『異称の月』








 風が耳元で鳴った。
 襟首に忍び込む夜気に思わず首をすくめた。外は存外に寒い。
 半ばまで押し上げたハッチを完全に開き、体を押し出す。
 そうして辺りを見回した。
 外は闇。極上の闇。
 とろりとした濃密な闇は、とらえどころのない不確かさですべてを押し包む。
 まるで女の繊手のように。
 細腕に囲われた者は後悔も嘆きもいっとき忘れ、束の間休らうことができる。
 今抱きとめられているのは、闇にほどよく溶けるさざれの星々だ。
 だが、数多ある小さな輝きも、今夜はまったく色褪せて見えた。
 首座におわすは、今宵の主役。
 冷たい空気の中、彼女は独り虚空に佇んでいた。
 天頂にかかる、完全な円を描いた月。
 まろやかな曲線はどこかなまめかしい。
 月の海と称される窪みでさえなめらかに、面に微笑を刻んでいるかのようだ。
 彼女は晧晧と照っていた。
 月輪という月の異称に、なんとも強くうなずきたくなる晩だった。
 風に乗って届く人声を頼りに目を凝らし、歩き始める。
 艦上のあちこちで、人々は小さな固まりを作っていた。
 それぞれがささやかな酒肴を持ち寄って、気ままに酒を酌み交わしているの
だ。
 少し歩いて、ようやく先の一群の中にそれを見つけた。
 空には、蜜色の月。
 行く手にも、同じ色味の月がある。
「そろそろ引き揚げる時間ですよ、若」
 呼びかけた声に、座りこんでいた主は緩慢に手を挙げた。
 一緒に飲んでいたクルー達に暇乞いを告げて、のろのろと腰を上げる。
 珍しく大人しく従ってくれたと思ったが、歩き出した途端、彼はよろめいて
ころびそうになった。駆け寄り、慌てて体を支える。
 からかいの声をかけるクルーに笑顔で一声二声返し、バルトはようやく歩き
出した。
 完全に酔っている。
 未成年だからとか、固いことにはこの際目をつぶるとしても、少々飲み過ぎ
の感は否めない。
 そっとため息を落として、苦言を呈した。
「ご自分の酒量を考えていただきたいですね」
「まだ自分で歩けるくらいだから、だーいじょーぶ」
 歌うように節をつけて、バルトは何がおかしいのかけらけらと笑った。
「酔い過ぎですよ」
「こんな月の綺麗な晩に、飲まない方がおかしいんだよ」
「私は飲めないんです」
「そーでした。まったくもって、それは残念」
 降り注ぐ月光を背に、ハッチを開く。こちらが先に降り、足もとに注意する
よう彼を促した。
 危なげな足取りで、どうにかバルトが段を伝い降りる。だが安心したのも束
の間、床に足をつけた途端、彼はまたもやふらりとよろけた。よろけた体がこ
ちらに倒れこんでくる。抱き止めて、安堵の息をついた。下で先に待機してい
て、本当によかったと思う。
「……っと、あぶねーあぶねー」
「どこが大丈夫なんですか、もう」
「すべては月が、悪いのでございます……」
 普段の口調とは別物の、やけに丁寧な言葉使いでそんなことを言う。そして、
バルトはその目をふっと上へと向けた。思わずつられて、その視線の先を辿る。
 ハッチは開け放したままだ。その円形に切り取られた空間に、月が遠く浮か
んでいた。冴え冴えと光る、凛としたその威容。だが一方で、口に含めば甘く
溶けてしまいそうな色合いが、月の硬質さをうまく和らげている。
 ぽつりと洩らしたバルトの一言が、なんともしみじみと聞こえた。
「こんな月を眺めながら酒が飲めたんだもんな……。今日はいい日だった」
「一日の良し悪しを決めるのは、確かにその人自身の見方次第ですがね」
 こちらに体重をかけたまま、いつまでたっても自分で立とうとしない主を見、
ふと先ほどの光景が脳裡にひらめいた。彼を見つけた時、思ったのだ。それが
そのまま、口をついて出る。
「そういえば私、月を拾いましたよ。今夜」
「月?」
「そう。綺麗な蜜色をした月を。ちょうどこんな色をしていて」
 バルトの髪をひと房指に取り、口づけた。戸惑ったような表情がすぐに笑顔
に取って変わる。くすぐったそうな笑みが満面に広がった。
「すっごい拾い物だな?」
「ええ、まったく。空に月があるのに、地上にも月が落ちているんですから。
――あなたを、難なく見つけ出せたのがとても嬉しかった」
 返事は無言の所作で返ってくる。伸ばした両腕が、こちらの背に回った。
「酔っ払いの月なんて、なんともカッコつかないな」
「酔っ払えるあなたが、いっそうらやましくも思えたりしますがね」
「……なら、シグも」
「はい?」
「シグも、酔っ払ってみるか?」
「どうやって? 私はアルコールは飲めませんよ?」
「別の物でも酔えないか?」
「何でなら酔えるとおっしゃるんです?」
 薄々勘づいた事実を、彼の口から直接聞きたくて、わざと知らん振りをした。
 肩口に押し当てていた顔をバルトが上げる。ためらいのない答えが柔らかく
耳朶に染み込んだ。
「お前が今夜、拾った月で」
 言って、にやりと笑う。秘密を共謀するような、なんとも言えない表情だ。
 酔っているせいか、いやに大胆な発言をする。いつもなら目にする羞恥のか
けらも、今は見当たらない。酔眼の、焦点のはっきりしない、いくらかぼんや
りした目つきではあったが、確固たる申し出は再度確認するほど不確かなもの
ではなかった。
 こちらも同じ微笑みを返し、承諾の意を返した。
「存分に酔わせていただきましょうか」
「二日酔いには注意しろよ?」
「重々承知しております」
 見交わす瞳の中に互いの意思を通わせる。夜気に冷えた彼の体を、静かに腕
に抱き込んだ。
 そうして洩らしたバルトの吐息を塞ぐように、甘くひっそりと口づけた。











<終>




中秋の名月ということで、月の話をば。短小です。
これを書き上げるのに2時間ほどかかってます。
果たしてこのスピードは遅いのか。
……遅いんだろうな、きっと。
酔っ払ってると、バルトってけっこう大胆そうです。
という印象を勝手に膨らませた妄想ブツでした(笑)。
副長にしてみれば月見団子より、棚からぼた餅ってところでしょうか(笑)。





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