たなければならない。偉大なる怪物の怨念を打ち払うのは、神国日本の使命である。


(『不二』平成16年11月号より転載いたしました)


 

《柔道における外交と軍事の勝利》

 アテネ五輪における我が国の活躍については、前号「オリンピックに観る日本の復活」で述べた。最終的には、金メダルは東京五輪と並ぶ最多の16個、メダルの総数はロサンゼルス五輪の32を超えた37個という快進撃であった。特に、柔道の活躍は目を見張るものがあった。金メダルが8個、銀メダルが2個の計10個ものメダルを獲得した。金メダルの数では、我が国が獲得した数の過半数が柔道によってもたらされた。柔道は日本で生まれたスポーツ(武道と呼ぶべきなのはもちろんだが、ここでは敢えてスポーツと呼ぶ)、我が国が本家なのだから、勝って当然であるという声もある。しかし、本家だからと言って、常に勝てる程、スポーツという真剣勝負の世界は甘くはない。世界最大のスポーツ大国のアメリカですら、アメリカの国技とも言える野球が地域の予選で敗退し五輪に出場出来なかっり、バスケットボールが金メダルを逃しているのが現実である。
 今回の日本柔道勝利の要因を考えてみると、戦争の勝利と相通ずるものがある。一言で言えば、外交と軍事の勝利である。強いからと言って、試合に勝つ訳ではない。矛盾した言い方だが、シドニー五輪を思い出せば、分かるだろう。柔道男子100キロ超級の決勝で、我が国が誇る篠原信一が誤審によって敗北した悔しさは、今でも忘れる事は出来ない。当時、我が国は誤審について抗議したが、審判の決定は覆す事は出来なかった。その反省から、我が国の柔道界は、積極的な外交戦を繰り広げた。国際柔道連盟の会長は、日本や柔道が嫌いな韓国の人間である。会長選挙に敗れた我が国は野党的な立場にある。というよりも、正統な柔道を主張する我が国は、柔道をポイント争奪の格闘技に変質させようとする勢力とは対立している。そこで、我が国は国際舞台における発言権を確保する為に、教育担当の理事のポストを獲得し、歴代に優秀な指導者を送っている。現在は「世界のヤマシタ」をその任に当てている。また、審判の質の向上は、正統な柔道を志す我が国にとって、大切な問題である。世紀の誤審の一件もあり、審判の質の向上を訴え、その成果も上げた。五輪で審判を勤めるには、前年に開催された世界選手権で、優秀な審判であると選考されなければならなくなった。さらに、五輪において決勝ラウンドの審判を勤められるのは、予選で選抜された者だけとなった。また、主審(レフリー)と副審(ジャッジ)に加えて、試合場の外には審判委員(ジュリー)を配置している。これにより、誤審は大幅になくなった。今日、五輪においては、見せる(魅せる)スポーツが要求されている。日本が実践する正統な柔道、すなわちポイントを取るのではなく一本を取る柔道が、見る立場すれば面白く、人気が集まるのは、当然である。これが世界の柔道界でも主流の考えとなって来た。正統な柔道の再評価である。
 もちろん、柔道の本質を理解させたり、審判の質を向上しても、我が国選手の実力がなかったならば、それは何にもならない。どんなに外交で頑張っても、肝心な実力すなわち軍事力がない国が、戦争で勝てないのと同じだ。戦後日本=YPジャパンとは違って、柔道日本は外交戦で見せた力以上に、その実力を磨いていた。その根底にあるのは「月月火水木金金」の猛稽古である。海外への武者主牛をはじめ考えられるだけの訓練はしていた。アテネ五輪を見れば分かるように、体格で劣る我が国選手の体力は、他国の選手を圧倒していた。猛稽古の賜物である。さらに、この猛稽古が、絶対に勝つという自信をもたらしたのである。そして、この選手の猛稽古を支えるものとして、栄養指導による体重や体調の管理、科学的トレーニング、敵国選手の情報収集と分析。そして、経済のみ大国として、日本のスポーツメーカーによるアテネへの畳の提供と管理。これらが、我が国選手の努力に報いる為に、最大限の協力を行なった。
 ここで忘れてはならないのは、選手たちの精神面である。猛稽古によって支えられた自信。それをさらに強化したものは、一致団結して、日本というチームとして纏まった事である。現在、我が国柔道界では、柔道ルネッサンスという運動が行なわれている。それは強さばかり求めるのではなく、武道として、いや、教育としての精神を復興させる運動である。礼儀作法の重要性を説いたり、試合の会場でのゴミを持ち帰る事を呼び掛けたり、当然の事である。しかし、スポーツの会場、大人だけではなく子供や学生などの試合を含めて、ほとんどの競技はゴミが捨てられたままである。競技力の向上ばかりに力を注ぎ、スポーツマン・シップをないがしろにして来た結果である。柔道も、その例外ではなかった。そこで、ここ数年、過去の反省から、柔道ルネッサンスの運動が行なわれるようになったのである。また、世界選手権や五輪に派遣される前、代表選手は、嘉納治五郎の墓参に赴く。柔道の原点を見つめ直す為である。今回も怪我で参加出来なかった選手を除いて、墓参に赴いている。
 外交だけ巧みに行なっても、裏付けとなる武力がなければ、無為無力である。また、武力のみに頼っていて、外交能力がなければ、無謀無駄である。そして、その武力の根底には、正しい精神がなければならない。今回の日本柔道の活躍は、外交と軍事の両面による成功がもたらした勝利なのである。


(『不二』平成16年10月号より転載いたしました)


【緊急案内】

《反併呑! 2・28台湾の防衛と正名アピール行進》

【転送歓迎】

目下中国は反国家分裂法の制定に向かうなど、台湾併呑の野心を逞しくしつつありますが、このような国際秩序も国際平和もまったく無視する一方的な姿勢は、台湾のみならず、日本そして全アジアの平和と安全に対する最大の脅威になっています。
そもそも台湾は台湾であって、中国の一部などではありません。この真理を護ることこそ、アジアを護ることにつながるのです。
そこで二・二八事件記念日である2月28日、李登輝前総統が中心となり、台湾全土及び世界各地で「自由台湾・全世界行動」が行われ、「反併呑・護台湾」が叫ばれます。東京でもそれに呼応し、在日台湾人と日本人による台湾防衛、台湾正名、日台共栄のアピール行進を実施します。
皆様の奮ってのご参加をお待ちしております。


台湾正名アピール行進実行委員会

実行委員長 陳 明裕


《ビザの免除には反対する》

台湾の李登輝さんが、年末から年始にかけて、我が国を訪れた。支那に気兼ねばかりして、李登輝さんの入国を認めようとしなかった我が国政府だったが、今回は何とか入国査証(ビサ)を発給した。この一点についてだけは評価したかったのだが、あれこれと注文をつけるザマには情けなく感じた。あいかわらずの支那への気兼ねである。
そんな政府や外務省などとは違い、民間では李登輝さんの訪日を歓迎した。名古屋、金沢、京都などで、李登輝さんを歓迎する声は盛大かつ熱烈だった。これは在日の台湾人だけではなく、日本人も多数参加している。世界で最も親日派であり、知日派である李登輝さんを歓迎する事は当然である。
しかし、ここで憂慮すべき事がある。それは今後の台湾人に対するビザの問題だ。今年の愛知万博に際して、時限的だが、台湾人のビザを免除する事が決まった。さらに、恒久的に免除する案も浮上している。観光振興の政策によるものである。台湾人は支那人や南北の朝鮮人と異なり、親日の人が多いし、また善良な人が多数であろう。しかし、ビザの免除には、絶対に反対である。
台湾は現在、中華民国亡命(亡霊)政権の占領下にある上、我が国とは国交がない。さらには、我が国の領土である尖閣諸島を侵略しようと企んでいる。国民党の独裁から脱却して、自由と民主主義を確立し、民進党の政権になろうとも、国家としては、いまだ中華思想に呪縛されている、言わば支那のミニチュア版である。このような国の国民に対して、ビザを免除すべきではない。
また、中華民国亡命政権に支配されている台湾にいる人々には、善良なる台湾人もいれば、悪辣なる支那人もいる。台湾人は良いが、支那人はダメ!ということが、同じ「中華民国」の国民に対して可能なのか。もし仮に出来たとしても、それでも問題は解決しない。
台湾にだけビザを免除するということが、はたして貫けるのか。国交がない台湾に対してビザを免除するならば、国交がある南朝鮮=韓国、また支那はどうする。現実に台湾と並んで、韓国に対するビザも免除する方向だというではないか。
盗賊の国=支那ほどにないにせよ、暴力スリ(ちんけながらも強盗だろう)の国=韓国に対するビザの免除は、我が国の治安を危うくさせるものである。そして、その行く先には略奪と強姦の人喰い人種の国=支那に対するビザの免除が待っているのではないか。こうなれば治安だけの問題ではなく、国家の存亡にかかわる重大事である。
観光立国とやらで、観光を振興するため、入国管理を緩和するとは、不届き千万である。同じような発想で、土曜と日曜と連続させて三連休にして遊びに行かせようと、祝日を月曜日に移動させる「ハッピーマンデー」があるが、経済産業省だか、国土交通省だかの奸僚どもは、何を考えているのか。
国益と経済権益の区別も出来ず、算盤勘定でしか国策(?)を論ぜない下劣かつ愚劣な政治家や官僚どもには、国家や国民のことなぞ頭にはないのだろう。ビザを免除すれば、観光客が増えて、銭を落として行ってくれるから、儲かるぞ…。こやつらの頭では、こんなところだろう。
外国人の出入国の管理は領土の防衛と同じく、国家や国民の安全にとって重大な事項である。たとえ親日国家だろうと、同盟国だろうと、断じて緩和してはならない。今回の台湾、さらに韓国に対するビザ免除の先には、支那に対するビザ免除があり、その果てには支那を主君と仰ぐ東アジア共同体なる悪夢が待ち受けているのだ。
支那人をはじめとする外国人による犯罪が続発して、我が国の治安は悪化するばかりである。また、国際テロ組織による脅威が増す今日、出入国の管理は緩和どころか、強化が必要である。いかなる国だろうとも、ビザの免除には反対する。
もしかすると、保守派や良識派に人気がある李登輝さんの入国を認めたのは、ビザ免除に向けての布石なのだろうか…。


《茨城県庁を糾弾するぞ!》


明治維新揺籃の地である茨城県の県庁が、許し難い売国利敵行為を犯している。産経新聞などでも報じているので、すでにご承知の方も多々おられるだろうが、簡単に述べてみたい。北朝鮮による拉致被害者の支援団体「救う会」の地方組織「救う会茨城」が、来年1月16日に県内で開催を予定している「未帰還者全員救出のため、今こそ経済制裁を めぐみさんたちは生きている! 第五回救う会茨城県民集会IN日立」の後援を茨城県に申請した。ところが、茨城県は「今こそ経済制裁を めぐみさんたちは生きている!」の部分を削除しなければ、後援出来ない!と伝えて来た。この集会の名称に、いったい何の問題があるのか。「今こそ経済制裁を」は、法律の発動を求めている言葉である。朝鮮征伐すなわち武力による軍事的制裁を求めているのではない。国会で成立した法律に基づいた経済的制裁(経済制裁というよりも、経済交流の制限に過ぎない)を求めているだけである。茨城県は法律を否定する気なのか。「めぐみさんたちは生きている」に
至っては、横田めぐみさんの家族をはじめ拉致被害者家族の方々だけではなく、我が国民の願いであり、祈りがこめられた言葉である。これら悲願の言葉を「スローガンの一部に見える」と言う中島敏雄なる小役人は日本人、いや、人間なのか。県内の水戸市、日立市、高萩市、常陸太田市は後援を決めているという。茨城県の対応だけが異常なのである。茨城県は拉致被害者の救出に取り組む意思がない事が明確になった。と言うよりも、茨城県は北朝鮮の走狗である!という事実が判明したのである。「救う会いばらき」は「拉致被害者家族の感情を無視し、被害者救出に取り組む意思がない自治体に頼るつもりはない」として、後援の申請を取り下げた。なお、茨城県は、朝鮮総連直属の金剛山歌劇団に対しては後援だけではなく、「知事の御挨拶」までしている。茨城県知事の橋本昌は、売国奴として、断罪されるべき大罪を犯した。

〔抗議先〕


茨城県知事 橋本昌
TEL029-301-2062(秘書課)


茨城県保健福祉部
人権・同和対策室
総括 中島敏雄

[直通]
TEL029-301-3135
FAX029-301-6200

[自宅]
下館市稲野辺392-5
TEL0296-24-0282


《オリンピックに見る日本の復活》


◎アテネの空と日の丸

 アテネの空に日の丸が翻っている。アテネの空に君が代が轟いている。オリンピアの神々の国であったギリシャの大地において、八百万の神々の国である日本の若人が、国の代表としての誇りを胸に秘め、国民の期待を背に受けて戦っている。
 ギリシャ時間の8月13日夜、日本時間の8月14日未明、第28回オリンピック競技会アテネ大会が開幕した。史上最多の202の国と地域から、1万人を超える選手が参加して、29日までの17日間にわたり、28競技301種目において、熱き戦いが繰り広げられる。我が国からは300人を超える選手が参加した。
 59年前の昭和20年、我が国がポツダム宣言の受諾を通告し、
先帝陛下
が國體護持の大詔を換発された日である8月14日。閥族政府の無能無策により、勇武なる軍隊の奮戦や忠良なる臣民の奉公にもかかわらず、我が国は大東亜戦争において、アメリカに軍事的にも政治的にも完敗した。降伏という屈辱の中、我々の父祖は國體護持を誓った8月15日。多くの良識ある国民が靖国神社に、あるい各地の護国神社に参拝し、生きて護国の鬼となり死して興亜の神となられた英霊に感謝と哀悼の誠を捧げた日。この日の朝、新聞やテレビは、アテネ・オリンピックにおいて、我が日本選手の快進撃が始まった事を報じていた。
 平成16年8月24日未明、女子レスリングの決勝が終了した時点での日本のメダルは、金15個・銀7個・銅8個である。これは我が国が最多の金メダルを獲得した東京オリンピックに次ぐ成績である。地元開催という有利な環境での金メダルに迫る勢いは、まさに日本の競技力の復活と評価するべきだろう。メダルの総数も過去最多のロサンゼルス・オリンピックの32個に迫ろうとしている。この大会は旧ソ連をはじめとする共産国家が参加しなかった大会だから、比較する方がおかしいのだが…。何はともあれ、アテネでは日本の快進撃が続いている事だけは間違いない。本号が出る時にはオリンピックは終了しているが、はたしていくつのメダルを獲得しているだろうか。


◎日本柔道の快進撃

 大会2日目は、競技第1日目であり、我が国はメダルの量産が期待出来る柔道から始まる事となり、幸先良い開始となった。15個の金メダルの内、柔道が過半数の8個を占めるという事実からも、その幸運に感謝したい。この柔道の快進撃が、日本選手全体に良い影響を与えた事は否定出来ない。
 ここに、日本柔道の成績を記してみる。
女子48キロ級 谷亮子 金メダル
男子60キロ級 野村忠宏 金メダル
女子52キロ級 横沢由貴 銀メダル
男子66キロ級 内柴正人 金メダル
女子57キロ級 日下部基栄 3回戦敗退
男子73キロ級 高松正裕 2回戦敗退
女子63キロ級 谷本歩実 金メダル
男子81キロ級 塘内将彦 1回戦敗退
女子70キロ級 上野雅恵 金メダル
男子90キロ級 泉浩 銀メダル
女子78キロ級 阿武教子 金メダル
男子100キロ級 井上康生 4回戦敗退
女子78キロ超級 塚田真希 金メダル
男子100キロ超級 鈴木桂治 金メダル
 このように、男女14階級の内、金メダル8個、銀メダル2個というかつてない成績を修めた。野村の前人未踏の3連覇、谷の女子初の2連覇、阿武の3度目の挑戦による悲願達成、塚田の日本初の女子重量級の制覇など、いくら書いても足りない程だ。日本選手団全体の主将であり、全ての競技、全ての選手の中で最も金メダルに近いと考えられていた井上が敗退した衝撃を吹き飛ばす勢いであった。特に嬉しいのは、全日本選手権において、井上を撃破し、日本最強の地位を奪った鈴木が、恩師の斎藤仁がソウル・オリンピックで獲得して以来16年ぶりとなる最重量級の金メダルを奪還した事だ。
 日本柔道界では、全日本、世界、オリンピックの優勝を果たす事を三冠王という。過去、猪熊功・岡野功・上村春樹・山下泰裕・斉藤・井上の6人しかいない。今回の優勝で鈴木が7人目の栄誉を手にした。鈴木は今、世界最強の地位を獲得したのである。また、阿武が女子で初めての三冠王となった事も大きく記しておきたい。
 さて、井上の敗北よりも、厳しく思わなければならないのは、銅メダルが一つもない事だ。女子は7人中6人が決勝に進むという快挙であったが、男子は3人が途中で敗退した。敗者復活戦の機会があった2名は、その機会を生かす事も出来ず、またしても敗退した。金メダルを期待される柔道において、敗北した衝撃は知れないだろう。だが、一度負けたからと言って、その負けを引き摺り続けてしまった事は残念な事であった。その点、女子レスリングの浜口京子の銅メダルは称賛に値する。前にも述べたが、金メダルは勿論貴い。しかし、一度負けてから勝ちを目指した銅メダルの輝きも美しい。銀メダルは負けて貰うメダル。銅メダルは勝って取るメダル。トーナメント方式の3位決定戦を行なう競技では、銅メダルは素晴らしいメダルなのである。
 柔道選手の胸の紋章について、一言述べておきたい。前回のシドニー・オリンピックの時もそうだったが、柔道着の胸の紋章に注目された方は多かったのではないか。風にはためくようにデザインされた日の丸の下に、黄金の刺繍で「Nippon」とある。「Japan」ではない。「Nippon」である。勝ったのは日本なのだ。
 なお、柔道競技の最後、鈴木の決勝では、鈴木に対する声援が「スズキ」ではなく「ニッポン」だった。他の選手の時にもあったが、世界最強の座をロシアと争う戦いで、ニッポン・コールを背に受けて戦い、勝利する。日露戦争開戦100年の年に相応しい決戦であったと嬉しく感じている。


◎お家芸の復活

 アテネで素晴らしい活躍を見せたのは、柔道だけではない。競泳も、体操も、金メダルが獲得した。競泳は男女ともに金メダルを獲得、さらに多数のメダルを獲得した。体操は28年ぶりに団体金メダルを獲得した。
 柔道、競泳、体操。これらは日本の「お家芸」と呼ばれている、また、呼ばれていた競技である。柔道ニッポン、競泳ニッポン、体操ニッポンの復活である。何々ジャパンとか呼ばれている男女のサッカーが早々と敗退したのとは対称的である。ソフトボールすら、前回の銀メダルにも手が届かなかった。日本チームの敗退は残念な事だが、ニッポンの快進撃とジャパンの苦戦と見る事も出来よう。
 長島ジャパンはどうか。高給取りのプロ野球の選手で固めている長島ジャパンは、予選リーグで1敗こそすれ、予選第1位で決勝に進んだ。本号が発行されている時には、結果は明らかになっている。大リーガーの参加しないアメリカ・チームは地区予選で敗退している為、オリンピックには出場していない。金メダルを獲得する絶好の機会とも言える。ミスター・プロ野球と呼ばれる長島茂雄は、日本国の代表という事、日の丸を背負うという事に強い使命感を抱いていたという。長島ジャパンという言い方は嫌いだが、日本チームは全力を尽くし、金メダルを病床の長島に届けて欲しいと願っている。


◎信は力なり

 今回のオリンピックを見ると、勝利の要因として、二つの大きな理由が考えられる。ここではルールの改正とか、科学的訓練の成果とかという専門的かつ技術的な問題は取り上げない。今回の勝利の一番大きな力は、信頼である。今回のメダリストを見てみると、師弟愛を主とする信頼関係によって、勝利したと言える。そして、その師弟愛を支えていたのが親子愛、兄弟姉妹愛、夫婦愛、そして同志愛すなはち友情である。これだけ愛情すなわち信頼に支えられた勝利は、かつてあっただろうか。
 ロサンゼルスの柔道の山下泰裕、シドニーのマラソンの高橋尚子など、監督に対して絶対の信頼をおいて従っている選手は数多い。今回のマラソンで優勝した野口みずきもその一人だ。彼女は恩師と行動を共にして職を失い、数か月失業保険でしのぎながら、練習を重ねたという。彼女は経済的には恵まれない環境に生まれ、姉も兄も高校に進学せずに社会に出た。当然、彼女も進学をあきれめていた。しかし、彼女に陸上競技を続けさせてやりたい姉や兄の願いにより、彼女は高校へ進み、陸上競技を続けた。150センチ・40キロという小柄な彼女の積極果敢な戦いは、これらの人々の力によって支えられている。これに応えて、彼女はゴールの後に力尽きて倒れるまで、全力をふり絞って、走り抜いた。多くの仲間と共に走る彼女の姿こそ、マラソンに相応しい気高さがあった。マラトンの戦いで、ペルシャを撃破した祖国の勝利を伝える為、マロトンからアテネまで走り抜き、 「我ら勝てり」と叫んで死んだアテネ軍の伝令フイリツピデスの姿そのものである。
 仲間に対する思いで戦った一人が、柔道の鈴木である。金メダル獲得後のインダビューでは「イエィ!」という場面ばかり流れたが、その前の彼の言葉は素晴らしいものがあった。重量級の王座を奪還する事に対して、彼は 「責任ではなく使命」と言っている。また好敵手の棟田康幸の名前を上げ、彼の為にも負けられないとも述べている。昨年の世界選手権では、鈴木が無差別、棟田が100キロ超級の王者である。100キロ級を含めて、二つの日本代表を3人の世界王者が争った。いや、井上の100キロ級はある程度決まっていたのだろうから、事実上は二人の世界王者による一つの代表の争いである。國士舘中学・高校・大学という鈴木と弦巻中学・世田谷学園高校・明治大学という棟田は、同い年というまさに宿命の好敵手である。全日本選手権で敗れ、代表になれなかった棟田は、鈴木の仮想敵として稽古相手を務めた。鈴木が決勝で敗ったロシア選手などを模して、鈴木の勝利に貢献している。鈴木は自分自身の為というのは勿論、恩師斉藤の為にも、道友棟田の為にも、戦い抜いたと言える。
 女子柔道の快進撃について、首脳陣は「柔道は個人戦だが、オリンピックは団体戦だ」と述べている。これが今回の大勝利の鍵だろう。競泳でもそうだ。男子リレーで、選手が「日本の力だ」と述べている。柔道だろうが、競泳だろうが、チームが一丸となって、いや、選手団が一つになって戦った結果が、今回のメダル・ラッシュではないだろうか。


