『邂逅』
私とあなたの邂逅は、誰に感謝すべきなのか分からなくなるほど嬉しいもの でした。 だからこそ、ただの出会いではすませたくなかったのです。 互いの人生がほんのわずかな期間だけ交差して、その後は一度も接点のない ような、その場限りで終わってしまってもなんら不思議にも思わない、まる で行き交う人込みの中で肩が触れあった多数のうちの一人――というような、 簡単に忘れてしまえるものにだけはしたくありませんでした。 こんなことを口にしたら、あなたは笑うかもしれません。 なんとも突拍子のないことをと、軽い調子で言うのかもしれません。 私はその答えを微笑みながら、黙って肯定することでしょう。 人と人との出会いなど、すべてははじめから決まりきったことなのかもしれ ない。自分たちの思惑とは別に働く、見えない何かを運命と呼ぶのも、人に はどうこうできない未知のものに対する畏怖と諦観の表れではないか、と思 うこともしばしばあります。 ですが、私にとってそんな運命論の是非など、結局はどうでもいいことなの でした。 あなたとの出会いがあらかじめ決定されたものであっても、誰かに操作され たゆえの結果であっても、なんら不服に思うことなど一つもないのですから。 あなたが傍らに存在している奇跡のような狂おしい喜びと、この希有な邂逅 を、常に身近なものとして生きている限り実感していたいと。 それだけを、願ってやみません。 桜は降る花だ。 花の散り際、花弁が降る。風が強い時など、その効果は抜群だ。最盛を過ぎ、 花そのものの命を散らす瞬間までも、人の目をひきつけずにはいられない妙趣 が桜にはある。そういう時、彼らは執念というよりは、あきらめの境地に達し た潔さみたいなものを全身から放出している。古株の年老いた桜ほどその傾向 は強い。感じ取れるか否かのかすかなあざとさと、あふれんばかりの幽玄さを 辺りに振りまいて、見る者の心をみごとに奪う。 しかも降るという言葉が、桜にはとても似つかわしい。他の花だとこうはい かない。まったくの私見だが、梅や桃がいくらまとまっていちどきに咲き誇ろ うが、ただ一本の桜にはかなわないと思ってしまう。説明のつかない圧倒感。 これは桜の時期が巡ってくるたびに、必ず感じることでもある。 降るといえば、桜の散る様は雪が降ってくるのにそっくりだ。冬の鋭利さと、 まどろみを誘うような春の気だるさは、温度の格差に伴って、くっきりとそれ らの背景を分けている。だが積もる時の音だけは、どちらも等しい。どう耳を 澄ませてみても聞き取ることはできない。聞こえたと思っても、それは単なる 風の音でしかない。雪も桜も切片は軽く、軟着陸する瞬間を鼓膜がとらえたこ となど、一度としてない。 今も一応実践してはいるが、いっこうに待ち望む音など聞こえてこなかった。 桜の木の根元に体を投げ出して、大の大人が二人して寝転がっている光景は、 おそらく傍目にはそれだけで不可解で奇妙だ。 「……聞こえました?」 「ぜんぜん」 短い否定の答えが返って、バルトが仰向けの体勢からごろりと寝返りをうっ た。地面に散った花びらがふわりと乱れ、主の体にまとわりつく。 「ちっとも聞こえやしねえ。やっぱ無理だぜ、花びらの落ちる音を聞こうなん ざ」 「今日は風もないんですがね」 顔を上向けたまま腕を伸ばす。上げた手指に空気の流れはほとんど感じられ なかった。 その指の間から、降ってくる桜の花びらが見える。やはり音はない。小さな 破片が薄紅の雲から剥がれては落ちてくる。その雲の向こうには、もの憂げに 霞んだ青空が広がっている。今は花枝のわずかな隙間に申し訳程度に見えるく らいで、その青さもどこか遠い。 バルトは片肘をついて上体を起こすと、あくびを一つかみ殺した。