学校放送のはじまり
(1931-45)


目次

学校放送のはじまり 

全国放送の開始から正規の教材へ

戦前の学校放送受信機(1) 都市部の全校型放送装置 (加筆訂正)

  全校用拡声装置 菅原電機部 1937年ころ

戦前の学校放送受信機(2) 山間部の電池式学校放送受信機 (加筆訂正)

  改造電池式受信機研究会C型受信機 1935年頃

戦時下の学校放送 (加筆訂正)

  ナショナル 国民10号型拡声装置  松下無線(株) 1942年 

参考文献

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学校放送のはじまり (1)(4)(5)(6)

学校放送は、1931年の第2放送の開始に伴って企画されたが、当初は教育を管轄していた文部省との関係で、成人教育や放課後の子供向け放送、ラジオ体操などに限られた。東京中央放送局では、教育の管轄を独占しようとする文部省と、放送に関する管轄を維持しようとする逓信省(教育放送について文部省の干渉を許すと、報道などに内務省が干渉してくることを恐れていた)の間に挟まって、大胆な動きはできなかった。
東京でも第2放送の開始に伴って教育放送が始まったが、学校向けを避けた無難な内容にとどまり、用意されたテキストも売れず、発足したばかりの日本放送出版協会の経営危機を招いていた。(11)

ラジオ体操は放送開始後間もない1928年から始まったもので、一般に普及するにしたがってレコードなどを通して学校でも行われるようになった。このため名古屋放送局では1931年12月から学校始業前の7時50分から10分間のラジオ体操の放送を開始した。大阪放送局では第2放送の開始に伴って1933年9月より7時50分(冬季は8時50分)から「学校へのラジオ体操」として放送を開始した。学校へのラジオ放送の導入はラジオ体操で始まったといえる。(3)

本格的な学校放送は1933年の大阪第2放送の開始による大阪ローカルで始まった。大阪放送局側でも文部省に対して十分な配慮がなされたが、東京から離れていることもあって大阪逓信局が文部省に遠慮せずに認可したといわれる(11)。これも朝のラジオ体操、昼休みの音楽、放課後の教師向け番組などに限られ、授業時間中に聴取するものではなかった。次に紹介するのは初期の学校放送の様子を伝える貴重な写真である。


名古屋市立弥富小学校における教室放送の写真(絵葉書より) (個人蔵)

この写真は、1932-33年頃のものと思われる、愛知県内の小学校の校内放送の様子である。円内の送出側では教員がライツ型カーボンマイクの前に立ち、その奥の机上に大型のアンプ兼用と思われる受信機と数個の大型乾電池、手前の机上にマイクのケースが写っている。電池式の受信機なのか、マイクまたはベル、電話などに使う電池なのかは不明である。教室の壁には小さな棚が付けられ、家庭用のスピーカが設置されている。

全国放送の開始から正規の教材へ

放送開始10周年に当たる1935年4月15日午前8時、全国向け学校放送が開始された。最初の全国向け学校放送は松田文部大臣の挨拶から始まった。この時には大阪での実績などから、文部省の学校放送に対する理解も得られていた。当初は第2放送の利用法として考えられた教育放送だが、全国放送開始により、第1放送で実施されることになった。放送番組は大きく分けて「小学生の時間」「幼児の時間」「教師の時間」の3つであった。

「小学生の時間」は、月曜朝の朝礼向けの訓話を除けば現代の学校放送に近いものである。「幼児の時間」は、学齢前の用事に対する情操教育、そして教師の時間は教師向けの修養資料として放課後に放送された。(3)放送の開始にあわせて学校向けの連絡誌「学校放送」が発行され、教師用テキストに発展していった。

開始から1940年までの学校放送は、正規の教科の補助的存在にとどまり、一部の進歩的な考えを持つ学校で取り入れられたに過ぎなかった。1941年、国家は戦時体制となり、小学校は国民学校と改称された。そして国民学校令施行規則第41条として「文部大臣ノ指定スル種目ノ放送ハコレヲ授業ノ上ニ使用スルコトヲ得」の一文が入ったことで、学校放送は国民学校令によってはじめて正規の授業として認められた(11)。1941年には学校に対するラジオの普及率は75%になった(2)。