◎勝利への執念

 もう一つの理由は、勝利への執念である。一時期、日本選手の間に「オリンピックを楽しむ」という風潮があった。これは本当の意味で「オリンピックを楽しむ」ではなく、勝てないから、それをごまかす為に「オリンピックを楽しむ」と言っていたのだろう。
 「オリンピックは参加する事に意義がある」という。これを曲解して「参加すれば良いのだ」「勝ち負けは関係ない」と言う輩がいる。「参加する」という事は、全力を尽くして戦うという事である。全力を尽くさなければ、参加した事にはならない。また、かませ犬ではあるまいに、初めから勝ち負けを考えないという事はありえない。
 戦うから負ける時もある。戦わない者には敗北はない。しかし、勝利も絶対にない。勝負をしない者には勝ちも負けも関係ないからだ。戦う事の貴さ、勝つ事の嬉しさ、負ける事の悔しさ、これらは全て素晴らしい事である。苦しい練習に耐え、厳しい選考を勝ち抜き、オリンピックで全力を尽くして戦う。勝って流す涙も、負けて流す涙も同じように美しい。笑顔も同じだ。勝った笑顔も、全力を尽くして負けたが悔いのない笑顔も美しい。しかし、全力を尽くさず、楽しんだと笑ってごまかす事は、スポーツへの冒涜である。
 「泣き虫愛ちゃん」こと卓球の福原愛が16強で終った時、「オリンピツクを楽しめましたか?」という記者の質問があった。それに対して、15歳の彼女は「楽しむ為に来たんじゃありません」と答えている。彼女は悔しいとも言った。彼女は最後まで戦い、勝つ為に、アテネに来たのである。彼女の北京に期待したい。


◎スポーツだけでいいのか

 アテネにおいて、若人の力で、ニッポンは復活した。しかし、これはスポーツの話である。先頃の参議院選挙の投票を呼び掛ける広告で、スポーツを使ったものがあった。競技場で「ニッポン!ニッポン!」と声援を送る観衆に対して、スポーツ選手が「スポーツだけですか!」と政治に対する関心を持つように呼び掛けるものだ。政府だか総務省の官僚が企画したものだろう。ふざけるな!と言いたい。逆だろう。政治家や官僚のような輩に「スポーツだけですか!日本を背負って戦っているのは!」と言いたい。
 スポーツの世界は結果が全てと言って良い程、厳しい。しかし、外交は、もっと厳しいものであるはずだ。日本以外の世界中の国々では。我が国では、友好というまやかしにより、勝利よりも屈伏を優先させている。負け犬ではなく、かませ犬のような状態だ。宦官政治家と科挙官僚という支那のような戦後日本において、戦うという神聖な行為を公人に望むのは無理なのだろうか。
 卓球の福原は子供の時、大阪オリンピックに出たいと言っていた。これは、次回の北京オリンピックの事である。我が国で2度目のオリンピックが開催されるのは、いったい何時の日になるだろう。もし、将来、我が国でオリンピックが開催されるならば、沖縄で行なうべきだ。
 憲法を正し、軍備を整え、そしてアメリカ軍を神州の地から追い出した後、広大なアメリカ軍基地の跡地に、オリンピック施設を建設すべきである。那覇オリンピックが開催される日。それは、我が国がヤルタ・ポツダム体制の呪縛から解放される日である。


(『不二』平成16年9月号に掲載したものです)


【補足説明】

 文中における日本選手団の成績は、8月24日未明のものです。最終的には金16個・銀9個・銅12個、メダルの総数は37個という好成績でした。金メダルの数は、過去最多の東京オリンピックに並ぶ成績です。また、メダルの総数も、過去最多のロサンゼルス・オリンピックの32個を抜いて、我が国の最多記録を更新いたしました。
 日本選手団の健闘を称えます。


《北朝鮮との国交を許すな!》


 北朝鮮との交渉は、どうなっているのか。我が国と北朝鮮との間で実務者による協議なるものが行なわれたが、北朝鮮の不誠実な対応は断じて許し難い。6ヵ国協議にいたっては、再開される見通しはないと言われている。核兵器の問題は非常に重大な事だが、我が国にとっては拉致被害者の問題も断じて見逃せない重大な事である。
 5月25日、我が国の内閣総理大臣である小泉純一郎は、北朝鮮を訪問した。一昨年に続いて、2度目の訪朝である。小泉は今回の訪朝でも「朝鮮民主主義人民共和国国防委員長」金正日と日朝首脳会談を行なった。その際、小泉は我が国の代表としての立場を自覚せず、金を出迎え、見送るという醜態を晒した。一国の宰相として、あるまじき行ない、まさに国辱行為である。このような恥知らずな行為を断じて許してはならない。
 この日朝首脳会談だが、どれだけの成果があったのか。たしかに拉致被害者の蓮池さん夫妻、地村さん夫妻のお子さん5人が帰って来た。しかし、蘇我さんの家族は北朝鮮に残されたままだった。幸いな事に、蘇我さんの夫と娘は、その後インドネシアで再開し、家族そろっての帰国が実現出来た。しかし、一連の動きを見ると、小泉内閣や外務省の無能無策ぶりが露呈された。また、横田めぐみさんをはじめとする拉致被害者の皆さんにいたっては帰国はおろか、いまだ安否すら分からないままである。
 一昨年の9月17日、小泉は我が国の首脳として初めて北朝鮮を訪問し、金正日との首脳会談を行なった。我が国と北朝鮮との国交正常化交渉を再開する為だったと言う。金は首脳会談の席で、日本人拉致の事実を認め、謝罪した。しかし、その内容は、悲惨かつ残酷なものであり、断じて容認出来るものではなかった。拉致被害者の家族の皆さんは、北朝鮮からの一方的な情報を信じる事はせず、拉致された人々の生存を信じるとの事だった。我々も、拉致被害者の家族と心を一にして、拉致された被害者の生存を信じ、1日も早い帰国を祈っている。2回の小泉訪朝により、5人の拉致被害者が帰国出来、また家族8人が帰って来た。しかし、まだまだ多くの拉致被害者、また家族の人たちが、北朝鮮に残されたままである。5人の家族の帰国によって、拉致問題が解決した訳ではない。全ての日本人を奪還しなければならない。力を合わせて、拉致被害者を奪還すべきなのだ。
 また、我が国と北朝鮮との間にある問題は、拉致事件だけではない。核開発、ミサイル実験、工作船の領海侵犯など、我が国の安全保障にとって重大な問題ばかりだ。朝鮮半島の動向は、古代より、我が国の独立と安全に直結する重大事だった。我が国の安全保障の為、北朝鮮との友好を!と考えるのは、一見もっともな意見だと錯覚してしまう。
 しかし、共産主義国家である北朝鮮との友好なぞ、断じて存在しない。我が国の主権を侵害して、領海や領空を侵犯し、我が同胞を拉致する北朝鮮は、憎むべき敵国なのである。我が国と北朝鮮との間に平和や友好はありえない。あるのは、鉄と血だけだろう。
 小泉は、金に対して、25万トンの食糧支援や1000万ドルもの医薬品提供をする上、経済制裁を発動しない事を約束した。小泉の北朝鮮訪問は、我が国の国民の生命と人権はもちろん、国家の主権も尊厳も、さらには安全保障すら放棄した売国的かつ亡国的な利敵行為である。今こそ北朝鮮に対して、1.北朝鮮籍の船舶の我が国への寄港の禁止、2.北朝鮮への送金などの禁止、3.北朝鮮の国会議員などを勤める在日朝鮮人が出国した際の再入国の禁止などの経済制裁を実行すべきである。
 小泉は9月27日の第二次内閣の改造に伴い、前自民党副総裁の山崎拓と前外務大臣の川口順子を内閣総理大臣補佐官に任命した。これは、北朝鮮との国交樹立にむけた布陣という。また、この人事の影響なのか、内閣官房参与として拉致問題の解決に当たって来た中山恭子が辞任した。これも、北朝鮮が望む事なのだろう。小泉は内閣総理大臣としての
足跡を残したいからなのか、ノーベル平和賞が欲しいからなのか、北朝鮮との国交樹立に邁進している。
 北朝鮮は国際的にはテロ支援の犯罪国家であり、国内的には強制収容所国家だ。朝鮮労働党による専制政治の下、朝鮮人民は塗炭の苦しみに陥っている。朝鮮労働党総書記の金正日こそ朝鮮人民の敵なのだ。その金王朝の延命に繋がる日朝国交正常化および経済支援を行なう事は、世界平和に対する挑戦であり、圧制からの解放を願う朝鮮人民に対する背徳でもある。北朝鮮との友好は、北朝鮮が共産主義の悪夢から解放された後、朝鮮人民によって樹立された政権との間に行なうべきなのだ。これは北朝鮮のみならず、中共に対しても言える事だが…。
× × × × ×
 北朝鮮は共産主義国家だから敵なのか。では、韓国はどうなのか。韓国も北朝鮮に劣らぬ反日国家である。現在の容共左翼政権だけではない。かつての反共軍事政権も反日政権だった。北朝鮮は敵で、韓国は味方なのか。そうではあるまい。韓国も敵国なのだ。今も昔も、である。北朝鮮も韓国も反日国家で敵となると、はたして朝鮮半島に親日国家が出来ることがあるのだろうか。と言うよりも、朝鮮人すなわち朝鮮民族は、我が国我が民族の敵なのだろうか。いかなる国家や政権が出来ても、我が国我が民族の敵なのだろうか。


《「中華民国」陳水扁を糾弾する》


 僕は、『Risorgimento!祖国再興』において、台湾の支持を打ち出して来た。しかし、「中華民国」に対しては弾劾して来た。台湾と「中華民国」はどう違うのか、よく理解出来ない読者は多いはずだ。その点については、後日述べて行きたいと思う。今回は、選挙前にはあれだけ応援していた陳水扁を何故糾弾するのかについて、簡単に述べたい。


 今年の3月、東アジアの情勢を左右する 「中華民国」の総統選挙が行なわれた。現職である民主進歩党の陳水扁が、中国国民党の連戦と親民党の宗楚瑜の連合を撃破して、当選した。2期目の陳水扁政権は、今後4年の間、中華民国を支配して行く事となった。
 「台湾は台湾だ!台湾は中国ではない!」とし、「台湾YES!中国NO!」と叫んだ陳水扁は台湾への道を歩むことを表明していた。台湾独立や台湾正名を支持していた僕は、陳水扁の勝利を願い、彼の勝利を喜んだ。だが、この男も中華思想に毒された政治家に過ぎなかった。中華思想を否定していたはずの陳水扁は、「中華民国」政府に命じて、我が国の領土である尖閣諸島の侵略を企て、「中華民国」の土地として登記した。
 アジアの裏切り者であり、東洋平和の敵であった「鬼畜」「外道」蒋介石の亡霊に取り憑かれている国民党は論外だが、台湾を標榜していた民進党の政権ですら、中華思想に呪縛されていたのだ。これは台湾を支持してきた人々に対する冒涜であり、挑戦である。赤い支那「中華人民共和国」が敵であることは言うまでもない。白い支那「中華民国」も反共政権というだけで、反日政権であったことは否定できない事実なのだ。赤でも、白でも、支那は敵国である。そして今、支那から独立しようという台湾でさえ、我々の敵であることが明確になった。
 5月20日(木)の事だが、陳水扁は台湾において、中華民国総統の就任式を挙行した。それにあわせて、この日、何と!我が国において、総統就任の祝賀会が催された。我が国の領土を侵略しようとしている侵略者の祝宴が、我が国で開催されたのだ。この日、午後6時から東京赤坂のホテルオークラにおいて、台北駐日経済文化代表処の主催により、侵略者の祝宴は開催された。そして、この祝宴には、我が国の領土を侵略しようとする支那人や台湾人、また奴等の走狗である日本人など破廉恥な奸賊どもが多数参加した。まさに、親日家の仮面を被る侵略者と、愛国者の仮面を被る売国奴による狂宴であった。
 中華思想と資本主義に基づく悪逆非道な侵略国家「中華民国」とは、戦わなければなるまい。我々は、陳水扁の犯罪が明らかになった時から、同志とともに台湾=中華民国=白色支那に対して、糾弾行動を繰り返して来た。そして、我々は、この悪魔の狂宴を知り、多くの戦う同志に呼び掛け、糾弾闘争を行なった。その結果、おおいな戦果を上げた事は、今後の闘争に展開して行きたい。
 前の台北駐日経済文化代表処の代表すなわち中華民国の駐日大使である羅福全は、台湾に帰任して、対日窓口機関の亜東関係協会の会長に就任した。後任の代表には、許世楷が赴任して来た。台湾独立建国連盟の主席をつとめた事もあり、親日派台湾人の重鎮として知られている人物である。彼は、悪逆非道な国民党政府に闘いを挑み、我が国に亡命していた経歴も光っている。我々は、彼の就任に期待を寄せていた。しかし、我々の期待は裏切られたのである。彼も所詮は中華思想に汚染された台湾人であった。支那人ではなく台湾人なのだろうが、彼は「中国」人なのだ。残念ながら…。
 尖閣諸島は、我が国の神聖なる領土である。その領土を侵略しようと企む敵国とは、断じて友好なぞありえない。我々は今後も台湾大使館とも言える台北駐日経済文化代表処に対して、徹底的に激烈なる糾弾行動を展開して行く。多くの同志同憂各位にも呼び掛ける次第である。


【怒濤の怒りを反日分子へ】

台北駐日経済文化代表処(台湾=中華民国の駐日大使館に相当)
東京都港区白金台5−20−2
電話 03−3280−7900
FAX 03−3280−7931


 

《第3回9・29反中共デーの報告》


 台風21号が日本列島各地で荒れ狂った9月29日、「日中国交断絶」「打倒中国共産党」「まもれ!尖閣諸島」「中華覇権主義排撃」を訴える第3回9・29反中共デーの集会と行進を決行した。雨が激しく降るにもかかわらず、多くの人々のご協力と共闘委員の団結により、盛会に開催する事が出来、心強く感じた。集会開始時には200名足らずだったが、行進の途中から加わる人が続出して、最終的には250名を超えた。
 式次第は下記の通りだが、若干の説明を述べる。蹶起集会では、同じ時刻に大阪の領事館前で戦っている関西の民族派同志から「反中共抗議行動共闘宣言」という連帯声明が寄せられ、参加者一同おおいに勇気づけられた。また、帝京平成大学教授の米田建三氏(元内閣府副大臣・前衆議院議員)が駆け付け、熱い連帯の挨拶を述べてくれた。行進では外国語(言葉が分からないので台湾後か中国語かは不明)のプラカードがいくつもあり、非常に目立っていた。台湾人の参加者も多数いたようだ。中共大使館周辺では、中国語による中共糾弾演説も起こり、いかにも支那人とか共産党員とかという風体の男が怒り出す一幕もあった。大きな事故もなく、最後の総括集会まで進み、無事に終了した。また、日本や台湾などのテレビ・新聞・雑誌が取材に訪れており、彼らが如何に報道するのか注目している。この闘争の様子は、台湾の中央通信社が「有志之士」の行動として、写真入りで、当日の夜に台湾全土に配信している。今回は小規模な行動だったが、反中共闘争を日本や台湾に伝える大きな意義があったと確信している。なお、当日は東京と大阪だけではなく、中共の領事館がある福岡や長崎でも、反中共闘争が実行された。
 9・29反中共デー闘争は、いろいろな立場の人たちが参加している。僕のような尊皇攘夷の立場から反中共を唱える者もいれば、台湾独立や台湾正名を支持する人、日華国交回復を支持する人、「中国」民主化運動を支持する人、チベット解放を支持する人…などがいる。さらに、尖閣諸島の防衛に死力を尽くして戦っている人たちもいる。しかし、中共という強大凶悪な悪魔と戦うためには、大同団結が必要であり、立場を超えて、共闘している。大異すら超えて大同につく!の団結である。いや、大同ではない。正義である。大異すら超克して正義のため戦う!の団結である。
 末尾となったが、『Risorgimento!』編集部および読者の皆さんのご協力に厚く御礼申し上げる。
                                   三澤浩一


× × × × ×


《第3回9・29反中共デーの資料より》


〈9・29反中共デー共闘委員会〉

秋山一成・石田和久・伊藤満・遠藤雅三・小川和彦・小曽戸清裕・鹿島政晴・片山清一・加藤順一・鎌田泰弘・河原博史・草壁悟・工藤正也・清水利行・志村馨・白坂孝行・菅野政明・鈴木信行・竹内恒夫・徳竹尉匡・永尾隆幸・中野順二・仲程通也・長谷勇二・針谷大輔・平野裕一・福田和久・福田邦宏・舟川孝・丸川仁・三澤浩一・水谷浩樹・皆川義隆・森浩二・森川照男・山岡孝治・山口一夫・山田一成・吉田誠司・渡邉淳司


〈日時〉

平成16年9月29日(水)
午後2時 蹶起集会 開会
午後3時 示威行進 出発
午後5時 総括集会の後に解散


〈場所〉

三河台公園
東京都港区六本木4−2−27
(六本木通り沿い/俳優座の横)


〈式次第〉

                                司会 福田邦宏
蹶起集会(三河台公園)
   国民儀礼   国歌斉唱                  指揮 中野順二
          皇居遥拝
          靖国神社の英霊および先覚烈士の御霊に対する黙祷
          聖寿万歳                  先導 伊藤 満
   9・29反中共デー宣言                     白坂孝行
   共闘委員会挨拶                         三澤浩一
   関西同志からの「反中共抗議行動共闘宣言」(代読)        片山清一
   連帯の挨拶            帝京平成大学教授       米田建三
   決議の採択                           吉岡茂樹
   行進上の注意                          舟川 孝
   シュプレヒコール                        石田和久

示威行進

総括集会(広尾公園)
   総括                              竹内恒夫
   シュプレヒコール                        石田和久
   団結の雄誥                           加藤順一


〈行進の順路〉

三河台公園を出発〜(六本木通)〜西麻布の交差点を左折〜(外苑西通)〜天現寺の交差点を右折〜広尾公園にて総括集会の後に解散


〈シュプレヒコール〉

日中国交を断絶せよ!                  日中国交を断絶せよ!
共産主義を打倒するぞ!                 共産主義を打倒するぞ!
中華覇権主義と闘うぞ!                 中華覇権主義と闘うぞ!
尖閣諸島を守れ!                    尖閣諸島を守れ!
主権侵害を許さないぞ!                 主権侵害を許さないぞ!
内政干渉を許すな!                   内政干渉を許すな!
日中!                         断交!
中共!                         粉砕!