子犬のよ うな仕草はにわかに稚気を帯びて見え、なんとはなしに苦笑を誘った。 「やはり眠いですか?」 「さすがにちょっとな。おまけに天気がいいから余計に眠い。睡魔が目の前で 魅惑のダンスを踊ってる最中……」 語尾がにごる。そうして口元に手を当てた。再度のあくびはかみ殺せなかっ たらしい。昨夜遅くまで仕事をしていたのだから、眠いのも当然だろう。もし かしたら私が退室した後も続けていたのかもしれない。 俺ももう休むから、と言った彼の言葉を信じて自室にひきあげたが、バルト がベッドに入るまで見届けるべきだったか、と後悔の念が一瞬よぎった。だが それを実行しようものなら、バルトに「俺は子供じゃねえんだぞ」と言われて しまうのは目に見えている。憮然とした一言は額面通りの「子供扱いするな」 と「俺を信頼しろよ」との二種類の意味が込められているのも分かるので、こ ちらの無理を通すのも自然はばかられた。 確かに成人を迎えた人間に対して、行き過ぎた心配かもしれない。それでも 心の内に「性分なのだから」と、つい自分の行為を正当化してしまう部分もあ ったりするのだ。小さい頃からそばにいて、彼の世話をしているとあっては尚 更だ――と考える自分にはっとしては、これではいかんと自責するのも毎度の ことだ。この点については我ながら情けないことだが、まったく進歩が見られ ない。 「寝てしまってもいいですよ。今日一日は完全にオフですし」 昨夜の睡眠時間には言及せず、まぶたをこする眠たそうな主に控えめに進言 する。持参してきたブランケットを示してみせたが、不満そうに彼は眉根を寄 せただけだった。 「んなもったいねえことできるか。こんな貴重な日に」 「寝不足解消にはもってこいの日ですよ。天気もいいし暖かいし」 「そうじゃなくて……」 バルトがため息をつき、何事か言いたげな風情になった。しっかりとこちら を見据え、持ち上げた人差し指をつきつける。 「分かってねえな、お前。せっかくシグが一緒にいるってのに、一人だけ寝ち まうなんざアホのすることだろうが」 出来の悪い生徒に言い聞かせるような口調。不快さなど当然感じなかった。 とっさに奥歯をかみしめ、唇を引き結ぶ。嬉しさのあまり表情筋がゆるんで、 とんでもなくしまりのない顔をしてしまいそうになる。 何の反応もない部下を不審に思ったのだろう、ややぶっきらぼうな問いが彼 の唇から洩れた。 「なんだよ。俺の言ってること、どこか間違ってるか?」 「――いいえ、と今答えたら、私はやはり傲慢なのだろうな、と思いまして」 しみじみと感じ入ってのつぶやきは、なんともすげなく返された。 「何を今更。お前が傲慢なのはとっくの昔に知ってる」 「……若の趣味は、人を落ち込ませることでしたか?」 「自分で変な返し方しといて、人にそう言うか。否定して欲しけりゃ、お前の 今までの行い反省してみろ」 嬉しさの中に、この人は、と苦笑する思いが混じる。決して嫌な感情ではな いので、ためらうことなく尻馬に乗る形で応戦した。 「むしろ傲慢は若だと思いますがね」 穏やかに反論してみせる。 「誕生日のケーキは、チョコレートのスポンジに生クリームを使ったイチゴの 乗ったやつじゃなきゃ嫌だと言って、ハンストに及んだとか、私がよしなさい と止めたにもかかわらず恐い本を読み、挙句夜になって『俺が一緒に寝てやる』 と親切にも人の寝室にいらした、散々わがままをおっしゃっていたかわいらし い方はどこのどなたでしたっけ?」 「あ、てめぇ! そんな昔の責任取れねえような、ちっせー頃のこと持ち出す んじゃねえよ、卑怯者!」 腹ばいになっていた主ががばりと上体を起こした。 なにしろ反論材料は山ほどある。ありすぎて、どれを出そうか迷うくらいだ。 