「学校放送」の名称は、「国民学校放送」に改称された。これにより文部省の監督が強化され、教科書の検定に近い形での監督が実施された。太平洋戦争開戦以降は学校放送にも戦時色が濃くなり、1942年からテキストの名称は「戦時国民学校放送」に変更された。1944年以降、生徒の勤労動員の強化に伴って教育放送の放送時間が縮小され、1945年度に入って休止された。

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戦前の学校放送受信機(1) 都市部の全校型放送装置

学校放送が正式に始まる前から、ラジオ体操や運動会、体育館で行われる行事などのために、電気蓄音器や、拡声装置を備える学校があった(7)。「学校放送」という用語には、ラジオ放送を利用した教育放送のほかに、拡声装置を利用した校内放送の意味もある。後者の学校放送は、正式なラジオ放送の開始を待たずに一部の進歩的な学校では利用されていた。1935年に学校放送が全国放送として正式にスタートすると、ラジオメーカが拡声装置を学校用として販売するようになった(8)。しかし、教師やアマチュアが組み立てたものや、ラジオ商が組み立てたものには、当時電蓄用として一般的だった247などを使った出力10W以下のアンプが多かったが、これでは小規模な学校ならともかく、スピーカを2-30個駆動するのには十分ではない。このようなシステムの横行は、スピーカがマグネチックであることもあって、後年「全校式放送装置は音が悪い」という評価につながった。

1937年頃から、受信機を備える学校が増えていった。この頃、学校放送1型と呼ばれる全校放送用拡声装置が開発され、一部の学校に設備された。小規模な学校では、家庭用の受信機を備えることが多かったが、都市部の大規模な学校では、ラジオつきの拡声装置を備え、各教室にスピーカを付けて一斉放送を行う全校式放送装置を設置した。1941年の調査によると、全校式放送装置を持つ学校は、全体の34%であった(2)。各教室で放送を受信できるようにするには、スイッチボードで特定の教室に送出できるようにすることが一般的である。しかし、学校によっては教室側でスピーカのON/OFFができるようにしたものもあった。ただし、こうすると一斉放送したいときに問題が出る。このため、このタイプのシステムでは、スピーカを入れさせるため、一斉放送時には、授業開始に使う、古典的な「鐘」の合図が使われたという(9)。

次に紹介するのは大型の全校式装置を備えた都市部の小学校の写真である。

 
絵葉書:福岡市春吉尋常小学校 校舎と放送室 1936年頃 (個人蔵)

ここで紹介した図版は、福岡市春吉尋常小学校(現:福岡市立春吉小学校)の絵葉書である。1936年に竣工した鉄筋校舎と、学校放送の制御卓が写っている。パネルの中央にラジオのダイヤルがあり、カーボンマイクとモニタースピーカが見える。同校は福岡市の中心地、天神に近く、最盛期で生徒数2,000人を越えるような大規模校だった。パネル右側のスイッチの数が学校の規模を示している。現在は市街地の児童数減少により、生徒数は200人以下になっているという。

次に、当時の最高級と思われる学校放送システムを紹介する。この図版も絵葉書である。

 
絵葉書:岐女師附属代用、加納小学校 放送室 1935年頃 (個人蔵)

この絵葉書は岐阜県女子師範学校附属加納小学校の放送室を写したものである。県立であった女子師範学校は1943年に官立化されて岐阜師範学校となった。岐阜師範学校は現在は国立岐阜大学教育学部となっている教員養成機関である。それだけに付属小学校の設備も本格的なもので、中央の鉄架型増幅器はラジオと9系統45チャンネルのスイッチボードを備えた出力30-40W程度の大型機である。このような大型の増幅器はカタログ品ではなく、特注品である。その隣にはスタンドに設置されたライツ型マイクロホンが2本、右端の校章が彫刻されたケースは2連奏のレコードプレーヤである。その下のキャビネットはレコードケースであろう。左端のピアノにはマイクが取り付けられているようである。ここには写っていないが、これだけの設備であれば上の福岡市春吉尋常小学校の写真にみられるようなミキサーやモニタースピーカも設置されていたはずである。

