2003.01.01

<関東の渡来の史跡その7>
 
多胡碑 「羊に給して 郡と成す」 --- 群馬県吉井町 
 
あけまして おめでとう ございます
 今年もよろしくお願い申し上げます 
 
 











 
 2003年は ひつじ年ですので、「羊さま」 「羊太夫」 として祭られてきた
群馬県吉井(よしい)町の 多胡碑(たごひ) をご紹介したいと思います。
 
 
 
 多胡碑は、牛伏砂岩(うしぶせさがん) という硬質
の砂岩を切り出してつくられた石碑です。
 四角柱の碑身の上に、平らな 「笠石」 が乗って
います。


 碑身は、おおよそ幅60cm×奥行き60cm×
高さ126cmで、前面には、縦6行に80字の碑文
が彫り込まれています。
 和銅4年(711年・奈良時代)、多胡郡が新設され
その郡司が任命されたことを示す内容です。

 笠石は、幅90cm×奥行き90cm×厚さ15cm
ほどの大きさです。
 長年の風雨にさらされてきた多胡碑ですが、この
笠石があったためか、80字の碑文は、今もかなり
鮮やかに残っています。

 文中に 「羊」 という文字が刻まれているので、地元
では昔から 「羊さま」 とあがめられ、また、上野国
(こうずけのくに) における 「羊太夫」 の伝承を生み
ました。
 
 
 多胡碑(たごひ) は、宮城県の 多賀城碑(たがじょうひ) ・ 栃木県の 那須国造碑(なすくにのみやつこひ) とともに、日本三古碑(にほんさんこひ) のひとつとされる石碑です。

 711年(和銅4年)の多胡郡(たごぐん) の建郡について記されており、この石碑も同時期の造立と見られるため、成立年代がほぼ特定できる貴重な文字資料でもあります。

 碑文の読みは、古来、さまざまに試みられてきました。
 特に、文中の 「給羊」 の2字の解釈がむずかしく、いろいろな説が唱えられています。

 しかし、最近では、「羊(ひつじ)」 を人名と考える説が有力です。
 「給羊」 を 「羊に給(きゅう) す」 と読み下して、羊という人物を郡司とし、新しくできた多胡郡を委ねた、と解するのが定説になりつつあります。

 上野国は、今の群馬県に当たるわけですが、ここでは3・4世紀以降、多くの古墳が築かれ、製鉄も盛んであったらしく、たたら跡なども発掘されています。
 これらの古墳文化 ・ 製鉄文化は、朝鮮半島から来住した多くの渡来人がもたらしたものと見られています。

 多胡の 「胡」 という字は、大陸系の民族を意味します。 このあたりに渡来人が多かったからこそ、多胡という地名も生じたのでしょう。
 羊も、この地に定住した渡来人のひとりであったと思われます。

 渡来人の人口は、奈良時代に至るまで増え続けたためか、711年に、新しく多胡郡が設置されることになりました。

 もともと、このあたりには、緑野郡(みどのぐん) ・ 片岡郡(かたおかぐん) ・ 甘楽郡(からぐん) の3つの郡がありましたが、それぞれの一部を割いて多胡郡がつくられたのです。
 おそらく、甘楽郡の 「甘楽(から)」 も、韓国(からくに) や韓人(からひと) の 「韓(から)」 からつけられた地名だったのでしょう。
 新しい多胡郡には、300戸の戸数があったことが、碑文からわかります。

 多胡碑のある場所の地名は、群馬県吉井町の 大字池 小字御門(みかど) となっています。
 「みかど」 というのは、首長の邸宅や役所を意味することばです。
 後世、天皇のことを 「帝(みかど)」 と呼ぶようになったのも、その住居を表わす語が、転じて、その地位を表わす語になったと考えられます。
 したがって、この吉井町の御門(みかど) にも、かつて、羊たちが政務を執った郡の役所があったにちがいありません。

 多胡碑がつくられた約半世紀のちの766年(天平神護2年) には、上野国の新羅人 ・ 子午足(こうまたり) など193名に 吉井連(よしいのむらじ) の姓が与えられたことが、続日本紀に記録されています。
 羊 と 吉井連 がどのようにつながるのかは、よくわかっていませんが、吉井町一帯が、奈良時代を通じて渡来の文化の色濃い地域であったことが知られます。
 
 
 










































































 右から1行目の第2字(「官」 の字) は
損傷が激しいのですが、それ以外の字は、
かなり鮮明に残っています。
 文字は 「薬研彫り(やげんぼり)」 という、
断面がV字型になる彫り方がされています。
 2行目の一番下に 「羊」 の字が見えます。
 
 
 
 
多胡碑の研究家 ・ 尾崎喜左雄による読み下し
 
 
 弁官の符@に、上野(かみつけぬ)の国 片岡(かたおか)の郡(こおり) 緑野(みどの)の郡(こおり) 甘 
 (から)の郡(こおり)A(ならび)に三郡の内 三百戸を郡と成(な)し 羊に給して
 多胡郡と成(な)す 和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)
 (せん)なり 左中弁(さちゅうべん)は正五位下多治比真人(たじひの・まひと)B
 太政官は二品(にほん)穂積(ほづみ)の親王(みこ)C 左太臣は正二
 位石上(いそのかみ)の尊(みこと)D 右太臣は正二位藤原(ふじわら)の尊(みこと)E
 
 
@… 太政官の弁官による命令
A… 3郡とも、現在の吉井町から高崎市・藤岡市の
あたりにあった
B… 秩父銅山の鋳銭司や東山道の按察使を歴任した
多治比真人三宅麻呂(みやけまろ)
C… 天武天皇の皇子で、知太政官事であった人物
D… 石上麻呂(いそのかみのまろ)
E… 藤原不比等(ふじわらのふひと)
 
 
 
 
 碑文を横書きにして書き起こしてみました
 
 
  弁官符上野国片岡郡緑野郡甘 
  良郡并三郡内三百戸郡成給羊
  成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
  宣左中弁正五位下多治比真人
  太政官二品穂積親王左太臣正二
  位石上尊右太臣正二位藤原尊
 
 
 
 
 
 
 多胡碑は、現在は覆い屋が
つくられ、その中に納められて
います。
 
 
 
 
 
 
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「多胡碑」 へは
   上信電鉄 「吉井」 駅の北東 約1km、徒歩 約20分
 
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