こんなことで優越感にひたっていてはいけないのだろうが、なまじ手ずから育 てただけにその意識は改めることができず、かえって増長する一方だ。 いちいちむきになる彼の反応を楽しんでいるなどという内実をバルトが知っ たら、憤慨を通り越して終日無視を決め込むに違いない。だが、翌日には向こ うから口をきいてくることも分かっているので、それほど深刻な事態にはなら ないことも承知している。彼の性格が無視などという陰湿手段には向かないこ とと、居心地の悪さを伴う辛抱にはまったく耐性がないという二点において、 結論は明らかだ。 それを思ったら、また苦笑がこみあげてきた。 「卑怯ではなく、事実をありのままに述べただけじゃないですか」 「俺が反論できないの、分かった上で言ってるだろ。あーイヤだ、いるんだよ なこういう奴。事あるごとに昔の失敗とか思い出を引き合いに出して、得意が るようなのが。そういう手合いをなんて呼ぶか知ってるか?」 「さあ?」 次の答えは大方予想できたが、わざとらしく首をかしげた。 「陰険年寄りって言うんだ、覚えとけ」 「さて、こればかりは……。年寄りは忘れっぽいですからね」 「涼しい顔して言うところが、すっげえ嫌味」 「若を育てた特権、振りかざして何が悪いっていうんです?」 切り札をかざしてみせる。やれやれとバルトが頭を振った。 「ここで開き直るか、普通? 性格の悪さがにじみ出てるぜ……」 「おあいにくさまでした。私は元からこういう性格です。とっくにご存知のは ずでしょう?」 こういう取るに足りない応酬をしている時が一番、バルトは屈託がなく、素 の顔を存分にさらけだしていると思う。彼自身の顔に戻っているのだ。だから こそ、制約の多い生活の中で私達の小さな笑いと少量の棘の混じったやり取り は、不可欠だった。様々な要求に精力的に応じ続けているバルトは一国の大統 領でもあるが、若干二十歳の青年でもある。時々は身近な者が、彼を年相応の 本来の顔に戻してやらねばならない。 「なんでしたら、もっとよく知っていただく機会を提供しても構いませんが」 駄目押しとばかりに言葉を重ねると、声にならない呻きを発し、バルトは脱 力したように地面に突っ伏した。その様をくすくすと笑って、彼の頭に手を伸 ばす。頭髪を軽く撫でてやると、重ねた腕から顔を上げ、上目遣いで見上げて きた。その眼差しにはいくらか恨みがましさが含まれている。それも何食わぬ 顔で流して微笑んで、再び頭上に目を向けた。 相変わらず花びらは降ってくる。静寂の中、引きも切らない。 ここだけ、時間の流れ方が違う。自分たちのいるこの場所だけが他のどんな 場所とも異なっているように思えた。あくせくとした日々から隔絶された空間。 いつもとは明らかに違う、ゆったりとした時の流れ。かすかに漂う花の香り。 浮かぶ淡い色彩。それらに取り囲まれ、花の散る様を眺めていると、いつにな い穏やかさと気だるさがじんわりと体に染み込んで、指先にまで満ちていくよ うだった。 「シグ」 ふいの声に、眼差しを向けた。腹ばいになったまま、バルトは揃えた両腕に 顎を乗せている。切り出そうかどうしようかと迷う、どこか居心地の悪い表情 だ。だがためらいを押しきって、彼はそのまま言葉を紡いだ。 「お前はさ、その、ないのかよ? 欲しいものとか、して欲しいこととか」 「……いきなりですね」 にわかの問いは、まったく予期せぬ方向から投げられた。先程の彼ではない が、わずかに不審さが先に立つ。 「だって俺ばかりじゃないか。あれしたい、これしたいって言ってるの。なん か久しぶりに解放された気分で花見てたら、そう思えてきちまって。今回の休 みだって、それで取ったようなもんだったろ? 拘束されてるのはお前だって 同じだ。だからシグには、俺みたいな要求ってないのかって……」 意外さに、ほんの少し胸を突かれた。 