〈決議〉

 アテネオリンピックは、我が国の選手の健闘が顕著であり、感動感激した国民は多い。しかし、直前に中共で開催されたサッカーのアジアカップを観て、憤りを感じた国民は、さらに多い。我が国を敵視し、我が国の国旗国歌を冒涜する中共人民。これは、歴代の中共政府による反日教育の成果である。反日の権化である江沢民が表舞台から消え、胡錦濤が党と国に続いて、軍でも実権を握った。だが、これによって、我が国と中共との関係が好転する訳ではない。
 一昨年は所謂「日中国交正常化」30周年であり、昨年は所謂「日中平和友好条約」25周年だった。しかし、我が国と中共との国交が正常かつ友好的であった事実はあるのか。靖国神社、歴史教科書、尖閣諸島、我が国総領事館への侵入…、さらに記憶に新しいところでは、東シナ海における我が国の海底資源の盗掘、我が国の領土である沖ノ鳥島の存在の否定…など、中共による我が国に対する主権侵害や内政干渉が繰り返えされて来た。さらに中共は、我が国からODAや円借款など多額の経済援助を受けながら、軍備を増強し、我が国をはじめ周辺諸国に軍事的脅威を与えている。核兵器を保有し、有人ロケットを飛ばす国に経済援助は必要ない。中共は、我が国にとって明確な敵国だ。にもかかわらず、我が国政府および外務省は、中共への売国的屈辱外交を止めようとはしない。これは売国的かつ亡国的な利敵行為である。
 我々は民間在野の有志として、この祖国の危機を坐視する事は出来ない。9月29日は日中国交正常化を祝う日ではない。中共との国交断絶を願い、闘いを誓う日である。「打倒中国共産党」「日中国交断絶」「中華覇権主義排撃」「まもれ!尖閣諸島」の旗印の下、我々は大同団結して、9・29反中共デー闘争を展開する。
 我々は、日本国政府の代表である内閣総理大臣に対して、次の事項を要求する。

一、中華人民共和国との国交を断絶する事
一、前項が実現するまで、我が国の主権と安全を守る為、次の10点を速やかに実行する事
 1.内閣総理大臣は靖国神社に正々堂々と正式かつ公式に参拝する事
 2.国立戦歿者追悼施設建設の計画中止を国の内外に宣言する事
 3.尖閣諸島の防衛に全力を尽くす事
 4.沖ノ鳥島の防衛に全力を尽くす事
 5.東シナ海において盗掘されている海底資源の防衛に全力を尽くす事
 6.教科書検定における「近隣諸国条項」を撤廃する事
 7.中共へのODAや円借款など全ての経済援助を中止する事
 8.所謂チャイナ・スクールをはじめとする売国的外交官を追放する事
 9.凶悪犯罪の元凶である不良「中国」人を追放する事
 10.北京オリンピックをボイコットするよう日本オリンピック委員会に指導する事

 我々は、勝利の日を目指して起ち上がり、最後まで闘う事を宣言し、決議する。

   平成16年9月29日
                           第3回9・29反中共デー


《「播磨の猛虎」かく闘えり》


    ―桂田智司の反権力闘争の記録―


〈前橋刑務所編〉


1.勝利の凱旋

 平成9年10月26日。
 桂田智司が戦線復帰した。
 学生時代から「行動右翼の雄」として知られ、その勇猛果敢な行動から「播磨の猛虎」とポツダム・ジャパンの権力者どもから恐れられている桂田智司。
 平成4年8月25日、
聖上
支那行幸の実現を阻止するため、閣議決定を粉砕せんと、拳銃と軍刀で武装した上、火炎車で首相官邸へ突撃して逮捕されて以来、はや5年余りの歳月が流れた。ついに戦線への復帰を果たした。
 桂田は、銃刀法違反や放火などの罪名で懲役5年の判決を受け、群馬県の前橋刑務所に服役していたが、その獄中において徹底的に「反日」刑務所当局と闘って来た。
 「反日」前橋刑務所における権力の横暴との獄中闘争は、まさに燃え上がる闘魂のなす業であり、刑務所当局を震え上がらせていた。度重なる懲罰の嵐に対して、一歩も退くことなく闘い抜く桂田の前には、刑務所当局の不当弾圧も無力なものだった。
 この度、桂田は前橋刑務所当局との獄中闘争に完全勝利をおさめて、満期で出獄した。まさに堂々の凱旋といえる。獄中での経過や詳細については、後日、本人に語ってもらいたいと存じる。
 なお、桂田と筆者は同い年だが、筆者の方が数ケ月ほど早く生まれている。そこで、救援の関係上、桂田は筆者の養子となった。当時は、戸籍の上では「三澤智司」となるが、ここでは「桂田智司」と呼ぶ。現在は養子縁組を解消したので、正式に「桂田智司」に戻った。


2.桂田智司とは

 桂田智司は、昭和36年に兵庫県姫路市に生まれた。地元の高校を卒業後、上京して東洋大学に入学した。「三島由紀夫研究会」を経て、「日本学生同盟」に加盟し、「重遠社」の指導の下、民族派学生運動に参加した。学内の同志を糾合し、東洋大学に国防部を結成、指導者として活躍した。
 その後、東洋大学の先輩が主宰する「東洋青年有志会」に参加し、行動右翼の一員として奮闘する。この時、河出書房の企てた『パレチザン伝説』なる不敬図書の出版計画に抗議運動を行い、中止に追い込んだことは知られている。
 東洋大学を卒業と同時に姫路に帰郷し、 「憂国公論社」に加盟する。昭和61年、紀元節に反対するキリスト教会の集会にトラックにて突入、火炎ビンを投げ、木刀で突撃して、逮捕される。約1年、囹圄の身となる。
 出獄の後、上京。学生時代の同志の勧めにより、「日本民族青年同盟」に加盟する。さらに、同志とともに「至誠寮」を開設した。しかし、闘争現場において、機動隊との闘いから逮捕され、またもや約1年の間、囹圄の身となる。出獄の後、新たなる闘争を開始する。
 平成4年、宮沢内閣による
聖上
支那行幸の姦計が発覚すると、そのに実現を阻止するために日夜運動を行う。8月25日、閣議決定を粉砕するため、拳銃と軍刀で武装した上、アセチレンガスとプロパンガスを搭載したトラックを炎上させて、首相官邸に突入しようとして逮捕された。
 銃刀法違反・放火などで懲役5年の刑を受け、群馬県の前橋刑務所に服役し、闘争の場を娑婆から獄中に移した。


3.「反日」刑務所への闘い

 桂田の獄中生活は、「反日」刑務所との闘いだったといえる。5年の獄中生活のうち、そのほとんどを刑務所当局との闘いに費やして来たが、この獄中闘争は、桂田の
天皇
信仰の強さに起因している。
 そもそものきっかけは、平成5年の天長節にある。刑務所当局は年末の作業予定を組むに当たり、自分たちの都合の良いように日程を決めた。その際、何と不埒なことに、12月23日の天長節を平日扱いに組み入れようとした。この不敬行為に対して、桂田は獄中の同志らとともに抗議した。慌てた刑務所当局は事務的な間違いと誤魔化し、その場は事無きを得た。
 さらに問題は起きた。平成7年9月23日秋分の日、前橋刑務所にて運動会が開催された。「この日は秋季皇霊祭ではないか。宮中におかれまして、
聖上
が祭祀を親しく斎行遊ばされる日だ。この重要な日に運動会とは何事か!刑務所は臣下の分をわきまえないのか!速やかに日時を変更せよ」と、桂田は刑務所当局に抗議した。上層部ともかなり揉めたようで、その直後に彼に面会した際、「今後は刑務所当局の不敬を糾弾して行く」と語っていた。
 また、教養時間などと称して「反日」NHKの偏向番組の視聴を受刑者に強要するなど、刑務所当局の確信犯的(無知から来る恥知らずなのか?)行為にも断固として抗議を繰り返した。これらの問題により、それまでは模範囚であった桂田と刑務所との対立が生じていった。これにより、不当なる弾圧が繰り返されるようになったのだ。
 この原因は、何度もいうように、桂田の尊皇心が強いことにある。言い換えれば、前橋刑務所の「反日」的な体質によるものだ。


4.「反日」権力の弾圧

 「反日」刑務所当局の不当な弾圧の下に苦しめられて行くことになった桂田だったが、もともと非常に真面目な彼は、刑務所の中でも作業や生活なども模範的な対応を見せていた。中での階級(?)が短期間に4級から2級に上がったり、1等工としての報償金を受けたりと、比較的順調な刑務所生活を送っていた。ところが、刑務所当局と対立してからは、次々に不当な懲罰を課せられるようになった。
 外にいる筆者にも、桂田を巡る環境に異変があったことが分かった。というのも、問題発生の後、桂田から来る手紙が遅れたり、内容が書き直されたり、墨で消されたり、ということが続出していたからだ。面会の際などには明らかだった。
 その後、イチャモンとしか思えない理由によって、懲罰が繰り返されるようになり、異常なまでの不当弾圧が進行して行った。半年も及ぶ保護房(保護という名に騙されてはいけない。重たい懲罰のための獄舎で、まさに家畜小屋以下の所。人権上、1週間しか入れることは認められていないというが……)での拘禁などは、断じて許されるものではない。しかも、面会は禁止されたのだ。


5.桂田の勝利

 だが、桂田は、「反日」刑務所当局による権力の横暴には絶対に屈服せず、獄中闘争を続けた。
 すると、横暴な看守どもの態度が変って来た。桂田を弾圧して来たくせに、媚び諂うようになって来たのだ。まるで、掌を返したような変化だ。「反日」官憲どもがいくら虚勢を張って懲罰を繰り返しても、一歩もひるまない桂田の闘志の前では、無力なものだった。腰抜けの看守どもは、桂田の闘志に怯えてしまったのだ。
 桂田の燃え上がる闘魂は、まさに「播磨の猛虎」の異名に相応しい。ポツダム・ジャパンという体制に巣くい、戦後民主主義という腐肉に群がるハイエナに過ぎない刑務所の看守どもなど、しょせんは桂田の敵にも値しないものだった。桂田と「反日」前橋刑務所当局の闘いは、桂田の完全かつ圧倒的な勝利に終わった。
 正義は必ず勝つ。当たり前のことだ。桂田は、「反日」前橋刑務所当局との獄中闘争に完全勝利をおさめて、満期にて出獄することになった。
 まさに堂々の凱旋、勝利の雄誥といえる。

6.いざ、前橋へ

 「反日」権力による度重なる不当弾圧に屈せぬ桂田の勝利は素晴らしいの一言に尽きるが、我々の戦果はそれだけではなかった。桂田の戦線復帰を出迎える方法の成功も、画期的というよりも革命的な勝利といえる。
 「反日」刑務所当局は、10月20日に桂田との面会に赴いた筆者に対して、「桂田智司の出迎えは車1台で人間は3名のみ、それ以上ならば出さない」と通告した。これには怒るよりも呆れてしまった。満期で出る人間に対して、出す出さないという権利が、刑務所の看守ごときにあるとでもいうのか。なんという思い上がりだろうか。
 我々と桂田と間には揺るぎない信頼がある。卑劣な脅迫などに屈してなるものか。桂田と連帯する我々の闘志は、よけい燃え上がった。桂田の戦線復帰を目前に控え、戦線復帰当日の出迎えについて協議を重ねた。
 すると、桂田の戦線復帰の数日前から、同志らの間に不穏な噂が流れていた。前橋の看守どもと群馬県警が結託し、出迎えに赴いた民族派に、不当なる大弾圧をしようと企てているという風聞だ。「反日」前橋刑務所糾弾闘争への連帯、すなわち「出迎えのお祝い」ではなく「前橋刑務所をはじめとするポツダム・ジャパン権力との対決」を、という桂田と連帯するためと考えていた我々は、この弾圧に警戒しつつも、闘争を決行することを誓い合った。
 10月25日夜、十数名の同志が都内に集合した。出発する前に、前橋で予想される非常事態に対する協議を行ない、当局がつけいるスキを与えぬよう十分警戒することを申し合わせた。協議が終了した後、まず先発隊が数台の街宣車に分乗し、前橋刑務所へと向かった。
 非常事態に備えて、時間差攻撃を用いて、数時間の後に後発隊が続くことになった。
 いざ、前橋へ。我々は高鳴る胸の鼓動を感じつつ、出撃した。


7.「反日」看守どもの醜態

 日付が26日となる頃、先発隊は前橋刑務所に到着した。
 我々の隠密作戦が成功したのか、警備陣が到着する前だった。この好機を逃してはならぬ。時計の針が26日となった瞬間、我々は獄中の桂田と連帯するため、街宣車のスピーカーを通して、前橋刑務所に対する闘争を宣言した。
 ふいをつかれた前橋刑務所当局の狼狽はひどいものだった。我々の抗議に慌てて、正門から庁舎に逃走した看守は、庁舎の扉を閉め忘れてしまい、扉が風に吹かれてバタバタしていた。インターホンに出た男はうろたえ、誤魔化しに終始した。目の前の官舎にいる連中は慌てて電灯を消して、暗がりから様子を伺っている。
 権力を隠れ蓑にして、横暴なる不当弾圧を繰り返していた「反日」看守どもは、その権力に屈しない正義の前には、あまりにも無力であり不様な姿を晒してしまった。地獄の餓鬼どもを連想させる看守どもの醜態だ。我々は彼らに対して怒りよりも哀れみを感じてしまった。
 後発隊が合流すると、「反日」前橋刑務所を弾劾する勢いは激しくなった。街宣車だけではなく、徒歩・肉声でも刑務所の不当弾圧を糾弾した。看守という立場を悪用し、受刑者に対しては、横暴なる不当弾圧を繰り返した看守どもは、正義の前に屈服した。


8.勝利の凱歌

 朝5時になる頃には、300名を超える同志たちが、桂田を出迎えるため、地元群馬県をはじめ関東各地から集結した。
 そして、6時になると同時に、刑務所の正門前において、「桂田同志と連帯」と「前橋刑務所を糾弾」するための緊急集会が開催された。
 刑務所の周辺には、警備陣として武装した機動隊が多数動員されていた。しかし、正義を訴える我々の声の前には、警備陣もなす術がなく、ただ見守るだけ、田んぼのカカシ同様ただツ立っているしかなかった。
 圧倒的な我々の正論の前に、さしもの前橋刑務所も、ついに我々に屈服した。我々の要求通り、予定を一時間早め、桂田を釈放したのだ。
 桂田が姿を見せると、300名の同志によって、『青年日本の歌』が大きな声で合唱された。さらに、正門において、桂田の先導による聖寿万歳が高らかに奉唱された。
 桂田が前橋刑務所の門を出ると、そのまま正門の前において、勝利を宣言する集会が開催された。桂田の激烈なる演説、「反日」刑務所糾弾のシュプレヒコールなど、延々と集会は続けられた。
 深夜から早朝におよぶ刑務所周辺での糾弾闘争、正門前における「連帯と勝利」の集会。8時間にもおよぶ長い時間、権力はなす術もなく、ただ傍観するだけだった。中と外との連帯による勝利は、横暴な「反日」官憲に対する闘争の大きな武器となり、獄中の同志に勇気を与えるものと確信する。
 まさに、戦闘的維新者・桂田智司の戦線復帰の第一歩に相応しい勝利といえる。
 「播磨の猛虎」桂田智司の今後の活躍に期待して止まぬ。


(『新日本』平成9年10月・11月合併号に掲載されたものに削除や加筆など若干の修正を加えたものです)


■参考資料■


《第3回9・29反中共デーの呼び掛け》


 アテネオリンピックは、我が国の選手の健闘が顕著であり、感動感激された方も多い事と存じます。しかし、直前に中共で開催されたサッカーのアジアカップを観て、憤りを感じた方は、さらに多い事と存じます。我が国を敵視し、我が国の国旗国歌を冒涜する中共人民。これは、歴代の中共政府による反日教育の成果だ!と言えます。一昨年は所謂「日中国交正常化」30周年であり、昨年は所謂「日中平和友好条約」25周年でした。しかし、この年月の間、我が国と中共との国交が正常かつ友好的であった事はありません。靖国神社、歴史教科書、尖閣諸島、我が国総領事館への侵入……、さらに記憶に新しいところでは、東シナ海の我が国領海における海底資源の盗掘、我が国の領土である沖ノ鳥島の存在の否定…など、中共による我が国に対する主権侵害や内政干渉が繰り返えされて来ました。さらに中共は、我が国からODAや円借款など多額の経済援助を受けながら、軍備を増強し、我が国をはじめ周辺諸国に軍事的脅威を与えています。核兵器を保有し、有人ロケットを飛ばす国に経済援助は必要ありません。中共は、我が国にとって明確な敵国です。しかし、我が国政府および外務省は、中共への売国的屈辱外交を止めようとはしません。これは売国的かつ亡国的な利敵行為です。
 我々は民間在野の有志として、この祖国の危機を坐視する事は出来ません。一昨年の9月29日、我々は中共との国交断絶を勝ち取る為、第1回9・29反中共デーを開催いたしました。多くの同志の協力を得て、今年も9・29反中共デーを開催いたします。中共に対して、いろいろな考えの人がいるでしょう。しかし、「打倒中国共産党」「日中国交断絶」「中華覇権主義排撃」「まもれ!尖閣諸島」の旗印の下、大同団結して「9・29反中共デー」闘争を展開いたしましょう。勝利を目指して、共に起ち上がり、共に闘おうではありませんか。同志同憂各位の参加を熱望いたします。

   記

【日時】
平成16年9月29日(水)
 午後2時 蹶起集会 開始 
 午後3時 示威行進 出発
 (雨天決行)

【場所】
三河台公園
 東京都港区六本木4―2―27
 (六本木通沿い/俳優座の横)

【式次第】※予定
蹶起集会(檜町公園)
 国民儀礼
  国歌斉唱
  皇居遥拝
  靖国神社の英霊および先覚烈士の御霊に対する黙祷
  聖寿万歳
 共闘委員会挨拶
 連帯の挨拶
 9・29反中共デー宣言
 決議の採択
 行進上の注意
 シュプレヒコール
示威行進
総括集会(広尾公園)
 総括
 シュプレヒコール

【行進の順路】※予定
三河台公園を出発→(六本木通)→西麻布の交差点を左折→(外苑西通)→天現寺の交差点を右折→広尾公園にて解散

【合意事項】
超党派の運動のため、次の行為はご遠慮下さい。
 1.会旗の掲揚
 2.車輛での参加
 3.隊服の着用

   平成16年9月

   9・29反中共デー共闘委員会
   事務局 03―3918―9524


× × × × ×


《9・29反中共デー宣言》

日出ずる處の天子 書を日没する處の天子に致す つつがなきや
 この雄大かつ天晴なる言葉は、
推古天皇
が隋の煬帝に贈りたまえる国書の一節である。聖徳太子の作とも伝えられているこの国書には、大帝国・隋に対する我が国の独立自尊の志が燃え上がっている。中華思想に凝り固まった支那は、自らを中国と称し、己のみが文明国であり、他の国々を野蛮なる後進国と侮り、朝貢と冊封の世界秩序を構築して来た。東夷・西戎・南蛮・北狄の言葉が示す通りだ。このような時代の中で、東夷と侮られていた我が国は、堂々と支那に対等なる外交を宣言したのだ。その結果、幾度かの不幸な一時はあったにせよ、我が国と支那は友好的な関係を保ち得て来た。
 しかし、現在の我が国と中共の関係はどうか。昭和47年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」が、田中角栄内閣により北京において発表された。また、昭和53年8月12日には「日本国と中華人民共和国との平和友好条約」が、福田赳夫内閣により北京において署名された。今日までの年月を振り返り、我が国と中共との関係が正常であったと言えるだろうか。友好的な関係だったとは、決して言えまい。平成4年10月23日、日中国交正常化20年の記念として
天皇陛下
が中共へ行幸遊ばされた。我々は民間在野の有志として、この宮沢喜一内閣による悪謀を阻止する為、闘った。だが、我々の力が及ばず、中共行幸は断行されてしまった。誠に痛恨の極みである。日中友好の総仕上げと喧伝された中共行幸だったが、その後の日中関係はどうだ。靖国神社、歴史教科書、尖閣諸島、北朝鮮亡命者を巡る我が国総領事館への侵入など、中共による主権侵害や内政干渉が繰り返えされている。さらに中共は、我が国からODAや円借款など多くの経済援助を受けながら、軍備を増強している。軍事覇権国家・中共は、我が国の独立と安全にとって、重大な脅威である。その中共に対して、売国的政策を繰り返す我が国政府および外務省は、まさしく亡国の徒である。
 支那革命を支援した頭山満先生の道統を受け継ぐ我々は、支那に対して憎悪も敵愾心もなく、真の友好を望む者である。だが、共産主義国家である中共との友好は断じて拒否する。何故ならば、共産主義国家との平和や友好は夢幻であり、断じて存在しないからだ。真の日中友好とは、中国共産党による恐怖政治から支那人民が解放され、新しい国家が誕生した後にのみ可能なのだ。
 9月29日は日中国交正常化を祝う日ではない。中共との国交断絶を願い、闘いを誓う日だ。平成14年9月29日、我々は大亜細亜主義の理念の下、「反・中国共産党」「反・中華人民共和国」を旗印に、中共との国交断絶を勝ち取る為、多くの同志とともに第1回「9・29反中共デー」闘争を実行した。
 我々は正義の名において、勝利を目指して起ち上がり、力の限り闘う事を宣言する。

   平成15年9月29日

          9・29反中共デー


(この宣言は、昨年の第2回9・29反中共デーにおいて、満場一致で採択されたものあり、この運動の趣意とも言える。)


× × × × ×


《第2回9・29反中共デーの報告》


【9・29反中共デー共闘委員会】
石田和久・伊藤満・遠藤雅三・小川和彦・小曽戸清文・片山清一・加藤順一・鎌田泰弘・河原博史・草壁悟・工藤正也・清水利行・志村馨・菅野政明・鈴木信行・竹内恒夫・徳竹尉匡・永尾隆幸・中野順二・仲程通也・長谷勇二・針谷大輔・平野裕一・福田和久・福田邦宏・舟川孝・丸川仁・三澤浩一・水谷浩樹・森浩二・森川照男・山口一夫・山田一成・吉田誠司・渡邉淳司

【日時】
平成15年9月29日(月)
 午後2時 蹶起集会 開会
 午後3時 示威行進 出発
 午後5時      解散

【場所】
檜町公園
 東京都港区赤坂9―7―9
 (六本木/旧防衛庁裏)

