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「宝物」と「必要なもの」 − たからものってなんだろうか

「お金も宝も何にもいらぬ。毎日その笑顔、じっと見つめていたい。」

これは草原情歌という歌の歌詞で、この中国(実際には西域らしいが)の歌は一昔前には学生などの間でわりとよく歌われた。歌のメロディーもそうだけれども、この歌詞もまた単純素朴で一度聞くと忘れないような、記憶に残るものがある。

「しろかねもくがねもたまもなにせむにまされるたからこにしかめやも  − 山上憶良」

こちらはもっと有名な万葉の歌である。
前者の方ではお金も宝も彼女の笑顔に劣る、私はお金にも宝にも勝るものが欲しいのだ。といっているようである。
一方山上憶良の歌では黄金などいらない理由として、既に子宝という宝を持っているからということであり、どちらも普通に求められるような宝物はいらないといっているが、最高の宝物は必要か、切に求めてやまないものなのだ。

宝物と「必要なもの」とは正反対の概念のように見えるが、考え様によっては宝物こそ最も必要なものである。
宝物は必要以上のものであり、宝物のためにこそ必要なものが生じてくる。

宝物は事実上、生き甲斐といってよいのかもしれない。しかし単なる生き甲斐とはやはりどこか違っている。生き甲斐という言葉は、これはこれで考えてみると色々分析できるだろうが、一言で言って相対的とでも言うか、個人にとってのみ意味あるものである。それに対して、宝物は個人の物のみならず、一家とか、一族とか、また公共の宝物、国家の宝物、更には人類の宝物などもある。そして客観的に価値の序列がある。価値の序列といってもそれを決める基準は色々あろうけれども、また相対的なものでもありえるけれども、しかし個人の判断を超えた普遍的なランクがあることも間違いない。

一体、たからものって何だろうか?、という疑問は多くの人から発せられる疑問、感慨である。

2004/12/18

◇全ての中心に「命」がある

「必要」という言葉は煎じ詰めれば「命にとって必要」ということである。命のないものが何かを必要とする事など考えられようか。考えられるとすれば、比ゆに過ぎない。あるいは間接的に命が必要としているに過ぎない。もちろん言葉は、あるいは意味というものは煎じ詰めれば全て命、生命につながっている

「生き甲斐」の中にはそのまま「生」すなわち「命」が入っている。

では「宝物」はどうだろうか。どのような構造で、その中に「命」が入っているのだろうか。
「たから」の構造は?。

2004/12/31


草原情歌

生き甲斐
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