彼は時折こんな風に、一歩ひいたようなしおらしい尋ね方をする。いつもの 元気と強気はどこへ行ったのか、と思う反面、その格差に一瞬慌ててしまう。 計算ずくなどというある意味器用な真似を、バルトは苦手としている。政治 の場ではそんなことはおくびにも出さないのだが、私の前でだとベールをはい だように若き指導者としての印象は嘘のように希薄になる。 素直すぎるせいか、感情の細やかな機微を武器に、みずからを演出してみせ るなどという芸当もバルト自身あまりしようとしない。できないのではなく、 しない。性に合わないという理由で敬遠しているらしい。必要に迫られた時以 外、最低限の範囲でしかそういう行動は起こさない。だからこそ彼の無意識の 行為は、こちらに構える余裕を与えないだけに、少しばかり質が悪いと思わず にはいられなかった。 「そうですか? 今日のために通常よりも必死に仕事をこなしていたんですか ら、休暇は取ってしかるべきものでしょう。それに若はよく我慢している方だ と思いますよ。……以前の奔放さに比べれば」 己の狼狽を払拭し、主に悟られぬために軽い皮肉をつけ足した。 「最後の一言はよけいだ」 「そう思えるようになっただけ、成長している証拠です」 「……で? 何かないのか。俺の出来る範囲内だったら、何でもするぞ」 決まり悪さを振り払う咳払いを一つして、バルトが再度尋ねた。ふとした悪 戯心が頭をもたげた。上体を起こす。 「本当に、何でも?」 「何でも」 「では――」 彼の耳元に唇を寄せた。他に誰がいるわけでもないのだが、辺りをはばかる ように声を落とし、素早く耳打ちする。耳に吹き込まれた声音が消えると同時 に、バルトが勢いよく起き上がり、これまた音を立てて勢いよく後ずさった。 「何ぬかしやがる、このエロオヤジっ!!」 開口一番の悪態が遠慮なく響いた。木の幹に背中をぴったりと張りつけ、バ ルトは真っ赤になって耳を押さえている。こういう反応を見せるから、いつま でたってもこのからかい癖は直らない。どんどんエスカレートして、今では習 慣づいた悪癖となりつつある。そんな現状を嘆きつつ、同じくらい楽しんでい るのもまったくの事実だ。 「……なんともストレートなお言葉ですね」 「もっと建設的なことかと思いきや、なんじゃそりゃっ!?」 「軽い冗談だったんですが。まさか若がここまでうろたえるとは思ってなかっ たもので」 幾ばくかの揶揄と苦笑を込めて思わせぶりに見やると、彼は赤面した顔を更 に赤くさせた。からかいを本気に取った己の失態を私に見せてしまったことが、 心底悔しいらしい。 「……言っていい冗談と、そうでないものの区別くらいつくだろ?」 「ただ単にあなたがどういう反応を示すか、興味があったんですよ」 特上の笑顔を浮かべてみせる。バルトは何か言いかけたが、結局はぐっとこ らえて口をつぐんでしまった。だんまりを決め込むその表情が不機嫌そのもの なので、よけいにおかしい。 意地の悪いことだが、こういう拗ね顔をいつまでも眺めていたい衝動にから れてしまうのも毎度のことだった。バルトの場合、打てば響くような素直な反 応が返ってくるので、やめておけばよいのについついからかいたくなってしま う。彼が憤慨する原因が、自分にあるということが分かっていてもだ。 からかいがいのある人物というのは、大抵相場が決まっている。何より性格 が素直で、正直であること。バルトがいい例だ。 損ねてしまった彼の機嫌は自分の手で直す。そうでないものも同様に、とい うのが、私の昔からの決め事でもあり定石だった。 「……今のは冗談としても。本当はね、ありますよ。一つだけ」 さわりと風が吹いて、穏やかに枝を揺らした。ほろほろと花が落ちる。