砂曼荼羅のこと

98/11/21 今日、五反田のデザインセンターでチベットの僧侶
が制作した砂マンダラを見て、中沢新一さんと僧侶との対話を聴いた。

イベント自体はちょっと上滑りした感じがしたけれど、マンダラを見ていたらいろんな
ことを考えた。最近、「人間の意識や心って何だろう、魂って何だろう」と考え続けていた
こともあって、「マンダラというのは僕らの意識そのもの、自分自身そのものなんだなあ」と
素直に納得できた。僕たちは(僕たちの魂は)無限の虚空に浮かぶ、言語と理性によって秩序づけ
られた「意味」のシステム。それはたとえば北極海に浮かぶ氷山のように、虚無の大海にふっと生ま
れ、だんだんと形をなし、他の氷山と出会い、またいつか消えていく。その氷山マンダラのひとつひとつ
に中心があり、そこには「自己」を構成するさまざまな側面がある。それはたとえば宇宙のしくみや個人の
全体性を表象したアメリカ先住民の「メディスン・ホイール」と同じものでもあるだろう。あるいはストーン
サークル。デザインセンターにつくられた砂マンダラは、5色の砂(白、赤、青、黄、緑)を津かって実に精妙
につくられていたけれど、僕が印象深かったのはそれが砂という粒子状のはかない素材で作られていることと、
中央にそびえる中心軸と、それを囲む城壁のような四角い縁どりだった。われわれの意識は、虚無の大海に対し
て築きあげられた「意味」や「論理」や「言語」の壁によって守られている。その中にいる限り、我々は宇宙を
浸している恐ろしい虚無に触れずに済む。しかしその城壁も「自分」もすべては、じつは砂のようにもろく
はかないもので仮構されたフィクショナルな秩序体にすぎない。それはやがては虚無に帰っていく、虚
無と同質のものであり、だからこそはかなくも美しい。マンダラという形而上的システムを砂という
粒子状の素材で描くことを思いついたチベット人の機知には脱帽せざるをえない。キラキラと
5色に輝く砂粒は、僕ら自身を構成する光/エネルギーの粒をみごとに表象している。

ぼくらは、ひとりひとりがニンゲンという形をとったマンダラだ。そうした
かけがえのないミクロコスモス・小さな宇宙が、広大な宇宙空間の片隅、
地球という星の表面のあちらこちらにぼうっと光を放ちながら
浮かび漂っている。

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