これほど豪華なシステムは教員養成学校の附属小学校という特殊な学校だったからこそ設置できたと思われる。いわばモデル校のようなものだったのではないだろうか。

次に、戦前の全校型放送システムの実機を紹介する。

全校式拡声装置 菅原電機部 1937年頃
 
  

TUBES: 76 42 807 807 5Z3

 放送協会の学校放送1型をモデルとしたと思われる全校式放送装置。岩手県の中小メーカが製作したもの。地元の学校の依頼を受けたものと思われる。14系統の切替スイッチを備える。ラベルはほとんど消えているが「校内」、「放送室」「講堂」などの文字が読める。

戦後に全面的に改造され、現状の807p-pになったと思われる。オリジナルは47p-pか2A5p-pだろう。ラックの一番下には戦後製作されたと思われる電源部が収まるが、本来はこの部分にラジオ受信部があったと思われる。改造後の部品の年代から、昭和30年代まで使われていたと思われる。

(所蔵No.46035)

戦前の学校放送受信機(2) 山間部の電池式学校放送受信機

戦前の日本では、都市部と山間部での経済力やインフラの格差が非常に大きかった。小規模な学校では専用の全校型放送システムではなく、家庭用のラジオ受信機を備えたが、当時は昼間送電の無い地域が全国の24%もあり、このような地域では電池式受信機を使うしかなかったが、コストが高く、維持に手間がかかった。一般家庭にはほとんど普及しなかった電池式受信機だが、学校用としては、1937年の調査で全体の15%を占めていた。電気のない地域の学校でも大変な苦労をしながら電池式受信機によって学校放送を取り入れていった。

改造電池式受信機研究会C型受信機 1935年頃
 

TUBES: 167-166-169、 A:DC2V、B:DC45V

 昭和初期、1928年ころのUX-201Aを使用した電池式受信機を改造して、電池式受信機研究会C型中距離用相当の受信機を組み立てたもの。
回路は、KO真空管の新型経済球を使用した高周波1段式である。受信するときは基本的に電池のみを使用する。
電源に特徴があり、日本信機(株)製/日本トレイヂング商会販売の酸化銅整流器付トランス(放送協会認定品:放71011)を使用している。
これは、小型のトランスに特許84505、91678号特許を使用した酸化銅整流器を組み合わせたもので、2V0.4Aの直流出力を得られる。
認定番号71011は、トランスではなく、金属整流器の認定番号で、この製品はその1号機である。
セット側面に追加されたナイフスイッチをOFF側に切り替えると、A電池が受信機から切り離されて整流器に接続され、充電される。
このような旧式受信機を改造する例は当時の資料にはないが、電池式受信機研究会の仕様をもとにして作ったものと考えられる。

(所蔵No.11896)

この電池式セットが学校で使われたかどうかは不明だが、山間部の学校では熱意のある教師によって電池式受信機が自作され、学校放送を取り入れたのである。 文献(1)(3)に、奈良県吉野郡の無電灯村であった池津川尋常小学校に設置されたラジオの経緯が紹介されている。当時の直流受信機の様子が良くわかるので引用する。

 1. UX-109 X3 再生検波・低周波2段     乾電池使用
 2. UX-109 X3, UX-110  高周波1段追加  乾電池使用

      音量不十分、乾電池の補給に悩み改造。
 3. UX-201A X2, UX-112A 再生検波・低周波2段 A:蓄電池、B:乾電池
 4. UX-201A X3, UX-112A  高周波1段追加   A:蓄電池、B:乾電池