わざ とバルトを視野から外すと、そっぽを向いているはずの彼の興味と視線が微量、 こちらへ向いたのを感じた。 「でもそれはもう叶っているんです。だから特に口にする必要もないかと思っ ていましてね」 「……そう言われたら、よけい気になるだろうが」 ぶっきらぼうさが好ましい。それでも言葉を返してくれるのがいかにもバル トらしかった。 「若の心労を増やす必要もないでしょう?」 「茶化すなよ。俺は本気で訊いてるんだからな」 「もちろん、そんなつもりは微塵もありませんよ」 「あんまり物欲なさそうに見えるんだよな、お前。何かに固執してるのも見た 覚えねえし」 言って膝歩きをして、隣に腰を下ろす。そば近くにバルトが来たことで、自 然気持ちが和らいだ。機嫌を直しかけている手応えに、現金ながら舌も滑らか になる。 「とんでもない。これでも人並みに程度には欲も執着心もありますよ」 「そっか、そういやあったな。アメやらチョコレートやら。甘い物には目がね え」 「確かにそれもありますが」 バルトの髪についた花びらに気づき、腕を伸ばす。指先につまんだ花弁は薄 く、あまりにも頼りない。それを落とし、苦笑に混ぜて本心を語った。 「昔から固執していたのは、別のものです。執着心はずば抜けて強かった。今 もそれは変わりませんが。――要するに私は、あなたに関してだけは欲深なん でしょう」 1ミリたりとも変わらぬ事実をこともなげに告げた。バルトが一瞬押し黙る。 「……いちおう喜ぶべきところなんだろうな、ここは」 「なんですか、その客観的な態度は」 「あんまりストレートに言われたんで、ちょっとひいた」 「胸にぐっさり刺さりましたよ、今の言葉」 バルトの滅多にない意地の悪さが顔を見せる。意趣返し、とつぶやいて彼は 舌を出した。子供のような無邪気さが微笑ましい。こちらはこちらで澄まし顔 になる。 「素直に嬉しがってくれないと、すねますよ」 「お前がすねていじけてる姿なんて、想像できねえなあ」 「地面にしゃがみこんで涙でのの字、書いてみせましょうか?」 「――頼む、それだけはやめてくれ。なんかシグのイメージ狂って、心臓に悪 い」 その姿を思い描いたのか、バルトが情けない声で額を押さえた。吹き出した 私にあきれたような一瞥を投げてきたが、自分の想像のおかしさを改めて思っ たのだろう、こらえきれない笑いを洩らした。そうしながらも彼は、こちらの 言葉を真剣に受け止めてくれたようだった。 「俺が小さい頃から、いっつも目をかけててくれたもんなお前。ものすごく安 心するっていうか。何があっても絶対俺の味方でいてくれる、なんて思ってた からなあ。物心つく前から何の根拠もなしに。ほとんど確信してた。なんでだ ろうな。……うーん、こういうところがやっぱ傲慢って言われる原因か?」 おどけた口調で言葉は続く。 「でも俺の本心だからこれも言っとく。――素直に嬉しい。それと、ありがと」 いくらか小さな声での告白だった。笑顔での答えは満足どころか、それ以上 のものをもたらしてくれた。胸郭が嬉しさで満ちてゆく。昂揚感のせいか、全 身の血がざわりと騒いだ。それらを鎮めようと目を伏せ、バルトに悟られない ようゆっくりと息を吐く。 「気にすることはありませんよ。私はしたいようにしているだけなんです。若 が嫌だと言ってもどこまでもついていくつもりですし、死ぬまであなたのそば を離れようとは思いませんし。私のこの考えや言動について責められることは あっても、感謝されるいわれのあることだとは思っていないんです。結局は自 分のエゴを満たしているにすぎないんですから。だから若にそんな風に言われ ると、かえって身の置き所がないような申し訳ない気分になりますよ」 「なんでそんな気分になるかな。申し訳ないだなんて水くさい。俺とシグの仲 だろ。