【式次第】
            司会 菅野政明
蹶起集会(檜町公園)
 国民儀礼       指揮 山口一夫
  国歌斉唱
  皇居遥拝
  靖国神社の英霊および先覚烈士の御霊に対する黙祷
  聖寿万歳      先導 森 浩二
 共闘委員会挨拶       三澤浩一
 連帯の挨拶         渡邊 有
 9・29反中共デー宣言   河原博史
 決議の採択         徳竹尉匡
 行進上の注意        舟川 孝
 シュプレヒコール      松崎一樹
示威行進
総括集会(広尾公園)
 総括            鎌田泰弘
 シュプレヒコール      松崎一樹
 団結の雄誥         丸川 仁

【行進の順路】
檜町公園を出発〜(六本木通)〜西麻布の交差点を左折〜(外苑西通)〜天現寺の交差点を右折〜広尾公園にて総括集会の後に解散


× × × × ×


《第2回9・29反中共デー決議》


 昭和47年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」が北京において発表された。昭和53年8月12日には 「日本国と中華人民共和国との平和友好条約」が署名された。あの日から今日までの年月を振り返り、我が国と中共との関係が友好的だったとは言えまい。しかし、昨年は日中国交正常化30周年と呼ばれ、お祭り騒ぎの中で多くの政治家・経済人・芸能人などが恥知らずにも北京に朝貢して来た。さらに今年は日中平和友好条約25周年との事で、当時の総理大臣の子息である官房長官をはじめ総理大臣経験者などが、またしても朝貢外交を繰り返して来た。
 我が国と中共との関係のどこが、正常と呼べるのか。靖国神社、歴史教科書、尖閣諸島、そして昨年には我が国総領事館への侵入など、中共による主権侵害や内政干渉が繰り返えされている。さらに中共は、我が国からODAや円借款などの経済援助を受けながら、軍備を増強し、我が国はじめ周辺諸国に軍事的脅威を与えている。我々国民の貴重なる血税によって、我が国の安全を脅かそうとする中共は許せないのは勿論だが、それ以上に売国的かつ亡国的政策を継続する我が国政府および外務省には激しい怒りを感じる。
 共産主義国家との友好なぞ断じて存在しない。大亜細亜主義の理念を受け継ぐ我々は、支那に対する憎悪も敵愾心もなく、真の友好を望む者である。それ故、共産主義国家である中共との友好は断じて拒否する。真の日中友好とは、中国共産党による圧制から支那人民が解放され、新しい国家が誕生した後にのみ可能なのだ。
 9月29日は日中国交正常化を祝う日ではない。中共との国交断絶を願い、闘いを誓う日である。我々は、日本国政府の代表である内閣総理大臣に対して、次の要求を申し入れる。

一、中華人民共和国との国交を断絶する事

 そして、この目的が実現するまで、我が国の主権と安全を守る為、
 1.靖国神社に正々堂々と参拝する事
 2.国立戦歿者追悼施設建設の計画を中止する事
 3.尖閣諸島の防衛に全力を尽くす事
 4.6カ国協議が再び開催された際は、中共の策謀に惑わされる事なく、北朝鮮に対して、拉致事件の謝罪と解決を確約させ、ただちに実現させる事。
 5.教科書検定における「近隣諸国条項」を撤廃する事
 6.中共へのODAなど全ての経済協力を中止する事
 7.アジア大洋州局の廃止など外務省の解体的改革を行なう事
 8.チャイナ・スクールをはじめとする売国的公務員を追放する事
以上の8点を速やかに実行する事を要求する。
 日中国交正常化30周年と呼ばれた昨年に引き続き、日中平和友好条約25周年の今年、我々は「9・29反中共デー」闘争を良識ある同胞諸君とともに闘う覚悟である。
 我々は、勝利の日を目指して起ち上がり、最後まで闘う事を宣言し、決議する。

  平成15年9月29日

       第2回9・29反中共デー


× × × × ×


《第2回9・29反中共デーのシュプレヒコール》


日中国交を断絶せよ!
              断絶せよ!

日中国交断絶を勝ち取るぞ!
             勝ち取るぞ!

中共との国交を断絶するぞ!
             断絶するぞ!

日本の国益を害する売国奴を許さないぞ!
             許さないぞ!

中共の手先・外務省を解体するぞ!
             解体するぞ!

共産中国の内政干渉を阻止するぞ!
             阻止するぞ!

中国共産党の野望を粉砕するぞ!
             粉砕するぞ!

共産主義を打倒するぞ!
             打倒するぞ!

共産国家との友好を認めないぞ!
             認めないぞ!

我々は中華思想と闘うぞ!
               闘うぞ!

我々は中華覇権主義に勝利するぞ!
             勝利するぞ!

日中!
                断交!

中共!
                粉砕!


× × × × ×


以上の文章は、9・29反中共デー共闘委員会によって発表されたものである。この闘争を紹介するため、ここに掲載させていただいた。


《街宣活動についてのご提言》


 同志各位におかれましては、国家民族の為、日夜東奔西走の愛国運動への挺身、誠にありがとうこざいます。さて、過日、街宣活動について、若干気がついた点がありました。出過ぎたことですが、ご提言申し上げます。


【提言】

一、皇居および東宮御所周辺でのマイクならびスピーカーの自粛

一、靖國神社境内で駐停車中のエンジンの停止

一、靖國神社境内および周辺でのマイクならびスピーカーの自粛


【理由】

一、皇居および東宮御所周辺について

 過日、皇居勤労奉仕に参加させていただきました。その際、皇居の真ん中に位置する場所でも、街宣車の音が、かなり大きく聞こえて参りました。聖上のお住まいであられる吹上御苑や宮中三殿の近辺では、より一層大きく聞こえます。当然のことながら、宮中祭祀にも差し障りがあることは明白なことと存じます。私たちの運動の根本は「尊皇」にあることは申すまでもありません。「尊皇」あっての「攘夷」であり「討奸」であるはずです。皇居周辺は、皇居の側には高い建物がなく、反対側には高い建物が多くあるため、音が反響してしまうものと存じます。十分気をつけているつもりでも、まだまだご迷惑をおかけしてしまうのが実情です。正義の行動をとっているつもりで、大逆を犯していたのでは、誠に不本意なことです。皇居周辺、特に行幸通り・内堀通り・日比谷通り・晴海通りなどでのマイクおよびスピーカーの使用の自粛をご提言いたします。また、東宮御所も外部の音がかなり入ります。同じく東宮御所周辺、特に青山通り・外苑東通りなどでのマイクおよびスピーカーの使用の自粛も併せてご提言いたします。

一、靖國神社境内および周辺について

 私たちの運動の大きな目標の一つに「靖國神社の国家護持」ということがあります。祖国のために尊い生命を犠牲にされた英霊に感謝の真心を捧げるのは、日本人として当然のことです。同志各位におかれましても、英霊に感謝申し上げるため、靖國神社をはじめ各地の護国神社に参拝されていることと存じます。過日、靖國神社に参拝して気づいたことを申し上げます。私たちの運動では街宣車を使用することが多いため、靖國神社に集合することが多々あります。靖國神社の境内は神域であり、駐車場ではありません。戦いに出陣する前に靖國神社に詣でるという精神は立派なことですが、その際に誤った行為をすると、靖國の英霊を冒涜することになりかねません。そこで気づいた点を若干申し上げます。まずはじめに、冷暖房をつけるためなのか、エンジンをかけたまま駐停車している車両があることです。今日はバスやトラックなどのいわゆる雲助稼業ですら、駐停車の際にはエンジンを停車しています。国士を目指す私たちの運動の車両が雲助以下では情けないことです。夏が暑い、冬が寒いといって、靖國神社の大気を汚しては、炎暑や酷寒の中で戦った英霊に申し訳ありません。私も経験がありますが、エンジンをかけた街宣車の列を通り、大鳥居から手水所まで歩くと吐き気がしました。遺族や戦友などご老人の場合はもっと苦しい思いをされるはずです。駐停車中のエンジンの停止をご提言いたします。つぎに、皇居周辺と同じくマイクとスピーカーの使用も考える必要があるのでないでしようか。靖國神社では毎日祭祀が行われています。昇殿参拝すれば分かることですが、街宣車のスピーカーによって、神職の祝詞が妨げられることがあります。境内は駐車場でもなければ、抗議先でもありません。大きなスピーカーを使う必要があるのでしようか。もし、どうしても必要だとすれば、どこか違う場所に集合すべきだと存じます。境内および周辺でのマイクおよびスピーカーの使用の自粛を併せてご提言いたします。


× × × × ×


 この一文は、平成10年7月16日に記し、同志各位に配付したものである。また同じ頃、同じ趣旨の投稿文が『国民新聞』にも掲載された。この件については、同志各位のご賛同とご協力を得て、事態はかなり改善されたものと思う。いつのまにか、このような文章を書いたことすら忘れていた。
 しかし昨今、僕の知らないホームページに、僕の名前で掲載されているとのご指摘をいただき、いささか驚いた。いまだ、このような提言しなければならないものなのか!?と、あらためて考えさせられた。
 またつい先日のことだが、同志たちで語り合った際、皇居や靖国神社の周辺などでの街宣活動について憂慮する意見があった。ほとんどの団体はきちんとした街宣をしているのに、一部の団体の無配慮により、民族派全体が悪く見られているとの危惧である。
 さらに8月15日の靖国神社の出来事を見ると、その思いが強くなった。ここ数年、極左の暴力的な妨害が繰り広げられていることに対して、行動右翼と呼ばれている民族派の有志たちが、環境の保全と事故の防止のため、自主的に警備に当たるようになった。このように、誰に言われるでもなく、全くの自然発生的に御奉公する有志がいる中、またしても靖国神社周辺で大音量で音楽を流す車があった。昇殿参拝をして来た同志に言われたことだが、同じマイクを使用しても、人が話す声は全く聞こえないが、音楽は非常によく聞こえるとのことだった。当日は左翼のデモ隊とぶっかり、糾弾のマイクを使用していた団体もある。これはやむをえないことだろうと、ここでは弁護したい。しかし、左翼と闘う訳でもないのに、靖国神社周辺でマイクを使用するというのは、いかがなものであろう。ましてや、音楽を流すとは…。
 行動右翼のほとんどは、皇居や靖国神社の周辺での街宣に対して、最大限の注意を払っている。一部の勉強不足の人のため、多くの行動右翼の人々が誤解されることは残念である。
 以上のようなことから、あえて今回、再録することにした。ご一考いただければ、幸いに存じる。


《今後の闘争について若干の私見》


【基本問題について】

 我々が挺身している闘争は、右翼運動とか民族派運動とか愛国運動と呼ばれています。しかし、正確に呼ぶならば、維新運動である!と確信します。では、維新運動とは何か。一言で述べれば、國體明徴運動となります。維新とは、尊皇・攘夷・討奸であり、その根本は尊皇、すなわち國體明徴にあります。もっと簡単に申せば
天皇陛下万歳
の一言に尽きます。我々はスサノヲノミコトの末裔として、神風連の精神を仰ぎ、大西郷の道統を受け継ぐ者として、アメリカの半植民地である戦後日本=YPジャパンを打倒しなければなりません。否、それだけではなく、大久保一派の産物である近代国家=立憲国家から超克し、祭政一致の祭祠国家を復興する大使命があります。西郷隆盛―頭山満―内田良平という志士の魂を継承する我々は、「生命も要らず名も要らず官位も金も望まざる者」として、神国日本の復興の為、敬神尊皇崇祖という原点に立ち返るべきなのです。


【中共との関係について】

 中共=共産支那=赤色支那は、現在の我が国にとって緊迫している最大最凶の敵国です。中共との闘争を考える時、9・29反中共デーを抜きにしては語れません。毎年9月29日に開催している蹶起集会と示威行進も、今年で3回目となります。今までは「9・29反中共デー」の旗の下、「日中国交断絶」と「打倒中国共産党」という主張がありました。今年は「まもれ!尖閣諸島」と「中華覇権主義排撃」という新しい主張も加わります。侵略国家である支那は、赤だろうが、白だろうが、我が国の敵国です。これからも日中国交断絶を目指して、闘って参りましょう。


【台湾との関係について】

 支那は赤だろうが、白だろうが、我が国の敵国です。ならば、白色支那=中華民国は、明確なる敵国です。アジアの裏切り者であり、米英の走狗である蒋介石に侵略され、現在も占領されている台湾の現状には同情すべきでしょう。しかし、台湾の独立を唱えて大総統となった陳水扁が、尖閣諸島を中華民国の領土として登記した事実は、断じて許せません。陳は蒋と同じく、東洋平和の敵です。また、新任の台北経済文化代表処の代表である許世楷(駐日大使に相当)も「尖閣諸島は台湾である」との妄言を行ないました。中華思想に汚染されている台湾人の姿には哀れさを感じます。神聖なる我が領土を侵略しょうと企む台湾=中華民国は、残念ながら、我が国の敵国です。


【北朝鮮との関係について】

 拉致被害者の家族が帰国した事により、政府は日朝国交正常化?を何としても実現しょうと企んでいます。7月21日の日韓首脳会談後の記者会見でも、我が国の総理大臣は日朝国交正常化?について述べています。拉致問題はまだ全然解決していません。また、仮に拉致問題が全面的かつ完全に解決しても、反日共産国家である北朝鮮との国交を樹立すべきではありません。ましてや、我が国が朝鮮を統治してやった善意を否定する日朝ヘイジョウ宣言に基づく日朝国交正常化?は断固として粉砕すべきです。


【韓国との関係について】

 来年は韓国との国交が正常化?されてから40周年の年です。今、日本では韓国ブームです。ワールドカップの際の馬鹿騒ぎが落ち着かないうちに、『冬のソナタ』に代表される韓流ブームとの疫病が蔓延しています。TBSが日韓国交正常化40周年記念ドラマとして、竹内結子とチョウ某による『メモリー』(仮)という不敬ドラマを製作する云々という騒動がありましたが、マスコミの動向には注意が必要な状況です。我が国の売国奴総理大臣が韓国を訪問して、韓国の左翼大統領とも会談していますが、韓国との友好なぞ絶対にありません。韓国は敵国であり、朝鮮民族は敵民族です。かつて、我が国が寛大な心によって、卑怯下劣な朝鮮を併合し救済してやった大恩を忘れて、いまだ我が国に挑戦しています。戦後、リ某とかボク某とかの反共政権がありましたが、韓国の実態は反日反共国家でした。しかし、キン某とかロ某とかの左翼政権の出現により、韓国は反日容共国家となりました。その上、愚劣なる韓国は、反日法を制定し、戦前の比較的良識派の韓国人を裁こうとしています。このような国家との国交は断絶すべきです。


【ロシアとの関係について】

 来年(平成17年)は日露戦争の勝利(明治38年)から百周年の記念すべき年です。記念行事を挙行すべき記念日は、講和条約調印の日(9月5日)と「講和に関する詔勅」が換発された日(10月16日)があります。しかし、世論の流れは日露戦勝100年から、日露国交150年としようとしています。すなわち、栄光のポーツマス条約ではなく、屈辱の日露和親条約(下田条約/安政元年・西暦1855年10月)からの記念の年としようと企んでいるのが現状と言えます。今年と来年は、対ロシア闘争にとって、正念場の年となります。しかし、我が国の総理大臣はロシアとの平和友好条約を締結しようとたくらんでいます。先に北方領土を視察しましたが、その際、北方領土の帰属が解決すれば返還の時期には拘らない云々と発言しています。今年だか来年だかには、ロシア大統領が訪日します。民族の怒りを叩きつける機会といたしましょう。


【アメリカとの関係について】

 アメリカの走狗である小泉政権、否、アメリカの半植民地であるYPジャパンの商法支配所にすぎないコイズミ政権により、自衛隊のイラク派兵が断行されました。イラク侵略戦争への参戦には、我が陣営において、その是非が分かれるところです。しかし、忠良なる皇国臣民である我々としては、勇武なる自衛隊の武運長久を祈るべきだと信じます。使命的には対米報復戦争を行ない、勝利すべきなのでしょうが、世界情勢や国際政治を考える時、現状では対米報復戦争は夢想に過ぎません。しかし、戦後保守反共勢力の売国奴どものように、アメリカに隷属したままというのは、絶対に許されません。共産主義のみが敵で、資本主義は味方なのでしょうか。絶対に違います。資本主義も共産主義と同じく唯物主義思想であり、我々にとっては唾棄すべき悪魔思想なのです。拝金唯物主義キリスト教侵略人工国家アメリカは、我が国が、近未来に展開される人類最終戦争において戦い、勝利し、殲滅しなければならない悪魔なのです。


【今後の運動の展開について】

 これからの闘争や運動において、統一された組織や統合された運動は必要ないと存じます。必要なのは、同じ価値観だけです。別の言い方をすれば、情報の共有ではないでしょうか。いつ?どこで?どんな?運動をすべきなのか。方法=手段は各人各様です。しかし、目的は一つであるべきです。戦法や戦術はバラバラであっても、共有する情報に基づく戦略は共通していなければ、敵には勝てません。巨大な戦略を共有する為にも、情報の交流は不可欠なものです。運動論や組織論の相違はあっても、情報さえ共有出来れば、大きな意味での連帯は可能だと信じます。維新の志を同じくする青年有志の超党派の集まりがありますが、今後は戦略と情報を共有する為の交流場としての役割が大きくなると存じます。さらに言えば「戦略情報連絡会」といったものを設ける必要があるのかも知れません。また今日、警察をはじめとする権力による不当な弾圧が続発しています。不本意ながら、我々も権力への対抗手段を検討しなければならない事態となりました。「救援対策委員会」や「司法闘争対策委員会」といったものが必要な時代になったのでしょうか。しかし、どのような状況に陥ろうとも、我々の行く道は一筋である!と確信します。日柳燕石の『娑婆歌』にあるように「尊皇尊皇また尊皇」 「攘夷攘夷また攘夷」「報国報国また報国」しかありません。大西郷の道統を受け継ぐ者として、「生命も要らず名も要らず官位も金も望まざる者」として、粉骨砕身頑張って参りましょう。


× × × × ×


 以上、暴論極論かも知れない生意気な駄文を綴ってみた。この駄文は、平成16年7月22日に同志各位に配付したものである。このたび公開するに当たり、削除や加筆など若干の修正を行なった。
 内容が、我が国と外国との関係に偏り、憲法・国防・教育・外交などの国内問題については述べられていないのは、僕自身の勉強不足によるものと反省している。特に、靖国神社に代わる国立戦歿者追悼施設の建設をはじめ外国人参政権・教育基本法の改正などで、反日反動の暗躍を繰り広げる公明党、そしてその黒幕である婬宗邪教の創価学会についても述べられていない。この点も、おおいに反省している。
 以上の点については、近々に改めて一文を書き上げたいと思っている。取り急ぎ、配付したものを改訂したもののみを発表する。


《鳴呼無名烈士》


◎無名烈士の自決

 今から80年前、大正13年5月31日、一人の名もない男が、アメリカの暴挙に抗議する為、自らの命を絶った。その日の早朝、東京赤坂のアメリカ大使館脇の焼け跡(井上子爵邸)で、一人の男が割腹腹自決をした。無名烈士の自決である。名もない、すなわち無名というのは、有名ではない、高名ではない、という意味などではない。成人男子という以外は、その氏名をはじめとする全てが不明な人物なのである。
 大正13年(西暦1924年)4月中旬、「1924年移民法」が、アメリカ連邦議会上院下院を通過した。この法律は、「排日移民法」と呼ばれ、日本人の移民入国を制限する人種差別法であった。5月15日、この法律は下院でも上院でも可決され、翌日には大統領に送付された。そして、5月26日、大統領の署名によって、この排日移民法は成立した。
 この法律には「合衆国市民となる資格なき外国人は一定の除外例中に入るものの外全て入国する事を許さず」とある。この法律の成立に先立ち、大正11年(西暦1922年)11月13日、アメリカ大審院は「日本人は帰化不能な外国人である」との判決を下している。これらにより、日本人の移民は禁止されたのである。この法律は日本人の排除を目的とするものであり、排日移民法と称されている。無名烈士は、この差別的な法律に抗議して、自決されたのである。
 赤坂表町警察署に宛てた書面には「一般氏名不詳の自殺者として死体取捨相願度」とあった。その為、行き倒れの旅人などと同じく、遺体は赤坂にある圓通寺に置かれ、埋葬の手続きが行なわれた。しかし、その時、志ある人々により、無名烈士の義挙は知られる事になった。
 当時、アメリカの反日的かつ侮日的な政策に憤り、頭山満翁を中心とする対米問題の国民運動が巻き起こっていた。6月7日、貴族院や衆議院の議員や民間の有志ら370余名を発起人として、両国の国技館において対米問題国民大会が開催された。この大会には5万人という人々が参加した。その宣言には 「吾人ハ正義公道ニ立脚シテ飽クマデ米国ノ反省ヲ促シ帝国ノ威信ヲ保持センコトヲ期ス」とあり、決議には「米国ノ排日法ニ対シ絶対之ニ反対スルコト」とある。そして、この大会において、一、対米抗議の決議、一、国民対米会の組織、一、無名烈士の国民弔祭会の執行が決議された。
 翌日の8日、頭山翁をはじめ内田良平先生と田中弘之先生が発起人となり、青山斎場において、無名烈士国民弔祭会が斎行された。導師は圓通寺の住職である中里日昭師がつとめた。当日の参列者は3万人とも言われている。葬儀の後、無名烈士の遺体は、現在の青山霊園に埋葬された。「鳴呼無名烈士墓」の字は頭山翁が揮毫され、撰文は内田先生が書かれた。なお、無名烈士の戒名は「雄心院義膽日忠居士」とつけられた。


