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宝学? 宝石学 錬金術 ・・・・ 心理学 宗教 マーケティング

「宝学」といった学問分野は聞いたことがないし、これでインターネットを検索しても何も出てこない。
しかし、そういうものがあってもいではないか、と思うがある。
ただ、そういうものがありえたとしても、結局は経済学的あるいは商学的、また美学的、心理学的、社会学的、哲学的、あるいは人生論ふうの断片の寄せ集めであるかもしれない。しかし「宝物」という切り口、あるいは逆に束ねる道具としての「宝物」は結構意味があるのではないかという気がする。

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「宝学」に近いものがあるとすれば、考えられるのはまず宝石学である。
これは科学面では鉱物学、無機化学の範疇であるけれども、どの大学にもそういう講座はないようだ。「宝石学」という表題の権威ある書物はもちろんあるが、宝石学の権威であるためにはそれ以前に鉱物学とか無機化学、あるいは物理学、また関連する工学の権威でなければならないのではないだろうか。
その実体は、宝石学会とか宝石学協会等が各国にあって、権威のあるところ、歴史のあるところで確立された基準でもって宝石を鑑定する技術といえるようである。現在では多くの宝石の合成も、ダイヤモンドの合成も工業的に行われているが、それは化学工業の一部だからそういう研究は宝石学とは呼ばないし、宝石学の方もそこまでは立ち入らないようである。

ともあれ、宝石学にはやはり夢がある。衣食住からはかけ離れた、奢侈の最たるものであるような宝石であるけれども、やはり宝石、ジュエリーの無い世の中は寂しい。自分が身に付けたり、所有する事がなくとも、やはり社会、生活のいろいろな局面で宝石は現在でも宝物である。

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現在ではもう無い、というか認められていないというか、あるいは事実上実践されていないが、過去には究極の「宝学」と呼べるものがあったかもしれない。錬金術である。
現在でも錬金術師を称する人たちはいるらしいけれども、事実上、技術としても学問としても錬金術は消滅したも同然である。しかし錬金術には現代の科学と技術に無い、なにかがあったように見える。少なくとも過去の錬金術に関する学問的な研究はされているわけだから過去の錬金術に関して多少でも知ることによって幾らかでも得るとことはあるのではないだろうか。
現在、錬金術は心理学的に研究されているといえるのかもしれない。また宗教学的に研究されているといえるのかもしれない。もちろん文化史として、科学史としても面白いものかもしれない。もっとも科学史としてはもう解決済みの問題と思われているのかもしれないが。とはいっても科学史的にも結構今日的な問題として研究されているようでもある。

しかしオーソリティー、あるいは本当の、あるいは真正の、あるいは最も熱心な、あるいはenthusiastの、錬金術の研究者の考えでは「錬金術は錬金術として研究されなければばならない」とされる。
「錬金術は錬金術の見地からのみ研究されなければならない」 − ウェブサイト『書肆へるめちか』 の冒頭ページより。

しかしこのような言い方も解釈のし様で受け止め方も異なってくる。義務ではないのだから、錬金術に多少でも興味をもったなら、自分なりのアプローチで、自分のペースで研究あるいは単に読書でも進めてゆけばそれなりに得るものもあるのではないだろうか。

ただ、錬金術は心理、あるいは心との深い関りを現代科学とは異なった仕方で持つ事はどのような立場、見地から見ても確かな事のように思う。

宝物について考える事もまた、心の問題を考えることである。その宝物は多くは物質である。人間でさえ見かけは物質の肉体である。精神と物質という問題は現代の科学者も繰り返して考えつづける問題であるように見える。
2004/10/14

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美学あるいは芸術学などは、哲学の部門ともみなされる。しかし宝物という概念は美や芸術に比べて余り学術的な響きはなく、学問的にこの言葉が使用されることもないよう見える。美や価値のような抽象的な概念、純粋な概念のようには見えず、経済学でも「奢侈」あるいは「奢侈製品」はかなり重要な概念として使用されるかも知れないが、宝物はその中に占める位置がおそらくないのだろう。しかし政治の世界では結構重要な言葉で、国宝などという言葉もある。三種の神器とか、王冠や、神秘的なリングなどからも考えられるように過去の君主政治の時代にはなおさら重要な言葉であったに違いない。更に宗教の世界では芸術や美術よりも宝物の方が重要な概念に見える。寺院や教会などの宗教的センターに展示館のようなものがある場合はそれを美術館というような言い方は決してしない。必ず宝物館か、それに類する言葉である。われわれの日常においても芸術・美術品よりも宝物あるいは「タカラ」の方が古くからなじんできた概念である。

「宝物」は子供時代には切実な概念であり、多くの大人にとっては「ロマン」の世界の概念であり、国家、政治にとっては神話と宗教における宝物の概念を引き継いでいる、といってよいのではないだろうか。

「宝であること」は「美しくある事」、もっと抽象的な「価値あること」に比べて未分化な、雑多な、ものを含んでいる、はっきり言って宝物は即お金に替えられる物である。過去の時代には宝物庫は金庫と同じ物である。英語では現在も treasury は国庫のことであるらしい。

過去の君主や領主の時代の国では財産、資産も宝物も同じというか未分化であったといえるのかもしれない。実際、マネーは金そのものでもあったわけだからこれは当然のことといえば当然のことである。便利な漢字で考えれば「宝」と「財」とが未分化

しかしそれでも古代から宝物はいわゆる富、財産以上のものであったし、現在ではもう国宝はお金に替えられる財産というものではない。「国の宝」といえば、国宝もそうだが、将来をになう子供とか、文化遺産とかいったものをさす場合が多い。

政治の世界に宝物が現在でも重要な位置を占めているのに対して経済学という学問の世界で宝物の概念がないということは、政治の世界で国家、民族、部族が1つの生命体のように見られているのに対して科学の世界ではそうではないということではないか。
もっとも国家も民族、部族、家族と同様、生きた人間の集合なのだから、1つの生命体などとみなさずとも生命の集合、団体である事に違わないのだから、

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経済の事は何も分からないが、経済状況の変動に心理的要因が大きく影響するという現象についてはよく聞く話である。「宝物」はまさに個人、社会、階級、国家等々の心理に、心に

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宝石学はマーケティングを含むともいえるし、宝石学自体がマーケティングの一部門であるともいえる。マーケティング関連の活動は投資と同様にマネーを作るという意味で錬金術と呼ばれる事もある。しかし、マーケティングは

実際、企業と個人が必死になって努力している商品開発し、生産している


宝石学

錬金術

財宝、富、財産

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