嬉しいって思うだけで、後は打ち止めしときゃいいじゃねえか」 「私はひねくれてますからね。考え方も感じ方も人よりひねくれているんでし ょう」 「……矛盾してるな、お前の心理。理解しがたいぞ」 首の後ろに手をやりながら、バルトがため息をついた。 「シンプルに考えれば楽なのによ。わざわざ複雑にするんだから、気が知れね え。もっとわがままになるべきは俺じゃなくて、むしろお前じゃねえの? さ っきは傲慢って言ったけど、そういうところだけは変に謙虚すぎるし」 「そうですか? でも全部分かって欲しいなど、そんなだいそれたことは望み ませんよ。どうせなら若干の理解でとどめておいて、あとはこういう方法でお 互い分かり合える方が尚いい――」 言いさして、彼の顎をつまみあげる。警戒心が起きる前の、主の無防備さを 突く俺の卑怯にこっそりと自嘲の笑みを浮かべ、軽く仰のかせる。そしてその まま唇を重ねた。刹那、触れただけの口づけにバルトが対処できるゆとりがな いのを見越して、もう一度やんわりと唇を奪った。相手の抵抗はまだない。そ れをいいことに更に深く唇を合わせた。 丹念に舌を絡め、バルトを存分に味わう。向こうは観念したのか、危惧して いた突き飛ばされるというような拒否もなかった。呼吸の一瞬ですらもったい なく思える。いとしさで胸がつまり、そのはけ口は当の本人へと向かう。顎を 支えていた指先を滑らせ、てのひらでバルトの頬を包んだ。ありったけの想い を込めて口づける。 とうとう彼の手が力を込めて腕をつかんだ。酸素を求める合図を機に、互い の顔が離れる。名残惜しさを振り払い、先ほどの続きをにこやかに口にした。 「――とは思いませんか? 私好みのやり方ですが」 長めのキスは思ったよりバルトを翻弄したようだった。彼にしてみれば不意 打ちなのだから、まったくもって不本意の極致だろう。 「……っとに卑怯だな、お前。空前絶後の、卑怯者だ」 握った拳を唇に当て、乱れる息を狼狽した態度と共に立て直そうとするバル トの様子に、にっこりと笑ってみせた。罵声が罵声に聞こえない。負け惜しみ でしかないことは、バルトを一目見れば分かる。潤みを増した目がにらみつけ ても何の効果もない。それにこういう時にこそ余裕の笑みを浮かべ、恋愛にお ける優位な立場をさりげなく誇示するのが年上の賢いやり方というものだ。そ れを忘れるほど間抜けでも物忘れが激しいつもりもなかった。 「若になんと罵られようとも、これだけは曲げられませんね」 「あああ、こんな扱いづらい奴と花見なんて来るんじゃなかった……」 バルトの首ががくりと垂れる。その意見ももっともだと内心苦笑しながら、 意気消沈したかのような彼の肩をつかみ、そっと押し倒した。散らばる花弁が 勢いに押されて浮き上がる。薄紅の色彩の中、仰向けになったバルトが黙って こちらを見ている。非難もせず、文句も言わず、ただこちらの言葉を待ってい る。 だから、するりと言葉が出た。 「それでも私はあなたと来られて、本当に嬉しいですよ。この上もなく」 バルトが目を細めた。光のせいか、それとも別のもののせいなのかはよく分 からない。 「若と一緒にいられる時間がこのままずっと続けばいいと、それだけをひらす らに願っていますから」 見下ろすこの人こそが、己の感情の源。祈りにも似た真摯な願いを告げて、 彼の額に唇を落とした。そうして主の隣に寝転がり、花枝を仰ぐ。 望むものなどバルト一人きりだ。他に何かあるのなら、それこそ教えて欲し い。きっと私は他に何も望まない。望めるものがたった一つあるだけで、こん なにも満ち足りてしまう。これ以上欲しいものなど何もない。 切望する存在を、自分の中ではっきりと確認する。もう何万回と繰り返して きたことだ。