◎無名烈士の遺書

 無名烈士の志を述べた遺書は、封筒の表には「サイラス・イ・ウイッヅ閣下ヲ通ジテ亜米利加合衆国国民諸君ノ同情ニ訴フ」と、裏には「大日本帝国無名ノ一臣民」とある。その遺書は、次の通りである。
× × × × ×
最モ能ク日本ヲ了解セラレテ深ク厚ク日本ニ同情ヲ寄セラレタル米国大使サイラス・イ・ウッヅ閣下ノ帰国ニ托シテ全米国ノ反省ヲ望ムタメ死ヲ以テ切願ス大使閣下諒セラレン事ヲ祈ル
米国民ノ反省ヲ望ム要件左ニ
一 新移民法カラ排日条項ヲ削除スル法案ヲ決議セラレン事ヲ
理由
予ガ死ヲ以テ排日条項ノ削除ヲ求ムルモノハ貴国ガ常ニ人道上ノ立場ヨリ平和ヲ愛好唱導セラレ平和ノ指導者トシテ世界ニ重キヲ思ハシメツツアル貴国ガ率先シテ排日法案ノ如キ人道ヲ無視シタ決議ヲ両院通過シテ法律トナルガ如キハ実ニ以外ノ感ニ耐ヘザルナリ
人類生存上憤怒スル場合種々アルモ耻辱ヲ与ヘラレタル憤怒ハ耐ヘ難キモノナリ耻シメラレルベキ事情アリテ耻シメラル大ヒニ悔ヒ忍バザルベカラズ故ヘナクシテ耻シメラル憤怒セザラント慾スルモ耐ヘ難キナリ
予ハ日本人ナリ今マ将ニ列国環視ノ前ニ於テ貴国ノ為メニ耻シメラル故ヘナクシテ耻シメラル(故ヘナリト言ハバ故ヘハ貴国ノ故ヘナリ)生キテ永ク貴国人ニ怨ヲ含ムヨリ死シテ貴国ヨリ伝ヘラレタル博愛ノ教義ヲ研究シ聖基督ノ批判ヲ仰ギ併セテ聖基督ニヨリ貴国人民ノ反省ヲ求メ尚ホ一層幸福増進ヲ祈ルト共ニ我日本人ノ耻シメラレタル新移民法ヨリ排日条項ノ削除セラレン事ヲ祈ラントスルニアリ
大日本帝国
無名ノ一民
サイランス・イ・ウッヅ閣下ヲ通ジテ
亜米利加合衆国国民諸君
× × × × ×
 なお、内田良平先生の歌集『黒龍潤人歌集』の中には、大正13年の4月30日から7月14日までの間の作に「対米問題」と題する歌がある。

之れをしも忍ぶべきやは国の恥そそがで止まぬ大和魂

これは無名烈士に対する歌であろうか。


◎アメリカの反日政策

 アメリカが反日政策を進めるようになったのは、大東亜戦争の開戦直前からではない。また、無名烈士が自決された大正13年頃からでもない。アメリカが真剣に日本を脅威と考えるようになったのは、日露戦争からである。しかも、日本が日露戦争に勝利してからではない。戦争の途中からである。親日派の大統領として「日露戦争の恩人」とも思われているセオドア・ルーズベルトの時代から、アメリカは日本を仮想敵国として、戦争計画を立案していたのである。有名な「オレンジ・プラン」が、それだ。
 ルーズベルトは、アルフレッド・セアー・マハンの大海軍思想、すなわちアメリカ式富国強兵論を信奉していた。国家を隆盛させる為には貿易を!その貿易を守る為には強大な海軍を!である。この考えは、今でも同じだろう。国家の隆盛の為には強大な経済力を!経済を守る為には強力な軍事力を!となる。ルーズベルト以来アメリカは、太平洋へ積極的に向って行った。もちろん、それ以前にもペリー来航もあり、ハワイ併合もあった。
 だが、ルーズベルト以降のアメリカは、その覇権を大西洋にではなく、太平洋に求めて来たのだ。太平洋の彼方には何があるのか。それは「海の彼方にぁ支那がある」である。巨大な獲物である支那があるからこそ、アメリカは、大西洋ではなく、太平洋に覇権を求めたのである。ルーズベルトが西暦1905年6月17日に友人に宛てた手紙の中に「アメリカの将来は、ヨーロツパと相対する大西洋上のアメリカの地位によってに非ず、支那と相対する太平洋上の地位によって定まるのだ」と記している。アメリカは支那や満蒙での権益を得る為、太平洋への野望を強くして行ったのである。
 地図を見れば、すぐ分かる事だが、アメリカが太平洋の彼方にある支那を目指した時、この二つの大陸の間に何が存在するのか。それは、日本である。日露戦争において、世界最強の陸軍国ロシアを撃ち破った日本である。しかも、単に大陸で勝った陸軍のみではない。強大なバルチック艦隊を有史以来の大勝で撃滅した海軍、無謀とも言える大戦争を継続出来た経済。また、これらを支えた国民の力。そして何と言っても、これら全ての根源となった明治天皇の御稜威。日本は、ペリーが来航した時のような極東の未開の小国ではなく、アジア及び太平洋における強国となったのである。さらに、第一次世界大戦の勝利により、我が国は益々盤石の地位を確立した。この強国日本が、太平洋に存在し、支那や満蒙に勢力を持っているだ。
 日露戦争から、この排日移民法制定まで20年。ルーズベルト、タフト、ウィルソン、ハーデイング、クーリッジと、アメリカの大統領は交代すれど、アメリカの太平洋政策は一貫して行った。太平洋制覇、さらに東亜侵略を企むアメリカが、日本を敵視し恐れるのは、許し難い事ではあるが、当然の事であろう。日米対決に向って、アメリカは着々と日本人排除を進めて行ったのだ。大川周明博士が『米英東亜侵略史』で述べているように、我が国とアメリカが衝突する事は、アメリカの侵略政策がある限り、回避する事は出来ない事であった。
 しかし、このような天地人ともに許し難いアメリカの反日政策に対しても、無名烈士は至誠を以て訴えたのである。鬼畜のごときアメリカに、彼の正義と良心を信じて、命を捨てて。


◎無名烈士八十年忌法要

 6月8日の午後、無名烈士の八十年忌の法要が、赤坂の圓通寺において、頭山満翁の令孫である興助氏を施主とし、挙行された。代表呼び掛け人には、不二歌道会の神屋二郎代表をはじめ中村武彦・北上清五郎・山口申の各氏が名を連ねた。
 午前には、施主をはじめとする関係者により、烈士の墓への詣でた。烈士の墓は、大東塾本部の近くにある青山霊園の一角に、堂々と聳えるかのごとく、建立されている。墓は清掃されており、花がたむられていた。詣でた全員が線香を捧げて、お参りした後、施主が挨拶を行ない、記念写真を撮った。その後、全員が赤坂へ向った。
 烈士の法要が行なわれた圓通寺は日蓮宗の寺院で、烈士の葬儀の際に当時の住職が導師をつとめた縁から、以後の法要もこの寺で行なわれるようになった。
 法要に先立って、中村武彦氏が檄とも言える激しく厳しい挨拶を行ない、その後、導師が入場して法要が始まった。読経の後、参列者全員が焼香を行ない、導師が退場した後、北上清五郎氏が挨拶を行なった。最後に頭山興助氏が施主挨拶を行なって、法要は終了した。100名程の法要であったが、その今日における意義は極めて大きい。
 アメリカの51番目の州を目指す「戦後日本」政府、というよりも、YPジヤパンの商法支配所に過ぎない小泉内閣は、アメリカの中東侵略の走狗として、イラクへ派兵した自衛隊を多国籍軍に参加させる事を決定した。イラク戦争を境にして、我が国では親米か反米かの論争が沸き起こり、今日でも続いている。アメリカに追従して行く事が我が国の国益に適うのだ!と、与党の政治家や保守系タカ派の御用学者のセンセーたちがのたまう。逆に、反米こそが大義である!と、アメリカに反対する為には北朝鮮とも手を組もうとする左右の愚か者もいる。親米派も反米派も、その根本には日本がない。まさしく親米的売国奴と反米的売国奴がいるのみである。この破滅的かつ危機的な今こそ、我々は無名烈士の精神に立ち返るべきである。
 生命もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、と。ここまでなら、まだまだ覚悟出来る大和男子はいるだろう。しかし、名こそ惜しめや男子なら!と、覚悟を決める事は出来ても、名すら惜しむな男子なら!となると、どうだろう。はたして、何人が覚悟を決める事が出来るだろうか。
 無名烈士の生き様死に様は、内田良平先生の「憂国志士」にあるやうに「弔ふものは泣く虫の声より外に亡き後も不滅の精神皇国守る」そのものである。
 無名烈士こそ、大西郷の言う「生命も要らず名も要らず官位も金も望まざる者」なのである。


× × × × ×


 カタールの衛星テレビ「アルジヤジーラ」が、無名烈士八十年忌法要の取材に来た。イラクの報道などで有名になったメデイアである。東京支局長のレスラズイ・エルモスタフア氏は十五年程前にジヤーナリストとして来日し、我が国の大学で学んだり、教えたりという経験を持つ。博士論文が「内田良平」というだけあり、玄洋社や黒龍会に詳しい。頭山満翁や大川周明博士に対する知識もある。欧米を経由せず、日本をアラブに、アラブを日本に伝える志を抱いている。我々とアラブ社会やイスラム世界の掛け橋となる事を期待したい。


 最後に、参考として、無名烈士八十年忌法要関係者の氏名を記しておく。

【施主】
頭山興助

【代表呼び掛け人】
中村武彦
北上清五郎
神屋二郎
山口申

【呼び掛け人】
石山仁
伊藤好雄
犬塚哲爾
大場俊賢
小田内陽太
木村三浩
四宮正貴
杉山清一
蜷川正大
廣瀬義道
藤本隆之
三澤浩一
南丘喜八郎
山浦嘉久


(『不二』平成16年7月号に掲載されたものを転載いたしました)


《イラク人質騒動に思う》

 イラクにおいて、日本人がイラクの匪賊に拘束される事件が起こった。被害者は、ジャーナリストだとかボランティアだとか、うさん臭い輩である。3人組と2人組の合計2組5人だ。数日後には全員が解放されて、一応この事件は解決した。
 彼等が拘束されている時、特に先に拘束された3人の安否が危惧された時、その家族が取り乱したのか、信念に基づいたのか、非常にバカ丸出しの言動を繰り広げた。左翼的というのか、反政府的というのか、我が国やアメリカを非難したり、自衛隊のイラクからの撤退を求めたり、と。これには、さすがの腰抜け宰相コネヅミ君も不快感を丸出しにした。さらには、政府や与党のお偉いさんから、人質や家族に対する批判が噴出した。
 「自己責任」だという。なるほど、危険を承知で行くのだから、自分の責任で全て行なえ!というのだ。これは一見もっともな意見だ!と納得してしまう人もいるだろう。だが、この意見は、いや、政府や与党の態度は、断じて許し難いものである。評論家やマスコミなどならば良い。しかし、政府や与党が、少なくとも政府がいうべき言葉ではない。
 今回の事件、拘束されたのが誰なのか?どういう人物なのか?は、問題ではない。僕は、この人質となった5人が、どんな人間なのかは知らない。彼等の名前も顔も忘れてしまった。例えばの話だが、人質となった5人が左翼だろうと、非国民だろうと、極端な話だが三国人からの帰化人だろうと、全く関係ない。また、売名行為だろうと、自業自得だろうと、問題ではない。例え、どんな人間だろうと、どんな理由だろうと、人質となった5人が、日本国民であることは、否定できない事実だろう。少なくとも5人は日本国民なのだ。ならば、日本国の政府や国会が、彼等を奪い返すために全力を尽くすのは、当然の責務ではないか。
 今、僕が憤っているのは、人質となった5人やその家族だとか、イラクの匪賊だとかに対してではない。国民を守るという責務を放棄するかの言動を繰り広げた我が国の政府高官どもに、だ。首相は見えないところで力を尽くしたかの如く偉そうに述べていた。政府としての責務を考えれば、自慢することではあるまい。責務を忘れてギャーギャー騒いで醜態を世界に晒してしまうのは、我が敬愛する重信房子率いる日本赤軍の軍門に下った福田赳夫の伝統を受け継ぐ旧福田派(清和会)政権のトラウマによるものだろう。
 もちろんのことだが、人質の家族がほざいたように、イラクの匪賊に屈伏して、自衛隊をイラクから撤退させる必要はない。また、イラクの婬宗邪教の悪魔どもと取引をする必要もない。では、どうすべきか。今こそ、我が国はイスラエルを見習うべきである。腰抜けのアメリカではなく、イスラエルを見習い、敵を殲滅すべきなのだ。同胞を拉致されたら、徹底的に憎むべき犯罪者どもと戦うべきなのである。
 5人の日本人が拉致されたら、50人の自衛隊が全滅しようとも、500人のイラク人を殺そうとも、人質を奪還するために武力行使すべきである。もし、このために5人の人質が虐殺されたならば、報復のため、5000人のイラク人を殺戮すべきである。
 我が国政府は、日本人が拉致された時点で、奪還と報復のためイラクを空爆すると、アメリカに通告し、世界に宣言すべきであった。もし、国際世論を恐れる口先だけのタカ派であるブッシュが反対するならば、その時にはイラク侵略占領連合軍からの脱退を宣言してやれば良い。
 我が同胞一人の生命は、他国民の千人の生命よりも重い。別の言い方をすれば、生命の重さは一緒でも、その価値が違う。金と鉛、ダイヤモンドと石ころ。極論かも知れぬが、どんな状態になろうとも、どんな国民であろうとも、国家や政府は国民を見殺しにしてはならない。一人の国民でも見捨てるような国家に対して、誰が尊い生命を捧げてまで、忠誠を誓うと言うのか。
 国家を守るため、国民が命を捧げること。逆に言えば、国家の独立や主権、尊厳や名誉を守るため、国民を犠牲にするのは、これは当然のことであり、否定はしない。国家のために国民が犠牲になるのは、尊いことであり、これは国民の責務だからだ。
 しかし、今回はそうではあるまい。政府や与党の連中の頭の中には、そもそも国家などあるまい。国家意識のない政治家どもが、国民を見殺しにすることを正当化する妄言をほざく。このことは、断じて許してはならない。天皇の赤子を守ることを放棄した政治家こそ、天地ともに許し難い国賊である。
 人質となった国民を責める前に、愚劣なる政治家どもを糾弾すべきなのである。


《サムライの国の軍隊として》

     ―戦う自衛隊を熱烈激励する―


 平成16年(紀元2664年)は、日露戦争開戦100周年という記念すべき年である。来年を輝ける日露戦争戦勝100年という祝賀の年として迎えられるよう、この新しい1年を激しく戦い抜いて行くことを年頭の誓いとする。
 昨今、武士道が流行っている。NHKの大河番組では、昨年は宮本武蔵、今年は近藤勇を中心とする新撰組を主人公としている。本屋に行けば、武蔵や新撰組ばかりではなく、武士道に関する本もたくさんおいてある。
 武士道が流行っているのは、日本だけではないそうだ。トム・クルーズ主演の「THE LAST SAMURAI」というアメリカ映画が評判になり、カツモトという武士団の頭領を演じた日本人俳優が有力映画賞の助演男優賞の候補となった。武士道、外国から見ればサムライが改めて評価される時代となっているのだろう。だが、悲しいことに現在の我が国において、武士道は天然記念物なみに珍しいものになっている。
 昨年11月、イラクにおいて、我が国の外交官二人が匪賊の銃弾によって斃れた。明治の御代以来、売国奴の巣窟である外務省にあって、この二人は数少ない有為な人材であったという。この彼らが非業の死を遂げたことには、深い悲しみを覚える。しかし、だからと言って、外務省が犯して来た数々の売国かつ利敵犯罪は、断じて許されるものではない。また、二人の死によって、愚劣かつ卑怯な総理大臣の対米隷属政策が正当化されるものでもない。
 二人が殺された直後、イラクに赴くはずだった総理大臣補佐官は、何だかんだと言い訳を述べて、イラクを避けてしまった。二人の遺体を迎えに行った外務省の政務官は、遺体の搬送をアメリカ軍に依頼し、自らは隣国に退避しながら、遺体の到着を待っていた。外交官が戦地で殺され、これから自衛隊が戦地に赴こうという重大な局面での政府高官の体たらくは何だ。まさしく、これは敵前逃亡である。政府はテロに怯え、テロに屈してしまったのだ。
 対イラク戦争は物語風に言えば、荒野の強盗と砂漠の盗賊の戦いである。何故、こんな大義なき戦争に、我が国は参戦して、大切な自衛隊を派兵するのか。政府のおエライさんや御用学者のセンセーたちは「国益のためだ」と言うが、対イラク戦争に参戦する理由は一つしかない。アメリカの命令だからだ。
 戦後の日本国は、正確な意味での独立国ではない。日米同盟と言えば聞こえはいいが、日本とアメリカとの関係は家康と信長との関係と同じで、同盟という名の臣従に過ぎない。この現状が悔しかったら、アメリカから独立するしかない。そのためにも、憲法を正して、皇軍を再建し、核武装をすべきなのだ。政府は国民に対して、アメリカ隷属か、核武装独立か、問い掛けるべきなのだ。YPジャパンの商法支配所と堕落している戦後日本政府に、そんな期待をするだけ無理なのだろうが。
 今、自衛隊は、そんな政府の命令によって、イラクへ派兵されることが決定した。アメリカに隷属している政府や与党は自衛隊の派兵を進め、平和ボケした野党や世論は派兵に反対している。右翼民族派と呼ばれる我が陣営においても、自衛隊の派兵には賛否両論があるだろう。
 しかし、派兵に賛成反対の別があろうとも、日本人・日本民族・日本国民である以上、自衛隊の戦地での行動を絶対に支持しなければならない。戦争や同盟国の是非を問わず、自衛隊の活躍を願うべきである。大東亜戦争の時、同盟国のドイツやイタリア、そして東絛内閣に対する反発はあろうとも、我々維新陣営の先人たちは、一人の日本人としての赤心から、戦地で戦う帝国陸海軍の勝利を祈った。自衛隊が戦地に赴く今、自衛隊の存在を否定する者だろうと、自衛隊のイラク派兵に反対する者だろうと、戦地における自衛隊の行動を支持しない者は国賊である。日本人ならば、至純の真心を以て、自衛隊の武運を祈る義務がある。
 対イラク戦争に参戦しながらも、政府はテロとの戦いへの支持だと詭弁を弄して来た。アメリカに資金を提供することは、戦費の拠出であり、戦争に参加することを意味している。自衛隊がイラクへ行く以前に、すでに我が国は参戦していた。今、イラクに対する人道復興支援に参加すると言っているが、これはアメリカによるイラク占領に参加することである。戦闘があろうがなかろうが、占領されているイラクは戦地なのである。戦闘は停止していても、戦争はまだ終わっていないのだ。政府は対イラク戦争に参戦していること、イラク占領に協力することを正々堂々と宣言すべきである。
 総理大臣は「戦争に行くのではない」「戦闘には参加しない」「武力行使はしない」と戯言を繰り返している。この愚かな発言は、戦地における自衛隊の行動を制約するものである。「イラクにおける出来事の責任は、自衛隊最高指揮官である自分が全て取る。現地の自衛隊は思う存分活動せよ」と、総理大臣は何故言えぬのか。
 一昨年、総理大臣が北朝鮮を訪問し、北朝鮮が日本人拉致を認めて謝罪?をした。以来、我が国にもナショナリズムらしきものが沸き上がった。昨年の外交官射殺により、その感情は強くなりつつある。だが、まだまだ健全なナショナリズムとは言えない。両者とも我が国が犠牲者や被害者になった上でのナショナリズムだ。戦歿者を悼む気持ちも同じだろう。
 英霊となった同胞を追悼する気持ちは尊い。だが、英雄となった同胞を讃仰する気持ちは、より尊いと信じる。今の我が国は英霊ナショナリズムだけで、英雄ナショナリズムがない。犠牲者や被害者に対する無礼な言い方で恐縮だが、英霊ナショナリズムは敗者のナショナリズムである。死ぬか!殺すか!の戦場とも呼べる国際社会においては、英雄ナショナリズムこそ勝者のナショナリズムである。
 自衛隊がイラクにおいて戦死した場合、政府も世論も国際貢献に殉じた英霊と称えるだろう。だが、自衛隊がゲリラを殺した時、国内の声はどうなるだろうか。自衛隊を非難する声が出て来るのではないか。戦地に行く自衛隊に対して「死ぬな、殺すな」と言う愚か者が今でもいる。戦場において「殺すな」は「死ね」と同意語である。「死ぬな」と願うならば「殺せ」と勧めるべきである。
 自衛隊は何のためらいもなく、敵を殺すべきである。相手が実は敵ではなく、誤認であっても、その場では一瞬の躊躇なく、引き金を引くべきなのだ。相手が女子供であろうと、殲滅すべきなのだ。一瞬のためらいのため、数名のゲリラによって、部隊が全滅させられでもしたら、それこそ取り返しがつかない。最後の責任は、総理大臣が取るべきなのだから、敵を殺すことをためらう必要はない。
 自衛隊がサムライの国の軍隊として、イラクで獅子奮迅の活躍をし、輝かしい武勲を重ねることを祈ってやまない。今こそ、精強なる自衛隊の実力をアメリカやイラクに見せつけてやる好機である。我々は何があろうとも、自衛隊を断固として支持し、激励する。絶対に、完全に、かつ熱烈に、である。
 アメリカは日本を舐めて、「THE LAST SAMURAI」という映画を作った。カツモトという武士は、大西郷がモデルだという。新聞の広告には「勝元―誰よりも誇り高く、強く、」とあり「真っ直ぐに時代を生きた男。日本人の中に脈々と息づき、今なおそのDNAを熱く刺激するサムライ・スピリットを体現するその男の生き様に、いま世界が魅せられ、圧倒されている」とあった。
 サムライは、大西郷がラストではない。サムライは、武士道は終わった訳ではない。自衛隊が戦うことによって、日本のサムライを世界に誇示すべき時なのだ。三島由紀夫による楯の会隊歌「起て若き獅子たち」のごとく、雄々しく、凛々しく、堂々、と。
 最後の武士道ではなく、永遠の武士道、不滅の武士道を。 「THE LAST SAMURAI」ではなく「THE IMMORTAL SAMURAI」を


