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王様たちの宝物

始皇帝については不老不死の薬を家来に探させたという話が有名であるが、不老不死の薬はある意味で究極の宝物とも言えるし、古代中国における錬金術の目標でもあったらしい。

ルートヴィッヒ二世と玄宗皇帝を比べてみると面白いのではないかと思った。
ルートヴィッヒ二世にとっての宝物は城、宮殿とワグナーの音楽、楽劇と言ったところだろうが、玄宗皇帝にとって宝物は楊貴妃ということになるのだろう。
「傾城」という言葉は楊貴妃の話から出たといわれる。女性を近づけなかったルートヴィッヒ二世が逆に城を沢山建てたということは面白い話である。もっとも城を建てること自体、城を傾ける原因を作ることでもある。
また楊貴妃とワグナーを比較する事も出来る。もちろんルートヴィッヒ二世にとっての宝物はワーグナーその人というより、その才能と作品といった方が適当で、玄宗皇帝にとって宝物はやはり楊貴妃その人というべきかも知れない。でも楊貴妃は音楽と踊りに優れていたというのだから共通点はなくもない。
しかしこの両者、楊貴妃とワグナーではなく、ルートヴィッヒ二世と玄宗は比較になるようでもあり、比較にならないようでもある。改めて玄宗皇帝のことを調べてみたら、彼が楊貴妃に出会ったのは56歳を過ぎてからであって、ルートヴィッヒ二世の方は既に死んでいる年令である。若いときには優れた力強い政治家で、奢侈禁止令を出したこともあるという。奢侈禁止令を出すのが良い政治とは限らないと思うが、とにかく国を繁栄させたのだから間違いないのだろう。
とすると楊貴妃に出会ったのは単なるアクシデントで、彼が「宝を求めてやまない者」であったのかどうか分らない。たまたま楊貴妃という宝物が手に入ったということかもしれない。そして楽しめる間はそれで満足していたと思える。とはいえそれは耽溺とでも言うべきで単なる満足といってはいけないのかもしれない。ルートヴィッヒ二世の方は満足とか満ち足りると云ったようなことがあったとは思えないけれども。しかもそれでいて玄宗にとって楊貴妃が究極の宝物であったともいえない。最後には結局殺させる事になるわけであるから。それでも彼はもともと芸術家タイプの人物でもあったと言われている。ルートヴィッヒ二世のように極端ではないにしても多少のロマン主義者であったのかもしれない。、

ガラス工芸の分野で有名な王様、君主として日本で有名な人物は清の乾隆帝と薩摩の島津斉彬である。乾隆ガラスは、私は実物は見た事はないけれども、個人的にはあまり好きではない。とにかく中国の皇帝ともなれば歴代どの皇帝も工芸品は沢山作らせたのだろう。

ルートヴィッヒ二世や、あるいは玄宗皇帝に比べても島津斉彬は徹頭徹尾、生まれながらの政治家であったように見える。一般のイメージでもそうだし、伝記を読んでみるとなおさらそう見える。けれども薩摩切子を創造した事で、更に現代の人々から受ける尊敬も高まっているようだ。製鉄のような基幹産業とともに、ガラスも基幹産業ではあるが、薩摩切子のような工芸品を創造した事も含めて明治政府に受け継がれたのかもしれない。ただ明治政府は工芸品の産業を奨励したかも知れないが、政府の高官で工芸品の新技術やデザインの面にまで立ち入った人は他にはいなかったのではないだろうか。調べたわけではないので分らないが、聞いた事はない。
この人はガラスという材料にやはり、何か特別の思い入れがあったのではないかと思いたい。
この人も玄宗皇帝が楊貴妃に出会う年令までに死んだ。もちろん長生きをしても玄宗皇帝のようになったとは思えないが。

戦国時代から江戸時代にかけての大名が集めた宝物の主要なものは陶磁器や茶道具であったといわれている。もちろん金銀は集めたが、金銀はどちらかといえば財産としてだったように思われる。宝石類に関する話題はあまり聞く事がない。ガラス製品に関しても宝石類と並行的な状況だったようだ。薩摩切子が現れた時期は日本ではもう大名たちの時代、君主や領主の時代の末期だった。斉彬公も宝飾産業までに興味を持ったという話は聞かない。

2004/10/18

Copyright (C) Junichi Tanaka
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