そしてこれは変わらぬ事実でもある。 「……人と人との出会いってさ」 それまで黙りこくっていたバルトが口を開いた。独り言とも思えるような、 つぶやきに似た声音。だがそれは聞かせる相手を意識しているように、徐々に 強さを帯びてゆく。 「分からねえもんだよな。それまで築いていた価値観が、全部ひっくり返るよ うなことだってあるだろ、実際。相手次第でさ。で、俺にもいたわけよ。そう いう奴が」 バルトの手が、投げ出していたこちらの手を握る。 「ここに」 温かな感触がてのひらにある。バルトの顔は見えない。そのまま目を閉じる。 まぶたの裏に、残像となった桜の色彩が白い鮮やかさを添えた。これほど胸に 染みる言葉はないと思った。 「お前がエゴ押しつけてるんなら、それでいいじゃねえか。俺のエゴとシグの エゴは同じなんだと思えよ。だけどそれでもまだ申し訳ねえと思うなら、しょ うがない。俺はもっと大きなエゴをシグに押しつけてやる。覚悟してろよ。申 し訳ないだなんて思える暇、与えてやるほどハンパじゃねえぞ、俺のわがまま は」 「……そうですね。肝に命じて、おきましょう」 よし、と満足げな声が耳に届いた。 この人との邂逅を自分に授けたのが誰であってもいい。それがたとえ悪魔で あっても構わない。今まで知りえることのなかった情熱を、知った時の喜びは 他の何にも替え難い。奇跡に等しい邂逅を実感し、泣きたくなるような切なさ をひっそりとこらえる。それすらも嬉しい痛みでしかなかった。 手をつないだまま、バルトが頭上を指差す。 「ほら、花びらの音聞くんだろ? 真面目にやらねえと、いつまでたっても聞 けねえぞ?」 うなずきを返したが、もはや花の降る音に当初ほどの興味を感じなくなって いた。そもそもがバルトと長く花見をしたいがための口実だったのだ。方便に してはなかなか上出来だったとは思うが、彼の声を聞けるという魅力には遠く 及ばない。 滅多にない貴重な時間をもう少し延長させたくて、わがままを言ってみた。 「聞こえるまで、おつきあいいただけます?」 バルトが大きくうなずいた。無言の即答には手放しで喜べたが、その後のセ リフは少々いただけなかった。 「酔狂な部下につきあってやる俺って、優しいよな」 半ば同意を求めていた応えに、やんわりと切り返す。 「その優しくも手間のかかる上司の面倒を見ている私は、もっと優しいでしょ う?」 「……はいはい、優しい優しい」 誠意のまったく感じられない言葉だが、それもまた耳に楽しい。 視界が急に陰った。起き上がったバルトがこちらの顔を覗き込んでいる。先 ほどと立場が逆転したかのような体勢に、バルトの意図を悟った。次の行動を 待つ。声には出さず、唇が動いた。桜の降る音を遮らないように、との配慮か らか、このまま読み取れという仕草に、主の無音の言葉を受け止めた。 「……ええ。私も、同じですよ」 真情に真情を返すと、満足そうに笑った。喜色がバルトの顔いっぱいに広が った。更に翳る視界に目を閉じる。押し当てられた唇を感じ、そのまま重みを 増す彼の体をしっかりと腕に抱きとめた。 絶間なく桜が降る。降って降って、視界が煙る。 雪は溶ける。桜は溶けない。それだけの違いではあるが、溶けずに残るおび ただしい花びらの中、今のこの瞬間を永遠に焼きつけてしまいたいと強く思っ た。 <終> 毎年恒例(?)になっている桜のシグバル話でした。時期的にはバルト就任後、 ってところでしょうか。この話、拙宅の桜話とは何も関連づけてません。 シリアス要素をとっぱらって考えたので、甘さは通常程度はあるかと思います。 甘さあってこそのシグバル、ということを書いていて強く再認識。 しかしシグルド、バルトになんと耳打ちしたのでしょうか。 ……すぐに思い浮かんだ方、同志です(笑)。 |