(『防共新聞』平成16年1月号に掲載されたものを転載いたしました)


《英雄となれ!英霊となるな!》


 平成15年11月29日、イラクの戦地に斃れた奥克彦之命と井ノ上正盛之命の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げる。
 また併せて、イクラへ派兵される自衛隊の諸士の武運長久を祈念申し上げる。

 × × × × ×

◎大義なきイラクの戦場

 平成15年11日29日、イラクの戦場において、我が国の外交官が二人、非業の死を遂げた。売国奴の巣窟である外務省にあって孤軍奮闘していた数少ない有為な人材を失ったことに深い悲しみを覚える。しかし、電光石火に体を貫く激しい怒りは、イラクのゲリラにではなく、無能無策を繰り返す「戦後日本」政府および外務省に対して感じる。
 前号でも述べたが、この対イラク戦争には大義などない。アメリカは対アフガニスタン戦争に続いて、テロとの戦いであると詭弁を弄している。だが、これらの戦争は荒野の無法者が強大な暴力を背景にして、いつのまにか保安官を気取るようになり、己の価値観のみを正義だと押し付けているだけである。
 虐殺や圧制と戦うと言うならば、イスラエルによるパレスチナ侵略をはじめロシアによるチェチェンでの虐殺、中共によるチベット侵略はどうなのか。アフガニスタンやイラクを攻撃するために、アメリカはロシアや中共と悪魔の取引をしているではないか。アメリカにとって都合の悪い国であるイラクをはじめイランや北朝鮮などをテロ支援国家とし、体制崩壊を企てているだけではないのか。
 今、さらにアメリカは中共と結託するため、台湾をも売り渡さうとしている。アメリカ大統領は中共首相との会談で、中共の意向通り、台湾の独立を否定した。また、アメリカとロシアの政権との裏取引が成立したのか、ロシア大統領はロシア石油財閥の弾圧に乗り出した。反体制色を強くしていたロシア石油財閥は、アメリカ石油資本にとっても脅威だった。アメリカ石油資本はアメリカ大統領を支える力であり、ロシア石油財閥の弾圧は願ってもない話だろう。
 アメリカはテロとの戦いという美名の下、アフガニスタンやイラクに攻め入った。だが、ロシアや中共の圧制を容認している。こんなアメリカに正義を説く資格があるのか。侵略者どもは、侵略され抑圧された民族の悲劇を黙殺している。これは、侵略者どもの秩序を守ろうとしているだけではないか。
 アメリカに追従する我が国の現状は情ない限りだが、北朝鮮という悪逆非道な敵国を抱える身としては、アメリカとの軍事同盟は現時点では認めざるを得まい。ならば、このアメリカを利用して、自衛隊の強化を進めるべきである。長州の奇兵隊が戦う中で、帝国陸軍と進化したように、自衛隊が実戦を経験することは、皇軍再建の一歩と捉えたい。

◎テロに屈した「戦後日本」

 二人の外交官の死に対して、政府は如何に報いたのか。奥克彦氏を参事官から大使へ、井ノ上正盛氏を三等書記官から一等書記官へと二階級昇進させた。さらに政府は12月5日の閣議において、亡くなった11月29日付で、奥大使を従四位に叙し、旭日中綬章 (旧勲三等)を授与、また井上書記官を従七位に叙し、旭日双光章(旧勲五等)を授与した。そして12月6日、外務省葬(奥家と井ノ上家との合同葬)を執り行い、総理大臣も出席し、弔辞を述べた。
 だが、二人の遺体を迎えに行ったのは政府専用機ではなく民間機であり、帰国したのは羽田ではなく成田だった。その上、空港には総理大臣の姿はなく、二人の棺をかついだのは自衛隊ではなく千葉県警の儀杖隊という有様だ。また愚かで名高い外務大臣は、自らが葬儀委員長を務める外務省葬の場において、二人に対して「川口賞」なるものを贈呈するなどと、場所柄も弁えない発言を恥知らずにも行う始末である。
 総理大臣は口を開けば「テロに屈するな」「テロには屈しない」などと言い、イラクの戦場に自衛隊を派兵しようとしている。かつて日本赤軍という少数のテロリストの軍門に下った総理大臣の弟子である総理大臣と、息子である官房長官が、二人でヒステリックに喚いている。日本国も日本国民もテロには屈しないし、屈してなるものか。屈しているのは、いつも「戦後日本」政府である。
 今回も「戦後日本」政府はテロに屈伏している。二人が殺された直後、中東に向う総理大臣の補佐官は、訪れるはずだったイラクには入らず、敵前逃亡した。二人の遺体を迎えへに行った外務省の政務官は、イラクには入らず、隣国にて遺体が到着するのを待った。これを敵前逃亡と言わず、何と言うのか。
 文官が戦地で殺され、武官が戦地に派兵される。しかし、高官は安全なところに身を隠し、「テロに屈しない」と戯言を繰り返している。「屈するな」と言っても、もう屈しているではないか。総理大臣の破廉恥な詭弁を聞くと、誠に情なく、涙を禁じ得ない。

◎戦後日本と徳川家康

 アメリカと日本と自衛隊の関係を、物語に例えてみたい。この三者の物語は、言葉は悪いが、親の借金のために売られて行く孝行娘の物語のようである。アメリカという因業爺から面倒を見てもらっていた「戦後日本」政府という下劣な親が、爺の命令により、自衛隊という孝行娘を妾に差し出すという話だ。けなげな娘は親を恨むことなく、親孝行のためだと言って、涙を隠し、笑いながら、ヒヒ爺の慰め物に落ちて行く。この爺と親を軽蔑し憎悪する。また、娘には同情するとともに、その孝には敬意を表したい。
 しかし、こんな物語で良いのか。これから、我々がすべきは何か。この物語を全く違う物語にしなければならない。親孝行の娘のお涙頂戴の話では駄目だ。戦乱の世を勝ち抜く英雄の物語とするのだ。そこで、日本を徳川家康に例えたい。ここでは、家康という人物の是非を敢えて論じない。祖国日本を覇王家康と重ねることに不快の人もいるだろう。だが、家康こそ戦国乱世を制した最終かつ最強の勝利者である。
 日本を家康と徳川家(松平家)とすれば、自衛隊は三河武士団、そしてアメリカは魔王織田信長となる。家康は幼少時、今川家へ人質として囚われ、三河武士団は戦場において危険な場所を担当させられた。徳川家のためではなく、今川家のために。連合国による占領時代は、今川義元の下での人質時代と同じである。言わば義元はGHQである。
 信長との同盟というが、アメリカと日本との関係と同じく、家康は信長に臣従させられていた。家康の周辺には今川亡き後も、武田・上杉・北条という強敵たちがいる。遠隔地には、毛利・島津・伊達・長宗我部らがいる。ついで言うならば、無能無力な国連は足利幕府そのものではないか。まさに家康こそ現在の日本の姿なのだ。
 最強の信長との同盟があろうとも、家康に平和はない。まだまだ戦乱の世は続いているのだ。そして、またしても三河武士団は徳川家のためではなく、織田家のため、戦場を駆け回った。その上、信長は家康に「正室と嫡男を殺せ」という堪え難い残虐な命令を出した。力なきものは、正義があるなしに限らず、力あるものに従わねばならない。戦乱の世は力だけが正義なのであり、弱者は悲惨である。家康は徳川家を守るため、愛する家族すらを殺さざるを得なかった。
 信長が謀反によって殺されたかと思えば、天下は豊臣秀吉のものとなった。かつての同盟相手の家来である。その格下の相手に臣従しなければならない。新しい屈辱の日々である。信長とは息子と娘が夫婦、秀吉とは義理の兄弟となったが、その実態は家来そのものだ。さらに、父祖伝来の三河の地を追われ、未知の関東に封ぜられた。しかし、家康と三河武士団は、この忍従の時代、確実に力をつけて行った。そして、秀吉亡き後、天下の覇者となったのだ。
 イラクへ赴く自衛隊の諸士は、信長(アメリカ)の命令により、出陣する三河武士団である。大義などない無益な戦さだが、家康 (日本)が戦乱を勝ち抜くため、乱世を生き抜くため、是非を論ぜずに戦わねばならぬ戦さなのだ。今すべきは「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ」アメリカの圧力とこの戦争を皇軍再建へ利用することである。アメリカという信長が倒れた後、秀吉が出て来るだろう。それがロシアなのか、中共なのか、わからない。しかし、「確ク神州ノ不滅ヲ信ジ任重クシテ道遠キヲ念ヒ」戦国乱世の中、勝利の日まで戦い抜いて行かねばならない。

◎英霊ナショナリズムと英雄ナショナリズム

 大東亜戦争敗北の後、我が国には所謂ナショナリズムというものがなかった。政府は政府と呼べる代物ではなく、西郷南洲翁の言う商法支配所と堕落してしまった。それも日本国のではなく、アメリカの半植民地であるYPジャパンの商法支配所に、である。平成14年9月17日、総理大臣が北朝鮮を訪れ、日朝首脳会談を実現した。その際、北朝鮮が日本人の拉致を認めて謝罪した。その時から、拉致を許さないという素朴な国民の怒りから、我が国においてもナショナリズムらしきものが沸き上がって来た。
 所謂「従軍?」慰安婦、所謂「南京事件」、新しい歴史教科書、憲法を見直そう、という動きなど、戦後の我が国を呪縛していた東京裁判史観と占領憲法について抵抗する、言わば主権回復の機運が盛り上がっていた時、拉致の事件が脚光を浴びた。拉致被害者家族をはじめとする人々の真摯な戦いが認められたのである。そして、勇敢な外交官二人の死だ。拉致事件で火がついたナショナリズムは、さらに燃え上がろうとしている。これ自体は非常に歓迎すべきところだ。
 しかし、問題点がある。誤解を恐れずに言えば、今我が国で芽生へつつあるナショナリズムは、戦後民主主義と同様に不健全なものであり、言うならば戦後ナショナリズムなのである。この戦後ナショナリズムは、被害者や犠牲者のナショナリズムなのだ。良く言えば、英霊ナショナリズムである。
 だが、国際社会という戦国乱世の中では、弱者のナショナリズム、悪く言えば敗者のナショナリズムではないのか。弱肉強食の時代、弱肉ナショナリズムである。亡くなられた方や被害者の方に無礼千万を承知で言う。英霊ナショナリズムでは駄目だ。では、我が国が確立しなければならないナショナリズムとは何か。それは英雄ナショナリズムである。
 簡潔に説明すれば、英霊ナショナリズムとは、敵に殺された同胞に対する哀悼の気持ちから出たナショナリズムであり、犠牲になった人の功績を顕彰するナショナリズムである。それに対して、英雄ナショナリズムとは、敵を殺した人を称賛するナショナリズムである。殺すというのは、もちろん戦場においてである。すなわち我が戦士の武勲や戦功を顕彰するナショナリズムだ。

◎戦え!我らの自衛隊

 外交官二人がイラクで殺されたように、自衛隊が殺されれば、政府や防衛庁は当然だが、国民も世論も、自衛隊を悼み、褒めるだろう。自衛隊を派兵した小泉はじめ政府は、マスコミなどによる厳しい糾弾にさらされるが、良識ある国民は戦後かつてなかったほど自衛隊を称賛するはすだ。
 だが、もし、逆の立場になったら、どうだろうか。具体的に言えば、自衛隊が殺した時だ。少数の自衛隊が多数の武装ゲリラと戦闘を行ない、互いに死傷者を出した時ならば良い。問題は多数の自衛隊が少数のゲリラを殲滅した場合だ。自衛隊は無傷、相手は全滅。しかも、ゲリラは女子供主体、可愛らしい十代の少年少女という具合だ。
 今でさえ、派兵反対のデモなどには「殺すな」という信じがたい看板を出す愚か者がいる。現地の写真などが報道され、凛々しい少年や美しい乙女の惨たらしい写真を目のあたりにした時、英霊ナショナリズムしかない我が国民は、どう反応するのか。はたして、勇敢に戦った自衛隊の武勲を称賛するだらうか。おそらくは自衛隊の虐殺として、指揮官をはじめ兵士個々まで非難するのではないか。
 軍隊が戦地において敵軍を殲滅するのは、当然の理である。敵を殺した戦士は英雄である。古今東西、英雄を称賛しない国家民族はない。だが、それが理解出来ないのが、否定しているのが「戦後日本」の実情である。ここに戦後ナショナリズムすなわち英霊ナショナリズムの限界がある。
 我々は、どんな惨事があろうとも、自衛隊を支持すべきである。対イラク戦争の是非やアメリカの好き嫌いを問わず、自衛隊を完全かつ全面的に支持すべきだ。自衛隊は愚劣卑怯な「戦後日本」政府の代表ではなく、日本国の代表である。銃後の国民が戦地の軍隊を支持しなくては、その国家は存在し得ない。今、我が国は存亡の危機にある。戦地で戦う自衛隊を非難するようでは、亡国しかない。だが、逆に、戦う自衛隊を支持するようになれば、日本の再生に通じるのだ。
 愚かな総理大臣は参戦し、自衛隊を戦地に派兵するのに「戦争に行くんじゃない」と言う。イラクは戦地である。イラク復興支援とは、アメリカによるイラク占領への協力である。戦闘が停止しても、サダム・フセインを拘束しても、占領が続く限り、戦争は継続している。「武力行使はしない」とか「戦闘には参加しない」と言っても、占領に協力することは、戦争に参加することである。
 総理大臣のゴマカシは、戦地に派兵される自衛隊に対する冒涜であり、自衛隊の戦闘意識や能力を制限し、自衛隊の安全を脅かすものである。戦地へ派兵される兵士に「死ぬな殺すな」とは無理な注文である。「死ぬな」と願うのならば、「殺すな」とは言うべきではない。戦場で生き残るためには、一瞬のためらいなく敵を殺さなければならない。今、国民は声を大にして、自衛隊を応援しよう。自衛隊が後顧の憂いなく、敵と戦えるように。ためらわずに、敵を殺せるように。
 自衛隊よ、死ぬな!殺せ!
 自衛隊よ、英雄となれ!英霊となるな!


(『不二』平成16年1月号に掲載されたものを転載いたしました)


《小泉内閣の姑息かつ卑劣な戦争準備》


 アメリカは、イラクにおいて泥沼にズルズルとはまり、身動きが取れなくなっている。ブッシュが勝利宣言をして、サダム・フセインの圧制から解放されたはずのイラクで、自称解放軍に対するイスラム教徒の自爆攻撃が続発している。アメリカやイギリスの軍隊だけではなく、国連の職員すら攻撃の対象となっている状態だ。
 アメリカの命令により、小泉内閣は対イラク戦争の戦費を拠出するだけではなく、自衛隊をイラクへ出そうとしている。アメリカが正しいとか、イラクが正しいとか、ここでは問題ではない。半植民地のようなYPジャパンの商法支配所に過ぎぬ戦後日本国政府なのだから、宗主国であるアメリカの命令には従うしかないのだろう。荒野の無法者と砂漠の盗賊、別の言い方をすればキリスト教徒の資本主義者とイスラム教徒の社会主義者との石油油争いの戦争である。こんな戦争には大義などあろうはずがない。あるとすれば、どちらに味方した方が得なのかという打算だけである。
 イラク復興への支援などとごまかしているが、これは対イラク戦争に参戦することを意味している。イラク復興と綺麗事でごまかしても、これはイラク占領である。たしかに、大規模な戦闘行為は少なくなったが、現在もイラクでは占領と抵抗という戦争は継続している。戦闘地域とか戦闘地域ではない地域と言葉をごまかしているが、イラクは戦争をしている地域、すなはち戦地である。イラクはアメリカを中心とするキリスト教国軍に占領されている戦地であることをごまかすべきではない。
 しかも、小泉内閣はイラク戦争開始前からアメリカ支持を打ち出しているのだから、これはイラクに対する宣戦布告と言ってもよいだろう。イラク復興の支援のために資金を提供するとしているが、これは戦費の分担であり、立派な戦争への参加である。今問題になつている自衛隊の派遣だが、これは正しく言えば派兵である。
 先日(平成15年11月)、総理大臣は軍事問題や国際情勢の専門家らを官邸に招いた。その中には、アラブ情勢やイスラム教に関する情報の収集と分析では我が国の第一人者と評価されている人物もいた。その直後には、防衛庁や統合幕僚会議の高官らを招集している。イラク情勢の重大な情報が総理大臣に寄せられたのだろう。我が国にとって重大な局面である。
 小泉内閣は対イラク戦争に参戦し、自衛隊を派兵するのに、いまだに言い逃れをしている。総選挙の争点にならぬよう、国会での論戦にならぬよう、派兵の基本計画の閣議決定すら行なわない。今の段階では防衛庁の判断で出来る範囲内だけで準備していろ!という対応だ。年内にイラクへ送りだそうというのに、このいい加減な対応で良いのか。自衛隊に対して無礼千万である。
 今年(平成15年)、小泉内閣は自衛隊の海外派遣を目論見、数々の手段を講じて来た。憲法を正す事なく有事法制を制定して行く事と同じく、これらはまさしく姑息かつ卑劣な戦争準備である。断じて許せるものではない。前任者から引き続き行なわれたものもあるだろうが、気になる事ばかりである。
 9月11日、防衛庁は市谷の本庁敷地の東側に造成した「メモリアルゾーン」(慰霊碑地区)の披露式典を行なった。この式典には、石破防衛庁長官をはじめ森前総理大臣らが出席して、それぞれ式辞を述べた。
 この施設は訓練中の事故などで殉職した自衛隊員を追悼する目的で、森内閣の時代から整備が進められた。これまでも自衛隊殉職者慰霊碑はあり、追悼の式典は行なわれていたが、慰霊碑周辺が手狭だったため、屋内で開かれていた。そこで儀杖隊などが整列が出来るように整備された。また遺族がいつでも参拝出来るようになっているという。
 この施設の中心は、自衛隊殉職者慰霊碑であろう。この碑は昭和55年、自衛隊員の募金などで建立されたもので、富士山を象っている。また、今回の整備によって、敷地に点在していた数々の慰霊碑(ポツダム宣言受諾直後に自決した阿南惟幾陸軍大臣ら旧帝国陸海軍関係者の慰霊碑など)も同地区に移設された。広場や屋根付きの休憩所などもあり、6000平方メートルの広さである。
 10月25日には、この施設において、自衛隊の殉職隊員追悼式が行なわれ、小泉総理大臣をはじめ石破防衛庁長官ら約300名 (報道によっては約150名)が参列した。式典は国歌斉唱、名簿の奉納、儀杖隊による捧げ銃、拝礼、黙祷、総理大臣および防衛庁長官による追悼の辞、献花、拝礼、弔銃と行なわれた。
 式典では昨年(平成14年)9月1日から今年(平成15年)8月31日までの1年間に殉職された隊員11名の名簿が奉納された。この1年間に亡くなられた自衛隊員は、5月に岩国基地で訓練支援機U―36Aの訓練中の事故で殉職された海上自衛隊員4名などで、海上自衛隊6名、航空自衛隊3名、陸上自衛隊2名となる。昭和25年の警察予備隊発足以来の殉職者は1737名となった。
 総理大臣は戦後日本の最高礼装であるモーニングを着用して、慰霊碑に白い花(献花)を捧げた。また「御霊たちの尊い犠牲を無にする事なく、御遺志を受け継ぎ、国の防衛、さらに国際社会の平和と安定に寄与するという崇高な任務を全うして行く」とか「不幸な事態が再び起こらないよう、最善の努力を尽くす」との式辞を述べた。防衛庁長官は「自衛隊の任務は益々多様化している。その活動は日本国民だけでなく、国際社会から評価、称賛されている。隊員一人一人が全力で任務を全うしてきた成果だ」とか「天上にあって、最愛の家族と、祖国日本の行く末をお見守りいただき、御加護を賜らん事を」とか述べている。無宗教の石碑を前に、だ。
 小泉内閣は国立の戦歿者追悼施設の建設を策謀しているが、この施設は規模が小さく、追悼対象を自衛隊に限ってはいるが、まさしく国立戦歿者追悼施設ではないのか。イラクでの殉職者が出れば、この施設に合祀されるし、そうなれば所謂同盟国のアメリカなどの高官が来日すれば献花するだろう。すでにオーストラリアとモンゴルの国防大臣が参拝し献花しているとの事だ。アメリカの大統領が参拝し献花するのも時間の問題だろう。戦後の自衛隊からに限れば、歴史問題もなく、近隣諸国の理解も得られると考えているのだろうか。もし、そうならば、これは断じて許せるものではない。
 この報道がされた翌日の新聞(10月26日の朝日新聞)によると、「防衛庁はイラク復興支援特別措置法に基づき派遣される自衛隊員の処遇を改善するため、任務中に死亡または重度障害になった場合に支給される弔意、見舞金の最高限度額を、現行の6000万円から9000万円に引き上げる方針を決めた」という。防衛庁の「賞恤金に関する訓令」を改正して、非戦闘地域?とはいえ危険な地域に派遣される自衛隊員に相応の処遇をするのだ。
 訓令に基づく弔慰金(賞恤金)、国家公務員災害補償法に基づく補償金、総理大臣からの特別褒賞金、それに特別手当(日当)と、経済的な面では待遇が改善されようとしている。ただし、この訓令の改定も姑息な事に、衆議院総選挙後の基本計画の策定を待ってからだというのだから、憤りを感じる。現実には臨時国会が終了され、第二次小泉内閣が発足した後なのだろう。
 さらに政府は10月5日付で、第1回「危険業務従事者叙勲」を発表した。これは自衛隊をはじめ警察や消防など現場で危険な業務に精励した人の勲章受賞を増やす事を目的として、栄典制度の改定により、春秋の叙勲とは別に制定されたものだ。この勲章は11月3日に発令されたが、受賞者の内訳は旧勲五等にあたる瑞宝双光章が477名、旧勲六等にあたる瑞宝単光章が3069名と、今年は3546名の方が栄誉に浴した。くだらない陣笠代議士などの政治家が旧勲一等を貰うのに比べて、極めて軽い勲章ばかりなのは不快である。また、警察官が1939名もいるのに、自衛官は887名しかいない。どういう基準なのだろうか。
 11月11日と12日の両日、この第1回「危険業務従事者叙勲」受賞者に対して、拝謁の栄が賜われた。天皇陛下は配偶者を伴った受賞者に「永年それぞれの務めに精励し、国や社会のために、また人々のために尽くされた事を深く感謝しております」との御言葉をお述べ遊ばされた。なお拝謁を賜った者は11日には約2200名、12日には約2100名である。
 慰霊施設、弔意金、勲章、拝謁。これは決して否定すべきものではない。国家として当然必要不可欠なものだ。しかし、小泉内閣が行なっている姑息かつ卑劣な方法は、断じて認める事は出来ない。これらの一連の動きを見ると、小泉内閣は自衛隊のイラクへの派兵に伴う戦死者を想定していると断言してよい。歴史に例を見ない、自国の武人に対しての礼儀を弁えない戦争準備を進めているのだ。
 もう一度振り返って要約すれば、小泉内閣は有事法制に基づき、イラクへ自衛隊を派遣する。その際に殉職者が出れば、自衛隊殉職者慰霊碑に合祀して、追悼式を行なう。故人には勲章を授与し、遺族らが拝謁を賜り、弔慰金などの支給を受ける。アメリカ大統領ら同盟国の高官が訪日した際には、自衛隊殉職者慰霊碑に献花する。と、こんな考えなどだろうか。
 イラクに限らず、自衛隊を海外へ派兵するならば、と言うよりも国家の基本として自衛隊に日本国軍隊としての地位を与えるべきである。憲法を正して、自衛隊を栄誉ある日本国軍隊とする事が、国防の基本だ。戦地における死者は殉職者ではなく英霊である。慰霊の施設ならば、靖国神社に合祀すべきである。勲章ならば、栄典制度を改めて軍人専用の勲章として金鵄勲章を復活すべきだ。拝謁に関しても、派兵される軍隊にも許されるべきであり、観兵式を挙行すべきである。また万が一不幸にも戦死する軍人が出た際には軍隊葬として、勅使の参列を仰ぐべきである。
 自衛隊をアメリカ軍の使い走りのような屈辱的な雑役のために派遣すべきではない。天皇陛下を大元帥と仰ぐ皇軍として、国民の歓呼の声に送られて、堂々と戦地へ派兵すべきである。
 × × × × ×
 栄典制度にも一言。
 栄典制度が改定され、大勲位などを除き、勲一等とかの勲等が廃止された。大勲位しかない菊花章は別として、従来は男子に限られていた旭日章、女子に限られていた宝冠章の区別もなくなった。そのため、今年の秋の叙勲では、かつての勲一等にあたる旭日大綬章を授与された女性の元大臣らがいる。
 皇后陛下をはじめとする皇族の女性方でも、旧勲一等の宝冠章である。旭日大綬章とは皇族方よりも高位の勲章となる。臣下の分際で、こんな事が許されて良いのか。もちろん、これは今始まった事ではない。明治の聖代からの悪しき制度である。大臣・大将・公爵ですら大勲位を授与されていたのに、皇后陛下が勲一等とは何たる事か。
 栄典制度を改定して、成年皇族には男女の別なく、全て大勲位を授与すべきである。もしくは、皇族に対して、臣下と同じ勲章を授与する事を廃止すべきであろう。
 洋式の礼装の際に装飾として勲章が必要だと言うのならば、皇族専用の大綬の正章・副章を制定すれば良い。外国によっては、大統領大綬などを制定している国もある。我が国も皇族大綬を制定し、臣下に与える勲章と分けるべきである。


