黄色い本
高野文子・作
(講談社/全1巻)
「女ひとりでキマるカフェ」といった特集が、昨今の情報誌の定番だ。おしゃれカフェの本質とは要するに現実逃避だが、働く街の女たちは何から逃げたいのかといえば、以下の通り。
@給湯室の壁に貼られた、もしくは吊られた宅配ピザや寿司屋のメニュー
A弁当屋の「おてもと」やプラスチック製フォークをさしたワンカップ大関の容器
B事務用クリップでとめられた煎茶のアルミ袋
天才・高野文子の新刊「黄色い本」には、機能的だけど貧乏くさい極東の日常のディティールがあふれている。その雑多なコマゴマに囲まれ…というより埋没しているシングル女性たちが、コミカルに描かれる。
これらの作品が女性コミック誌掲載でないことは残念だが、納得もいく。レディースコミックにおける世界観の要は、拒否反応が起きない程度の「口当たりのいいリアリズム」である。その多くは「何を描く/描かない」の取捨選択にかかっており、オープンカフェをセーフ、紫色のガラスドアの純喫茶をアウトとすれば、高野作品はその「一線」をはるかに超えている。
たとえば短編「マヨネーズ」のこのコマ。取引先の社名入りタオルを半分に切って食器ふきに使う…というだけで事務所の規模がわかる。さらにそれが「自在タオル掛け」に掛けられ、フチがほつれているなど、高野の描写は冴えに冴える。マンガ史において彼女の近作が特筆すべきなのは、現実世界の事象を一つ一つ吟味しながら、マンガ世界に再構築している点だ。
表題作「黄色い本」は、昭和四〇年代の東北を舞台に「チボー家の人々」を耽読する女子高校生の日常を描いた名作だ。卒業とメリヤス工場(!)への就職を前にした少女のあまりにリアルな日常と、彼女が読むフランスを舞台にした小説のぼんやりした抽象性の、リアルな均衡関係が描かれる。
ここでも発揮される優れたディティール描写には、やがて我々の「一杯のカプチーノで得られるひとときの至福」も、主人公の読書体験同様、いずれ消えゆく時代の一部である…と気付かされる。つまり、かつてディティールには夢が宿っており、おそらく現在も…ということだ。そう思えば、雑多な世界、たとえば給湯室もそう捨てたものでもないと思えてくる。
(2002年5月10日)