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実際のところ、人間はあらゆる生きもの、動物、植物のことが気になって仕方がない。食料、資源としてだけではなく、あるいは敵、絶滅すべき外敵としてでもなく、生きた宝石としてだけでもなく、おぞましい姿の怪物としてだけでもなく、生きものの存在そのものが気になる。生きものの心を知りたいと思わずにはいられないのだ。特に子供にとって動物は他の人間と同じくらいに興味の対象である。動物のことに全く触れないような童話作家は殆どいないだろう。動物の言葉を知ることは古代人の夢であったとも言われる。(07/08/18)

ソロモンの指環 ―― この有名な本のことを知ったのは大学教養課程の生物学教科書に推薦文献として載せられていたのを見てのことで、買い求めたのは1970年の三刷りの本だった。今でも全く同じ装丁で、また文庫本でも出版されているから、文字通り名著であり、古典とも言える本になっているのだろう。同時にその教科書の推薦文献として載せられていたティンベルヘン「本能の研究」も同時に買ったのだが、今も読みたいと思いながら、殆ど読まないままに積読になってしまった。「ソロモン」の方は翻訳のよさももちろんあるのだろうが、とにかく理屈抜きに面白い本であった。読んだ後、後から買った「人、犬に会う」と共に家においてあったのだが、知らないうちに動物好きの姉が読んでしまっており、いたく感動した様子であった。

     

生物学を専攻したわけでもなく、それ以上動物学に首を突っ込む事もなかったせいもあり、書かれていた具体的な内容についていつまでも記憶していたわけではなかったが、その本に一貫して感じられた著者コンラート・ローレンツの態度、科学に対する考え方というものは後まで強く印象付けられた。つまり、動物が好きだから、動物を愛しているから、動物に共感しているから動物学の研究に入り、動物学の研究を続けているのだという自覚を終始持ちつづけた人の文章であることが隅から隅まで伝わってきた。
こういう態度はある意味では自然科学者の本流であると言えると思う。特に動物学とか植物学など、子供の頃からそれら対象が好きだからという理由で研究者になる人が殆どではないだろうか。ただ、研究者になって所期の意欲、憧れが満たされるかどうか、持ちつづけられるかどうか、持ちつづけたままで有能な科学研究者でありつづけられるかどうか、これはどうであろうか。また、そもそも動物が、あるいは植物が「好き」とはどういうことを言うのだろうか。

ダーウィンの短い自伝を対訳本で読んだ記憶がある。記憶にある限り、動物が好きだったとか、植物が好きだった、あるいは嫌いだったといったようなことはあまり書かれていなかったように思う。印象に残っているのは、若い頃は詩や音楽が好きだった。しかし、晩年に至ってはそういう感性をなくしてしまい、自分が思考する機械になってしまったようだ、というようなことが書かれていたことである。

著者のローレンツがウィーン大学出身のオーストリア人であることにも何となく興味を持たれる事でもあった。やはりその頃にフロイトの精神分析学入門を始めて読んだのだが、自然科学の多方面の分野でウィーンといいう都市のもつ重要性を始めて認識した頃でもあった。そういえば大陸移動説のウェーゲナーもウィーンの人であった。個人的にウィーンに縁があるわけでもなく、行ったこともないのだけれども、ウィーンの風土には憧れが有った。それぞれ時代が違うが、ベートーベンやシューベルトや、ブラームスや、またマーラーやブルックナーやシュトラウスなどが活躍していた同じ風土で著者が色んな動物を飼育し、研究していたことに特に重要な意味はないのであろうが、しかし、想像するだけでも一種の楽しさがあった。

そういえばその後、自然科学ではないが「世紀末ウィーン」という大部な翻訳本が出版され、新聞雑誌などの文化面などで話題になり、その後何年かにわたって世紀末ウィーンと言う言葉が盛んに使われるようになった時期があった。他の「世紀末ウィーン」本も続々と現れた。この本は高価でしかも難しそうで読むことはできなかったが、できれば今でも読んで見たいと思う。しかし、もう21世紀になって7年目、世紀末と言う言葉が聞かれることもなくなった。(07/08/23)

ウェブサイト 世界の動物・植物ニュースから
*日本と英米のニュースサイト(アサヒコム、msn毎日、よみうりオンライン、BBCニュース、ニューヨークタイムズ)、科学/自然欄から、動物と植物に関わるニュースを収集します。一部のニュースには要約を付記します。