(『不二』平成15年12月号に掲載されたものを転載いたしました)


《石原慎太郎をどう見るのか》

      ―彼は現代の春嶽か慶喜か―


 石原慎太郎
 アメリカに対して「NO」と言い、支那を中国と呼ばず正しく「支那」と呼ぶ。戦後の保守政治家のように世論に屈する事なく、自分の言いたい事を好き勝手に言う。支那や朝鮮が何と言おうと、8月15日には堂々と靖国神社に正式参拝する。また、公人か私人かを問うマスコミに対しては、叱りつけてしまう。現代の日本においては、数少ない権力機構に立つ愛国者であろう。
 今年(平成15年)の夏から秋にかけて、東京都知事の石原慎太郎が発した言葉が、物議を醸している。しかし、彼の言う何が問題とされているのか、理解に苦しんでしまう。8月15日、卑怯者の首相小泉純一郎とは違い、靖国神社に参拝した彼は、その後に行なわれた定例記者会見で、次のように述べた。
 《…ほどんどの日本人にとって、靖国というのは、やはり精神文化の一つの表象なんですよ。それを支那人だろうが韓国人だとか外国人が、ガタガタ言う事じゃないんだ。同じ事をこっちがやったら、むこうはヒステリーになるだろう。本当に。内政干渉以上に失敬な余計な事だよ…》
 この至極もっともな発言については、さすがの左翼に毒されたマスコミどもも、大きな問題に出来なかった。その腹癒せであろうか、9月10日に発した言葉は、大きな問題となろうとしている。自民党総裁選挙における応援演説での出来事だ。
 《…北朝鮮とのかかわりの問題だって、何をやっているんですか。田中均という奴。今度、爆弾しかけられて、当たり前の話だ。政治家に言わず、いるか、いないか、分からないミスターXと「私は交渉した」と言って、むこうの言いなりになる。小泉総理がですね。「これは、けしからん問題だ。少し圧力をかけよう」と言ったら、その文言を声明の中から外そうとする。その役人が一人で仕切って、北朝鮮と渡り合える訳がない…》
 これは、朝鮮総連や旧オウム真理教や日教組など全国各地の反日および売国勢力の拠点に対して攻撃を加えている「建国義勇軍」 「朝鮮征伐隊」「国賊征伐隊」を名乗る組織が、外務省の前のアジア大洋州局長で、現在は審議官の田中均の自宅に爆発物と見られる不審物が仕掛けられた事に関連しての発言である。と言うよりも、北朝鮮問題に関連しての発言と呼ぶ方が適切である。
 問題となっているのは、田中に対するテロ容認とも受け取れる部分だが、石原発言を攻撃している連中の真意は何処にあるのだろうか。石原はこの発言の中で、北朝鮮に関連して「拉致事件」「ミサイル開発」「万景峰号」「北朝鮮への経済制裁」などの問題について述べている。その内容は全て適切かつ的確なものばかりである。
 翌日、石原は自らの発言について説明したが、撤回も修正もしていない。爆弾を仕掛ける事は悪いとした上で、彼は田中および外務省に対する批判を繰り返した。問題提起をする発言をしながら、非難されると、すくに誤って撤回してしまう政治家が多い中、彼の態度は評価したい。
 現在、石原発言を攻撃している者は、どちらかと言うと北朝鮮を援助したい(自分自身の権益のために過ぎないが…)と思うか、または援助してきた輩ばかりだ。朝日新聞や社民党など、北朝鮮の第五列ばかりではないか。キム・ヘギョンのインタビューを行なうなど北朝鮮の走狗とも言うべき問題を引き起こした似非保守の産経新聞も、そのクチだろう。
 小泉や外務大臣の川口順子ら閣僚たちが騒ぐのも、我が国政府および外務省の失態につぐ失態を見れば、十分に予想出来る。と言うよりも、政府や外務省さらに自民党こそが、野党やマスコミ以上に北朝鮮に対して利敵行為を繰り重ねて来た張本人である。田中を糾弾される事は、奴等自身にも火の粉が降りかかって来るので、それを恐れているのだろう。さらに言えば、この発言は、小泉の対立候補への応援演説のものだから、小泉やその支持者が攻撃するのは、選挙戦術から言えば当然の事に過ぎない。
 もっとも、石原自身も長い年月にわたり、自民党の国会議員をつとめ、運輸大臣や環境庁長官という政府の要職を歴任した男だから、政府や自民党が犯した行為にも、その責任は当然ある。
 石原発言を支持するからと言って、石原慎太郎を無条件に全面的に支持する訳にはいかない。石原は、あの安保や全共闘の時代、三島由紀夫、村松剛、黛敏郎という今は亡き三人とともに、民族派の学生や青年たちから大きな支持を受けていた。他の三人と彼の大きな違いは、体制内改革を唱えて自民党所属の国会議員になった点である。
 また、彼は「敬神尊皇」の念が薄く、これが最大の問題である。維新陣営の重鎮の勧めに従って、選挙の出陣の際には、明治神宮に参拝するくらいだから、全くない訳ではなかろう。靖国神社にきちんと参拝しているのも事実ではある。しかし、どうも全幅の信頼が出来ない。
 村松や黛がどの程度だったか、分からないが、三島とは格段の程度の違いがある。比較する事自体、三島には失礼な話なのだろうが、二人の対談を見てみたい。昭和44年に行なわれた『守るべきものの価値』と題された対談がある。「我々は何を選択するのか」という副題がある、この対談から引用する。
 石原「…僕はやはり自分でまもるべきものは、あるいは社会が守らなければならないのは、自由だと思いますね。…」
 石原は、ここで「守るべきものと自由だ」と述べている。「僕のいう自由というのは、戦後日本人が膾炙してしまった敬白な自由と違って、もっと本質的なものです」と述べているが、彼が守ろうとしているのは、國體や日本民族ではない。これに対して、三島は次のように述べている。
 三島「…言論の自由は最終的には放棄しよう…最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。」
 石原「三種の神器って何ですか」
 三島「宮中三殿だよ」
 三島と比べると、あまりにも違い過ぎる。しかし、石原の弁護をしておくと、彼はこの時まだ20代の青年である。もちろん、三島も同世代であり、この時四十代であるが、天才三島と比較するのは酷である。これは昭和44年の対談であり、それからもう30年以上の年月が過ぎている。70代となった彼も、当然大きく進歩しているはずだ。
 もちろん、石原に過度の期待をするのは危険だし、他の力に頼ろうとするのは自分自身が何よりも情けない。彼には彼の役割を果たしてもらえば良いのだ。明治維新の時代と比較すれば、彼には徳川慶喜や松平春嶽の役回りをしてもらえば良いではないか。彼らは志士ではないが、祖国にとって重要な役目を果たした人物だ。人物や思想に若干問題があるが、その実力や行動は評価すべきである。
 石原も慶喜らと同じであろう。彼は志士ではない。維新者ではなく、権力者である。民族派というより、右派・タカ派である。しかし、小泉や小沢一郎らの似非保守とは違い、真正保守主義と評価しても良いだろう。また、『諸君!』『正論』『サピオ』に見る右っぽい軽薄な言論人とも違う。少なくとも、左翼全盛のあの時代、三島らとともに民族派や良識派の論客の一人として闘って来た実績がある。知事になってからの言動については、それなりに評価したい。
 石原慎太郎は、現代の日本に必要な政治家である。しかし、政治家である事を絶対に忘れてはならない。その事を踏まえた上で、石原発言を支持する。


(『防共新聞』平成15年10月1日号に掲載されたものを転載いたしました)


《敗者復活戦を闘う》


 アテネ・オリンピックを来年(平成16年)に控えて、今年(平成15年)はいろいろな競技において、世界選手権が世界各地で開催されている。水泳、体操、陸上競技、レスリングと、日本人選手が活躍している。日本の国技ともいえる柔道の世界選手権大会も、9月11日から15日までの五日間、大阪において開催された。
 まず、柔道における日本選手の活躍を振り返ってみよう。男子個人では100キロ超級の棟田康幸、100キロ級の井上康生、無差別の鈴木桂治が金メダル、60キロ級の野村忠宏が銅メダルを獲得した。女子個人では78キロ級の阿武教子、72キロ級の上野雅恵、48キロ級の田村亮子が金メダル、78キロ超級の塚田真希が銀メダル、52キロ級の横沢由貴が銅メダルを獲得した。最終日に行なわれた団体では、男子が準優勝、女子が優勝という成績だった。
 ここで注目したいのは銅メダル、すなわち三位といふ成績だ。ある選手が言っていた言葉がある。「銀メダルは負けて貰うメダル。銅メダルは勝って取るメダル」と。これには説明が必要かも知れない。
 試合の方法は、その競技によって、千差万別である。柔道の個人戦の場合は、トーナメント方式が取られている。勝ち上り方式というものだ。オリンピックや世界選手権など大きな大会では、これに敗者復活戦という方式が加って来る。現在は準決勝に進出した選手に負けた者に出場資格が与えられているのが一般的だ。この敗者復活戦に勝ち上って来た者と、準決勝で敗れた者が闘う試合が、三位決定戦である。
 金メダルは最後まで勝ち続けた者、すなわち勝利しか知らない者に与えられる。それに対して、銀メダルも、銅メダルも負けた者に与えられる。しかし、一つだけ大きく違う点がある。それは、銀メダルが勝ち続けながらも、最後には負けて貰うメダル、銅メダルは一度は負けながらも、また勝ち抜いて、最後には勝って取るメダル、という点だ。
 銀メダルが二位、銅メダルが三位という単純に数字のみでは計り知れないものが、そこにはある。選手の表情を見ても、銀メダルの選手には悔しさがあり、銅メダルの選手にはそれなりの満足感が見る事が出来る。それは、勝ち続けながらも、最後に負けてしまい、その雪辱を果たす機会がないまま、終った悔しさ。一度は負けながらも、その後は勝ち抜いて行き、何とか雪辱を果たせた自分なりの充実感。その違いがあるのだらう。
 敗者復活戦というものは、誰もが全員出られる訳ではない。当然の事だが、出場資格がある。前述したように、自らが準決勝まで勝ち上って行くか、自分に勝った相手が準決勝に勝ち上るか、のどちらかである。前者ならば自力の問題である。しかし、後者になると、もう相手の力と運次第で、自分ではどうしようもない。このように、敗者復活戦に出るという機会は、かなり難しいと言える。
 また、金メダルを期待されている日本選手にとって、一度でも敗北する事は精神的な打撃を受けている為、仮に出る事が出来ても、勝ち抜いて行く事は、かなり至難の業と言えよう。今回の世界選手権を見ても、銅メダルは男女一人ずつしかいない。男子はオリンピック二連覇の野村が敗者復活戦を勝ち上り、三位決定戦を制した。女子は横沢が準決勝で敗れた後、三位決定戦を制した。敗者復活戦に出場した他の選手はメダルを獲得する事が出来なかった。
 これを見ても、一度負けた後に、もう一度勝負に挑む苦しさ、さらに勝つ事の難しさが分かるはずだ。これは柔道だけではなく、人生にも言える事だらう。人生で勝ち続ける事は素晴らしい事だ。だが、何時も、また何時までも、順風満帆で行けるものではない。ある時には泣きたくなるような、また逃げたくなるような、さらには死にたくなるような、苦しく辛い敗北の時があろう。
 闘わなければ、負ける事はない。闘うからこそ、勝ったり、負けたりする。勝っている時は良い。負けた時にどうするのか。何度負けても立ち上がる!と言えば、格好が良いが、現実には強い精神力がなければ無理だろう。期待されていたのならば、勝つ自信があったのならば、再起はなおさら難しい事だ。
 私事になるので詳しくは述べないが、僕は今、敗者復活戦に出ようとしている。もはや闘う機会はないだろうと、諦めていた。当然、闘志も消え失せていた。だが、いろいろな力によって、再び闘う機会を与えて貰った。この機会は己の力で得たものではなく、他の力で与えられたものである。
 一度負けてしまうと、闘う事が怖くなる事がある。これ以上負けるのが怖いと思うならば、棄権するのも一つも選択肢だろう。しかし、もう一度闘えるのならば、また負けても良いから、闘いたいと願う。敗者復活戦の複雑な心境だ。
 敗者復活戦では、どんなに勝っても、金メダルや銀メダルは望むべくもない。しかし、もう一度闘える機会を与えられた事に感謝すべきである。この闘いは、決して銅メダルが欲しいから挑むのではない。勝利や成績の為の闘いではない。失った誇りを取り戻す為の闘いなのだ。自分自身への挑戦なのである。


(『不二』平成15年10月号に掲載されたものを転載いたしました)


紀元節と建国記念の日


 今年(平成15年)も、まもなく2月11日を迎える。紀元節の佳き日である。この日が、人皇第一代であらせられる神武天皇さまが橿原の宮でご即位なされた日である事を今さら説明するまでもあるまい。
 明治維新は、「諸事神武創業ノ始ニ原キ」と王政復古の大号令にあるように、神武肇国の原点に立ち返る事を目的とした。紀元節の制定や橿原神宮の御創建などは、その尊い証しである。もちろん皇紀もその一つであり、本誌(『不二』)の表紙に明示されているように、今年は皇紀2663年(平成16年は皇紀2664年)である。この暦は、神武天皇さまの即位に基づいている我が国の素晴らしい文化である。
 しかし、今日では紀元節という名の祝日はなく、建国記念の日という名前になってしまっている。クリスマスとかいう外国の宗教行事は皆知っているのに、2月11日が何の祝日なのかすら知らない国民は多い。あちらこちらで西暦なるものは使われるのに、皇紀はなかなか見る事すら出来ない。さらに恐れ多い事だが、神武天皇様の御存在を否定する歴史がまかり通ってさえいる。
 大東亜戦争敗北の結果、我が国は連合国すなわち占領軍の隷属の下におかれた。占領軍は我が国を極東の三等国にする為、様々な国家弱体化政策を押しつけて来た。日本国憲法という名の占領基本法を押しつけ、東京裁判という政治的復讐劇を演じて反日自虐歴史観を植えつけた。
 昭和23年に制定された「国民の祝日に関する法律」(祝日法)もその一環であった。この祝日法によって、紀元節は廃止されてしまったのだ。当時の大多数の国民は、国の祝日として紀元節の存続を望んだにも関わらずに、である。占領下の国民の悲哀である。
 占領軍は、紀元節という国家にとっても国民にとっても最も誇らしい祝日を廃止に追い込んだ。それだけ紀元節の意義を恐れたのである。占領軍の作戦は見事なまでに成功した。今日の我が国ぐらい自分の国を誇りに思わない、愛さない、こんな国は歴史上ないのではないか。紀元節に反対し、神武天皇さまをも否定する情けない国の様である。
 紀元節は戦後は廃止されたが、占領下解除の後、復活を求める声は全国津津浦浦からうねりを上げた。そして、多くの先人たちの地道な努力によって、昭和41年に祝日法が改正され、2月11日が建国記念の日として、敬老の日や体育の日とともに国民の祝日に新たに加えられた。その結果翌42年の2月11日からは、国民の祝日として建国記念の日を祝うようになった。この建国記念の日を定めた祝日法の改正は、元号法の制定とともに、我々の先輩たちが勝ち取った誇るべき成果である。
 祝日法には建国記念の日の意義(趣旨)として「建国をしのび、国を愛する心を養う日」とある。名称といい、意義といい、満足なものではないが、評価すべきものがある。新嘗祭が勤労感謝の日とか、明治節が文化の日とか、そんな何だか訳の分からない日に比べれば、少なくとも何を記念して祝う日なのかは、理解出来る。
 また、左翼陣営の反対にも屈せず、建国記念の日の日付を2月11日に定める事が出来た事についても、評価されるべきだらろ。祝日法には建国記念の日の日付を2月11日とは定めず、「政令で定める日」と棚上げしている。自民党政府というヌエ的な政府は、今よりはマシだったかも知れないが、国の大事を守るという意識がなかった事においては、現在とそんなに大差はないだろう。社会党や共産党をはじめとする反日売国勢力の反対にも関わらず、この2月11日を守り抜いた努力は並大抵のものではなかったはずだ。
 多くの圧力や困難などを排して、建国記念の日を制定したという事実は、歴史的に顕彰すべき業績の一つである。しかし、先人たちが目指したのは、紀元節の復活であり、建国記念の日の制定ではない。祝日法改正を突破口として、そこから占領憲法や東京裁判史観すなわち戦後体制の打倒を目指していたはずである。2月11日を建国記念の日という仮称でも良いから、国民の祝日とする。その後には、本来の紀元節として復活させる。紀元節の意義が国民に徹底されれば、祖国日本は再建される。そう信じていたはずである。
 だが、昭和42年に第1回の建国記念の日から36年という長い年月が過ぎたのに、いまだ2月11日は建国記念の日のままである。先人たちが目指した紀元節は復活していない。己の無力を申し訳なく思う次第である。我々は紀元節に拘らなければならない。これは決して言葉の問題だけではない。紀元節と建国記念の日は、やはり違うのである。
 恐れ多い事であるが、2月11日が紀元節ではない事が、宮中祭祀にも大きな影響を与えていると聞く。戦後、紀元節が廃止になると同時に、宮中の紀元節祭が廃止になった。神事を大事になされる昭和天皇さま、今上陛下の大御心により、臨時御拜として祭祀は行なわれておるとの事である。この臨時御拜は誠に尊い事であるが、戦前は大祭であった紀元節祭は廃止されたままであるという事実は事実として直視すべきである。
 戦後の我が国は主権国家の体も、独立国家の気概もなかった。自民党政府という足利幕府以下の政権は、アメリカに隷属し、支那や朝鮮に屈伏し、ただ経済優先のみの政治を行なって来た。その結果、世界中の国々から侮りを受ける政治的軍事的三等国に堕落した。さらに経済政策の無能無策によって、唯一誇るべき経済も三等国になろうとしている。
 先人たちは建国記念の日や元号を制定する為に、ある時は自民党政府と手を携えた。しかし、決して政府の言いなりになったのではなく、逆に政府に物申し、政治を動かしたのだ。先人たちにはそれだけの力もあったし、時代の流れもあったのだろう。また、自民党にも良心のかけらが残ってもいた。
 だが今、我々は先人たちと同じように自民党と手を携えるべきなのか。我々の運動が政党活動や政治運動ならば、それも良かろう。しかし、思想戦争であるならば、自民党および自民党的存在とは決別すべきである。我々は自民党の院外団体ではない。
 去る1月14日、内閣総理大臣小泉純一郎が、靖国神社に参拝した。自民党総裁選挙の際に「八月十五日に靖国神社に参拝する」と公約しておきながら、支那や朝鮮の反発があると、公共事業さながらに前倒しとかで8月13日に参拝した姑息な男である。翌年には4月に参拝してごまかす体たらくである。保守派や良識派の陣営でも、小泉を評価する声はある。だが、我々は断じて小泉を評価してはならない。糾弾すべきなのだ。
 先人たちの戦いを継承する為に、我々は今こそ建国記念の日を敢えて否定すべき時に来ている。「紀元節奉祝・建国記念の日粉砕」を声高らかに唱えようではないか。