      充電の煩に耐えかね改造
 5. UX-32 X3, UX-30, UY-33 高周波2段・再生検波・低周波2段 乾電池使用

当時の苦労が偲ばれる経緯である。当初の109再生検波3球では、消費電力は小さくとも感度は不十分だっただろう。しかし、高周波を1段追加したら電池の消耗が激しくなってしまった。入手も大変だしお金もかかるということで、今度は放送開始期と変わらない旧式な201Aを使ったセットに組み替え、6Vの蓄電池を使うようにした。部品の入手は容易で音量は十分だっただろうが、電気のない村である。今度は10キロ近いバッテリーを抱えて電気のある町まで充電のために往復しなければならなくなった。実際には馬に載せて往復6里の山道を往復したそうである。あまりに充電のための輸送が煩雑で、鉛電池の希硫酸が嫌われて馬方が良い顔をしないことから、DC20V6Aのダイナモを購入して水車小屋に取り付けて充電したという。最終的には再び電池管を使い、高周波2段の乾電池式セットに落ち着いたようである。

これらのラジオはすべて校長先生の自作によるもので、学校放送開始前から自作に取り組んでたのが生かされたという。学校教育にかける情熱があればこそこれだけの手間をかけられたのだろう。

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戦時下の学校放送

開始から1940年までの学校放送は、正規の教科の補助的存在にとどまり、一部の進歩的な考えを持つ学校で取り入れられたに過ぎなかった。1941年、国家は戦時体制となり、小学校は国民学校と改称された。そして国民学校令施行規則第41条として「文部大臣ノ指定スル種目ノ放送ハコレヲ授業ノ上ニ使用スルコトヲ得」の一文が入ったことで、学校放送は国民学校令によってはじめて正規の授業として認められた(11)。1941年には学校に対するラジオの普及率は75%になった(2)。

「学校放送」の名称は、「国民学校放送」に改称された。これにより文部省の監督が強化され、教科書の検定に近い形での監督が実施された。太平洋戦争開戦以降は学校放送にも戦時色が濃くなり、1942年からテキストの名称は「戦時国民学校放送」に変更された。1944年以降、生徒の勤労動員の強化に伴って教育放送の放送時間が縮小され、1945年度に入って休止された。

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太平洋戦争開戦後は、公共機関、学校、工場などで防空演習、指揮、命令伝達などの目的で拡声装置の需要が増加した。1942年、松下電器から「国民型」を標榜する小型の携帯型拡声装置が発売された。
紹介記事(10)によれば、公共機関または国民学校用として設計したものとのことである。

ナショナル 国民10号型拡声装置 松下無線(株) 1942年
TUBES: 58 58 57 56 2A5 2A5 80, フィールド型ダイナミック2本並列またはマグネチック25個並列使用可能
 2A5p-p、出力10Wの小型拡声機である。ラジオ部はプレート検波を採用した高周波2段式である。拡声装置の場合、マイクアンプに57を1本余分に使用することが多いが、本機は簡略化のために検波管がマイク切り替え時には低周波増幅となるようにしている。入出力端子がシャーシ正面下部に配置されているデザインに特徴があり、背面には端子類はない。キャリングケースにアンプ本体とカーボンマイクを収納し、10インチダイナミックを取り付けたスピーカボックス2個とのセットが、携帯型として使う場合の基本システムとなる。学校などに据え付けて、多くのスピーカを駆動するときは、切替ボックスを併用する。

(所蔵 No.46036)

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戦後の学校放送についてはこちら


 参考文献

(1)学校放送25年の歩み 日本放送協会編 1960年
(2)国民学校放送聴取利用調査 日本放送協会 1941年
(3)学校放送の理論と実際 西本三十二著 目黒書店 1935年
(4)ラジオ年鑑 昭和10年 日本放送協会編 1935年
(5)ラジオ年鑑 昭和11年 日本放送協会編 1936年
(6)ラジオ年鑑 昭和12年 日本放送協会編 1937年
(7)無線と実験、1934年5月号、9月号 誠文堂新光社
(8)学校用拡声装置に就いて 田辺商店拡声機部 田辺敏夫 無線と実験 1935.8 誠文堂新光社
(9)学校放送聴取施設について 山口県立高森小学校 無線と実験 1935.8 誠文堂新光社
(10)国民10号拡声装置の解説 松下無線(株)、田村 巧 無線と実験 1942.10 誠文堂新光社
(11)放送50年外史(上) 西本三十二著 (財)日本放送教育協会 1976年


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