*BBCニュースの科学欄ではとくに多くの動物ニュースが必ず写真付きで掲載され、またリンクが切れることもありません。日本のニュースでも日本のサイトより詳しく報道されることもよくあります。

*ニューヨークタイムズの記事も大抵は見事な写真付きの場合が多いですが、BBCニュースに比べて項目の豊富さよりも、特定のテーマを掘り下げた記事に特色があるようです。最初は登録が必要で、期限が切れると有料になります。

*日本の各サイトでは意外と動物・植物ニュースは多くないようです。以前、アサヒコムでは花の写真シリーズが続いていましたが。またどのサイトも1、2ヶ月でリンクが切れるようです。


生物関連記事から(ブログ・発見の「発見」)


生きた宝石

もちろん、宝石イコール宝物というわけではない。当然、「生きた宝石」は「生きた宝物」という意味にはならない。実際、子供や大切な人のことを「私の宝物」とはよく言うが、「私の生きた宝石」などとは誰も言わない。しかし、宝石はやはり宝物であり、生きた宝石もあるときには宝物でもある

逆にこのことが宝石とは何か、あるいは宝物とは何かを考える手掛かりにもなるともいえる。大体、宝物という言葉にはなぜ「物」が付いているのだろうか。

いずれにせよ、美しい生き物を生きた宝石と呼ぶのは自然であり、詩的でもある。
一方宝石は美しさの代名詞であるともいえ、宝物の代名詞でもある。
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どういったわけか、生きた宝石と呼ばれるのはだいたい動物であって、植物はあまりそのようには言われない。というのも花は美しいのがあたりまえ。取り立てて花を生きた宝石と呼ぶ必要はない。逆に「石の花」という表現があるくらいだから。

植物、特に花は「捧げ物」、「贈り物」に使われる。動物もかつては生贄にされた。もっとも食肉となり、食べ物と成り果てた動物は現在も贈り物としても頻繁に用いられることに変わりは無いが。
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子供が追い求める宝物は往々にして生きた宝石と呼ばれる美しいトンボや蝶や甲虫などである。
しかし、それが嵩じて標本や図鑑などを作るようになると、あらゆる種類を集めるようになる。
また、象のような人気のある動物も一見、宝石のイメージとは程遠い。しかし、みごとに取られた野生動物の写真などを見ると、あらゆる動物が生きた宝石に見えてくる。
動物の美しさとは何なのだろうか。
生きた宝石とは実際、あらゆる野生動物であるかも知れない。

生きた宝石と呼ばれる動物はもっぱらペットにされる場合が多い。野生の状態でもそう呼ばれるが、しかし蝶のように昆虫の場合、人は捕まえるなり殺して虫ピンで留めてしまう。鳥や獣も剥製にすることがある。しかし魚類はホルマリン漬けという方法もあるが、そのようなことはあまりしないようだ。魚類は生きたまま鑑賞するのに適しているからである。それで熱帯魚や金魚、錦鯉などは「泳ぐ宝石」となる。
04/10/07
04/10/14



喋々
トンボ
蜻蛉
甲虫

野生動物

地球

ペット


小鳥

泳ぐ宝石
金魚
熱帯魚
錦鯉
koi

動物の宝物

ウェブサイト
☆World Wildlife Fund
偶然公共広告で見つけたサイト。みごとな野生動物写真が見られました。
04/10/07

そうはいうものの、よく取れた写真でこそ美しいと思えても、現実に蜘蛛や毒虫などのグロテスク、奇怪な虫たちは生きた宝石とは呼ぶ気持ちにはなれない。大体昆虫、その他の虫たちは生きた宝石のようか、グロテスクかどちらかだ。益虫と呼ばれる虫は往々にして奇怪である。強力な益虫はまた人間にとって危険でもある。

哺乳類の猛獣の多くは恐ろしくはあっても奇怪、グロテスクではない。むしろ美しいと見る人が多い。哺乳類は大体どの種類も一般に美しいと見られるものが多い。しかし、グロテスクな種類もある。類人猿は正直に言って、グロテスクである。哺乳類では類人猿だけがグロテスクであるとさえ思えるときがある。

その奇怪さはなぜなのか?というより、どこからくるのだろうか。
類人猿は中途半端である。完全な二足歩行でもなく、完全な四足でもない。顔も人間とも動物ともつかない顔をしている。

Copyright (C) Junichi Tanaka
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