(『不二』平成15年2月号に掲載されたものを転載いたしました)


《反米ではなく攘夷だ》


 アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ大統領が、(平成14年の)2月17日から19日まで、我が国を訪問した。本来ならば、昨年(平成13年)の10月に訪日する予定だったが、あの9・11の事件によって、延期されたのだという。
 昨年9月11日、アメリカの中枢を襲った同時多発テロは、今までにはない新しい形の戦い方と言える。ブッシュ大統領が言うように新しい戦争なのかも知れぬ。過去の戦争が、国家対国家の戦いであり、主として軍隊対軍隊の戦いだった。しかし、この新しい戦争で、アメリカが戦う相手は、国家ではなく、また軍隊でもない。姿の見えない相手なのだ。別の言い方をすれば、国土も国民も持たない国家なき軍隊との戦争である。
 昔の戦争と違い、今日では情報も大きな武器となっている。と言うよりも、情報によって、戦争の行方が左右されると言ってもよいだろう。かつては新聞などの活字が主力であった情報通信の手段が、時の流れとともにドンドン進歩している。ラジオや映画、そしてテレビへと、その主役が移り変って行った。今日の情報通信技術の発達ぶりは、恐ろしいの一言に過ぎる。
 9・11テロの時もそうだが、遠い国の出来事が自宅のテレビで見る事が出来るのだ。遠い国で多くの人々が血を流し苦しみ死んで行く様子を、我々は安全かつ快適な環境の中で見る事が可能なのだ。冷房や暖房がきいた部屋で、お茶を飲みながら、まるで映画を見るかのように…
 資本主義の本家アメリカが誇る富と繁栄の象徴である世界貿易センタービルが崩壊して行く様をみて、恐怖した人は多かっただろう。ホワイト・ハウスや国防総省といった世界の警察官を自負するアメリカの政治と権力の中枢が危機一髪の状態に追い込まれた事に恐怖した人は、もっと多いかも知れない。しかし、何の罪もない善良な人達が惨事に巻き込まれた事に涙を流した人は、さらに多かった事だろう。
 だが、高度に発達した情報通信技術は、必ずしも真実のみを伝えるものではない。そして、情報通信技術によって左右される世論は、必ずしも正しいものとは限らない。今日の情報は、その高度な技術の性能によって、簡単に操作されてしまう危険性が多大にある。
 情報宣伝の先駆者として、第一にナチス・ドイツが挙げられる。だが、アメリカという国は、ナチス・ドイツよりも巧妙な情報操作―宣伝・洗脳を行なう国ではないか。その一つとして映画の存在がある。ディズニーのアニメ映画に『バンビ』という子鹿の物語がある。戦前に作られた映画だが、この中で、可愛らしい森の動物たちを殺す残忍な猟師は日本人をモデルにしているという。この映画を見たアメリカの子供たちは、知らず知らずのうちに、日本人を憎むようになるのは当然だろう。アメリカの情報戦略・情報操作の恐ろしさは、あちらこちらに巧みな罠を張り巡らせている事である。
 かつての湾岸戦争の時、油にまみれた水鳥の写真が世に出され、その鳥に同情が集中した事がある。多くのイラク人がアメリカの爆撃の下で死んで行く事よりも、油に苦しむ鳥に…だ。筆者はイラクが行なったクエート侵略を正当化するつもりはない。また同時にイラクのみを邪悪と決め付ける気もない。イラクにはイラクの、クエートにはクエートの、そしてアメリカにはアメリカの正義があっただろう。どの国と同盟を結ぶかは、我が国の国益に基づいた戦略によって決めれば良い事だ。しかし、その基本として、アメリカを絶対の正義だと信ずる愚だけは避けねばならない。
 アメリカが、イスラム諸国というよりもイスラム教徒に敵視されるには、それなりの理由がある。アメリカという世界で唯一の超大国の強大な力の前に、イスラム諸国では国家は屈伏しても、その国民の多くはアメリカを敵視し憎んでいる。
 アメリカは卑怯なテロだ―とイスラム原理主義勢力を非難する。しかし、イスラエルとパレスチナが戦争状態にあり、そのイスラエルをアメリカが支援している現状を考えれば、アメリカはすでに参戦している―と見られても仕方ない事ではないのか。ならば、当然アメリカ本土が攻撃される事は覚悟すべきだ。
 9・11テロは、我が国の世論に大きな波紋を起こした。右からも左からも、いろいろな議論が沸き起こった。左の連中の議論は、一部の極左過激派集団を除いて、相変わらずの平和!平和!の大合唱だ。「ざまぁみろと思った国もあるはずだ…」と本音を漏らした社民党の女代議士もいたが、ほとんどの者たちは、テロには反対!戦争には反対!と、まったく話にならない平和ボケの洪水である。もっとも、左の連中が平和を唱えるのは建て前だけで、本音は喜んでいるのかも知れないが…。
 くだらぬ左の論調など相手にする必要はない。問題は右、すなはち保守陣営の論だ。保守の議論は、親米と反米に別れている。これは左の連中とは違って、見事なくらい面白いものだ。筆者が共感を覚えるのは、反米派の論調だ。代表的な人物としては、長谷川三千子女史と小林よしのり氏だろう。もちろん一から十まで同感という訳にはいかぬが、今日の保守派の論調の中では優れている意見と言える。
 先に述べた「ざまぁみろと思った国もあるはずだ…」という言い方は、卑怯だ。本当は本人が「ざまぁみろ!」と思ったはずだ。ならば、堂々と「ざまぁみろ!」と言うべきだ。他に責任を転嫁するような言は卑怯そのものである。筆者が親しい国際政治学者は、彼の所属する機関では、かなりの人たちが「ざまぁみろ!」と感じた―と教えてくれた。世界中に戦乱を巻き起こして来たアメリカが、自分だけは無傷でいた事への反発が、このような感想をもたらしたのだろう。誠に正直な意見と言える。
 学者や評論家ならば、「ざまぁみろ!」でも良いだろう。しかし、志士を自負する者が「ざまぁみろ!」では、あまりにもふがいない。あの事件の時、筆者の同志の一人が「イスラム原理主義に先を越された!悔しい!」と嘆いた。本来ならばアメリカ本土への攻撃は、日本が行なうべきものだ!というのが、彼の意見だ。第二次大東亜戦争の暁には、必ずアメリカを!という訳だ。
 今、保守の論調、中でも若い世代には反米・嫌米の感情が強くなっている。ナショナリズムの面から見れば、大変結構な事だ。しかし、かつての安保闘争と同じく、反米・嫌米のエネルギーが、反日本・反国家の運動に流れて行く事は避けねばならない。また、さらに肝に銘じておかねばならぬ事がある。戦後体制―ヤルタ・ポツダム体制の元凶は、たしかにアメリカである。アメリカの存在こそ、戦後日本の腐敗と堕落の源と言える。しかし、今日の我が国の体たらくの責任は、アメリカではなく、日本にある事を自覚しなければならない。
 反米・嫌米のため、悪い事は何もかもアメリカのせいにするようでは、それこそ日本はお終いではないか。悪い事は全て日本のせいにする韓国・朝鮮と同じで、あまりにも情けない。たしかに、東京裁判を行なったのもアメリカ、誤った歴史観を生んだのもアメリカ、占領憲法を押し付けたのもアメリカである。しかし、今年はサンフランシスコ講和条約から50年、すなはち主権回復から50年も過ぎようとしているのに、今だアメリカ云々ではあるまい。この50年、日本は、日本人は何をしていたのだ。アメリカ云々を言う前に、自らの体たらくを恥じねばなるまい。
 先般、ブッシュ大統領が訪日した際の我が国の対応を見るとよい。他国の大統領が、明治神宮を参拝したいというのを、日本の政府や外務省が阻止しようとしたではないか。結局、アメリカ大統領が明治神宮に参拝したのに、我が国の総理大臣は彼が参拝している間、車の中で待っていたという。靖国神社参拝の時もそうだが、我が国の総理大臣である小泉某という男、あまりにも情けない。そして、こんな男を高い支持率で支えている国民の愚かさ。アメリカを非難する資格が、はたして今の日本にあるのか。
 我々維新陣営にいる者は、反米だ!親米だ!という次元にいてはだめだ。我々の目指すのは、維新だ! 明治維新を手本とすると、維新とは次の三本柱から成り立つ。まず根本として、尊皇だ。そして、攘夷と討幕だ。
 攘夷とは、単なる排外主義ではない。また、閉鎖的な鎖国を目指すものでもない。「すめろぎの道」を世に広めるため、太平を守るため、まつろわぬ者、よこしまなる者を撃払う事にある。攘夷を行なうには、討幕すなわち自民党政府を倒さねばならない。YPジヤパンの商法支配所と堕落した現在の政府をそのままにして、アメリカのみ非難する事は本末転倒である。
 我々の行く道は、日柳燕石の「娑婆歌」にもあるように
 尊皇尊皇また尊皇
 攘夷攘夷また攘夷
 報国報国また報国
である。
 我々が行なうのは反米でもなければ、親米でもない。
 我々は攘夷を行なうのだ。


(『道の友』平成14年3月号に掲載されたものを転載いたしました)


 

《生命の重さ》

人命は地球より重い!と、こんな迷言を吐いた首相がいた。
現首相・小泉純一郎の師匠で、官房長官・福田康夫の父親である福田赳夫だ。このヒューマニストを気取る情けない貧乏神は、日本赤軍の力に屈伏して、超法規的措置を発動し、国家の尊厳を放棄した。この亡国的行為は、世界各国の軽蔑を招いただけではない。これ以降、近隣諸国の侮りを受け、多くの主権侵害や内政干渉を招いた元凶とも言える。
だが、弟子や息子は、地球よりも重いという人命を何と思っているのだろう。同胞の生命は木の葉よりも軽いとでも言うのだろうか。北朝鮮に拉致された同胞やその家族への対応は、まったく冷酷そのものである。
我が国に無礼千万な態度を重ね、挑発を繰り返す北朝鮮に対して、武力による征伐は当然である。だが、我が国政府なるものどもは、経済制裁すら実施出来ない体たらくである。対話と圧力、と言うばかりで、何ら有効な方策を講じることも出来ない。同胞の生命や人権を蹂躙する北朝鮮との対話など、利敵行為であり、売国行為である。対話など必要ない。圧力あるのみだ。
主権国家でも独立国家でもないYPジャパンですから、とても自力では解決なんか出来ません。アメリカ様のお力が必要なんです。と、泣き言をほざくのならば、アメリカにおすがりすれば良い。長年にわたり、アメリカ様に餌、ではなく、貢ぎ物を献上しているのは何のためなのか。アメリカ様のご機嫌をもっと取らなければならないのなら、イラクの戦費を全て出してやれば良いではないか。同胞を救出するためならば、悪魔とでも手を組むべきだ。
経済的な裏付けは簡単である。我が国にある朝鮮人どもの資産を全て没収すれば良いのだ。その金をアメリカにくれてやれば良い。法律的に問題があるという人もいるだろうが、その点ならば大丈夫。腰抜け自民党お得意の超法規的措置を発動すれば、これにて一件落着、何の問題もないはずだ。我が国民の貴重な血税をビタ一文も使わずに済む。めでたし、めでたし、である。
YPジャパンの商法支配所に過ぎない自民党政府に、こんな度胸があるはずはない。せいぜい、郵政とか道路公団の民営化をうんぬんするのが、限界だろう。だが、国家として、政府として、そんなことではだめだ。主権や独立を守るのは当然だが、国民の生命や人権を守るのも、国家の責務なのだ。
同胞の生命を守る!という気概について、我が国はイスラエルを見習うべきである。イスラエルという国は、我が国では非常に印象が悪い国だろう。右の人から見ればアメリカを操るユダヤ侵略資本の祖国であり、左の輩から見ればパレスチナで悪逆非道な侵略と虐殺を犯すシオニズムの国家である。
イスラエルとアラブ、とりわけパレスチナとの戦いは熾烈を極めている。だが、勝者は常にイスラエルである。イスラエル軍の猛攻に対して、パレスチナなどアラブ側はゲリラ行為で何とか報復しているに過ぎない。イスラエル人が一人殺されれば、その何十倍ものパレスチナ人が殺されるのである。
イスラエルの国策は、日本人から見れば、極めて好戦的だ。だが、これには、それなりの理由がある。今さら説明するまでもないが、イスラエル人とは、正確にはユダヤ人のことである。また、かつて、ナチスが行なったユダヤ人虐殺、ホロコーストについての説明も不要だろう。
ホロコースト以前、ナチスがユダヤ人弾圧を始めた時、ユダヤ人の有力者は話し合い、すなわち対話と妥協によって、問題を解決しようと試みた。だが、対話や妥協は何の解決にもならず、ホロコーストは阻止出来なかった。ユダヤ人には、この反省がある。同胞の生命を守るためには、徹底的に戦うしかないという歴史の教訓があるのだ。
イスラエルの戦いは、確かに国家のエゴ、民族のエゴである。だが、国家として、民族として、国民の、同胞の生命を守るために戦うというイスラエルの国策は、絶対に正しい。イスラエルは自国民一人を救出するためには、数千数万の自国兵を死なせる戦争も辞さないという。その報復として、敵兵や敵国民にはその数倍数十倍の犠牲を与えるというのだ。また、イスラエルは敵に囚われた自国兵数人を助けるため、数千人のアラブ兵捕虜との交換にも応じたことがある。自国兵一人は、敵兵数千人にも値するのだ。
我が国はイスラエルを見習うべきである。拉致被害者を取り戻すためならば、数十万の在日朝鮮人を皆殺しにしても構わぬという気概を持つべきだ。たとえ悪魔と手を組んででも、朝鮮半島を火の海にする覚悟を持つべきである。我が同胞の生命は、他国民の生命より重い。我が同胞一人の生命は、千万の敵国民の生命より重いのだ。


《野村秋介への想い》


連帯を求めて
孤立を恐れず
力およばずして倒れることは辞さないが
力つくさずして挫けることは拒否する

左翼の学生運動における言葉だが、青年の心意気を表した名言である。この生意気なぐらい青臭い言葉がピッタリ似合う男が、野村秋介だ。野村は行動者として、特に戦闘者として卓越した人物だった。野村の行動の過激さは、平和ボケした戦後日本=YPジャパンにおける政治運動史に特筆される存在だ。いや、政治運動という言葉は当てはまらない。思想戦争と呼ぶべき炎のような激しい戦いだった。
しかし、野村ぐらい言論を重視した民族派運動家は少ないのではないか。言論人や文筆人などを除いて、民族派運動を実践した人物の中で、野村以上に著作や講演をこなしたのは、野村が敬愛していた影山正治だけではないだろうか。
野村の行動はあまりにも過激であったため、時には孤立するようなこともあっただろう。晩年のように民族派のカリスマ的スターになる以前は、民族派陣営においても毀誉褒貶が激しかったはすだ。敢えて孤立を選んでいたかのごとき激しさだった。
その激しい行動の反面、野村は多くの著作を執筆して、若者たちに呼び掛けている。本を書くということは、自分の思想や信条を多くの人々に理解してもらうだめだ。芸術家きどりの自己満足ならばともかく、思想家であり、運動家である野村が本を書くというのは、自分の思想と行動への連帯を求める発信のはずだ。
連帯を求めて言論活動を繰り広げながら、孤立を恐れず過激な行動を起こし続けた。もっとも野村流に言えば、行動とは肉体言語である。野村は言語において、連帯を求めながらも孤立を恐れず、妥協も屈伏もせず、正義と信念のまま戦い抜いたのだ。
野村という人物は、特異な存在だ。理解される面よりも誤解される面の方が多く、その壮烈なる最後から十年が過ぎようというのに、いまだ毀誉褒貶が激しい。君は野村秋介が好きか?と問えば、好きと嫌いに見事に分かれるはずだ。野村の存在に無関心だという人間は皆無ではないか。それだけ、野村の存在感が凄かったのだ。
野村には行動者や思想家という顔の他、俳人という芸術家の顔もある。句集の『銀河蒼茫』は高い評価を得ており、野村の著書の代表作品と呼んでもよい。もっとも正当に野村が評価されているのは、別の言い方をすれば色眼鏡をかけずに評価されているのは、俳句の世界かも知れない。
僕自身、野村に対する評価が大きくぶれながら、今日まで来た。野村という巨大な人物は、僕なんかの小さなレンズではとらえきれなかったのだ。
僕が、野村と初めて会ったのは、先輩の木村三浩の誘いで、野村の講演会に出席した時だ。若くして亡くなった中村太の紹介で、木村との交流があった。現在は思想的立場を異にする木村だが、当時は親しくしており、木村の紹介で鈴木邦男・阿部勉・犬塚博英(現在は哲爾)・蜷川一誠(現在は正大)の先輩たちとの面識を得た。
日本学生同盟・重遠社の三浦重周の門下として民族派運動に参加した僕だったが、当時は脱退しており、今と同じで何処にも属さずにブラブラしていた。そんな時、木村から、戦線復帰した野村の講演会に誘われたのだ。野村の著書を読む前だったのか、読んだ後だったのかは記憶にはない。しかし、右翼武闘派の雄としての野村秋介の名前は知っていた。あの野村の話が聴けると、僕は木村に感謝しながら出席した。
野村の話に感動した僕は、横浜や新宿、また何処だったか記憶にはなくなったが、あちらこちらの講演に出席した。『銀河蒼茫』や『友よ山河を亡ぼすなかれ』など、野村の著書を貪るように読んだ。
一時期の僕は、熱病に犯されたように、野村に傾倒して行った。そんな僕を心配して、年長の同志が忠告してくれたほどだ。結局のところ、一歩踏み出す勇気がなく、僕は野村ファンのまま終わった。その後いろいろな経過があり、僕は野村ファンからアンチ野村に変わって行った。野村アレルギーともいえるほど、野村の全てが嫌いになった。いや、野村に対する憧れの裏返しからなのか、野村を嫌いになったふりをしていたのだろう。
野村が自決した時、僕は野村が出席するはずだったシンポジウムの会場にいた。もし野村が健在ならば、十数年ぶりに野村の話を聴く席だった。しかし、僕の耳に響いたのは野村の声ではなく、野村の死だった。僕は野村を嫌いなふりをしたままだった。
そして、今は野村を理解しているふりをしているのだろう。だが、前と違うのは、野村を理解しようと、真剣につとめていることだ。
まもなく十年目の群青忌を迎える。何度目の十月二十日を迎えた時、僕は野村秋介を理解出来ているのだろうか。
 あ